土佐に足跡を残した人々 | | page 1 | 南国土佐へ来てみいや

南国土佐へ来てみいや

  1. 白太夫神社 - 大宰府まで菅原道真に随行し最期を看取った従臣・松本春彦

    [ 高知県高知市大津 ]場所は、舟入川の岩崎橋を渡った左岸の、とさでん御免線「舟戸駅」と「北浦駅」の粗中間の山にあるがです。 鳥居の傍にある、「公従臣 白太夫遺跡碑」 撰文は、土佐の郷土史家・寺石正路寺石正路墓 - 土佐の歴史・地理・考古・民俗学の第一人者 2011-06-13 鳥居をくぐって左に登って行くと、白太夫神社の社殿が鎮座しちょります。 白太夫神社と言うのは、平安時代中期の伊勢豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の...

  2. 杉五郎兵衛俊重 - 大坂夏の陣で自刃した毛利勝永の遺品を土佐に届ける

    [ 高知県高知市秦泉寺  ]高知城追手門前にある「高知県立高知城歴史博物館」には、毛利勝永が大坂夏の陣で着用したと言う陣着用兜「白糸威水牛兜」が展示されちょります。慶長20年(1615)の大坂夏の陣で大坂城が落城の際、毛利勝永は豊臣秀頼を介錯した後、息子・勝家や弟の山内勘解由吉近と共に蘆田矢倉(山里丸)で自害したと言われちょりますが、その際、 毛利勝永が土佐の家族に形見の品として届けるように託され土佐に届け...

  3. 不破重正 - 山内一豊の妻・見性院とは叔父・姪とも・・・・・

    [ 高知県高知市中高見 ]不破重正夫妻の墓碑。弘治2年(1556)、美濃国不破に不破重則の子に生まれる。先祖は、南北朝の騒乱の際、楠木正成も戦かった宇都宮氏とも・・・・・。 不破重正は、幼くして父母兄弟を亡くし孤児となり、竹中重治(竹中半兵衛)に養われた。、竹中重治(竹中半兵衛)は、初め斎藤龍興(祖父は斎藤道三)に仕えていたから、不破重正の父・不破重則も斎藤龍興の家臣だったのではないかと・・・・・・。天正5...

  4. 毛利久八吉次 - 祖父は備前小倉城主・毛利壱岐守吉成の弟・豊前巌石城主・出羽守吉雄

    [ 高知県高知市本町五丁目 ]毛利久八吉次 の父は,、豊前小倉城主・毛利壱岐守吉成の弟で豊前巌石城主・出羽守吉雄の子・出羽守吉勝といい、父は慶長8年十二月二十二日筑前若松で亡くなっちゅう。 毛利吉成 - 豊前国・小倉藩城主で豊臣秀吉に仕える 2014-02-05 加藤清正に三百石で抱えられ、熊本藩第2代藩主・加藤忠広にも仕えるけんど、寛永9年(1632)5月22日に藩主・加藤忠広が江戸参府途上、品川宿で入府を止められ、池上本...

  5. 桑名古庵 - 桑名丹後守・五百蔵筑後守を先祖に持つ・ころびキリシタン

    [ 高知県高知市西久万 ]慶長17年(1612)及び翌慶長18年(1613)徳川幕府は、キリスト教を邪宗として禁止令(キリシタン禁制、禁令)を発令し、以後、キリスト教徒は弾圧・迫害を受ける。幕府は、切支丹信徒に対し強制改宗策を取り、様々な拷問を考案・実行し、拷問に耐えかね棄教した者も多いが、殉教した者も多かった。拷問の一つに、京都所司代・板倉氏が考案したとされる「俵責め」がある。首だけ出した状態で、切支丹信徒を俵に...

  6. 高岳親王塚 - 平城天皇の第3皇子で出家し空海の十大弟子の1人に

    [ 高知県土佐市高岡町 ]土佐市の北側にある清滝山の中腹に四国霊場第35番札所・清滝寺があるがですが、参道を上り詰めた清滝寺寺域内の左側に鬱蒼とした木々の繁る「不入の森」とされる小高い丘があり、「高知県史跡 高岳親王塚」と言う石碑が建てられちょります。前回投稿した、松尾八幡宮の記事でも書いた貞観3年(861)に土佐・高岡に来た人皇第51代・平城天皇の第3皇子・高岳親王の逆修塔(生前に自分の死後の冥福を祈るため...

