火山性ウィルスを伝播させる人 〜「火山二代」 “三松三朗”の生き方 | 観光・体験 | Rietty | 北海道洞爺湖周辺の情報共有サイト「むしゃなび」

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火山性ウィルスを伝播させる人 〜「火山二代」 “三松三朗”の生き方


三松三朗氏と筆者の出会い

今回の主人公は三松三朗氏。
時にこんなお茶目なこともしてくれる。
筆者が最も尊敬する人の一人である。
筆者はこの方に何度泣かされたか分からない。
この方と話しをしていると、心の深部の大切な潜在意識にダイレクトに染み渡るような言葉をいただいてしまう。
それを察知した脳は、場所を構わず溢れる涙を我慢させない。
そんな自分にいつも慌ててふためいてしまうのだ。

筆者はこの方に泣かされたお陰で洞爺湖有珠火山マイスターを目指した。
いわゆる『火山性ウィルス』が心に侵入してきた瞬間だった。
ある先輩に言わせると、「三朗さん由来の感染は『純正品』」だそうだ。
『火山性ウィルス』とは、火山そのものはもちろん、火山に関わるものを見ただけで心が震え、幸せになってしまうという超強力なものだ。
それゆえ感染力も強い。
コロナウィルスも到底太刀打ちできない代物だ。

あ!!
ちょっと待って!!
「この人、頭変?」と引いていかないで!
もう本題に入るので、是非このまま読み進めてください…。

三朗という人を知りたい

筆者は以前から、こんな強力な火山性ウィルスを撒き散らす三松三朗氏について。
三松正夫記念館の館長としてではなく。
三松正夫氏の語り部としてでもなく。
三松三朗氏自身にとても興味を持っていた。

なぜ、血の繋がりのない三松正夫氏の半生を、こんなにも愛を持って伝え繋げようとするのか?
なぜ、こんなにも一生懸命に昭和新山を守り続けるのか?
この方をそれらの行動に突き動かすものは一体何か?
どうしても知りたかったのだ。


三朗氏のファンは地元だけでなく全国に多くいる。 だから、正直この記事を書くのはかなりのプレッシャーだ。


三松三朗氏の生い立ち

三朗氏は、1937年 大阪府吹田市に、飯田家三男『三朗』として生まれた。
末っ子は女の子だったが病に命を亡くしてしまった。


100日の時の写真。抱いているのは母 榮枝氏、両脇は兄たち。

第二次世界大戦末期、司法官である父親の仕事の関係で引っ越しが多かったこともあり、三人の子どもたちはそれぞれ親戚に預けられることになった。

その時、三朗氏は山口県に疎開。
あの忌まわしい広島の原爆を身近で体験することとなった。


1945年8月6日 アメリカ軍により原子爆弾が広島市に投下された。


疎開先山口から京都へ向かう途中、広島駅で列車待ちの際に目撃した光景は、のちに起こる阪神淡路・東日本大震災への想いに繋がっていった。
もしかしたらこの時の体験は三朗氏を減災活動へ向かわせる伏線だったのかもしれない。


一方その頃、昭和新山は北の大地で人知れず成長を続けていた。


三松正夫氏が描いた絵


引っ越しが多かったため幼馴染がいない三朗氏は本に没頭、のちには自然に没頭、そして山に居るとホッとするという内向的な青年に育っていった。
そんな三朗氏に登山の楽しさを教えてくれたのは、両親不在時面倒を見てくれた親戚の従兄や父だった。

「叔父に連れられて北アルプスなど様々な山を登りましたが、思えば父も山好きでした。」

父 昭氏のこと

三朗氏の父 昭氏は敬虔なクリスチャンであり、当時、少年審判所の判事をしていた。
自分には非常に厳しく、規範を重んじる清廉潔白な人間であった。

終戦後、戦争孤児が増える中、次第に少年たちの非行が増加していった。
そんな世情の中、どんな時も「世のため人のため」の強い信念を持って生きていた父は、犯罪に手を染めていく戦争孤児たちに心を傷め、「戦争責任世代の自分には戦争の犠牲者である子どもたちを裁く資格が無い。」と、ついには裁判官を辞職、奈良県の山奥に勤労学校を作り、戦争孤児たちを物心共に支え自立への手伝いをする活動を始めた。

