バッグ泥棒が美人であったと書いた。けれど彼女について、前回までに書かなかったことがある。それは彼女がヒスパニック系だったということ。私から見た外見的特徴を表す言葉として、「美しい泥棒」と書いても、「ヒスパニック系と思われる泥棒」とは書かない。少なくとも、なんの注釈もなく、「美しい」という形容詞の横に並べて、さりげなく文中に滑り込ませることが出来ない。なぜか。
当時わりと時間があって、たまに近所の大学の講義にもぐりこんでいたのだけれど、その1つに犯罪学の授業があった。常識を疑え、というスタンスが面白く、中でも、人種と犯罪とを結びつける世論(あるいは「研究」!)に対する批判が、印象に残っている。例えばアメリカには、「アフリカンアメリカン(いわゆる黒人)には犯罪者が多い」という考えが、今なお根強く残っている。ヒスパニック系に対する偏見も強い。けれど実際の犯罪を統計的に見れば、白人男性によるものが圧倒的に多い。そしてそれは、全人口に占める人種の比率と大差がない。ではなぜ世間にそのような偏見があるのか、という肝心な詳細を、もう十年も前のことで既に忘れてしまったのは、ちょっと情けない。確か、マスコミの報道も一因としてあげていたと思う。白人が被害を受けたマイノリティーによる犯罪と、その逆とでは、報道のされ方が違う、というような。ともかく、多民族社会における共生、ということを、日本の文脈で考えたことのなかった私に、この授業は刺激的だった。アメリカ社会の抱える問題の一側面を見たように思った。
ところが、アメリカからの帰国後(だからそれも、かなり前のこと)、私は、まさに自分の家から数十メートルのところで、その同じ問題が、目を疑うような形に凝縮された、一枚のポスターを見つけた。
「犯罪を許さない、私たちは見ているぞ」という警告の言葉。その下には、同様の警告文が、中国語、韓国語で書かれている。いかにも犯罪者という人相の悪い男を、善良そうな日本人市民がスクラムを組んで監視する絵、そして「外国人によるものと思われる犯罪が増えています」との説明・・・。
なんなの、これ?
私がアメリカの、あるいはドイツの町を歩いていたとする。一枚のポスターを見つける。善良そうな白人市民がスクラムを組む絵、そして日本語で「私たちは見ているぞ!」との警告文が書いてある。そんなことを想像するまでもなく、ポスターに対する嫌悪感で、私は気分が悪くなった。
外国人犯罪は増えているか。さる知事は「三国人」などという恥知らずなことを平気な顔をして言うし、新聞テレビは、善良な市民の不安をあおるような報道を繰り返す。けれども、本当に、外国人犯罪は増えているのか。
アムネスティーや、外国人に対する偏見をなくす活動を続ける団体や、それから多くの研究者も、統計や調査をもとに「否」と言っている。ここにあげるときりがないので、アムネスティーの
「多文化共生キャンペーン」のページだけをとりあえず紹介しておく。
以上が、「ヒスパニック系の」という言葉は軽々しく使えないな、と私が思った理由。ある特定の人種だとか外国人だとかが犯罪と結びつけられ、「だから○○は」などという根拠のない偏見を助長するような可能性がほんの少しでもあるならば、それを避けたい。
けれどここまで書いて思い出したことがもう一つ。とある女性バイオリニストがインタビューで「美人バイオリニスト」と紹介されて、こう答えていた。「ことあるごとに、そう言われるのには強い違和感がある。もっと演奏自体を評価してほしいのに。」
バッグ泥棒の彼女から「どうして私のスマートな手口のことを言わないで、美人泥棒とばかり言うのか」とクレームがきたら、さてどうしましょう。