読了
認識の書ではなく 信仰の書です
そして 私は 信仰から 縁遠き 人間であります
私は この書を 信じ切ることが できません
そのような 私でも 何か 深い 治癒力を 感じたのです
- [2013/06/28 00:28]
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限界・転回・歎異抄
しばらくブログを書いていなかった。
書かなかった理由はいろいろ、とても書き切れないほどいろいろだが、
いまこうして書いている直接の理由は、
いま自分のブログを見たら、
トップページに「スポンサーサイト」が表示されるようになっていたからである。
どうやら、一定期間、あまりに書かないでいると、自動でこのブログのトップページに「スポンサーサイト」という広告記事が掲載されるようだ。
いかにも「手入れしてない荒廃サイト」という印象で、
これでは読みに来た人に申し訳ない、
きっと新規にこうして記事を書けば広告は消えるだろう、
という意図である。
そんなに広告がいやなら、公式サイトにブログを移せばよかろう、という方もおられるかもしれない。
公式サイトのサーバーにはお金を払っている限り広告は出ないし、
容量なんぞたかが知れているのだから、
ただ移せばいいじゃないかと。
それが、私には、できない。
私の知識は、初期ホームページ作成の「html」で、殆ど止まってしまった。
このブログのデザインも、ほかのどなたかが無償公開しているデザインをいただき、
それを無理やり「ここをこうすればここに画像が出るのではないか」、
「ここの数値を変えれば文字の色がこう変わるのではないか」と、
試行錯誤して、かろうじて成立しているに過ぎない。
なんでも、本職のプログラマーの方に聞けば、ブログに使う言語はホームページに使う言語より簡便だというのだが、
舟沢には、ここらが限界である。
------------------------
「for Butoh Vol,2」を作って、
自分にはこれ以上のものは殆どできないだろうという思いでいる。
毎回思うと言えば毎回思うのだが、
毎回、一々、渾身。自分の限界をやや超えたものをアルバムにしてきた。
気力・体力的に、自分の限界を超えるのも、ここらで限界なのかもしれない。
そう思って、呆然と日々の雑事をこなしている。
色々なことを、日々勉強して勉強して、ただひたすら勉強して、
それでも追いつかない。
そうこうしているうちに、
近視と乱視と老眼が始まって、
文字を読んだり書いたりするのが困難になってきた。
あとどれだけ分からないことを分かることに変えられて、
あとどれだけできないことをできることに変えられるだろうか。
タイム・リミットの気配を感じる。
最近、小学生の頃耽読した本を取り寄せて再読したりしていた。
当時、読後に殆ど脱魂状態になった児童向けのSF小説や、
取り憑かれたように作ったおもちゃの作り方のハウツー本など。
考えてみれば、子供の頃に感銘を受け、
自分の血肉になるほど深いところまで届いて、
すっかり忘れ去っていたものを、再び思い出して読み直すことで、
無意識裡に「自分の人生をまとめようとしている」のかもしれない。
やはり何らかのタイム・リミットが近い気がしているのだろう。
恐ろしいのは、このタイム・リミットが、たぶん「死」ではないということ。
タイム・リミットを過ぎても、人生は終わらない、ということ。
もはや私は、三島由紀夫よりも年上になってしまった。
自決するに足る“何か”は、自分の場合、ない。
(というか、1曲1曲、一々自決して作ってきたような面もある。
そういう作り方は、そろそろ限界なのかもしれない、というところが、たちが悪い。)
------------------------
「for Butoh Vol,2」を発表にこぎ着けた後、呆然と日々の暮らしに追われていく中で、
とても複雑なシンクロニシティーが起きた。
どのようなシンクロニシティーだったかは、
複雑すぎて記述できないし、
そもそも呆然と日々の暮らしに追われていたので、
あまり、覚えていない。
はっきりと、自分に対して、
「歎異抄」を読ませようとしている力(というか意思)が働いていることを意識した時、
それが、父の命日であった。
(父の座っていた椅子の横には、
今でも、読みかけの歎異抄の解説本が2冊、
しおりが挟まったまま置いてある。)
死者は「往生の日」、すなわち命日をサインとすることがあると聞いたことがある。
「往生」とはすなわち、あの世では「生まれた日」なので、死者にとっても把握しやすい日なのであろう。
どうやら、悩み切れぬ悩みを抱えた私に、
父が「歎異抄」を勧めているらしい。
(私はそのように、このシンクロニシティを解釈し、そう信じることにした。)
「for Butoh Vol,2」をお聴きになった方はお気づきと思うが、
楽曲構成の後半に、大きな転回が起きる。