「それは、父にとっては当然の行為だったのだと思います。」

こんなエピソードがある。

「ある日、母がなけなしのお金で材料を用意してクッキーを作ったのです。勤労学校の子どもたちに差し入れるためです。父に会える!と私もいそいそ付いて行ったのですが、なんと門前で追い返されてしまいました。親のいない子どもたちに余計に辛い思いをさせるだけだ!という父の考えからでした。」

「自分の子どもには厳しくし、他人の子どもに愛を注ぐ。そんな父の姿を不満に感じたこともあったんじゃないかな。」

当然のことだと思う。
立場上とは言え、飯田親子共々さぞや辛かったろうと、聞いていても悲しくなってしまう。

とはいえ親子の関係が厳しい時代、決して逆らうことはできなかったのだろう。
しかし、三朗氏の原型を作っていったのは、間違いなく厳しくとも愛溢れる、両親の生きる姿勢によるものだと感じた。


昭和6年 両親の結婚式


さて、いつの世も金の亡者はいるものである。
勤労学校が「金になる」と目をつけた私利私欲の塊のような団体が次々と現れ類似事業を始めたことで、ついには勤労学校が規制の対象となり廃止に追い込まれてしまった。
無念にも閉校させられた父 昭氏は、やむなく裁判官の職に戻ることとなった。

ところで、三朗氏は飯田昭氏の三男として誕生したのだが、実は昭氏の元の姓は「飯田」ではなく「都通」であった。
跡継ぎに恵まれなかった親戚の切望により、昭氏6歳の時に兄弟と引き離され「飯田」姓に変わったのだ。

「父はそのことについては、生涯悩んだことと思います。」

三朗氏 昭和新山と三松正夫氏、そして泰子氏との出会いへの軌跡

さて、途中疎開は経験したが、3歳から高校卒業までを京都府山科で過ごした三朗氏は、獣医師を目指して帯広畜産大学に入学した。
ところが、北海道で三朗氏を待っていたのは動物たちではなく、火山と火山を愛した三松正夫氏だった。

三朗氏と火山との出会いは、高校時代の雲仙・阿蘇への修学旅行だった。
昭和新山が誕生を開始したのは小学校1年生の時。
第二次世界大戦中であったので報道規制も入り、昭和新山の存在すら知らされない時代であった。


【ここで少しだけ昭和新山と三松正夫氏の関係について】

さて、昭和新山について簡単に書きたいと思う。


昭和新山は有珠火山の一部。 筆者はここから眺める親子の姿が一番好きだ。


赤い色は天然レンガの色である。 地中の粘土がマグマの熱で焼かれ、溶岩に張り付いた状態で上がってきた。


赤い溶岩ドーム部分は特別天然記念物でありながら三松三朗氏所有(初代は三松正夫氏所有であったが、昭和新山の行く末見届けたいと三朗氏に生前贈与)である。
昭和新山は、第二次世界大戦中の1943年12月の前兆地震に始まり、1945年9月まで1年9ヶ月もの時間をかけて一つの村がまるごと山となったものである。

新山の誕生すら無きものとなっていた大戦時代、自らの命も顧みず新山誕生の記録を残したのち、全財産をはたいてその新山を買ってしまったのが、当時の壮瞥郵便局長三松正夫氏であった。
購入の理由は、世界的にも貴重な火山の保護、そして家や畑を失い途方に暮れていた噴火前に住んでいた人々の生活を守るためであった。

「現代社会の常識からしたら考えられないことですよね。」と三朗氏。

つまりは『私利私欲ではない』『世のため人のため』の精神である。
この精神こそが、のちに三朗氏と正夫氏を繋ぐKEYとなる。
それはまさに、父 昭氏にもみていた生きる姿勢と重なっていた。


正夫氏の銅像は、昭和新山園地と記念館にあるが、実際に観測をしたのは園地から見た昭和新山の裏側にある滝之町からである。


正夫氏がなぜ新山の誕生を記録したのか?
研究者でもない一般人の郵便局長がなぜそんなことをしたのか?