  7. 菅原高視朝臣 - 父・菅原道真に連座して土佐権守として土佐に左遷

    [ 高知県高知市北高見町 ]菅原高視は、菅原道真の長男。昌泰4年=延喜元年(901)、左大臣・藤原時平の讒言により醍醐天皇が父・右大臣菅原道真を大宰府へ左遷した昌泰の変で、菅原高視朝臣も連座して土佐権守として京都を追われ土佐に左遷されちょります。昌泰の変昌泰4年(901)1月、左大臣藤原時平の讒言により醍醐天皇が右大臣菅原道真を大宰員外帥として大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将源善らを左遷または流罪にした事...

  8. 伊達兵部宗勝 - 関田神社は伊達兵部と家臣の曽根惣兵衛を祀る神社

    [ 高知県高知市新屋敷 ]前々回の記事タイトルは「梛の木は残した」 じゃったけんど、今回は江戸時代前期に仙台藩伊達家で起こったお家騒動「伊達騒動」を題材にした山本周五郎・原作の「樅の木は残った」にも登場する伊達兵部に関わる、お話ながです。伊達兵部は官名の兵部大輔によるもので、伊達宗勝(だて むねかつ)と言い陸奥仙台藩初代藩主・伊達政宗の十男で、仙台藩支藩・陸奥一関藩の藩主。元和7年(1621)、伊達政宗の...

  9. 篠原の柏水 - 兄・頼朝の挙兵に立ち挙がるも破れ東走途中喉の渇きを潤す

    [ 高知県南国市篠原 ]偶々、南国市の吾岡山の手前で国道55号を左折して、田畑の続く道をJRの御免駅方面に走りよったら、水路の脇に立て札があり、何じゃろーと思うて近寄って見たら、このブログでも何度か取り上げちょります源頼朝の弟・源希義に関わる史跡じゃったがです。 篠原の柏水の由来平治の争乱(1159年)で、源家棟梁源義朝は、武運つたなく平家棟梁平清盛の前に屈し頼朝(当時13歳)は伊豆の蛭ヶ小島へ、義経(牛若・・...

  10. 濱五郎兵衛屋跡敷 - 初代は日和佐城主、赤岡で興した製塩業が町の繁栄に

    [ 高知県香南市赤岡町 ]赤岡町の絵金蔵と弁天座のある一角に「赤岡浦大庄屋・濱五郎兵衛屋跡敷」の説明板が建てられちょります。赤岡浦大庄屋 濱五郎兵衛屋跡敷初代濱五郎兵衛は日和佐城主であったが、主家細川氏の没落とともに所領を失い大阪天満へ隠遁。慶長元年(1596)長宗我部元親の勧めで赤岡へ移住。製塩業を起こす。後年、山内一豊にも仕え、長宗我部遺臣団の一領具足の一揆を取り鎮め、その功により大庄屋を拝命。竹林寺...

  11. 真田幸村・大野治長・後藤又兵衛 - 土佐に残る伝承及ぶ関連事項

    [ 高知県吾川郡仁淀川町・仁淀川上流域 ]今回の写真は、記事に直接関わる場所を特定するものではなくイメージで、山深い武田勝頼伝承の残る吾川郡仁淀川町を流れる仁淀川の上流です。 NHK大河「真田丸」も、そろそろエンディングになろうとしちょりますが、まずはこれまで当ブログで御紹介したNHK大河「真田丸」に直接もしくは間接的にでも関係しちょった記事のリストです。■ 武田家最後の当主 武田四郎勝頼伝・武田勝頼墓 1 -...

  12. 明智光秀・明智光春墓 - 土佐に来た明智光春の子孫が先祖供養に

    [ 高知県南国市亀岩字落合  ]南国ICの北の方、領石川沿いにある瓶岩体育館の南側に、瓶岩土居城(土佐坂本城)という丘城があるがです。瓶岩土居城城主、坂本喜三兵衛。後、秦(長宗我部)氏の時、中島源兵衛之に居る。坂本中島の二氏の世系未だ考へず。【 参考・引用 】  『土佐国古城略史』 宮地森城・著 体育館の脇に自転車を止め上がって行くと、野外アスレチック場のようになっちょりましたが、人っ子一人おらんかっ...

