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植木枝盛生誕地碑 - NHKの朝ドラ『らんまん』の自由民権家・早川逸馬のモデルかと
[ 高知県高知市中須賀 ]NHKの連続テレビ小説『らんまん』も、明日2023年9月29日が最終回ですが、そのドラマに自由民権運動家・早川逸馬なる人物が出ちょりましたが、その早川逸馬のモデルが誰なのかと巷ではちょっとした話題になっちょりました。オンちゃん的にゃ、モデル構成の大部分は風貌的にも植木枝盛かなと思うちょり、当時の長野県佐久地方の自由民権家・早川権弥と言う人の名字を借りて、役名に「早川逸馬」で登場させた...
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自由の松原 - 立志社の会合や密談が行われた場所
[ 高知県高知市十津 ]かって、ここに城下の豪商・川崎源右衛門の別荘があったと。明治6年(1873)板垣退助は征韓論に敗れて明治新政府の職を辞して野に下り土佐で自由民権を唱える契機となるがですが、川崎源右衛門とは親しい間柄だったそうで、人里離れたこの地で立志社の会合や密談が行われた場所じゃそうです。板垣死すとも、自由は死せず - 板垣退助誕生地 2008-12-17その後、ここにあった川崎源右衛門の別荘で、板垣退助と...
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片岡健吉墓 - 坂本直寛らと一緒にキリスト教の洗礼を受ける
[ 高知県 高知市 前里 ]片岡健吉の事は、以前にも御紹介しちょりますき、プロフィール的な記載は省きます。写真は無いけんど、墓石に「義人は信仰により生くなり」と刻まれちょりました。キリスト教じゃったがですねー。幕末期、片岡健吉も板垣退助と勤王論を唱いた人じゃけんど、坂本龍馬とは接点はないがですが、龍馬の兄・権平さんの養子になり坂本家5代目を継いだ坂本直寛とは関係があるがよ。自由民権運動の中心的な拠点と...
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板垣退助墓 - 、初代・乾正信から続く墓所に眠る
[ 高知県高知市薊野 ]階段を上って行くと、乾家の墓所があります。土佐藩の馬廻役じゃった家柄じゃったき、大小沢山の墓が並んじょります。周囲は全て乾姓の墓碑じゃけんど、一際大きくて真新しい墓碑が板垣退助の墓碑なが。乾姓を板垣姓に変えたがは、戊辰戦争の時。土佐藩の迅衝隊総督として土佐藩兵を率いて東山道先鋒総督府参謀の肩書きで従軍したがですが、天領である甲府城の掌握目前の美濃大垣に向けて出発した慶応4年(1...
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取り壊された植木枝盛邸は、元は谷干城邸じゃったと・・・・・2
先日、ブログを通じて親しくさせていただいちゅうNさんから、解体され更地になっちゅう植木枝盛邸跡にポツンと残る井戸の写真を送っていただき、おおよそ解体作業が終了した事を知ったがです。早々に、更地になった状況を記録に残すべく、写真を撮りに行っちょりました。上は、更地に残った井戸。下は、解体前の在りし日の状態。この写真は、2011.03.25に撮影した井戸を含めた写真ながです。この井戸の水を、谷干城も植木枝盛も使...
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取り壊された植木枝盛邸は、元は谷干城邸じゃったと・・・・・
写真は、今年、破壊されて地上より姿を消してしまった文化遺跡・植木枝盛邸跡の、在りし日の姿ながです。撮影 : 2009.11.18[ 高知県高知市桜馬場 ]あえて、今回、再掲載するかと言うと、数日前、大変不愉快な情報が流れたからながです。発端は、高知に関するメーリングリストからじゃったき、この話を知っちゅうがは、ホンの一握りのメンバーだけ。秘匿でも何でもない普通のメーリングリストで、高知県に興味のある御仁じゃった...
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修立社跡 - 自由民権運動の中心・立志社の下部組織の一つ
[ 高知県高知市南はりまや町 ]この修立社跡は、明治7年(1874)に板垣退助・片岡健吉・植木枝盛・林有造らによって設立された自由民権運動の中心となった高知県の政治団体・立志社の下部組織の一つながです。立志社の社長を務めたがは、後に初代高知市長になった一圓正興じゃったがです。MapFan地図へ...
