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旧魚梁瀬森林鉄道施設 立岡二号桟道 - 経済産業省の近代化産業遺産群
[ 高知県安芸郡田野町 ] 平成21年 6月に、国指定 重要文化財 (建造物)に指定された旧魚梁瀬森林鉄道施設の一つで、その遺構は高知県安芸郡 安田町、馬路村、北川村、田野町、奈半利町 の広範囲に分布しちょります 南側から見た10連のコンクリートガーダー橋で、近くから見たら奈半利の方に緩やかに左にカーブしちょります。 重要文化財 旧魚梁瀬森林鉄道施設 立岡二号桟道[建築年] 昭和8年[構造様式] 立岡高架:石積...
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真乗寺 - 土佐南学中興の祖・谷時中の生誕地
[ 高知県安芸郡東洋町甲浦中町 ] 脇道を入った突き当りに見える、黒白幕(鯨幕)を張った場所が、真乗寺と言う土佐南学中興の祖・谷時中の生誕地になるがです。門を入って直ぐ左側に「谷時中出生の地記念碑」が建立されちょるがですが、生憎この日は葬儀が行われていて、丁度、記念碑の前辺りに受付があり、数人の方が世話しなく動いていました。幾等何でも場違いな場所に突然不審者が現れた為、奇異な視線が注がれる中、不謹慎...
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正覚寺 - 山内一豊、土佐入国時の御宿で、藩政初期の陸上参勤の際の宿泊所
[ 高知県安芸郡奈半利町乙1718-1 ] 正覚寺は高野山真言宗 高祷山自性院と号し、本尊弘法大師坐像。『南路志』所引の寺記によれば神亀元年(724)行基の開基と伝え、行基作の聖観音像を本尊としたが天正11年(1583)に焼失。古くは金剛頂寺(現・室戸市)の末であった。天正17年の奈和利庄地検帳には桑名丹後守の土居(奈半利城)のあった城村に寺地一反四六代が記され、うち堂床は五代とある。寺領も田畑二三筆二町三反が記さ...
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古五六寺廃跡の碑 - 奈良時代後期から平安時代前期の古寺跡
[ 高知県安芸郡奈半利町 ] 石碑にゃ「古五六寺廃跡」と刻まれちょり、変わったネーミングなもんじゃき、何んじゃろーと思うてチックと調べてみたがですが、資料の多くは「コゴロク廃寺跡」となっちょりました。コゴロク廃寺跡の名の由来奈半利町中川原の水田の中に布目を持った古代の瓦の出土する土地がある。ときには蓮花文を持つ軒先を飾る、あぶみの瓦も出土する。二つのやや大きな水田で、これらの水田の中央に大きな石が立...
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花山神社 - 伝承ではNHK大河『光る君へ』の第65代・花山天皇を祀る
[ 高知県須崎市浦ノ内出見 ] ここは、浦ノ内湾宇佐大橋から波穏やかな浦ノ内湾北岸を須崎市方面(西方向)に7km程行くと、出見という地区が有るがです。川沿いに≒500m程行くと、鳥居があり、神社の名は花山神社(出見神社)と言うがです。今回も、伝・清少納言を祀る名護神社に続き、NHK大河『光る君へ』にも登場した花山天皇伝説のある神社の御紹介を。まず、地元に伝わる伝承を二つ【 出見の花山神社 】 むかし花山法...
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入野松原 - 長宗我部元親も立ち寄り「二つとない景観」と賞賛
[ 高知県幡多郡黒潮町入野 ]土佐の海岸線にゃ、高知市から東西に見て二か所に広大な松原が広がっちょりますが、東側は芸西村の琴ヶ浜松原、西が黒潮町の入野松原ながです。 琴ヶ浜松原 - 野中兼山によって砂丘に植林し護られた松林 2019-09-06 入野の松原は、土佐湾西岸の最大の砂浜海岸で延長約3Km、幅は約100m弱の「入野ノ浜」の背後に広がる松林で、防風・防潮・防砂の役割を持っちょり、国指定の名勝になっちょります。 こ...