「否定の果て」ではこの転回は萌芽であり、
「夜明け前双つ」では予感され、
「意志のための下降」や「月化粧」では理念として示された。
その「転回、突然の反転」が、今回、はっきりと顕れた。
作った本人も、出来上がってみて初めてこの転回に気付いた。
自分の意識の限界を、「曲順」が、超えた。
この転回は、おそらく、「歎異抄」的である。
------------------------
ざっと検索してみて、
歎異抄と私は、かなり“縁遠い”印象を受ける。
私はグノーシス的な意識で、いままで生きてきた。
ユングは、グノーシスに理解を示しつつも、
「グノーシスよりキリストの方が優れている」と言ったらしいが、
私は、あまり、キリストを理解していない。(と思う。)
そして、歎異抄は、キリスト的である、らしい。
私は今まで自分のことを、
「グノーシス的な気質とシャマニズム的な体質を持つ人間」と意識し、
神秘学を学び、縁に恵まれて坐禅などもしてきたが、
そういう人間が「歎異抄」に触れるとなると、
人生の根幹から捉えなおさなければならなくなる。
一方で私は自分の人生を無意識裡に「まとめたいし、このまま全うしたい」と思っていて、
もう一方で、今まで全く縁遠かった「歎異抄」的なる世界観が“他力”の側から私に近づいてくる。
さて。この「歎異抄を読め」と言いたげなシンクロニシティー~おそらくは亡き父の意向~にどう向き合うか。
どうしたらいいだろう。
「どうしたらいいだろう」と考えている段階で、すでに「自力」であり、
まだまだ「有無を言わさぬ何か」がやって来てはいない気がする。
しかし、「有無を言わさぬ何か」が来てからでは、もう遅い気もする。
------------------------
夢を見た。
エドゥアール・シュレー著「偉大な秘儀参入者たち」を、
だれかが持ち去ってしまい、困り果ててしまう、
ただそれだけの夢。
目を覚ませば、分厚い「偉大な秘儀参入者たち」は、ちゃんと手元にある。
この本は、「近刊」と宣伝されてから、29年ぐらい経って、
最近やっと刊行された書物である。
自分の人生をまとめるためにも、
老眼が進む前に、そして頭が多少なりともさえてるうちに、
この分厚い本を読んでおきたい、そう願っている。
Amazonで、この「偉大な秘儀参入者たち」と、
「歎異抄」やそれの関連本を、まとめて買ってしまった。
手元に、まとめて、積み上がっている。
同時に読むほど器用ではない。
老眼も進む。
日々の暮らしは凶暴さを増している。
さて、どこから読むのが「正解」なのだろう。
書かなかった理由はいろいろ、とても書き切れないほどいろいろだが、
いまこうして書いている直接の理由は、
いま自分のブログを見たら、
トップページに「スポンサーサイト」が表示されるようになっていたからである。
どうやら、一定期間、あまりに書かないでいると、自動でこのブログのトップページに「スポンサーサイト」という広告記事が掲載されるようだ。
いかにも「手入れしてない荒廃サイト」という印象で、
これでは読みに来た人に申し訳ない、
きっと新規にこうして記事を書けば広告は消えるだろう、
という意図である。
そんなに広告がいやなら、公式サイトにブログを移せばよかろう、という方もおられるかもしれない。
公式サイトのサーバーにはお金を払っている限り広告は出ないし、
容量なんぞたかが知れているのだから、
ただ移せばいいじゃないかと。
それが、私には、できない。
私の知識は、初期ホームページ作成の「html」で、殆ど止まってしまった。
このブログのデザインも、ほかのどなたかが無償公開しているデザインをいただき、
それを無理やり「ここをこうすればここに画像が出るのではないか」、
「ここの数値を変えれば文字の色がこう変わるのではないか」と、
試行錯誤して、かろうじて成立しているに過ぎない。
なんでも、本職のプログラマーの方に聞けば、ブログに使う言語はホームページに使う言語より簡便だというのだが、
舟沢には、ここらが限界である。
------------------------
「for Butoh Vol,2」を作って、
自分にはこれ以上のものは殆どできないだろうという思いでいる。
毎回思うと言えば毎回思うのだが、
毎回、一々、渾身。自分の限界をやや超えたものをアルバムにしてきた。
気力・体力的に、自分の限界を超えるのも、ここらで限界なのかもしれない。
そう思って、呆然と日々の雑事をこなしている。
色々なことを、日々勉強して勉強して、ただひたすら勉強して、
それでも追いつかない。
そうこうしているうちに、
近視と乱視と老眼が始まって、
文字を読んだり書いたりするのが困難になってきた。
あとどれだけ分からないことを分かることに変えられて、
あとどれだけできないことをできることに変えられるだろうか。
タイム・リミットの気配を感じる。
最近、小学生の頃耽読した本を取り寄せて再読したりしていた。