  13. 孕石元成 - 父・孕石元泰と共に武田勝頼の家臣じゃった

    [ 高知県高知市筆山  ]NHK大河「真田丸」関連として、「伝・武田勝頼の墓」も御紹介をしましたけんど、ちょっと調べただけでも有名人の先祖に土佐に入ってきた武田家旧臣達がおります。特に有名なのは板垣退助(乾退助)の先祖は旧武田家家臣・板垣氏、馬場孤蝶と馬場辰猪兄弟の先祖は武田家の流れをくむ馬場美濃守信春。そして今回は、武田勝頼旧臣じゃった孕石元泰と祖父・孕石元成の親子を。因みには、前回の記事の野中兼山を...

  14. 伝・武田勝頼墓 2 - 土佐に逃れて来て大崎玄蕃と名を変えたと伝わる

    [ 高知県吾川郡仁淀川町大崎  ]高知市内から西に直線距離で約34Kmの愛媛県との県境の町・仁淀川町にも、大崎玄蕃と名を変えた武田勝頼の墓と伝わる鳴玉神社があるがです。こんまい祠があり、傍に武田勝頼土佐の会が建てた「武田勝頼公墓所 変名 大崎玄蕃」と書かれれた看板があるがです。武田勝頼・三枝夫人の墓所祭神 玄蕃頭比古神(武田勝頼=大崎玄蕃)美津岐大神(三枝夫人)由緒甲斐武田家、第二十代当主である武田勝頼...

  15. 伝・武田勝頼墓 1 - 天目山の一戦に敗れ土佐に逃れて来たと伝承あり

    [ 高知県香美市土佐山田町大法寺  ]今回は、NHK大河『真田丸』の第一話の登場じゃったけんど、武田勝頼を御紹介します。「えっ!土佐に関係があるがかよ?」と思われるかもしれんけんど、史実とされちょる武田勝頼は織田信長との長篠の戦いに敗れ、最後は天目山に逃れる途中行く手を塞がれ自刃したと言われちょりますが、この時、自刃したのは勝頼の影武者で土佐に逃れて来たと言う伝承が残っちょるがです。最初に、土佐の武田勝...

  16. 日讃和尚 - 大坂夏の陣に大阪城で真田幸村と和議交渉したと伝わる

    [ 高知県高知市比島町2丁目  ]場所は、以前御紹介しちょります、土佐西国三十三観音霊場第4番にもなっちょります比島の龍乗院さん。龍乗院 - 土佐西国三十三観音霊場第4番 2016-09-11ここに、日讃和尚が眠っちょります。この日讃和尚、NHK大河「真田丸」にはキャスティングは無いと思うけんど、大いに関連する和尚さんながでしす。日讃和尚の生年は不詳。謂は永厳といい、常陸国(現・茨城県)喜多郡柿岡村に生まれる。比叡山で...

  17. 雨森氏康 - 大坂冬の陣、土佐藩第2代藩主・山内忠義に従って出陣

    [ 高知県高知市洞ヶ島町 ]雨森九太夫氏康は、関ヶ原の戦いでは西軍の石田三成に従って敗れ、山内一豊の臣になって土佐に来る。山内一豊の同母弟・山内康豊に抜擢され六百石を受け、鉄砲隊を預けられる。慶長19年(1614)大坂冬の陣には、土佐藩第2代藩主・山内忠義に従って出陣し、丹波篠山城・広島城受取・大阪城普請等に派遣された。江戸時代初期に起こった肥後島原の乱(1637年12月11日 - 1638年4月12日)には老齢にも関わらず...

  18. 毛利勝永屋敷跡付近 - 大坂の陣・大阪城五人衆の一人・父は毛利勝信

    [ 高知県高知市久万 ]NHK大河「真田丸」も、大坂城五人衆の長宗我部盛親、明石掃部守全登、後藤基次、主役の真田信繁と揃い、いよいよ関ヶ原の戦いへとドラマは入っていきよります。長宗我部盛親公慰霊之碑 - 400年忌に遺徳を偲び建てられる 2016-05-13明石掃部守全登 - 切支丹大名で「大坂夏の陣」では五人衆の一人 2016-06-20今回は、土佐の「真田丸」関係第三段として、大坂城五人衆のもう一人の戦国武将・毛利勝永を、御紹...