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荒倉神社の手水鉢 - 凡そ4Kmの道程を20日間かけて運んだ巨岩造り
[ 高知県高知市春野町弘岡中 ]鳥居の右脇の狛犬の脇に、ざまーな(大きな)巨岩があるがですが、実はこれ「手水鉢」ながです。神社やお寺の参拝前に手や口をすすぎ、身を清めるための水を貯めておく鉢が普通の「手水鉢」じゃけんど、これは鉢じゃのうて岩造りながです。現在、高知市の市指定有形文化財に指定されちょります。春野地域最大の手水鉢(ちょうずばち)で、縦142cm、横121cm、高さ151cmの大きさです。上面は121×200cm...
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源希義墓所 - 源頼朝の同母弟で頼朝の挙兵の際、平家追討により討たれる
[ 高知県高知市介良 ]治承4年(1180年)土佐に流罪になっちょった源希義は兄・頼朝の挙兵を受け立ち上がろうとした際、平家の追討令により平重盛の家人・蓮池家綱と平田俊遠に討たれたがです。 源希義の鞍掛けの岩 - 源義朝の五男で、この地で討たれる 2012-04-15 源希義戦死伝承之地 - 兄・頼朝の挙兵に立ち上がるも平氏に討たれる 2016-07-15 馬塚 - 平家の追手から夜須に逃れる途中、力尽きた源希義愛馬の塚 2016-07-19 ...
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猿田石灰洞 - 伝説の忍者・日下茂平も修業した洞窟じゃとか
[ 高知県高岡郡日高村沖名 ]日高村役場から、県道291号谷地日下停車場線を約3.2Km南に行った場所の日高村沖名地区に猿田洞(猿田石灰洞)と呼ばれる洞窟があるがです。この猿田洞が発見されたがは安政5年(1858)に地元の農民・虎之丞によって発見されたがじゃそうです。以前から気になっちょってボタリングで撮影に近くまで出た際、途中寄り道して立ち寄ったがです。 猿田石灰洞 村文化財指定 指定年 昭和35年6月9日(1960) ...
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菅原高視朝臣邸跡 - 昌泰の変で父・菅原道真に連座して土佐に左遷される
[ 高知県高知市北高見町 ]菅原高視朝臣邸跡があるのは、筆山トンネルの南側の高見山(皿ヶ峰)の東側、標高20m程の裾野にあるがです。 今から千年程前の、菅原高視朝臣邸跡下は海に近い場所じゃったそうですから、波の影響のない高台に居を定めちょったがじゃないかと想像するがです。 高視朝臣の邸跡藤原時平の讒言によって延喜元年(901)正月25日、太宰の権師として西海に左遷された菅原道真公と同じく、土佐権守として京都を...
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荻野家長 - 関ヶ原の戦い後、山内一豊に召し抱えられ、隠居後に「逆修塔」を建立
[ 高知県いの町池ノ内・荻野神社 ]案内板も何もない神社で、迷い迷い漸く探しあてた神社です。鬱蒼とした山の中を上って行くと、扁額にゃ何も書かれちゃしませんが荻野神社といい、その境内の一角に、目的の「逆修塔」があったがです。池ノ内の逆修無縫塔 文化財 子育て・教育・文化 いの町ぎゃくしゅ 【逆修】仏教用語。生前にあらかじめ自分の死後の冥福を祈るための仏事をすること。そのために建てる石塔婆を逆修塔という。墓...
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沖之古城土居之門跡 - 波川氏と日下の三宮氏の急襲を受けて館は灰塵と化した
[ 高知県高岡郡佐川町乙 ]この「沖之古城土居之門跡」の建つ場所は、当時の土居のあった西南隅になるそうで、地検帳(天正18年)によると一町七反七畝四歩の広大な面積で、周囲を約15mの堀で守られちょったそうです。この沖之古城を造ったと言われちょるのは三野氏(惟宗氏)で、東部は大平氏、、南部は津野氏の勢力圏に接しちょる要衝の場所を治めちょったけんど、正中2年(1325)に、波川氏と日下の三宮氏の急襲を受けて敗れるが...