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坂崎紫瀾邸跡 - 「汗血千里駒」で蘇った龍馬
[ 高知県高知市廿代町 ]明治時代の自由民権運動の運動家の一人・坂崎紫瀾邸跡。と言うよりは、NHK大河「龍馬伝」で、岩崎弥太朗に取材する土陽新聞の記者と言った方が、判りやすいのかな・・・。彼の書いた、坂本龍馬を主人公にした「汗血千里駒」は有名ながです。NHK大河「龍馬伝」が終わって、ここらを散策する観光客もあんまり見かけんようになったがですが、まー、しょうがないろーけんどねー・・・(^^ゞ坂崎紫瀾は、...
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植木枝盛旧邸跡 - 解体間近!
[ 高知県高知市越前町 ]久しぶりに、植木枝盛旧邸前を通ったら、庭木が切られちょりました。行政は、殆ど当時の原型を留めちゃーせんと言う理由から、植木枝盛の書斎の部屋だけを、自由民権記念館に移築する運びになっちゅう。じゃー、その書斎の部屋は、殆ど手付かずに当時の姿を残しちゅうがかよ。そんなこたーないろー?。それこそ不自然じゃし、如何考えても理屈に合わん。来年「龍馬博」が終わったら、新たに造るパピリオン...
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獄洋社跡 - 自由民権運動の政治結社
[ 高知県高知市上町2丁目 ]板垣退助らの起こした自由民権運動の活動の拠点・立志社の傘下組織の一つとして、明治11年に南獄社と南洋社と言う2つの結社が合併した出来たがが、この獄洋社との事・・。高松太郎(坂本直)の弟で、坂本龍馬の兄・坂本権平さんの養嗣子となって坂本家を継いだ、坂本南海男(直寛)も、獄洋社に居ったそうながです。立志社跡 - 自由民権運動 2009.03.20 MapFan地図へ...
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海南自由党結成集会の地 - 板垣退助率いる自由党の高知支部
[ 高知県高知市筆山町 ]板垣退助は、明治6年(1873)に西郷隆盛・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣・らと共に主張した「征韓論」に敗れ、公職を辞し下野し高知に戻って来ると、明治7年(1874)3月に片岡健吉・林有造らと立志社を創立し、自由民権運動を起こすがです。明治14年(1881)、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党を結成して党首となり各地で遊説を行うが。岐阜で暴漢に襲われた事...
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植木枝盛旧邸跡 - また一つ、史跡が消えて行く
[ 高知県高知市越前町 ]高知新聞 - 2010年06月22日植木枝盛旧邸取り壊し迫る自由民権運動の思想家、植木枝盛の高知市桜馬場にある旧邸が、取り壊されようとしている。市では、枝盛が憲法草案を起草した書斎の一室を譲り受け、保存していきたい考えだが、具体的な手順はこれから決めることになるという。と言うニュース記事が出ちょりました。植木枝盛に付いては、自由は土佐の山間より出づ - 植木枝盛生誕地 2008.12.20で、ご紹...
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板垣退助邸跡
[ 高知県高知市萩町2丁目 ]鏡川右岸を浦戸湾方向に行くと、右側の”東洋電化工場”の脇に「板垣退助先生邸址」と彫られた大きな石碑が建っちゅう。この邸宅跡は、戊辰戦争での功績を讃えて、山内家から「釣御殿」を与えられたそうながです。今は石碑しか無いないけんど、自由民権期の彼の本邸として使われ、県内外の多数の運動家がここに集まったそうながです。明治6年(1873年)、”西郷隆盛”、”江藤新平”・”後藤象二郎”・”副島種...
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自由民権記念館
[ 高知市桟橋通4丁 ]近代日本の歴史に重要な役割を果たした高知県の自由民権運動を中心とする当時の資料の収集・調査研究・保管・展示と、それらを次代に継承することを目的としちゅう施設で、高知市制100周年を記念して1990年に開設されたがです。館内では、板垣退助が岐阜で襲われたときの短刀や「日本憲法見込案」の原本など貴重な資料を陳列さちゅうがです。 [ アクセス ]土佐電鉄桟橋通線「桟橋通4丁目」または「桟橋車...