  19. 源希義戦死伝承之地 - 兄・頼朝の挙兵に立ち上がるも平氏に討たれる

    [ 高知県南国市東崎・鳶ヶ池中学校内 ]以前、「源希義の鞍掛けの岩」でも御紹介しちょりますが、源希義(みなもと の まれよし)は、源義朝の五男で、鎌倉幕府を開いた源頼朝は同母・兄になるがです。父・源義朝が「平治の乱」で敗れ、兄・頼朝は伊豆へ、希義は土佐に流され、平家方の平田氏・蓮池氏の監視の下、介良荘(現・高知市介良)に住み土佐冠者と号して成人するがです。治承4年(1189)8月に兄・頼朝の挙兵に応じ夜須七郎...

  20. 兼光地蔵 - 信濃源氏の武将・木曽義仲の家臣・今井兼光の菩提に

    [ 高知県高知市針原 ]高知市内を流れる鏡川の上流部になるけんど、鏡川ダムの2Km程手前にある大河内橋を渡り、鏡川沿いを約1Km程迂回し、 山側に上って行く道をオッチラオッチラと自転車で登って行ったがです。目的の場所(標高約180m)までは大河内橋から地図の平面上距離で約3Kmじゃけんど、北斜面の陽の当らない木々が鬱蒼とし、途中、こじゃんときつい上り坂になっちょる場所もある高低差が約160m程の山道を、何度か自転車か...

  21. 明石掃部守全登 - 切支丹大名で「大坂夏の陣」では五人衆の一人

    [ 高知県高知市五台山  ]ちょっと前に、大阪ノ陣の「大坂城五人衆」または「大坂城七将星」とも称される一人・長宗我部盛親の記事を載せたがですが、やはりNHK大河「真田丸」にも大いに関係するとみえて、記事の掲載後にNHKさんも「長宗我部盛親」役を阿南健治さん、「明石全登」役を小林顕作さんに決まったと発表したねー。「大坂城五人衆」とは明石掃部守全登・後藤基次・真田信繁・長宗我部元親・毛利勝永「大坂城七将星」...

  22. 春日局 - 幼少期難を逃れ長宗我部元親の許に身寄せたと云う伝承在り

    [ 東京都文京区湯島4丁目・麟祥院 ]徳川幕府第2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の家光)の乳母として有名な春日局が、幼少期に長宗我部元親を頼って落ち延びて来たと云う伝承がありますので、御紹介を。卅七 春日局幼時土佐に在り(前略)抑春日局本姓は齋藤氏名は御福といふ家世々美濃の豪族にして父は明智日向守光秀の重臣、丹波国、猪口山二萬石の城主齋藤内蔵助利三といひ母は稲葉通明の女なり天正七年を以て生る天正...

  23. アーネスト・サトウ - イカルス号事件の際、英公使館通訳として須崎へ

    [ 高知県須崎市  ]現在の須崎港と古い絵葉書に映る須崎港ながですが、然程変わっちょるようには見えんかもしれんけんど、写真右側の角谷地区にゃ鳥形山から産出された石灰を積み出す日鉄鉱業の専用埠頭が出来、湾入り口にゃに東防波堤と西防波堤の全長が約1.4Kmに及ぶ津波防波堤が出来ちょります。龍馬やアーネスト・サトウらが来た幕末の須崎湾にゃなかった光景ながです。サー・アーネスト・メイソン・サトウ(英語: Sir Ernest...

  24. 小倉三省屋敷跡 - 谷時中に学び野中兼山と共に南学の発展に尽くす

    [ 高知県高知市本町三丁目 ]写真のNHK高知放送局の西隣、工事用のグリーンのネットが張られちゅう現・高知信用金庫のある辺りが、土佐南学の発展に尽力を尽くした一人、小倉三省の屋敷があった場所になるがです。小倉三省誕生地本町三丁目(旧中島町五十五番地)高知スターレーン。NHK高知市局西隣である。・・・・・【 出典・引用 】  『高知市史跡めぐり』 橋詰延寿・著 (昭和44年)より抜粋ただ一つ疑問が。と言うのは...

  25. 岩見重太郎の塚 - 大阪夏の陣で討ち死にした薄田兼相の前身

    [ 高知県室戸市室戸岬町・最御崎寺 ]室戸岬にある第24番札所・最御崎寺の山門傍に岩見重太郎の塚と言う五輪塔があるけんど、あんまり気が付いた人は少ないがじゃないですろーか・・・・・。 岩見重太郎(薄田隼人)の塚生没年・・・ ~慶長二十年五月六日 (出生年月日は不詳)豊臣秀吉に馬廻衆として仕えたと伝わる。秀頼には三千石で仕えている。剣の道を極める為、諸国を武者修行の旅に出たが、天橋立で仇討の助っ人をした話...