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久喜の沈下橋 - 県内最古の沈下橋と言われ国指定の登録有形文化財
[ 高知県吾川郡仁淀川町久喜 ] 場所は仁淀川町のバス停「大崎駅」から国道33号線沿いを松山方面に約760m程行くと、河下に降りる道がある。久喜橋までは高低差約45m、約460m下った場所にあるがです。 橋の手前に半分コンクリートに埋まった、「久喜(橋)昭和十年」の記念碑と思われる丸石があった。 右が上流、左が下流 久喜橋 (国指定登録有形文化財)昭和10年に作られた、鉄筋コンクリートの沈下橋。共に現存する高知県で最...
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野中兼山頌徳碑 - 明暦元年(1655)に開削された日本最初の掘込み港湾
[ 高知県香南市夜須内港 ] 野中兼山(1615-1663)は 土佐二代藩主山内忠義の執政として 藩のため林業 治水 利水 農地開発 港湾開発 漁業振興に尽瘁く 上杉鷹山 熊沢蕃山と並び天下の三山と称えられた土佐の生んだ偉人である 兼山の治績は全県下に及び今日の高知県の基礎をつくったが 物部川の山田堰(湾曲斜め堰) 柏島港(トンボ口利用) 手結港(防砂堤の配置) 等の優れた技術は 現代でも高く評価されている 手結港は明暦元年(1655)...
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谷秦山邸跡 - 土佐山田に移り住む前に一家は高知城下の北・秦泉寺村に住む
[ 高知県高知市中秦泉寺 ]高知に居った頃、高知市の古い地図を見よったら秦泉寺地区の地図に「谷秦山邸跡」との記述があった。中秦泉寺の交差点から、秦山の北側の山裾を≒400m至った所にあり、邸跡への上り坂の途中に、風化して少々読みづらい「谷秦山邸跡」の説明板が建てられちょりました。 谷 秦山(屋敷跡)学問の神様と尊敬される谷丹三郎重遠の屋敷あと。彼は寛文3年3月11日南国市岡豊で出生。儒学・天文・歴学に通じた大...
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伝 ・氷上志計志麻呂供養塔 - 称徳天皇が天皇に道鏡を擁立するのに邪魔だった天武系皇子
[ 高知県須崎市野見 ]生前、良く母が野見の実家のあった上の山に「古墳がある」と言いよったがですが、高知に居った頃、何じゃろーと思うて探しに行って見ると標高60-70m程の山の上に祠があり、中に五輪の塔があったがです。調べてみると奈良時代 (769)に、土佐に配流になった氷上志計志麻呂の供養塔と言われちょります。祠の南側の尾根の部分に、石を積み囲んだ数基の墳墓らしきものが並んじょり、多分、これが母の言いよった古...
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巻の渕 - 幼少期の中岡慎太郎が飛び込んだ断崖と摩崖仏
[ 高知県安芸郡北川村 ]県道493号線から慎太郎橋を渡って「中岡慎太郎館」へ行くとわからんけんど、慎太郎館のある山側の村道東岸線から「中岡慎太郎館」に向かうと約450m手前に、この「巻の渕展望所」があるがです。巻の渕展望所慎太郎幼少時の夏、数名の友人と巻の渕へ泳ぎに行った時のこと。底が見えない渕は青々として、そのうえに常に大きな渦が巻いているので人々からその渕には入ってはいけないと言われている場所でした...
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富家の七角屋敷 - 足利尊氏より五代を経た一族が流浪し此の地に居を構えていた
[ 高知県香南市野市町兎田 ]昭和59年の『野市の史跡』の中に「富家の七角屋敷」という史跡の紹介が載っちょりまして、ちょっと気になって探して見たがです。七角屋敷は、野市町本村の東南端にあって、幅2mの竹林に囲まれ、その内部に屋敷跡と思われる約50アールの土地が七か所に分かれて現存する。竹林の内部は二重堀が造られていたと伝えられ、現在も一部の堀跡が名残をとどめている。足利尊氏より五代を経た氏家の一族が流浪...
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大法寺観音堂 - 奈良時代に比江国分寺の北東の鬼門封じとして建立
[ 高知県香美市土佐山田町大法寺 ]大法寺集落の北、標高約360mの山腹にある大法寺観音堂と、右側には白山神社が鎮座しちょります。この大法寺観音堂の下の方に、以前ご紹介しちょります「伝・武田勝頼」と伝わる墓があるがです。 伝・武田勝頼墓 1 - 天目山の一戦に敗れ土佐に逃れて来たと伝承あり 2016-10-31 三間四面方形造の観音堂と、堂内の人物代の観音像を安置する厨子が建造物として指定されている。文化文政時代の特色...
