「ほんとうの人生」「真実の人生」を生きるために大切な6つのこと | 諸富祥彦のホームページ

「ほんとうの人生」「真実の人生」を生きるために大切な6つのこと

このページを訪れている多くの方もそうかもしれませんが、私はずっと、この世界を生きていること、この世界に対する「違和感」のようなものを抱えながら生きてきました。この世界全体への違和感のようなものです。自分の魂が何か「ふさわしくない世界」に生まれてしまったのではないか。そうした違和感と言ってもいいでしょう。

自分は、「見えない世界から送られてきてこの世界を変容するように仕向けられたスパイ」であるかのように感じることもしばしばありました。
そんな生きづらい思いを抱えながら自己探究していった結果、現時点で、私は、「真実の人生」「ほんとうの人生」を生きていく上でもっとも大切なのは、次の六つのことを繰り返し繰り返し行なっていくことのように思っています。

1 「ほんとうからの直覚」に深くとらわれること
何が何でもそれを手にするのだという強い決意と覚悟。どこかに真実はあるのだ、ほんとうの人生はあるのだ、という強い確信にとらわれていること。私は真実の人生を生きるために最も必要なのはこの強い直覚に深くとらわれていること、そのためにならば、すべてを捧げてもかまわないという決意と覚悟をしていることであると思っています。私の場合それは、中学校3年生のある春の日の朝に訪れました。天から、一筋の光が私の心臓にストレートに届けられて、ある「直覚」が私を深く深く捉えたのです。私は何が何でもこの真実を、「ほんとうの人生」見つけて手にしなくてはならない。それを見つけるまでは人間として生きてはならない。惰性に流れていくならば、それはただ動物として生きるに過ぎない。世界最大の哲学者の一人イマニュエル・カントも言ったように、人間は自分が探究し知りえた真実の法則に従って、自分の内的な秩序を根本から変革しなくてはならない。それができなくてはただ本能に従い、惰性に従って生きているにすぎない。

2 「人からどう見られてもかまわない」という強い決意
真実の探求を妨げるのは、他者からどう見られるかを意識する心である。「承認欲求」である。承認欲求を捨てよ。承認欲求など直ちに捨ててしまえ。承認欲求はあなたをただ凡庸たらしめるにすぎない。
    
人からどう見られてもかまわない。どう思われてもかまわない。他者の目を見つめながら、何千回も何万回も心の中でつぶやいた。「この人にどう思われても構わない。嫌われても構わない。脱承認。脱社会。それが「真実の人生」「ほんとうの人生」への第一歩だ。

3 探究が自分ではどうしようもないアポリアに直面した時、コンバージョン(転回)が起きる
大学3年生のある秋の日。もうこれ以上誤魔化し続けては生きるのは無理だ。これから三日間飲まず食わず寝ずで徹夜して考えて、それでも駄目だったらきっぱりと諦めて死んでしまおう。そう考えて徹底的に考え抜いた。当然のことながら「答え」は見つからなかった。もうだめだ。あとは死ぬだけだ。そう思い、和室の畳の上で、私は文字通り、ひっくり返った。その時おへそからちょうど1メートル くらい上のあたりに、ある「いのちの渦」のようなものがあることに気づいた
私は悟った。あぁ、これが私の本体なのだ。このいのちの渦が私の本体であって、これまで私が私だと思っていたものは仮の私に過ぎない。いのちが私なのだ。いのちが私している。大いなるいのちの働きがあって、そのいのちがたまたまこの時この場所では、「私」という形を取っている。そうした大いなるリアライゼーションが生じた。

私の本体はこの大いなるいのち、エネルギー体と言っても良いものであって、私はただ、それをじゅうぜんに生きていくしかないのだ。それ以外になすべきことは何もない。

見える世界の遥か向こうのどこかに、見えない世界があるのではない。見えない世界、見えない宇宙の働きは、今ここにある。見えないいのちの働きは、今ここに遍く浸透していて、たまたまこの時この場所で、「私」という形をとっている。いのちが私している。いのちが鳥している。見えない世界はただそのままの姿で、見える世界として顕現している。見える世界は真実の顕現であり、ただそのままで完璧なのだ。

4 「人生からの呼びかけ」「世界からの呼びかけ」に応える
コンバージョン(転換)の後、生きるということの実態が変わる。根本から変わる。それは重力が百八十度変わるような、在り方の変化だ。世界への根の張り方の変化といってもいい。生きていくということは、「人生からの呼びかけ」「問いかけ」、「世界からの呼びかけ」「問いかけ」にただ答えて生きるということである。私は、我を忘れてただ、この「人生からの問いかけ・呼びかけ」「世界からの問いかけ・呼びかけ」に無心に答えていけば良いのだ。自分自身への関心は薄れ皆無に等しくなり、ただこの「世界からの問いかけ」「人生からの問いかけ」にどう答えるのか。それに全身全霊を賭けて取り組んでいく。

5 「人生からの問いかけ・呼びかけ」の「答え」は、私たち一人一人の内側に暗黙裡に与えられている
ジ・インプリシット=「暗黙なるもの」として与えられている。私は「人生からの問いかけ」「世界からの呼びかけ」を全身で受け止め、その「人生・世界からの問いかけ・呼びかけ」への「暗黙の答え」「暗黙の応答」として、このジ・インプリシット、暗黙なるものに耳を傾ける。生きるとは、「人生・世界からの問いかけ」に答えるために、「答えが与えられる場所」として、自分の内側のジ・インプリシットに触れ、耳を傾け、それを解いていくプロセスのことである。「人生・世界からの問いかけ・呼びかけ」に、私が全身全霊で応えていくとき、そこに大きな「いのちのうねり」のようなものが生じる。「濃密なるいのちのうねり」。それが私の真の姿、本来の形である。

6 「人生の使命」「魂のミッション」にひたすらに取り組む
「人生からの問いかけ」「世界からの呼びかけ」に全身全霊で応える日々を重ねていくときに、ある日、突然、向こうからおのずと、「人生の使命」「魂のミッション」と言うべきものが与えられる。「あなたが人生で本当に果たすべきことなすべきこと」がそこに示されている。それが真に「人生の使命」や「魂のミッション」なのか、それとも単なる幻想にすぎないのか。それを見分ける基準は二つ。一つは、それが「自ずと向こうから送られてきた・運ばれてきた」という感覚があるかどうかということ。こちらから「こうしたい」「ああしたい」「あぁすべきだ」と自分から欲するのではなくて、「向こうから送られてきた」という実感があるかどうか。もう一つは、「発見即想起の法則」が当てはまること。「これが私の人生でなすべきことだったのだ」「これが人生で果たすべき使命だ・魂のミッションと言うべきものだ」と気づいた時、「それを新たに発見したという感覚」と同時に「それを思い起こした」のだという感覚が伴っている。発見即想起。「彼方 の記憶から、絶えずそれを見つけ出すように、思い出すように促されていた」ような感覚があるはずである。心のどこかで、ずっと前からそのことが分かっていたような、そのことを知っていたような、そしてそれを今思い出したのだという感覚が伴っている。

「人生の使命」「魂のミッション」が見つかった人は強い。ただひたすらにそれに取り組んでいくだけで心の底から満たされていく。そうなればもう、怖いものは何もない。恐れるものは何もない。ただ無我夢中でそれに取り組んでいけばよい。