一人のクリエイター(文筆業)として生計を立てはじめて8年ほどになりました。
その仕事の中で役に立った、読んでよかった本をご紹介します。
文筆業じゃなくても例えば陶芸家や木工職人のようなモノづくりの人。
あるいはイラストレーターや動画クリエーターなど、クリエイティブを生業とする人が知っておけば役に立つことが多いと思います。
- 経営
- マインドセット
- ライフハック
の3つのジャンルにわけてご紹介します。
フリーランスクリエイターにおすすめの経営術の本
クリエイティブ中心の経営「ほぼ日刊イトイ新聞の本」
糸井重里さんが主催するウェブサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」
この本は、その立ち上げの経緯と志を綴った内容です。
2004年に発行されています。
押しも押されぬ人気ウェブメディアである「ほぼ日」ですが、そもそもどうして立ち上げようと思ったのか?
そこには糸井重里さんの反骨精神とインターネットに対する純朴な夢があったように見えました。
コピーライターとして長く広告業界で活躍した糸井さん。
しかしバブルがはじけ、90年代に入るにつれて社会全体に暗い雰囲気がただようになる。
広告業界もかつての景気の良さは見られなくなっていった。
そんな中で「クリエイティブ」と「クリエイター」がないがしろにされているのではないか?という違和感を糸井さんはもっていたようです。
言葉は悪いですが、広告業界におけるクリエイターは下請け仕事。
企業が広告を出したいと思い、広告代理店が仲介しなければ、クリエイターは仕事にありつけません。
その構造だと、時にクリエイターが大事にするクリエイティブ(作品)が二の次三の次になってしまう。
「どうにかクリエイター自身がイニチアチブを握れる働き方はないものか?」
その想いは既存の業界や働き方に対する反骨精神だとわたしには読み取れました。
実際にそのような志が初期のほぼ日の原動力になっていたことがわかります。
そしてその想いを実現できるテクノロジーが世の中に登場し始めました。
インターネットです。
無料でいくらでもコンテンツを届けられる媒体。
これならクリエイターがイニチアチブを握って、届けたいものを欲しい人に直接届けられるのではないか?と糸井さんは考えました。
この本には、日本におけるインターネット黎明期の個人の「ホームページ」がいくつか登場します。
個人と個人が直接やりとりする風景や、今で言うクラウドファンディングの原型のようなことを目にして、糸井さんはがぜん目を輝かせるのでした。
既存の「ありかた」から抜け出して、新しいものを模索する。
この本にはそのおもしろさ、空気感、気運が溢れています。
インターネットが最初にみた夢はまさにそのようなことであったと思います。
既存からの「自由」と「解放」のためのテクノロジー。
それがインターネットだ。
しかし今やインターネットはかつてないほど「抑圧」と「制限」に溢れています。
コンテンツを集約する「プラットフォーム」が世界のビジネスのど真ん中にいる。
「プラットフォーム」がかつての「業界」のようにクリエイティブの命運を握っている姿がそこにはあります。
そう考えた時、この本に書かれた糸井さんが見た夢やその記録は、今こそ非常に価値のあるものとして立ち上がってくるように思いました。
ほぼ日は2021年から「ほぼ日の學校」という新しい学びの場を提供する事業をはじめるそうです。
その事業自体は、決して珍しいものではないでしょう。
極端な話、オンラインサロンのジャンルに入れてしまうこともできそうです。
しかし、「ほぼ日の學校」にはやはり「クリエイティブがイニチアチブを握る」という哲学が通底しているように思います。
今、そのような事業を始める場合、実際のところプラットフォームを使った方が有利でしょう。
集客力、決済システムの安定性、サーバーコストなどを考えれば、「もちは餅屋」で、プラットフォームを利用するのは決して悪手ではありません。
しかし一方で、プラットフォームの都合でクリエイティブが制限されたり、削除されたりすることがあります。
ほぼ日はそれを許さない。
その可能性すら許さないように見えます。
2021年にはじめた新事業においても「クリエイティブがイニチアチブを握る」ことを頑な守り続けている。