一言で言うならば、「滅多に出会えない地球の営みの瞬間に出会った者は、後世に伝える責務を持つ。」と考えたからだ。
そして、その考え方を正夫氏に教えたのは有珠山1910年噴火の調査に来山された東大の大森房吉教授であった。
実は正夫氏は、大森教授の調査に同行し山を案内して歩いた経験を持っていたのであった。


さて、話しを三朗氏・三松正夫氏・昭和新山の出会いに戻す。

ついに三朗氏は、昭和新山と三松正夫氏を知る事になる。
それは、戦後報道解禁となり出版された「少年倶楽部」の誌面上であった。

「戦時中に火山の成長記録をとるとは!! なんという命知らずな人だろう!と驚きました。そしてそれを次世代に伝えたい一心で行動を起こしたという変なオジサンへの興味が俄然湧きました。」


それ以来、「いつか昭和新山を見たい!」「いつか三松正夫に会いたい!」という強い想いを持つようになっていった。


ところで、三朗氏は獣医師を目指していた。


右下は馬術部で活躍していた頃、他は、馬術部退部ののち山岳部で活動していた頃

「兄は二人とも同志社大学へ進学しました。三番目の私としては親に負担はかけられないから国立を狙うしかなかった。でも、数学が苦手でして…。数学が受験科目にない大学・学部を探したら帯広畜産大学が目に止まりました。ちょうど『どう生きるか?』と考えていた時だったので、『獣医師になって、牧場主にもなって、畑も耕して自分の人生を生きよう!』と安易に考え、ここしかないと思いました。幸い合格し、入学後は馬術部に入り頭角を表したりもしました。けれども経済的事情で退部。代わりに山岳部に入部しました。そして結局、自分の居場所は『山しかない』と再認識したわけです。けれども後に、諸々の事情で獣医師の道を捨て、一般企業に就職しました。ただ登山だけは続けていました。山は本当に好きだった。結婚したのは大学を卒業して2年目のことでした。」

ご結婚相手の名は三松泰子氏。


昭和新山の誕生を記録し、その所有者となった三松正夫氏のお孫さんである。
ふたりの出会いは、三朗氏が大学在学中のことだった。

少年倶楽部を読んで以来、昭和新山と三松正夫氏への興味が抑えられなかった三朗氏は、京都へ帰省する行き帰り、一年に3~4回は壮瞥町に立ち寄るようになった。


「初めて訪れた時、正夫はありったけの資料で昭和新山を語り、自然に対する「義」を語っていました。衝撃的だったのは昭和新山が活動開始をする前のまさにその場所を描いた絵でした。自然に対し常に真摯に向かい合っていた正夫は、次に噴火するのはここではないか?と考えて絵を描いていたのです。正夫は元々画家志望でしたので画才はありましたが、絵の上手さ以上に次の噴火を予測するような絵を描いていたことに大変驚きました。と同時に、そこにも父の生き様と重なるものを見ました。それは「義」を重んじる精神です。」


額縁に入っているのがその時の絵。1943年12月の前兆地震前に描いたものだ。

さらに言葉は続いた。


「戦争末期、世の中全てが軍にひれ伏した時代、正夫が行なった調査・研究は言うなれば非国民行為。けれども、正夫としては『噴火に出会えたチャンスに感謝』して、命懸けで新山の妊娠(前兆地震)から出産(誕生)までの記録をとりました。正夫がいなければ昭和新山の生成記録は残らなかったわけです。戦争中だったので国の調査は一切なかったのですから。なんと偉大な人だろうと思いました。」

