舟沢虫雄 別室 2008年05月

変化と理解 

あちこちに書いてきたことと重複するが、
私は、だいたい1990年代半ばごろ以降、
音楽はほぼ変化していないと思っている。
ただ、音楽に対する知覚は一部変わってきている。
私も、私以外の人々も。

たとえば、日本で初めてビートルズがラジオで紹介されたとき、
ラジオ局に抗議の電話が殺到したのだそうだ。
「ラジオが壊れた!」 と。
多くの人々がビートルズを音楽だと思わず、
放送事故とそれに伴うラジオ破損による聞くに堪えないノイズだと思ったわけだ。
私にはもはや、その“耳”を思い浮かべることはできない。

かつて、ミヒャエル・エンデ氏は「我々はもはやゴッホの絵がへたくそに見えた人々の意識状態を思い浮かべることはできない」と言っていたと思う。作品が変わるのではない。私達が変わるのだ。

私自身、「これほどのアルバムに新しいも古いもないだろう。不朽の名作とはこのことだ。」と思っていたアルバムを、20年ぶりくらいに聴いてみると、ひどく精彩を欠いた古臭い音楽に聴こえてしまって、途方にくれることがある。いつのまにか、理想は凡庸に変わっている。いや、私の耳が変わってしまっている。若い頃に夢中で聞いた音楽が色あせる。これは結構つらい。

しかし、変わらない部分もある。
変わらないこともまた、問題である。

自覚できる無変化と、自覚できない無変化がある。
最近、その双方が混在するCDを買った。
久しぶりに、ヒット曲に対して「ああ、いい曲だ。これ欲しい」と思ってアルバムを購入した。ミリオン行ったらしい。
テレビで聴いていたときは気付かなかったが、CDで聴いてみると、凄まじい音圧である
90年代の末期頃から、CDの音質は落ち始めた。理由は様々あるが、盤質などではなく制作者側の意向によって落ちていった理由があって、それは、「みんな音圧を競争し始めた」ことである。
ミュージシャンの諸氏の多くは「ああ、あれね」とお思いになるだろうが、ある機材の出現をきっかけとして、本来の音をゆがめてでも、より大きく聴こえる音、より大きく聴こえる音、という競争がはじまったのだ。大きく聴こえればそれだけラジオで目立つし、パッと聴いた感じ迫力があるからである。
これは「音量戦争」「音圧戦争」などと呼ばれ、レコーディングの雑誌でもしばしば「こんな不毛な戦争はやめるべきだ」というエンジニアさんの言葉が載ったり、あるいは「いかにしてうるさくなく、暴力的じゃなく音圧を上げるか」が特集されていた。つまり、大多数の音楽に関わる人々は競争に埋もれないために嫌々ながら、あるいは暴力になる寸前まで迫力を出すために注意深く、「音圧上げ」という作業を行ってきた。
ところが先日買った久々にいい曲だと思ったヒットCD、買って聴いてみれば、「こんなのはじめて聴いた」というほど凄まじい音圧である。ためしにSPDIFを使ってDATのメーターを振らしてみたが、ブレイクなどの突発的な静寂を除けば、音楽的なダイナミックレンジは4dBくらい(!)である。
いくらなんでもこんなひどいことプロのエンジニアがするはずがない、と思ってクレジットを見たら、作曲家ご自身が「音圧上げ」をしてらっしゃるようだ。ネットを徘徊したら、その作曲家の方の「音圧好き」は有名なようで、「曲はいいのにあの音圧で聴き終わるとヘトヘトになる」みたいなことを書いてらっしゃる方のブログも見つけた。
ちなみに、ロック/ジャズ/フュージョンなどの名盤で、帯に「リマスター」と書かれているもののかなりは、この「音圧上げ」を行ったものである。今でも1800円くらいで普通に売ってるのに、90年代前半の同じCDが数万円で取引されているのを見かけることがあるが、おそらく今売っているものは、「音圧上げ」で音がゆがめられてしまっているのだろう。私も買って「やられた!」と思うことがある。
長くなったが、これが「自覚できる変われないところ」。
私は音圧を愛せない
…最初は「そのうちこんな競争終わる」と思っていたのだが、圧縮ファイルを電車や自動車の中で聴くのが一般化した現在、もはや「元音をゆがめてまで音圧を上げた音」が標準化してしまったと考えざるを得ないのかもしれない…

私は純粋に、そのアルバムの曲を「いい曲だ」と思って買ったし、
ステレオイメージが崩れる寸前まで音量を下げ、音圧を弱めることで、「いい曲」であることを味わってもいる。
私は、新しいも古いもなく、ただ「いい曲だ」と思ったのだ。
しかし、大ヒットとなったことで、TVで頻繁に紹介やインタビューを見るようになり、
歌ってる若い歌手達にとっては当初「泣くほど変な曲」だったこと、
ヒットのきっかけは別の若い人気歌手の方が「若いのにあまりにもオジサン臭い曲を歌わされてるのがおかしくて」ラジオで面白がってかけてたことだということ、
私よりもずーっと上の世代の方が聴いても「随分古くさい曲だねぇ」と言うこと、
つまり、単純に「いい曲だ」と思う人間が非常に限られた世代に集中していることを知る。
理由が皆目判らない。
これが「自覚できない変われないところ」。

