夫の実家(四) 07/31/2018
『夫の実家(三)』のつづきなのだが、(三)を書いたのが昨年の10月で、実に9カ月たってしまった。
ゆっくり少しづつ書き上げていこうと思うが、その前に私の近況を報告します。
前回、ジプレキサなる薬に苦しまされていることを書いた。
ジプレキサはネットで調べると統合失調症に使われる薬のようなのだが、私の場合吐き気止めとして出されていた。
2、5㎎を夜1錠飲んでいたのだが、吐き気がピタリと止まることもなく、いつの頃からか、言葉でも文章でも表現し難いなのだが、頭がクラクラするというか、頭だけが揺れているというか、頭に不快な症状が出るようになった。
このクラクラは眩暈だと後に病院で知る。
主治医に相談し、減薬することになった。
1錠を包丁で半分に切り、大凡1、25㎎を飲むことになった。
1年以上服用していたので、減薬すると離脱症状がでた。
私の場合は吐き気と食欲不振だったのだが、この離脱症状は1週間弱で自然とおさまった。
全くなくなったわけではないが、頭のクラクラはかなり軽減され、ジプレキサの副作用だったと思われる。
頭のクラクラが軽減されたのは喜ばしいことなのだが、別の悩みも出てきた。
1錠飲んでいた時はぐっすり眠れていたのだが、半分にしたら寝つきが悪くなった。
床について30分以上眠れない時はデパスを飲む。
というのは、睡眠不足だと翌日胃がムカムカするからだ。
どうしてこんな体になってしまったのかと嘆きたくなるのだが、なってしまったものは仕方ない。
一時期よりはだいぶよくなったので、良しとしなければならない。
そして、もう一つ、転職をすることになった。
明日(8月1日)から新たな職場である。
今年初めの1月に転職したばかりだというのに、半年しか勤めていず、こんなにも早く仕事を辞めるのは初めてである。
入社前は長く勤めるつもりであった。
募集に「定年なし、シニア活躍、簡単な仕事」と長く勤められそうな事が書いてあったので、
「ここなら長く働けそう。」
と思ったのである。
ところが、入ってみないとわからないものだ。
確かに私より年が上と思しき人は沢山いたが、長く勤めている人がいない。
そもそもその会社ができたのが5、6年前、私が勤めた支社ができたのが3年位前で、だからといって設立当初からいる人もはいず、1年勤めている人が「長い人」なのである。
そしてその理由は仕事をしてみて、また数ヵ月働いてみてわかった。
まあ、簡単に言えばブラック企業に極めて近い会社であり、毎月数名入社するのだが、それを上回る人が毎月辞めて行く。
私のようなオバサン達は「使い捨てのコマ」なのであった。
「こんな所は長居するもんじゃない、さっさと辞めなくては。」
と思った私は毎日求人ばかり見てしまい、だからブログの更新が滞っていました。
本題の『夫の実家』である。
前回、といってもかなり前なのだが、夫の実家はネパールの首都カトマンズからバスで8時間、徒歩6時間。
村人は1日で着くそうなのだが、私は2泊3日もかかってしまい、着いたそこは、電気もガスも通ってなく、水はどこかにはあるのだが、どこにあるのかわからないような、日本でならさしずめ「秘境」と紹介されてしまうような所だったのである。
(ご興味のある方は、カテゴリー「ネパール」をご覧下さい。)
ひとつ書き忘れていたことがある。
ネパールは乾季と雨季があり、6月から9月は雨期であり、日本で言えば梅雨のようなものなのだが、雨の降り方が違う。
ダーっとスコールのように降ったかと思うとカラっと晴れ、だんだんとスコールのような雨が増えるとガイドブック等には書いてあり、確かにそうなのだが、日本の梅雨のように一日中しとしと降っている日もある。
夫の実家に行ったのは、雨季の前、暑くもなければ寒くもない、5月だったと記憶している。
夕食が終わり、就寝時間になった。
夫の実家には、夫の両親、夫の妹と弟、夫の姉の子供二人の計6人暮らし。
ちなみに夫の姉の子供、即ち夫の姪と甥は、姪が10歳位、甥は5歳位であった。
で、見たところベッドは6台。
夫と私が来たから定員オーバーである。
「私の寝場所はあるのか?」