その姿勢は「抑圧」と「制限」の世界になってしまったインターネットにおいて、よりいっそう大事になってくるものだとわたしは感じます。
わたし自身、インターネットを生業とし、生活している身。
「自由」と「解放」のインターネットの興奮を今、ふたたび取り戻したい。
そんな気分でいます。
なんといっても「ほぼ日」は、ウェブメディアとしては大成功している部類です。
クリエイティブを大事にしながから経営を続けていくその方法は、いちクリエイターとしてベンチマークしておきたい。
そしてその哲学がまとまっているのが本書になります。
ほぼ日を深堀り「古賀史健がまとめた糸井重里のこと。」
大ベストセラー『嫌われる勇気』の著者である古賀史健さんがインタビュアーとなり、糸井重里さんの半生をまとめた本になります。
言葉の名人ふたりが作った本ということで、めちゃくちゃに読みやすい本です。(2時間ぐらいで読めてしまいました)
糸井さんの幼少期の話から、ほぼ日上場まで。
いくつかある糸井さんの本とこの本が違うのは、糸井さんの人間らしいいちめんが垣間見えるところです。
幼少期に親たちの会話を盗み聞きしてしまった時に受けたショック。
学生運動からの離脱。
糸井さんも誰にでも平等にある幼さと若さの中で、それはそれなりに傷ついたり、考えたりしてたんだなぁと思います。
糸井重里さんというと、どうも「ゆるふわの天才」みたいなイメージがありませんか。
まぁ、この本を読んでみても「天才やん…」と思う部分は多々ありましたが(笑)
けれど同じくらい人間らしさも現れていて、親近感を感じました。
それはきっと信頼できるインタビュアーとじっくり話すことで、にじみ出てくるものなんだと思います。
もうひとつおもしろかったは、糸井さんが尊敬するコピーライターの先輩方を語っている部分。
コピーライティングの価値ってなんだかわかりにくいですよね。
わたしも文筆を生業にしているにも関わらず、よくわかっていませんでした(笑)
尊敬する土屋耕一さんについて、
土屋さんの書くコピーによって、世のなかにあたらしい価値がひとつずつ増えていく。世のなかが、それだけ豊かになっていく。さらに人々が、自由になっていく。それはほとんど魔法使いのような仕事ですよね。あこがれるし、やってみたいにきまっていますよ。自分のコピーによって、何かを変えていけるんですから。
と語っています。
なるほど。
コピーライティングってただ商品を売り込むだけのセールスライティングだと思っていました。
けれど「世のなかに視点を増やす」と考えて時、それはエッセイとか詩や小説に近づいていきます。
糸井さんからは、しばしばコピーライターという仕事の誇りを感じます。
きっとこのような意味でコピーライティングを捉えているから、自分の仕事に自尊心を持てるんですよね。
広告だとかコピーだとか、ある意味でお金の世界のどまんなか。
そこでクリエイティブを楽しみ、創作に誇りを持つことは容易ではないと想像します。
もし世界が「大衆」と「芸術」の世界に二分されているとしたら、わたしはその真ん中に立って、引っ張り合いたい。
糸井重里さんはコピーの世界でもそうですし、ほぼ日でもクリエイティブを重視しながら、ビジネスにすることを諦めませんでした。
だからわたしは糸井さんは「引っ張り合い」の大先輩に思えます。
糸井さんの言うことってフワフワしていて、なにか合点のいかないところがあるじゃないですか(笑)
現代のビジネス本とかSNSに蔓延する「スパッと言い切る感じ」とは真逆というか。
だから読み込んで、咀嚼して、理解するまでは時間がかかる。
わたしは何冊か読んで、やっとわかってきたような気がしています。
『古賀史健がまとめた糸井重里のこと。』はとりわけ気軽に読める本です。
『ほぼ日刊イトイ新聞の本』の補助線として合わせて読んでみて欲しい本です。
誠実な飲食店の経営「リトルスターレストランのつくりかた」
2009年に刊行された古い本です。
わたしは2023年に読んだのですが、その年の読んだ本の中でトップクラスによかった本です。
ジャンルで言うとビジネス本。
ビジネス本とは金銭的な成功を目指す内容が99%ですよね。
ですが、この本は残りの1%に該当します。
リトルスターレストランは、東京都三鷹市にある飲食店。
駅からほど近い場所。
雑居ビルの3階にあります。
先日、友人に誘われてはじめて足を運んだのですが、これがとっても気持ちの良いお店だったんですね。
まず、料理がとても美味しかった!