  26. 猿丸太夫伝説の墓 - 伝説では弓削道鏡の弟・弓削浄人とされる

    [ 高知県高岡郡佐川町・猿丸峠 ]佐川の町内から、国道494号佐川~吾桑バイパスを斗賀野に抜ける途中に猿丸峠と言う所があるがですが、そこにこの「猿丸太夫伝説の墓」と言う看板が建っちょります。 此処から国道494号と分岐する坂道を上って行くと、「東光寺跡」と言う碑があるがですが、明治4年廃寺と刻まれちょりますき、ここも明治の廃仏毀釈によって取り壊されたがですねー。この上に「猿丸太夫伝説の墓」があるけんど、明治...

  27. 紀夏井邸跡 - 応天門の変(866)に連坐して土佐に配流された

    [ 高知県香南市野市町母代寺  ]県外で話をしよったら、たまに「土佐は島流しの流人の地でしょう」と言われる事があるけんど、「確かに流人の地には変わりないけんど、別に土佐だけではのうて天皇の居った畿内の土地以外は流人の地だった。」と答えるがです。「土佐は島流し・流人の国」と言って、恰も殺人犯や強盗犯の類の人々の流された場所のように思われちょるけんど、流罪になった人々は皆、朝廷内の権力闘争で敗れたり、冤...

  28. 毛利吉成 - 豊前国・小倉藩城主で豊臣秀吉に仕える

    [ 高知県高知市中秦泉寺 ]高知の人じゃったら、昨年(2013)10月19日~4泊5日の日程で、ミクロネシア連邦への友好記念ツアーが行われたがを覚えちょる人もおるろー。ミクロネシア連邦ちゅうがは、赤道に近いフィリピンの東に浮かぶカロリン諸島に属する607の島からなり、東西に約3000kmに渡って広がる国ながです。当然住民はミクロネシア系の人々じゃけんど、その中に約2割の日系ミクロネシア連邦人もおるがです。その日系ミクロネ...

  29. 小倉省助・三省父子の墓 - 小倉三省は藩政初期の重臣で儒学者

    [ 高知県高知市五台山 ]昭和42年に建てられちゅう碑文の裏にゃ、「小倉省助は錬達した民政により、その子三省は南学の研鑽をもって、ともに兼山(野中兼山)政治に参加し、奇しくも承応3年(1654)相ついで死去し、この地に眠る」と刻まれちょります。野中兼山邸跡の碑 - 本来の跡地に建てられちゃーせん理由は 2009-11-20野中婉女宅跡 - 野中兼山の娘 2010-04-22「南学」は、土佐における朱子学で海南学派とも呼ばれちょります...

  30. 山崎久三郎と妻・富 - 夫婦で勤王に尽くし天誅組には家財を持って応援

    [ 高知県 高知市 筆山 ]山崎久三郎は文政3年(1820)京都伏見の加賀浪人・米澤佐兵衛の子として生まれ名を兼光と言い、十八歳の時に堺町六角の扇屋・山崎儀助の娘・富を娶(めと)り、養子となっちょります。男気もあり勤王の志も厚い人で、京都に集まる志士らと交わり、特に長州・土佐の志士らと深い繋がりをもっちょり、勤王の志士の世話をして家は勤王党の梁山泊と言われたと言う。その中には、吉村虎太郎や那須信吾、伊吹周吉...

  31. 源希義の鞍掛けの岩 - 源義朝の五男で、この地で討たれる

    [ 高知県南国市東崎 ]源希義は、源義朝の五男で、鎌倉幕府を開いた源頼朝は同母・兄になるがです。現在放送中(2012)の、NHK大河「平清盛」の中にも登場する父・源義朝が「平治の乱」で敗れ都を落ち延びる道中、尾張国で家人に裏切られ謀殺されると、兄・頼朝は伊豆へ、希義は土佐に流され、平家方の平田氏・蓮池氏の監視の下、介良荘(現・高知市介良)に住み土佐冠者と号して成人しちょります。因みに、源義経は異母・兄になる...