というのが私の心配事であったが、取り越し苦労であった。
甥は父親と、姪は母親と寝、私と夫にベッドをあけてくれたのだった。
そのベッドは寝返りこそかろうじてうてるが、日本のシングルベッドよりもずっと幅の狭いもので、ベッドといっても木で作った台の上に布団が敷いているだけのもの。
シーツは洗濯されているのかいないのかはわからなかったが、かなり使いこんだシーツであり、掛布団もシーツ同様、かなり使い込んだものだった。
村の朝は早い。
日の出と共に家長である夫の父が起床し、
「朝だぞ。起きる時間だ。みんな起きろ。」
ネパール語も彼らの民族語もわからない私だが、恐らくこのような言葉を発しながら、缶を叩き、皆が起床する。
起床すると、母と夫の妹がお茶を作る。
本来は紅茶にバターを入れたバター茶を作るらしいのだが、私がバター茶を飲めないので、甘いミルクティーを作ってくれ、貴重な砂糖を使わせてしまったのだった。
ゆっくりお茶を飲むと、女達は家から離れた所にある畑に農作業に行く。
7時前である。
「お母さんも妹も、今出かけたら、もう夜まで帰ってきません。ずーっと仕事です。」
と夫が説明し、母と妹と夫の姪は民族衣装のロングドレスのまま、大きな籠を背負って農作業に出た。
そうこうしているうちに甥もどこかへ出かけ、弟もどこかへ出かけ、家に残ったのは父と夫と私の3人になった。
どうやら家の周りの農作業は父親がやることになっているようだった。
家の近くは麦畑になっており、父は当然ながら、夫も農作業の手伝いをすることになった。
村に帰れば仕事はいくらでもある。
人間は農作業、飼い犬は番犬、鶏は卵を人間に提供し、牛や山羊は牛乳を提供し、みんなが働いている。
「私も手伝う。」
と申し出たのだが
「アナタにはできない。」
と夫は言い、
「ゆっくりしていなさい。」
と父は言い、実際農業などやったこともない私は何もできず、ここでは私は動物以下なのであった。
「暇なんだけど。」
と私が言うと
「その辺を散歩すればいい。」
と夫。
それで散歩をしたのだが、遠くまで行きすぎて帰れなくなっては困るし、どこを歩いても似たような簡素な家と畑しかなく、一人で散歩をしていても全然楽しくなく、散歩はすぐに終わってしまった。
ここに来るにあたり、私は本を2冊持参した。
1冊は松本清張の短編小説が沢山入った分厚い本、もう一冊は英会話の本である。
ベッドに寝ころびながら松本清張の殺人の本を読む。
こののどかな村には全く似つかわしくないのだが、この本しかないのだから仕方ない。
気分転換に英会話の本を開くと非常に眠くなり、気がつけばうたた寝をしてしまう。
ほぼ一日中私はベッドの上でゴロゴロしているのであった。
昼近くになると、夫が戻り、昼ごはんの支度をする。
「私も手伝う。」
とは言ったものの、ここでは薪割りから始めなくてならない。
テレビでは見たことがあるものの実物の薪を見たのも初めてならば、斧を見るのも初めてな私に、試してはみたものの薪割りなど到底できなのであった。
薪割りの次は囲炉裏に火をつけるのだが、
「私も手伝う。」
と言うのは止めた。
夫が薪に火をくべるのを見ていたら、ただ火をつけるだけでもコツがあり、私にはできそうもなかった。
今、『こんな所に日本人』というテレビ番組があるが、その当時も似たような番組があり、「秘境で暮らしてみたいなあ。」などと思ったことのある私だったが、ここに来て「私には秘境暮らしは無理だ。」と半日にして確信したのだった。
夫の作った昼ごはんは、ご飯とジャガイモと野菜のカレー味の炒め物である。
ここでは男は力仕事、女は家事と、大昔の日本もそうだったのだろうが、男と女の仕事が完全に分かれていた。
昼ごはんを食べ終えたら、また農作業かと思いきや、父はご近所さんと井戸端会議。
夫はというと、久しぶりに帰った実家だからして、これまたご近所さんとつもる話があるらしく、こちらも井戸端会議。
二人共どこかへ行ってしまい、一人残された私は、自分のベッドでまた本を読んだり昼寝をしたり。
不思議なのだが、ここにいるといくらでも眠れるのであった。
夕方になると、数キロ離れている所に住んでいる夫の兄がやって来て、死んだ鶏の羽をむしっていた。