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最近、「変わる」という意識が、変わりつつある。
数年前までは、職業柄、歯を食いしばって嫌いな曲を聴くような訓練をしばしば励行していたのだが、どういうわけか、最近“諦念”のようなものが芽生え始めた。
「ああ、結局○○というジャンルの音楽は理解できなかったなぁ」
「ああ、とうとう○○と呼ばれる音楽は好きになれなかったなぁ」、と。
それと相前後して、今まで分からなかった音楽が分かる(好きになる)ということがしばしば起こり始めた。
まずJ・ケージを知的な音楽としてではなく、ちゃんと心で聴けるようになった。(これは以前このブログに書きました。)
次にM・フェルドマン。私の音楽を好いてくださる方はしばしばM・フェルドマンの音楽もお好きなので、理解できないことをどことなく申し訳なく思っていたのだが、「フォー・バニタ・マーカス」という曲を聴いていて、途中に出てくる長7度を積んだ和音に耳をとめたのをきっかけに、この人の音楽と心が繋がり始めている。(同時に、なぜ私の音楽を好いて下さる方にしばしばこの作曲家をお好きな方がいらっしゃるのかも、薄々気付き始めている。この人、ケージ氏とたいそう仲が良かったそうだが、私の感じ方が合ってれば、この人とケージ氏とでは、音楽でやろうとしたことが正反対である。)
そして、G・グールド。録音芸術を志しているのに、グールドを好きになれない、というので、若い頃は随分(主にクラシック系の皆様に)怒られたり嘲笑されたりしたものだが、最近NHKでやってるグールド特集は非常に分かりやすく、おかげで私は猛スピードでグールドを理解し始めている。
ある一点を除いて。
録音技術の世界で、それは「カクテルパーティ効果」と呼ばれる。
人間はカクテルパーティの中にいても、誰と誰が何を話しているか聞き分けることができる。
しかしそれを録音した途端、それは「ざわめき」になってしまい、会話を聞き分けることは不可能になってしまう。いわば、全ての音の意味が強制的に等価になってしまうのだ。
TVではグールド氏ご本人がテープ編集をエンジニア氏に指示していた。つまり、あれらは録音芸術として、グールド氏の責任の下で作られたものである。「録音物は何が起きたのかを正確に記録しておくもの」と仰るK・ジャレット氏とは全く違う姿勢と言っていい。
私が判らない一点。
グールド氏は、なぜピアノの前で歌うのをやめなかったのだろうか。
なぜ自分の作品に“声”などというノイズを自分で入れたのか。なぜ自分で自分の作品に泥を塗るようなことをしたのか。
昔、このことをクラシックのピアニストの方に伺ったら「そんなの音楽と関係ないでしょー!」とハエのように叩き潰されてしまったので、以来、緘黙して生きてきた。

いま一度、誰かに問うてみようか。
それとも、私には生涯解らぬことなのだろうか。

歪んでも 


ゆがんでも 花

The Iki (DARK ROOMもまだ) 

以前お伝えしましたが、
Marco Lucchi という方から「なんか粋なものくれ」と言われ、
以前フリー公開していた「天使のはやにえの為のファンファーレ」をリマスターしてお渡しして、
「Iki Project だっていうけど要するに何なんだろう??」
と思っていたのですが、
オンラインレーベルで発表されました。

Radure 4 - The Iki

ドネーション(募金)制っぽいです。(きっと払って頂いても私まで届かない気が)
試聴oggファイルを聴いてみた限り、当方のページのmp3の方が音がいいようです(oggファイルに変換する際にでしょうか‥ノイズが入ってしまっています)
…なんかいろんな意味で文化差を思い知らされたというか、
有り難いようなやられちまったような、妙な感じではありますが、
とりあえず元々フリーだったものが知らぬ間に知らない方々と入り混じりつつ拡がって行く、というのは初めての経験ですので、
ここにお知らせしておきます。

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あと、先日お伝えしたロサンゼルスの「THE DARK ROOM」というFM番組で、結構定期的に流してくれてるっぽいです。放送後7日間はアーカイヴで聴けます。

老いゆく町の 


窓の 奥

海外ラジオとアーカイヴ 

ロサンゼルスのKPFK90.7FMというラジオ局で、
5/4、カリフォルニア時間の午前2~4時に、
「THE DARK ROOM」という番組があって、
舟沢の曲をいくつかかけるのだそうです。
番組は終了した後、ホームページにて、
7日間Realaudio形式で配信されるようです。
このページの配信番組リストに、やがて
「THE DARK ROOM May,4」
という感じでアップロードされることでしょう。
追記/補足を読む

新しい種族 

過日、とある現代音楽のコンサートを聴きに行ってとても驚いたことがあります。
お客さんの8割が50代後半~60代前半の女性だったのです。
なぜそういう偏りが生じたのか、今も解りません。
50代後半~60代前半の女性に特別人気があるような作曲家とも演奏家とも会場とも思えませんでしたし、皆さん身奇麗な方々なのですがイヤミな感じは全くない、つまり成金ではなく元々経済的に余裕のある方々、とお見受けしたのですが、可処分所得と可処分時間の余った富裕層のためのコンサート、という感じの企画でもなかったのです。(むしろ、気難しくて身なりのよくない男性と、音大生ばかりがお客さんだろうと思っていました。)

今世紀初頭、村上龍氏が「新・階級社会が目前に来ている」と言い、
ほどなくして「格差社会」と呼ばれる状態が顕われましたが、
収入や、それに伴う“育ち”だけで、あのコンサートのお客さんの偏りは説明しきれないように思ったのです。

もしかしたら、「文化のシャッフル」は終わりつつあるのかもしれません。

今、人々は不思議な壁に分断され、まだ未分類の種族に分けられ、当人たちも気づかぬまま“その種族”として行動しているのではないか。いま日本では様々な「種族」が新たに生まれ、まだ自分たちがその種族だと知らぬまま、その種族の行動様式に沿った生活をしている。そういうことではないでしょうか。
若者から新しい種族が生まれるのではなく、社会全体の老若男女全員が新たに種族分けされているように思うのです。

一体、なにが起きているのですか。