当時、読後に殆ど脱魂状態になった児童向けのSF小説や、
取り憑かれたように作ったおもちゃの作り方のハウツー本など。
考えてみれば、子供の頃に感銘を受け、
自分の血肉になるほど深いところまで届いて、
すっかり忘れ去っていたものを、再び思い出して読み直すことで、
無意識裡に「自分の人生をまとめようとしている」のかもしれない。
やはり何らかのタイム・リミットが近い気がしているのだろう。
恐ろしいのは、このタイム・リミットが、たぶん「死」ではないということ。
タイム・リミットを過ぎても、人生は終わらない、ということ。
もはや私は、三島由紀夫よりも年上になってしまった。
自決するに足る“何か”は、自分の場合、ない。
(というか、1曲1曲、一々自決して作ってきたような面もある。
そういう作り方は、そろそろ限界なのかもしれない、というところが、たちが悪い。)
------------------------
「for Butoh Vol,2」を発表にこぎ着けた後、呆然と日々の暮らしに追われていく中で、
とても複雑なシンクロニシティーが起きた。
どのようなシンクロニシティーだったかは、
複雑すぎて記述できないし、
そもそも呆然と日々の暮らしに追われていたので、
あまり、覚えていない。
はっきりと、自分に対して、
「歎異抄」を読ませようとしている力(というか意思)が働いていることを意識した時、
それが、父の命日であった。
(父の座っていた椅子の横には、
今でも、読みかけの歎異抄の解説本が2冊、
しおりが挟まったまま置いてある。)
死者は「往生の日」、すなわち命日をサインとすることがあると聞いたことがある。
「往生」とはすなわち、あの世では「生まれた日」なので、死者にとっても把握しやすい日なのであろう。
どうやら、悩み切れぬ悩みを抱えた私に、
父が「歎異抄」を勧めているらしい。
(私はそのように、このシンクロニシティを解釈し、そう信じることにした。)
「for Butoh Vol,2」をお聴きになった方はお気づきと思うが、
楽曲構成の後半に、大きな転回が起きる。
「否定の果て」ではこの転回は萌芽であり、
「夜明け前双つ」では予感され、
「意志のための下降」や「月化粧」では理念として示された。
その「転回、突然の反転」が、今回、はっきりと顕れた。
作った本人も、出来上がってみて初めてこの転回に気付いた。
自分の意識の限界を、「曲順」が、超えた。
この転回は、おそらく、「歎異抄」的である。
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ざっと検索してみて、
歎異抄と私は、かなり“縁遠い”印象を受ける。
私はグノーシス的な意識で、いままで生きてきた。
ユングは、グノーシスに理解を示しつつも、
「グノーシスよりキリストの方が優れている」と言ったらしいが、
私は、あまり、キリストを理解していない。(と思う。)
そして、歎異抄は、キリスト的である、らしい。
私は今まで自分のことを、
「グノーシス的な気質とシャマニズム的な体質を持つ人間」と意識し、
神秘学を学び、縁に恵まれて坐禅などもしてきたが、
そういう人間が「歎異抄」に触れるとなると、
人生の根幹から捉えなおさなければならなくなる。
一方で私は自分の人生を無意識裡に「まとめたいし、このまま全うしたい」と思っていて、
もう一方で、今まで全く縁遠かった「歎異抄」的なる世界観が“他力”の側から私に近づいてくる。
さて。この「歎異抄を読め」と言いたげなシンクロニシティー~おそらくは亡き父の意向~にどう向き合うか。
どうしたらいいだろう。
「どうしたらいいだろう」と考えている段階で、すでに「自力」であり、
まだまだ「有無を言わさぬ何か」がやって来てはいない気がする。
しかし、「有無を言わさぬ何か」が来てからでは、もう遅い気もする。
------------------------
夢を見た。
エドゥアール・シュレー著「偉大な秘儀参入者たち」を、
だれかが持ち去ってしまい、困り果ててしまう、
ただそれだけの夢。
目を覚ませば、分厚い「偉大な秘儀参入者たち」は、ちゃんと手元にある。
この本は、「近刊」と宣伝されてから、29年ぐらい経って、
最近やっと刊行された書物である。
自分の人生をまとめるためにも、
老眼が進む前に、そして頭が多少なりともさえてるうちに、
この分厚い本を読んでおきたい、そう願っている。
Amazonで、この「偉大な秘儀参入者たち」と、
「歎異抄」やそれの関連本を、まとめて買ってしまった。
手元に、まとめて、積み上がっている。
同時に読むほど器用ではない。
老眼も進む。
日々の暮らしは凶暴さを増している。
さて、どこから読むのが「正解」なのだろう。
- [2013/06/17 19:22]
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