「うわっ!もしかして、これは・・・」
そこここを歩いて鶏を見て、
「鶏、殺したの?」
と夫に聞くと
「これはうちの鶏ではありません。他の家から買いました。こういう仕事は男の仕事です。」
動物を殺し、皮や羽をはぐのは男の仕事、その後は女の仕事というわけだ。
日が暮れると離れた畑で農作業をしていた女達が、籠一杯に収穫物を入れ帰宅し、休む間もなく夕食作りである。
夕食はチキンカレー。
どうやら客人である私をもてなす為の特別料理で、羽をむしている時は「いいよ、いいよ、肉なんて食べなくても。」と思ったくせに、調理されると現金なもので、美味しいのだった。
今日はここまでにします。
愛鳥ラニ君(セキセインコ)は元気です。
そしてきっちり2週間おきに産卵防止の注射をしに通院しています。
そのかいあってか、長らくラニ君は卵を産んでいません。
「このヒトは熱中症は大丈夫ですね?」
先生が仰り
「大丈夫だと思います。この子が来てから、我が家はこの子の為に24時間冷房つけっぱなしですから。」
「今年も熱中症のヒトが多いです。病院に来る途中、20分程度暑い車内に置いていた方がいましてね。その間に容態が悪くなってしまいましてね。」
「死んじゃったんですか?」
先生は頷かれた。
「先生、この子、人間の飲む、パックのりんごジュースが大好きなのですが、飲ませてもいいのでしょうか?といっても、既に少し飲ませちゃっているのですが。」
「大丈夫ですよ。このヒトの場合、水分を取った方がいいですからね。でも沢山はダメですよ。」
ラニ君が元気だと、それだけで安心です。
人間もペットも、健康が一番ですね。
我が家でラニ君の為に栽培しているあわ穂を食べるラニ君。
市販のあわ穂よりもお好みのようです。
この時期、必ず食卓にあるのはトウモロコシです。
ラニ君が好きだからです。
ステンレス製の器は夫が作るネパールカレーを入れる為に購入したものですが、
今やラニ君の器になっています。
この写真、ラニ君は可愛いのですが、背景が悪いですね。
わたくし、写真を撮るのが下手なのです。
ラニ君の後ろの汚い足は夫の足です。
ゆっくり少しづつ書き上げていこうと思うが、その前に私の近況を報告します。
前回、ジプレキサなる薬に苦しまされていることを書いた。
ジプレキサはネットで調べると統合失調症に使われる薬のようなのだが、私の場合吐き気止めとして出されていた。
2、5㎎を夜1錠飲んでいたのだが、吐き気がピタリと止まることもなく、いつの頃からか、言葉でも文章でも表現し難いなのだが、頭がクラクラするというか、頭だけが揺れているというか、頭に不快な症状が出るようになった。
このクラクラは眩暈だと後に病院で知る。
主治医に相談し、減薬することになった。
1錠を包丁で半分に切り、大凡1、25㎎を飲むことになった。
1年以上服用していたので、減薬すると離脱症状がでた。
私の場合は吐き気と食欲不振だったのだが、この離脱症状は1週間弱で自然とおさまった。
全くなくなったわけではないが、頭のクラクラはかなり軽減され、ジプレキサの副作用だったと思われる。
頭のクラクラが軽減されたのは喜ばしいことなのだが、別の悩みも出てきた。
1錠飲んでいた時はぐっすり眠れていたのだが、半分にしたら寝つきが悪くなった。
床について30分以上眠れない時はデパスを飲む。
というのは、睡眠不足だと翌日胃がムカムカするからだ。
どうしてこんな体になってしまったのかと嘆きたくなるのだが、なってしまったものは仕方ない。
一時期よりはだいぶよくなったので、良しとしなければならない。
そして、もう一つ、転職をすることになった。
明日(8月1日)から新たな職場である。
今年初めの1月に転職したばかりだというのに、半年しか勤めていず、こんなにも早く仕事を辞めるのは初めてである。
入社前は長く勤めるつもりであった。
募集に「定年なし、シニア活躍、簡単な仕事」と長く勤められそうな事が書いてあったので、
「ここなら長く働けそう。」
と思ったのである。
ところが、入ってみないとわからないものだ。
確かに私より年が上と思しき人は沢山いたが、長く勤めている人がいない。