飲食店と言ってもちゃんと「料理」を出しているお店って少ないじゃないですか。
科学実験のようにオートメーションで調理された料理は、なんだか味気ないもんです。(ファストフードも好きですが)
でもリトルスターレストランの料理は、口に入れるとイッパツで人が作っているとわかる味。
とは言え、手作りで美味しいお店って、これまた少ない(笑)
そこのところリトルスターレストランは、料理人の技術と手間が味によく反映されていて、とても美味しかったです。
明らかに(良い意味で)めんどくさい仕事をしているなぁと感じましたが、本を読んで納得。
紹介されている味噌汁の出汁や取り寄せているお米の話、ハンバーグなど火入れ…かなりの拘りが感じられました。
そんな「料理」って実はもっと価格帯の高いお店や、敷居の高いお店を選べばたくさんあります。
でも「みんなが入りやすい」という条件を入れると、めちゃくちゃ少なくなりますね。(特に東京だと!)
リトルスターレストランは接客も人当たりが良くて、気持ちが良い。
「人当たりが良い」というか、なんだか「人懐っこい印象」でした(笑)
料理もそうですが、なんだかお店全体に信用できる雰囲気があるんですよね。
本の帯にお客さんから寄せられたコメントが掲載されています。
その中のひとつに、
小学生の息子に、「家の鍵を忘れたら、リトスタで待ってろ」と言える店。(40代男性、小説家)
とある。
これは秀逸なコメントです!(さすが小説家)
実際に足を運んでみると、まさにそんな感じだったなぁと思います。
信頼できる美味しいお店が近所にあると、ほんとQOLが上がりますよね。
本の中では、お店を立ち上げるときのワクワク感とか、はじまってからの悩み、そして売上の厳しさなど、なかなか赤裸々に語られています。
これから飲食店をはじめようとしている人は、もちろん参考になるだろうし、わたしはイチ個人事業主として参考になった部分が多かったです。
別にお金が欲しくないわけじゃないでしょうが、リトルスターレストランが目指しているところはきっと、金銭的なだけの成功じゃない。
お金って、必ずお金持ちと貧乏をつくります。
お金はその原理的に、宿命的に「差」を求めて動くものですから、こればっかりは変えようがない。
だから本人の努力に関わらず、金銭的に恵まれない人って必ず出てくるんですね。
本の中にある
「リトルスターレストランをやる限りお金持ちになるのは難しい」
という言葉は本音であり、事実かもしれません。
しかし貧乏でもすばらしい人生ってたくさんある。
『リトルスターレストランのつくりかた。』は、そのすばらしい人生を送るためのヒントが書かれている気がします。
別に「お金持っちゃダメ!」という原理主義的な清貧ではないですよ(笑)
でも別に貧乏じゃなくても、人生が30年ぐらい過ぎると「お金じゃない成功」という命題にぶつかる人は多いと思う。
この本を読むと、解決はできなくても少なくとも悩みを共有できる気分になると思います。
そしてぜひリトルスターレストランに足を運んでみてください。
乱暴に言えば、本とは「脳」と「視覚」だけの世界です。
ある意味でスマホとかのデジタルと変わらない。
でも人間は目からの下のパーツも稼働させないと、それこそ幸せになりにくいです。
わたしの好きなThe Birthdayの楽曲にこんな歌詞があります。
髭と眼鏡は一晩中 喋って自分を守ってる
あんたはただのハイテクで 銀紙みてぇな味しかねぇ - DISKO
そんな人生、嫌でしょ(笑)
めちゃ激しい曲↓
ちゃんと銀紙以外のモノを食べないと、なんだか歳をとってからたいへんなことになる気がする。
本で読んで、お店で食べて…。
この本はある意味で、本以上の本だと思います。
キャッチフレーズ的に言えば「食べられる本」と言えるかもしれません。
多摩は東京に住んでいる人も足を運ばないエリアですが、三鷹は隣が吉祥寺ですし、行く理由は作りやすい。
どちらかと言うと食べる→読む順番がおすすめなので、ぜひ足を運んでみてください!
クリエイターのマインドセット、考え方を学ぶ本
悩むことの価値「ネガティブ・ケイパビリティ」
ネガティブ・ケイパビリティとは、「答えの出ない事態に耐える力」のこと。
著者の帚木蓬生さんは、現代にはネガティブ・ケイパビリティが足りていないゆえに起こる問題が多いのではないか?と考えています。
わたしはこの本を読んで、とても励まされる思いがしました。
ネガティブ・ケイパビリティというひとつのキーワードで話が進みながら、その内容は多岐にわたっています。
芸術、政治、そして医療と、とても教養に富んだ内容。
ぜひ多くの人に読んでほしい一冊でした。
突然ですが、「ツイッターでフォロワーを増やす方法」を知っていますか?