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公儀の井戸 - 野中兼山が水の乏しかった山田台地に掘った井戸
[ 高知県香美市土佐山田町 ]井戸は2ヶ所あり、1ヶ所目は(写真は無いけんど)土佐山田駅前から南に1つ目の交差点にあり、現在は大きなマンホールで蓋をされちょります。2ヶ所目は、十字路から東に約250mほどの処にある土佐山田郵便局の近くの写真の井戸ながです。正保~万治年間(1644-1660)に、土佐藩家老・野中兼山が山田町を作ったけんど、なかなか住民が定着せんかった。原因は、台地じゃったため、用水が乏しく「水」が無か...
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琴ヶ浜松原 - 野中兼山によって砂丘に植林し護られた松林
[ 高知県安芸郡芸西村 ]琴ヶ浜松原は、東は安芸市赤野川河口から西は夜須と芸西村の境に近い辺りまでの、東西約4Km程の海岸と松林が続いちょります。因みに、写真は東端の安芸市赤野の自転車道休憩場辺りから撮影しちょります。日本の白砂青松100選琴ヶ浜の松原 (由来)かって、太平洋の海水と和食川とが対面して約1キロにわたる自然の砂丘を形成させた。この砂丘全体にわたって松の老木や若木が数多くあり、高知市以東では最...
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国指定史跡・谷重遠墓 - 土佐南学を再興し日本の「尊厳」を教えた
[ 高知県香美市土佐山田町 ]谷重遠は、寛永3年(1663)長岡郡岡豊村の岡豊八幡宮(現・南国市)の神主・谷神兵衛重元、島崎氏の3男に生まれ、通称・丹三郎、名は重遠で、秦山は号ながです。谷家は代々岡豊八幡宮の神職を務めちょりますが、野中兼山によって郷士に起用されちょります。幼少より聴明じゃったそうで、17歳の時上京し、野中兼山らと親交のあった山崎闇斎や、その高弟・浅見絅斎に朱子学・神道・儒学を学んだ。また、同...
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布志田御殿跡 - 参勤交代・北山越えルートの藩主の本陣跡
[ 高知県高知市布志田 ]参勤交代制度は徳川幕府第3代将軍・徳川家光の時代の寛永12年(1635)に武家諸法度が出され制度化されたもので、土佐藩じゃと1500~2700人程の行列で、約30日程かかったとの記録があるようです。当初は浦戸からの海路じゃった様ですが、其の後は、陸路で東部の甲浦まで行き、そこから海路を使ったようです。ただ、如何せん天候に左右され、海が荒れ遭難する事も多々あったという。享保3年(1718)、第6代藩主...
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幻の元号『天晴』 - 慶応3年の土佐にだけ残っちゅう私年号
[ 高知県高知市春野・高知県安芸郡安田町 ]今日は、新天皇が即位され、元号が改元された初日、令和元年5月1日。新しい令和の時代の幕開けながです。ってな訳で、ちっくと、元号に関するお話を・・・・・。政府が、平成31年(2019)4月1日に新元号を発表すると報じてから、ネット検索してみると高知でも新聞や個人のブログ等でも、既に土佐の幻の元号が取り上げられちょりましたき、ご存知の方が多いかと思いますが、オンちゃんなり...
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南学発祥地碑 - 昭和6年に建てられたもう一つの南学発祥地碑
[ 高知県高知市春野町弘岡中 ]南学発祥地碑と言えば、上の写真の昭和35年に建てられちゅう記念碑がある場所が、「南学発祥地」として一般には知られちょりますが、実はもう一つ、これよりも古い碑があったがです。 南学発祥の地 2009-10-10 見つけた切っ掛けは、高知におった時、新旧の地図を見よって何かありそうやと思うて散策に行って、何度か目で見つけた碑ながです。 小高い丘の上に祠と碑が建っちょり、それには「史蹟...