そもそもその会社ができたのが5、6年前、私が勤めた支社ができたのが3年位前で、だからといって設立当初からいる人もはいず、1年勤めている人が「長い人」なのである。
そしてその理由は仕事をしてみて、また数ヵ月働いてみてわかった。
まあ、簡単に言えばブラック企業に極めて近い会社であり、毎月数名入社するのだが、それを上回る人が毎月辞めて行く。
私のようなオバサン達は「使い捨てのコマ」なのであった。
「こんな所は長居するもんじゃない、さっさと辞めなくては。」
と思った私は毎日求人ばかり見てしまい、だからブログの更新が滞っていました。
本題の『夫の実家』である。
前回、といってもかなり前なのだが、夫の実家はネパールの首都カトマンズからバスで8時間、徒歩6時間。
村人は1日で着くそうなのだが、私は2泊3日もかかってしまい、着いたそこは、電気もガスも通ってなく、水はどこかにはあるのだが、どこにあるのかわからないような、日本でならさしずめ「秘境」と紹介されてしまうような所だったのである。
(ご興味のある方は、カテゴリー「ネパール」をご覧下さい。)
ひとつ書き忘れていたことがある。
ネパールは乾季と雨季があり、6月から9月は雨期であり、日本で言えば梅雨のようなものなのだが、雨の降り方が違う。
ダーっとスコールのように降ったかと思うとカラっと晴れ、だんだんとスコールのような雨が増えるとガイドブック等には書いてあり、確かにそうなのだが、日本の梅雨のように一日中しとしと降っている日もある。
夫の実家に行ったのは、雨季の前、暑くもなければ寒くもない、5月だったと記憶している。
夕食が終わり、就寝時間になった。
夫の実家には、夫の両親、夫の妹と弟、夫の姉の子供二人の計6人暮らし。
ちなみに夫の姉の子供、即ち夫の姪と甥は、姪が10歳位、甥は5歳位であった。
で、見たところベッドは6台。
夫と私が来たから定員オーバーである。
「私の寝場所はあるのか?」
というのが私の心配事であったが、取り越し苦労であった。
甥は父親と、姪は母親と寝、私と夫にベッドをあけてくれたのだった。
そのベッドは寝返りこそかろうじてうてるが、日本のシングルベッドよりもずっと幅の狭いもので、ベッドといっても木で作った台の上に布団が敷いているだけのもの。
シーツは洗濯されているのかいないのかはわからなかったが、かなり使いこんだシーツであり、掛布団もシーツ同様、かなり使い込んだものだった。
村の朝は早い。
日の出と共に家長である夫の父が起床し、
「朝だぞ。起きる時間だ。みんな起きろ。」
ネパール語も彼らの民族語もわからない私だが、恐らくこのような言葉を発しながら、缶を叩き、皆が起床する。
起床すると、母と夫の妹がお茶を作る。
本来は紅茶にバターを入れたバター茶を作るらしいのだが、私がバター茶を飲めないので、甘いミルクティーを作ってくれ、貴重な砂糖を使わせてしまったのだった。
ゆっくりお茶を飲むと、女達は家から離れた所にある畑に農作業に行く。
7時前である。
「お母さんも妹も、今出かけたら、もう夜まで帰ってきません。ずーっと仕事です。」
と夫が説明し、母と妹と夫の姪は民族衣装のロングドレスのまま、大きな籠を背負って農作業に出た。
そうこうしているうちに甥もどこかへ出かけ、弟もどこかへ出かけ、家に残ったのは父と夫と私の3人になった。
どうやら家の周りの農作業は父親がやることになっているようだった。
家の近くは麦畑になっており、父は当然ながら、夫も農作業の手伝いをすることになった。
村に帰れば仕事はいくらでもある。
人間は農作業、飼い犬は番犬、鶏は卵を人間に提供し、牛や山羊は牛乳を提供し、みんなが働いている。
「私も手伝う。」
と申し出たのだが
「アナタにはできない。」
と夫は言い、
「ゆっくりしていなさい。」
と父は言い、実際農業などやったこともない私は何もできず、ここでは私は動物以下なのであった。
「暇なんだけど。」
と私が言うと
「その辺を散歩すればいい。」
と夫。
それで散歩をしたのだが、遠くまで行きすぎて帰れなくなっては困るし、どこを歩いても似たような簡素な家と畑しかなく、一人で散歩をしていても全然楽しくなく、散歩はすぐに終わってしまった。