「箇条書きを使う」「画像をとりいれる」などいろいろメソッドがありますが、そのひとつに「言い切る」というのがあります。
しっかりと言い切る、断定することで、その意見はフォロワーを巻き込んでいく強さをおびていくというわけです。
近年はSNSでフォロワーを増やす意味が増大しました。
企業は言わずもがな、個人でもオンラインサロンや投げ銭などマネタイズ環境が整うにつれて、フォロワー増やしのモチベーションは高まり続けています。
結果、ツイッターは「言い切る言葉」であふれるようになりました。
そしてわたしはそれに辟易しています。
人生とは、人とは、140字で言い切れるほど、そう単純ではないからです。
とはいえ、ツイッターの世界では矛盾を包括した発信はなんの得もありません。
そうなると、矛盾すること、複雑なことに耐えることはなんの価値もないように思えてくる。
しかしこの本『ネガティブ・ケイパビリティ』は、
「いやいやそんなことないよ!」
と力強く励ましてくれます。
わたしたちの生きる社会では、かんたんに言い切れない複雑な問題がある。
むしろそれがほとんどかもしれません。
小気味の良い断定的で性急な答えが、その場しのぎの答えになってしまう場合も少なくない。
難しい問題ほど、安易な答えに飛びつこうとせず、あーでもないこーでもないとネガティブ・ケイパビリティを発揮するほうが、問題の核心に迫ることができる。
本書では、その例がいくつか紹介されています。
医療では精神医療や終末医療について。
芸術では紫式やシェイクスピアについて多くの紙幅がさかれています。
また著者の帚木さん自らがネガティブ・ケイパビリティを発揮して、たどり着いたであろう記述もすごく興味深い。
例えば、「医療」と「宗教」とは正反対の相容れないものに思えますよね?
しかしその間に「プラセボ」というキーワードを置くと、ふたつの概念がすこしだけ混ざり合う。
その視点は宗教を非科学的だと断罪すれば、決してたどり着けませんし、その逆もしかり。
結果的に両者がうまく橋渡しをし、社会において役割を発揮すれば、広い意味での「ケア」がわたしたち患者に届くようになるでしょう。
今の世の中には、二元論がはびこっています。
けれどわたしはネガティブ・ケイパビリティを発揮して、新しい答えを探したいと思いました。
ネガティブ・ケイパビリティは性急に断罪しないことで、「寛容」と「良心」を下支えします。
「そいつはダメだ!」と言い切らず「そういう人もいるよね」といったん飲み込む。
その態度は社会において必要不可欠なものです。
わたしは他人に寛容な態度で接せられたい。
だからじぶんも寛容でいたい。
そうなると、ネガティブ・ケイパビリティはとても大切な考え方になります。
矛盾すること、立ち止まること、熟考すること。
それらの価値はこの現代で、まるで否定されているように感じます。
でも、そんなことないと勇気をもらえた本でした。
そしてネガティブ・ケイパビリティは間違いなくクリエイティブの源泉になる態度です。
なぜならクリエイティブとは、
まだみんなが気づいていないことを表現すること
だからです。
「みんなが気づいていないこと」ですから、誰でもわかる安易なことのはずがない。
ネガティブケイパビリティを働かせて、うんうんと悩まない限りクリエイティブにはたどり着けません。
その意味ではクリエイターにとっての必須スキルだと思います。
頭で知っている以上に体でわかる「ものがわかるということ」
養老孟司さんは今の情報化社会を脳化社会と呼びます。
情報社会とはつまり脳みそだけを投影した世界であり、首から下を働かせることがありません。
言葉だけの世界です。
そして本書では、言葉とはカチンカチンに固定化されたものだと言います。
同じ言葉をみても、今と10年前では感じ方が違いますよね。
それは自分が流動的であるのに対して、言葉が固定的であるからです。
SNSには「今」とか「新しさ」が溢れているように思いますが、その実、なにか同じことの繰り返しをみているような徒労感も感じないでしょうか。
それは言葉そのものが、固定化されるものだからでしょう。
わたしはずっと、SNSの中にある「まるでじぶんだけが死なないような物言い」に違和感を感じていました。
とりわけ未来予測に関する言説です。(今だったらAIかな)
メディアは「来るかもしれない未来」に備えるよう訴えてきますが、しかしそれは「来ないかもしれない未来」でもある。
そして多くの場合「自分がいないかもしれない未来」という発想がごっそり抜け落ちています。
未来予測はなぜか、当事者性を失わせる。
だから「まるでじぶんだけが死なないような物言い」になっていく。