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浜口雄幸旧邸 - ライオン宰相と呼ばれ第27代内閣総理大臣を務める
[ 高知県安芸郡田野町 ... ]簡単に、浜口雄幸に関する記事は、これまでにも何度か掲載しちょりますが、大蔵大臣や内務大臣を務め、第27代内閣総理大臣にもなりその風貌から「ライオン宰相」と呼ばれた郷土の偉人ながです。昭和5年(1930)11月14日、岡山県浅口市で行われる陸軍の演習の視察と、昭和天皇の行幸への付き添いの為列車に乗車しようとした東京駅のホームにて、至近距離から銃撃されるも一命を取り留めるが、翌年、退...
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片岡の茶園堂 - 戦国時代、14代片岡光綱によって設けられる
[ 高知県高岡郡越知町片岡 ... ]場所は、以前に御紹介しちょりますが同じ越知町片岡にある片岡の沈下橋の直ぐ傍の、県道18号・伊野仁淀線の道路脇に、この茶園堂はあるがです。片岡沈下橋 - 仁淀川 2012.02.15 茶園堂と盆踊り寺野城(黒岩郷)城主13代片岡茂光は、善政を施し城下に茶園堂を設けて、領民をして湯茶の接待をさせ、通行する旅人を慰労した。そして、茶園堂に領民を集わせ、盛大な盆踊り会を催した。14代片岡光綱...
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下元西州先生退筆塚 - 死後13年目に下元西州の門人たちが建てる
[ 高知県須崎市西町 ]この下元先生退筆塚ちゅうがは、須崎市の四国別格二十霊場第5番札所・大善寺の大師堂の脇に建てられちょります。下元西州塾跡 - 武市瑞山の叔父・鹿持雅澄も門人の一人じゃったと 2014.10.27 この石碑は下元西州の死後13年目の天保14年(1843)に、下元西州の門人じゃった人々によって建てたもので、廃筆を埋めた上にこの石碑が建てられちょるそうです。先生之書 白唐溯晋 特慕右軍 技与道進玩字読文 贈...
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北寺 - 高知県の重要文化財(彫刻)の約1割が此処に安置
[ 高知県安芸郡安田町別所 ]土佐くろしお鉄道 ごめん・なはり線の安田駅から県道12号安田東洋線(馬路道)を安田川上流に約6Km程行くと別所という集落があるがです。ちょっと石段を登った先に、素朴な佇まいの北寺があるがです。正式にゃ、真言宗豊山派の寺院で金剛山弘泉院と言い、別名・瑠璃光寺とも呼ばれちょるそうです。何故、北寺と呼ばれるかと云うと、室戸岬の東寺(最御崎寺)、室戸の西寺(金剛頂寺)に対して、両寺院...
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立田の経塚 - 長宗我部に滅ぼされた立田土居城の戦死者と経文を埋葬
[ 高知県南国市立田 ]土佐くろしお鉄道 ごめん・なはり線の立田駅の高架下を東に約400m程行った県道364号南国野市線の北側に、今回の立田の経塚があるがです。 県道から見ると、パット見は小屋のようにみえますが御堂でして、この裏側に経塚が建っちょります。 天文元年(1532)長宗我部軍に滅ぼされた立田土居城の戦没者を埋葬した場所に、この時の戦いで焼失した願成寺の経文を一緒に埋蔵したのが立田の経塚じゃそうです。【 ...
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立石の伝説 - 津野元実が戸波城奪回の際の恵良沼の戦いの伝説
[ 高知県土佐市本村 ]此処は、以前にも御紹介しちょります戸波城跡の西側。土佐市岩戸の方から戸波の方に県道267号線を走って来ると、戸波城跡の南から道は大きく北に迂回しちょりますが、 バス停「ひびの木」の約150m先の右側歩道脇に(気を付けちょらんと見逃すかも・・・・・)、この「立石の伝説」と書かれた説明板と2つの大きな石が並んじょります。戸波城跡 - 一条氏家臣・福井玄蕃が城代 2016.03.02 ステンレスの説明板...
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蟹ヶ池 - 過去7千年間に幾度となく繰り返された大津波の痕跡を残す湿地
[ 高知県土佐市宇佐竜・蟹ケ池 ]以前にも御紹介しちょります、宇佐町竜にある蟹ケ池ながです。宇佐の方から、横浪黒潮スカイラインに上がる途中から、蟹ヶ池がよく見えましたき再アップして見たがです。蟹ヶ池 - 池の主は畳四畳半も六畳もある大きな蟹じゃとか・・・・ 2015.09.02...