  32. 平尾道雄墓 - ベレー帽の平尾さんと慕われた偉大なる郷土史家

    [ 高知県高知市西久万 ]昨日、歴史写真家・前田秀徳氏が、氏の師匠である「平尾道雄」先生(土佐藩史とくにその維新史研究の第一人者)の年内最後の墓参りに行くと言う事で、同行した。墓所は、地区の方々が清掃されてくれちょるようで、綺麗に掃き清められちょりました。ただ、如何せん、直ぐ下にある谷干城の墓所までは訪れる人も居るけんど、直ぐ傍にあるにも関わらず「平尾道雄」先生の墓前に足を運ぶ人は少ないと言う。今日...

  33. 板坂利正 - 関ヶ原の戦いで、山内一豊の母衣武者5騎の一人

    [ 高知県高知市・中高見 ]生年は不詳じゃけんど、山内一豊の家臣で、天正13年(1585)に近江長浜で召抱えられ、各地の戦に従う。天正18年(1590)一豊が、近江長浜から遠州掛川に移った時、知行500石母衣で銃手10人を与えられ、浦奉行や浦総代官を務める。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの際にゃ、母衣(ほろ)武者5騎の一人じゃったと。因みに、母衣武者ちゅうがは現在でもよう武者行列などで、鎧の背に大きな赤い袋のような母衣をつけ...

  34. フランク・チャンピオンの碑 - 撰文は帝国飛行協会会長 侯爵大隈重信

    [ 高知県高知市鷹匠町2丁目 ]フランク・チャンピオンの碑(墓碑)です。過去何度か御紹介しちょり、この碑(墓碑)の発起人が鬼頭良之助じゃったとか、碑上部の丸い部分はヘルメットをデザインした物じゃとか書いたけんど、今回は別の事を・・・・・。いっつも石段の下からを見るだけじゃき、碑の3面にゃ何が書かれちゅうかと思い見たがですが、文字が細かすぎるのとコケで見えんし判らん。そんで、取り合えず写真だけ取って家...

  35. 並川志摩 - 須崎で鰹のタタキ(塩辛の一種)を作ったと伝わる

    [ 高知県高知市五台山 ]並川志摩は、名を宗照と言い、元は肥後熊本城城主・加藤清正と忠広に仕えた重臣ながです。加藤家は元は豊臣秀吉の子飼いの家臣じゃったけんど、慶長3年(1598)に豊臣秀吉が死去後、徳川家康に接近し、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いじゃ九州に留まって九州の西軍勢力を破り、東軍・徳川家康に見方しちょります。その功労で肥後南半を与えられ52万石の大名にまで上り詰め、加藤清正の死後、三男・忠広が跡...

  36. フランク・チャムピオンの碑

    [ 高知県高知市鷹匠町2丁目・鏡川沿い ]フランク・チャムピオンの碑も、過去二度掲載しちょります。フランク・チャムピオンの碑 2009.03.14フランク・チャムピオンの碑 - 鏡川河畔 2008.12.01当時としてはまだ飛行機が珍しかった頃の話。異国の日本に、飛行機の有能性を見せるためアメリカ政府から派遣され、大正6年10月30日、ここ高知での飛行のショーが日本での最後じゃったそうです。しかし大勢の観客が見守る中、離陸...

  37. 織田信安墓 - 織田信長の父・信秀とは従兄弟

    [ 高知県高知市筆山 ]見ての通りの自然石で、文字も見えんし、説明の高札が無かったら墓とは判らんろーねー。織田信安と言う人は、織田信長の父・信秀とは従兄弟との事じゃけんど、時代は戦国時代、親・兄弟・従兄弟と言えども、事あればお互いが合い争った時代ながです。それは、織田信安の身にも同じように降りかかっ来ちょります。信安は父・敏信の跡を継ぎ、尾張・岩倉城(現在の愛知県岩倉市)を居城にしちょったけんど、身...

  38. 伊達兵部の墓 - 伊達騒動の関係者

    [ 高知県高知市吸江 ]地域によっちゃー見えんかったかも知れんけんど、昨夜(2010.2.20)、テレビ朝日系列で「樅の木は残った」をやりよったねー。山本周五郎原作の「樅の木は残った」と言う、江戸時代に起こった仙台藩のお家騒動「伊達騒動」をテーマにした歴史小説ながです。その主人公の、原田甲斐を田村正和が演じちょりました。一般に伊達騒動と呼ばれるのは、この寛文事件を指す。伊達綱宗の嫡子・亀千代(後の伊達綱村)が...


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