それもやはり、言葉が「固定化」されるという性質から理解できます。
決して変わることのない言葉という概念がじぶんの中にすっかり浸透した時、その言説から当事者性が消え、無責任さが増していく。
そこに残る「予測」は、人間を置き去りにした「当たった、外れた」といったギャンブルだけです。
未来予測、そして未来に備えるとは堅実なようで、実は人生をギャンブル化することなのかもしれません。
そんなことを考えると、ふと『鬼滅の刃』が思い起こさせました。
あの話で鬼は元々人間で、中でも強い鬼は強い執着心をもっていたが故に鬼になっています。
命、強さ、嫉妬、美貌など、本来変わりゆく現象に対して「変わりたくない!」と執着した結果、永遠不滅の鬼になること選んだ。
同じようにSNSなど固定化される世界に身を投じるとは、少なからず鬼(=不滅)になろうとする態度だと思うのです。
しかし物語の中で、全ての鬼は後悔の中で消え去っていく運命をたどります。
人は誰しも「死にたくない」という素朴な感情を持っている。
だから固定化される言葉の世界に魅力を感じるのは、しかたがないことだと思います。
一方で「まるで死なないような物言い」から感じられる無責任さと上から目線は、今のわたしにとって耐え難い。
死ぬと「わかる」ことはたいへんに難しい。
でも鬼にならないためには、勇気をもって見つめる必要があるのかもしれません。
そんな鬼は、現実にたしかに存在している気がします。
そしてクリエイターにとって「無責任」と「上から目線」は悪癖と言って良いでしょう。
表層的な情報だけを右から左に流すことはクリエイティブではないからです。
そうならないためには養老孟司さんが言う「ものがわかる」ことが必要なんだと思います。
脳化社会の一方で、首から下を動かすこともブームになっています。
キャンプや筋トレ、サウナや瞑想など、情報から感覚の世界へと誘うものが人気です。
ところがややこしいのが、それらの事柄もSNSにアップすることが目的になっている場合が多々ある。
本来、感覚を磨いたり癒やしたりするための事象が、脳化社会で点数稼ぎするための道具になっている。
なにか取ってつけたような「田舎暮らし」とか「移住」、「家庭菜園」の発信。
それはけっきょく、脳化社会をじぶんのメインに置いているからだと思います。
そうではなく、本来の意味で感覚や感性を磨くにはどうしたらよいのか。
本書の後半では「手入れ」という言葉が出てきます。
この「手入れ」が大きなヒントになっているように感じました。
「手入れ」は自然と付き合うときだけ必要なのではありません。身づくろい、化粧、子育てなど、日常生活のあらゆる場面に関わっています。仕事をするときも、家事をするときも、食事やレジャーを楽しむときも、心の底に「手入れ」という気持ちがあるかどうかで、小さな判断すら変わってきます。
今はまだ、この「手入れ」ついて、わたしははっきりと「わかって」いません。
なんとなく、おぼろげに「こうゆうことかな?」というのはあるのですが。
でもすごく必要なことだと感じます。
現実社会でも情報社会でも、さまざまな「場所」があります。
場所を選ぶ時、そこに「欲しい情報」があるかどうかではなく、「身につけたい態度」があるかどうかで選ぶ必要がある気がします。
少なくともその尺度を持っておいた方がいい。
SNSには、わたしにとっても欲しい情報がたくさんあります。
しかし身につけたい態度がない。
情報よりも態度のほうが、クリエイターにとってより重要な気がします。
だから思い切ってSNSをやめて、良い態度がある場所に時間を使っていきたい。
「言葉は固定化される」とか「手入れ」とか、ちょっとわかりにくい言い回しを紹介しました。
ぜひ、詳細な部分は本書を読んでみてほしいと思います。
クリエイティブを生む暮らしの基盤「エッセイストのように生きる」
著者の松浦弥太郎さんは雑誌「暮しの手帖」の編集長を務め、現在はエッセイストとして活躍されています。
本書はタイトルから想像するような、「エッセイの指南書」だとか「エッセイストになる方法」ではありません。
エッセイストというキーワードを元に、クリエイティブを生み出す人生観や人間観、暮らしの指針を紐解いていく内容です。
なので、決してエッセイスト志望者だけがターゲットではないです。
本書で一貫して大事なキーワードが「秘密」。
松浦さん曰く、エッセイは「秘密の告白」だと言います。
秘密を探し続けるのがエッセイストの生き方であると。
そしてその好奇心ある態度は、現代を生きるわたしたちの薬なるのでは?というのが本書の主題です。
では、秘密とはなにか?