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立志社跡 - 自由民権運動
[ 高知市帯屋町1丁目 ]1874年に、「板垣退助」・「片岡健吉」・「植木枝盛」・「林有造」らによって設立された自由民権運動の中心となった「立志社」があった所ながです。明治維新後の藩閥政府による政治に対して、議会の開設、地租の軽減、不平等条約の改正、言論と集会の自由の保障などの要求を掲げ、明治十四年には自由党へと発展していくがです。今の自由民主党は、1955年に自由党と民主党 が合併して出来た政党で、「板垣...
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板垣退助生家の門
[ 高知市比島町2丁目 ]板垣退助の生家にあった「門」で、現在は高知市比島町2丁目にある「龍乗院」と言うお寺に移築され、保存されちょります。ただ、何の説明書きもないので、近所の住民もどれだけの人が知ちゅうかねー?生家自体は、今は高野寺(高知市本町2丁目)と言うお寺になっちょりまして、門脇に「板垣退助先生誕生土地」の石碑が立っちょります。明治の初め頃に人手に渡り、「門」は明治末期まで生家跡にあったそ...
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自由民権運動の政論家 - 馬場辰猪誕生地
[ 高知市/升形 ]土佐藩士の家に生まれ、藩校文武館、福沢塾(後の慶應義塾)で学び、その後、長崎に赴いてオランダ人宣教師グイド・フルベッキに英語を習う。明治3年(1870)から11年(1878)まで一時帰国を挟みイギリス留学をしちゅう。帰国後、「朝野新聞」や「自由新聞」などで自由民権運動を日本に紹介し、共存同衆・交詢社・国友会などの組織を立ち上げ、1881年、板垣退助の自由党に参加するが、板垣の渡欧に関して対立し...
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自由は土佐の山間より出づ - 植木枝盛生誕地
[ 高知市/中須賀町 ]明治期の自由民権理論家,運動家。土佐藩士直枝の子で、廃藩に至るまで藩校致道館に学び、明治6(1873)年、旧藩主山内氏が東京に開設した海南私塾に学んだが、同校の方針が不満で半年で退学し高知に帰るがです。この時期、征韓論政変で下野した板垣退助や林有造、片岡健吉らが帰郷して高知に立志社を設立し「自由民権運動」を開始すると、翌年再度上京し板垣邸に書生として寄宿し、独学で民権思想を吸収し東京...
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板垣死すとも、自由は死せず - 板垣退助誕生地
[ 高知県高知市本町2丁目 ]1837年板垣退助は、この地に藩士「乾正成」の長男として生まれたがです。今はお寺になっちょって、記念碑だけあるがです。維新後の明治6年(1873年)に「征韓論」を主張し敗れ公職を辞し、高知に立志社を設立し「自由民権運動」を推し進め、「自由党」の初代総理となるがですが、岐阜で遊説中に暴漢に刺され「板垣死すとも、自由は死せず」と言う言葉を残しちゅう。その関係か、岐阜公園にも板垣退助...
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丸山台
[ 丸山台 高知市/弘化台 ] 丸山台は、鏡川の河口付近に浮かぶ中州で、藩政時代には面積が2反じゃったと言うきに、約2000m2程のばかりの大きさじゃったがです。明治16年春に、対岸の稲荷新地( 現・高知市若松町)にあった料亭「此君亭」がこの「丸山台」を買取って「丸山台温泉場」を開き、料亭が建ち大いに賑わったそうながです。板垣退助が、明治15年4月に岐阜で暴漢に刺され(この時、「板垣死すとも自由は死せ...
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板垣退助の銅像
土佐出身の幕末から明治にかけて活躍した政治家で、戊辰戦争じゃー、新政府軍の参謀として活躍したがじゃ。元は「乾退助」とゆうが、先祖が武田信玄の家臣「板垣信形」にあたる事から、甲府の民衆に親近感を与えようと「板垣」と改正したそうやか。明治7年に高知に立志社を設立し、自由民権運動を推し進め、明治14年に自由党の総理になって各地で遊説を行っちゅう。明治15年、岐阜で演説を終えた会場で、刺客に襲われたがです。こ...