実は、正夫氏は息子たちを戦争と病気で亡くしていた。
だから、たった一人残された孫娘泰子氏の親代わりとなって大切に育てていた。
当然、正夫氏は自分が亡き後の孫のことを案じていた。


「誰か良い人が現れて、泰子も山も守ってくれないだろうか…。」


口には出さずとも、その想いは帯広畜産大学の恩師の計らいで泰子氏と引き会わされた三朗氏にも伝わっていただろう。
そして二人がいよいよ結婚となった時、三朗氏の父 昭氏から思いもかけない言葉が飛び出した。


「三朗は三松家に差し上げます。」


当の本人に理る事なく、その言葉は突然切り出された。


「父は、決して口にはしない正夫の胸中を察し『三松姓』を絶やしてはいけないと正夫に提言したのです。正夫はあまりの突然な言葉に驚きながらも、感極まり涙を流していました。」


同時にこのことは、『三松姓を受け継ぎ、泰子と昭和新山と正夫の精神を守って受け継ぐ』という決心を三朗氏にさせることになった。

けれども一方、三朗氏はとある講演会で「父「都通 昭」は6歳の時、事情も分からぬまま「飯田 昭」となり終生兄弟と切り離された事に疑問を持っていた。その父がなぜ?」と当時の複雑な心中を漏らしている。
全てを守る決心をしながらも、驚きと疑問と嬉しさが複雑に絡み合った心持ちだったのであろう。


ここまで話しを伺ってきて、三朗氏・昭氏・正夫氏の生きる姿勢の共通項に気づいた。
『自然に対する畏怖の念』
『世のため人のための精神』
『“義”を重んじる精神』
三人を繋いだのは、この生き様だったのではないだろうか?
さらにこれは、筆者の憶測に過ぎないが、三朗氏は父に正夫氏を、正夫氏に父を見ていたのではないだろうか?と思ってしまう。

地球という星

さて、ここで少し話題を変える。
地球を形作ったものにはマグマの存在も大きく関わっている。

46億年前から始まった惑星同士のぶつかり合い。
温室効果ガスの作用もあり地球の温度は1000℃以上となり、地表はマグマオーシャンというマグマの海に覆われた。
地表がマグマの海になるとは想像を絶する状況だ。

けれども、地球は人間の叡智を超えて営みを続ける。
人間が地球の真ん中にいると考えるのは傲った考えなのだと、三朗氏と話していると気付かされる。


「地球は営み続けています。営み続ける星に住むのは危ういけれど、たくさんの恵みも与えていただきながら、人間を含む生き物たちは住まわせていただいているのです。もちろん災害(これも人間目線の表現)だってある。だからと言って、月には住めません。気候だって色々あろうとも生き物がくらすのにちょうど良くできている。酸素も水もあるのは地球しかないのだし。ならば地球と仲良くなって正しく知ることが大事だと思っています。決しておごってはいけない。」
この話しは、『減災』という考え方の原点だと共感する。


そして、地球の表面温度が冷えてきた約19億年前、火山活動が盛んになってきた。
生物が進化している間に地表近くに浮き上がった岩盤でできたプレートは動き続け、地球上の大陸を大きく変化させていった。
地球のベースが誕生したのちは、火山活動とプレートの動きで私たちが住む日本列島も誕生した。

われわれが住まわせていただいている地球。
三松三朗氏は、その地球の主役を火山に見ているというわけだ。
もちろん、火山性ウィルスを撒き散らしている三朗氏のこと、有珠火山だけをみていたわけではない。


「『防妻対策』として大好きだったタバコを止めて、海外火山ツアー遠征費用を捻出しました。訪れた海外の火山は21座、国内の火山は64座になりました。いまではすっかり体力が衰えてしまい、もう最後の登山だな…と思ったのは、NHK『ブラタモリ』の番組中にタモリさんをご案内しながら登った昭和新山の中腹第4火口まででした。」