ここに来るにあたり、私は本を2冊持参した。
1冊は松本清張の短編小説が沢山入った分厚い本、もう一冊は英会話の本である。
ベッドに寝ころびながら松本清張の殺人の本を読む。
こののどかな村には全く似つかわしくないのだが、この本しかないのだから仕方ない。
気分転換に英会話の本を開くと非常に眠くなり、気がつけばうたた寝をしてしまう。
ほぼ一日中私はベッドの上でゴロゴロしているのであった。
昼近くになると、夫が戻り、昼ごはんの支度をする。
「私も手伝う。」
とは言ったものの、ここでは薪割りから始めなくてならない。
テレビでは見たことがあるものの実物の薪を見たのも初めてならば、斧を見るのも初めてな私に、試してはみたものの薪割りなど到底できなのであった。
薪割りの次は囲炉裏に火をつけるのだが、
「私も手伝う。」
と言うのは止めた。
夫が薪に火をくべるのを見ていたら、ただ火をつけるだけでもコツがあり、私にはできそうもなかった。
今、『こんな所に日本人』というテレビ番組があるが、その当時も似たような番組があり、「秘境で暮らしてみたいなあ。」などと思ったことのある私だったが、ここに来て「私には秘境暮らしは無理だ。」と半日にして確信したのだった。
夫の作った昼ごはんは、ご飯とジャガイモと野菜のカレー味の炒め物である。
ここでは男は力仕事、女は家事と、大昔の日本もそうだったのだろうが、男と女の仕事が完全に分かれていた。
昼ごはんを食べ終えたら、また農作業かと思いきや、父はご近所さんと井戸端会議。
夫はというと、久しぶりに帰った実家だからして、これまたご近所さんとつもる話があるらしく、こちらも井戸端会議。
二人共どこかへ行ってしまい、一人残された私は、自分のベッドでまた本を読んだり昼寝をしたり。
不思議なのだが、ここにいるといくらでも眠れるのであった。
夕方になると、数キロ離れている所に住んでいる夫の兄がやって来て、死んだ鶏の羽をむしっていた。
「うわっ!もしかして、これは・・・」
そこここを歩いて鶏を見て、
「鶏、殺したの?」
と夫に聞くと
「これはうちの鶏ではありません。他の家から買いました。こういう仕事は男の仕事です。」
動物を殺し、皮や羽をはぐのは男の仕事、その後は女の仕事というわけだ。
日が暮れると離れた畑で農作業をしていた女達が、籠一杯に収穫物を入れ帰宅し、休む間もなく夕食作りである。
夕食はチキンカレー。
どうやら客人である私をもてなす為の特別料理で、羽をむしている時は「いいよ、いいよ、肉なんて食べなくても。」と思ったくせに、調理されると現金なもので、美味しいのだった。
今日はここまでにします。
愛鳥ラニ君(セキセインコ)は元気です。
そしてきっちり2週間おきに産卵防止の注射をしに通院しています。
そのかいあってか、長らくラニ君は卵を産んでいません。
「このヒトは熱中症は大丈夫ですね?」
先生が仰り
「大丈夫だと思います。この子が来てから、我が家はこの子の為に24時間冷房つけっぱなしですから。」
「今年も熱中症のヒトが多いです。病院に来る途中、20分程度暑い車内に置いていた方がいましてね。その間に容態が悪くなってしまいましてね。」
「死んじゃったんですか?」
先生は頷かれた。
「先生、この子、人間の飲む、パックのりんごジュースが大好きなのですが、飲ませてもいいのでしょうか?といっても、既に少し飲ませちゃっているのですが。」
「大丈夫ですよ。このヒトの場合、水分を取った方がいいですからね。でも沢山はダメですよ。」
ラニ君が元気だと、それだけで安心です。
人間もペットも、健康が一番ですね。
我が家でラニ君の為に栽培しているあわ穂を食べるラニ君。
市販のあわ穂よりもお好みのようです。
この時期、必ず食卓にあるのはトウモロコシです。
ラニ君が好きだからです。
ステンレス製の器は夫が作るネパールカレーを入れる為に購入したものですが、
今やラニ君の器になっています。
この写真、ラニ君は可愛いのですが、背景が悪いですね。
わたくし、写真を撮るのが下手なのです。
ラニ君の後ろの汚い足は夫の足です。
| Home |