~山形城、そして義光公と駒姫~
最上義光歴史館 ロビーエリア
この建物は1889年12月1日、山形市が市制を施行してから100年を記念して建てられました。
内容は、16世紀から17世紀にこの地方で活躍した英雄最上義光と、この地方の歴史と文化財を紹介しています。
最上家は14世紀から山形地方の領主であり、義光は最上家の11代目の当主になります。
そして、16世紀後半から17世紀初頭に活躍しました。
そして、その時代は、まさしく沢山の領主が国中に乱立し、お互いに争いあっていた戦国時代から江戸幕府に移行していく時期でした。
Concierge / 最上義光サポータークラブ義光会松本芳雄さん
最上義光は今から約450年前に、ここ山形で活躍した戦国武将です。 『独眼竜政宗(※各国の番組タイトル)』で有名な伊達政宗の母の兄でもあります。 劇中では、悪人として描写されましたが、実際には戦いを好まず、領民思いで、一流の文化人でした。 義光は山形市の都市の原型となっている山形城と城下町の整備や殖産興業の奨励等、現在の山形発展の礎を築いた偉人です。 当館では、最上義光ゆかりの資料や山形の文化財を展示紹介しています。
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CP.No.01 山形城で発掘された品々
山形城の発掘作業で出土したものを展示しています。
山形城は1357年に斯波兼頼が最初に築きました。
それから約250年後に最上義光が巨大な城と城下町に整備しました。
英雄・最上義光の城にふさわしく巨大で華やかな城でした。
しかし、1873年に全国の城は廃城になり、この城もその後、二番目の濠を除いて、埋め立てられました。
現在、発掘作業が進められています。ここに展示している瓦や錆びた鉄釘、陶磁器の破片はその発掘作業で出土したものです。展示されている魚の形をした鯱瓦は火事がおこらないように屋根の両端におかれたものです。 -
CP.No.02 16-17世紀の山形城の城下町地図
約400年前の山形城の城下町の地図です。中央の赤い部分は領主が住んだ場所です。
それを囲むように青色に塗られた三重の帯状の円が水をたたえた濠です。敵の攻撃から領主を守ります。
この三重の濠に囲まれた部分が山形城です。その規模は周囲が約6.5㎞、面積は約2,348,000㎡です。
左上から画面を横切る青色の帯状の線は川です。川も敵からの侵攻に備えるために利用されました。
桃色のマス目は宗教施設です。ただのマス目に文字が書かれいいる場所は領主の家来である侍たちの居住地です。
朱線で仕切られた場所は職人や商人の居住地です。
これが現在の山形市の原型になっています。 -
CP.No.03 駒姫と最上義光の木像
最上義光と彼の二女の駒姫の木像です。樟を彫って色を塗っています。
この建物が建設されるときに制作された作品です。
作者は山形市出身の彫刻家・長橋阿久於(1928-2000)です。
駒姫は処刑される直前の姿を表現し、義光は娘の死出の旅立ちを舞で送る姿を表現しています。 -
CP.No.04 「駒姫」の悲話
駒姫は最上義光の二番目の娘です。東日本で一番の美人といわれていました。
そのうわさを知った中央の権力者・豊臣秀次は、義光に駒姫を側室として嫁がせるように命令します。
義光は何度も断りますが断りきれず、けっきょく駒姫が15歳のときに秀次のもとに嫁がせます。
ところが、嫁いでまもなく中央の権力者たちの間で争いが起こり、秀次は切腹、駒姫は正式に側室にならないうちに秀次の家族として首をはねられて刑死しました。
義光は水ものどを通らないくらい悲しんだということです。
この地方では若くて美しいために亡くなったかわいそうなお姫様として語られます。
駒姫は「美人薄命」だったのです。 -
CP.No.05 駒姫辞世和歌懐紙(複製)
駒姫(1581~1595)は義光の二女です。
東国一美しい女性として語られています。
15歳のときに関白豊臣秀次の側室になり、間もなく秀次失脚によって京都三条河原で斬首されました。
この辞世の和歌は、後に供養を行なった僧がしたためたものです。
表具は当時の打掛の裂を用いたものだと伝えられています。
詳細情報
住所:山形市大手町1-53
電話番号:023-625-7101
開館時間:9:00-17:00(入館は16:30)
入館料:無料
休館日:月曜日(祝祭日の場合は翌平日)、年末年始、その他臨時休館あり
GWは月曜日も休まず開館しています。(4月27日から5月6日まで)
※常時、ボランティアガイドが常駐し、館内のご案内、展示品の説明のサービスを実施しています。