最後に〜
「三朗さんが、いま、そしてこれから一番やりたいことは何ですか?」と尋ねてみた。
すると間髪入れず、きっぱりとした答えが返ってきた。


「やはり正夫の心を伝え続けたい。血のつながりのない赤の他人の自分だからこそできることだと思っていますから。正夫が死んで、形ある昭和新山もその資料も残りました。けれども正夫の考え方は灰にもならずに消えてしまう。普通ならば生を優先するはずの時代、未来を生きる者たちに向けて命をかけて記録を残し、山を買い取った正夫の偉大さは、自分が噴火を体験して改めて思い知りました。私自身、この地での噴火体験はまだ2回。けれども、昭和新山はしっかりと受け継いだので心の中では3回経験をしていると思っています。だからこそ、正夫の心を代行して話せるのは自分しかいないと思っています。人間は決して自然をコントロールできない。だから『防災』という言葉は正直好きではありません。災害の裏側にある恵みにきちんと感謝して、人間の方が身を引くことの大切さを伝えていきたいと思っています。今までもこれからも、それを伝え続けたい。我が人生に悔いなしです。」


三朗氏はこれからも、『正夫氏の墓』としての昭和新山を守り、地域の人を見守り、六十年前に終のすみかに選んだ壮瞥町で、有珠火山の見張り番として今日も三松正夫記念館に居る。


「本当は、私が死んだら昭和新山で鳥葬にして欲しいんだよね〜。」


冒頭に
筆者は以前から、こんな強力な火山性ウィルスを撒き散らす三松三朗氏について。
三松正夫記念館の館長としてではなく。
三松正夫の語り部としてではなく。
と書いた。

けれどもこのくだりに期待した言葉は三朗氏には存在しなかった。
正夫氏の心とその象徴である昭和新山と、残された資料を所蔵する三松正夫記念館そして泰子氏。
それら全てが『火山二代』三松三朗氏そのものであると心から納得した。


今回の取材の一番の理由は、正直、筆者自身の納得のためであったのかもしれない。
が、まだまだ全くの言葉足らずである。
今後は取材を抜きにして、記念館に足繁く通うことにする。

地球と火山、三松三朗氏と故三松正夫氏に敬愛をこめて〜 

皆様、是非、三朗さんに会いに行って『火山性ウィルス』を受け取ってください。


■三松正夫記念館(昭和新山資料館)

【住所】有珠郡壮瞥町字昭和新山184-12
【電話番号(問い合わせ)】0142-75-2365
【営業時間】8時~17時
【定休日】冬期不定休
【入館料】大人300円、子ども250円

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コメント

  1. 足揉み

    足揉み

    返信

    おはようございます。記事を読んで胸が熱くなりました。
    母は昭和14年生まれで正夫さんと面識があり,そのこと自慢のようにしています。
    私は1977年の噴火のとき小学5年生で梅本町に住んでおり,噴火の雲が太陽を覆い隠し真っ暗になり,そのモクモクとした雲の中を昼なのにはっきり見える稲光がしていたのを覚えています。
    大切な有珠山,昭和新山の歴史,伝えていって欲しいです。

    1. Rietty

      Rietty

      返信

      足揉み様!
      今頃コメントに気づきました。
      誠に申し訳ございません。

      改めまして、コメントをいただきましてどうもありがとうございます。
      お読みいただき感謝いたします。
      お母様、正夫さんとご面識がおありでしたか!
      なんとも羨ましい限りです。
      1977年噴火の体験談もありがとうございます。
      正夫さんは、まさに人生3度目となったこの噴火を体験し亡くなられました。
      地球を愛し、火山を愛した正夫さんらしい生涯だったのではないかと思っています。

      大切な有珠山・昭和新山。
      ともに守り、語り継いでいきましょう。

      ありがとうございます♡

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