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織田歯科 - 大正14年建築のバロック風装飾壁を有する登録有形文化財
[ 高知県高知市升形 ]この建物はは、高知城の南西300m程の旧武家屋敷跡に建つ、現役の織田歯科さんながです。建てられたのは大正14年(1925)じゃそうで、県内でも最初期の洋風の鉄筋コンクリート造りで、正面中央の壁はバロック風装飾じゃそうです。 また西辺に残る塀も鉄筋コンクリート造で、2m間隔の柱型と、上部の歯状文様の装飾になっちょり、塀外面にゃ昭和20年7月の高知大空襲の際に焼夷弾によるものと言われる痕跡も残っち...
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脇本陣・長木屋 - 文化5年幕府天文方・伊能忠敬一行が滞在
[ 高知県香南市赤岡町 ]約一カ月ぶりの記事の更新です。今回は、以前御紹介した伊能忠敬が第6次測量で高知城下で滞在した辰巳屋のお話の3日前に、赤岡浦(現・香南市)に入り測量した事を。辰巳屋伊藤傳右衛門邸跡付近 - 伊能忠敬が高知城下で三日間宿泊 2017.03.26 碑の正面 「伊能忠敬経度観測記念碑 北緯三十三度三十三分 香南市教育委員会」碑の右面「 伊能忠敬は享和元年(1801)幕府の命を受け実測による日本地図の作成に...
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天狗岳不整合 - プレートの激しい地殻変動を物語る高知県天然記念物
[ 高知県香美市土佐山田町入野 ]土佐山田の方から県道254号線をJR繁藤駅方面に上って行くと、休場ダムの約1Km下流の土佐山田町入野・休場集落の南の道路脇に説明板と天然記念物の碑が建っちょります。天狗岳不整合高知県指定天然記念物(昭和二十五年六月二日指定)対岸の白木谷層群チャート壁の下流約30mほど、岸壁の終わるあたりの河床部近くに、領石層基底礫岩が約0.7mにわたり5~15cmの厚さで密着している。基盤の白木谷層チ...
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庚申堂 - 山田氏と長宗我部氏との戦いで戦死した怨霊を鎮める
[ 高知県香美市土佐山田町秦山町3丁目 ]この辺りは、土佐の戦国時代に山田氏と長宗我部氏が戦い、多くの戦死者の屍が横たわっていたという場所だそうで、その怨霊達の祟りが、野中兼山が鏡野開拓の時に災いとして怪我人や病気になる者が続出したそうです。そこで、怨霊を鎮めるために、摂津国(現・大阪府大阪市)からここに「青面金剛像」を勧請し祀ったそうです。 土佐山田町史跡庚申堂の由来庚申堂は天王寺仏照山と号し、当町...
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遍路道標 - 元文3年(1738)に建てられた南国市史跡の遍路標石
[ 高知県南国市下末松 ]南国市下末松のバス停「へんろ石」の周辺は、昔の遍路道とその道標が残り、その付近の地区は「へんろ石」と呼ばれちょります。バス停の傍にゃ、遍路石とへんろ石饅頭のお店もあるき、御存じの方も多いかと思います。へんろ石 - 1 2009.09.28へんろいし饅頭 2009.05.11 そのバス停「へんろ石」の直んぐにある北側の交差点を用水路沿いに左に40m程行った右側に、この南国市の史跡に指定されちょります遍...
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真乗寺跡 - 南学中興の祖・谷時中が住職だった寺
[ 高知県高知市瀬戸西町二丁目 ]普段、高知市内と長浜・桂浜方面を結ぶ県道34号線・桂浜はりまや線を自転車で通る場合、いっつも東側の歩道を通るがですが、この日は偶々と言うか何かがそうさせたのか、高知市内に戻るのに西側の左車線上を走り寄りよったがです。そいたら、ちらっと眼の隅に何やら石柱のような物が目に入ったもんですき、自転車を歩道に戻し引き返してみたら、写真の碑が建っちょりました。立ってる場所が、左隣...