それはじぶんがたどり着いた「気づき」だったり、読者が知らないであろう「知識」や「知恵」であるでしょう。
しかし「気づき」「知識」「知恵」という言葉で表現すると、それはいかにも情報に偏ります。
エッセイは情報もほしいですが、感情や感動も大切。
「秘密」という言葉には、情報だけでなく、そこに心が含まれているというニュアンスが多分に含まれている。
エッセイの定義にこの言葉を用いたのは、とても秀逸だと思います。
わたしはブログを書き始めてもう10年近くなりますが、いつも「お土産」になるようなブログを書けたら良いなと思っています。
読み終わったあと、現実世界で生きる知恵だったり勇気だったりを持ち帰ることができる。
そんな文章を書きたいと思うじぶんと、本書で松浦さんが提案する「秘密」はとても類似点が多いように感じました。
秘密を探し続ける生き方、その態度。
それは考え続ける生き方だと言います。
本書では第3章「書くために、考える」で詳しく語られています。
特に「すぐに決めつけない」「わかるまで見つめ続ける」「教養の圧から抜け出す」の項はとても共感が強かった。
これは先に紹介した「ネガティブ・ケイパビリティ」に通じるものがあります。
ネガティブ・ケイパビリティとは、
答えの出ない事態に耐える力
を言います。
答えの出ない問題は、スッキリしない心地悪さがつきまとう。
しかしそれに負けて安易な答えに掴まってしまうと、決して「秘密」にはたどり着けません。
今、ごく”ふつう”に情報空間に身をおいていると、ネガティブ・ケイパビリティを育むことはできないと言ってよいでしょう。
悪い意味で、ネガティブ・ケイパビリティを解消するための答え(らしきもの)が大量に流れてくるからです。
しかしそこは、他人への断罪しか存在しない。
かくして世は分断の時代と呼ばれるようになったと、わたしは考えています。
とにかく早く「答え」にたどり着きたい人が増えた。
しかし楽しさや充実感はその道程にあるので、答えをそっくりそのままインストールしても、なにか空転するような虚しさがある。
本書でも「スマホを手放す」や「同じものを何度も読む」といった、現代のライフハックとは逆に思える行動がおすすめされています。
これらは心と体を健全に保つには、ほんとうに大事な習慣になってくるなと感じます。
多くのビジネス本が書いているのは、この社会で勝つ方法です。
一方、節約本が書いているのは負けない方法だと思います。
しかしここ最近、わたしが知りたいのは勝ち負けの概念が離れた「善く生きる方法」でした。
本書「エッセイストのように生きる」の内容は、善く生きる方法に非常に近いと思います。
こんな一文がありました。
「人生において必要以上の経済活動はしない」と決め、その道をぱっと手放すことにしたのです。
だから本書では、エッセイストとして成功することを保証する言い回しは、一切登場しません。
「善く生きる方法」は、ともすれば「綺麗事だ」とか「役に立たない」とかで、一緒に考えてくれる人が実に少ないんですね。
インターネットはおろか、本の世界であってもなかなか出会えない日々がずっと続いていました。
例えば哲学書なんかを読めば、それは見つかるのかもしれない。
しかし専門的になればなるほど実生活に落とし込むのが難しくなるし、言い回しも難解になる。
しかし松浦さんはこの本を通じていっしょに「善く生きる方法」を考えてくれたように思います。
それはわたしの中でずっとくすぶっていた小さな孤独をあたためてくれる、うれしい体験でした。
「善く生きる」から「善い仕事」を生み出して、日々を営んでいけたら。
そんな風に考えるわたしにとって、今まさに必要な本でした。
血肉となる読書習慣「読書からはじまる」
近所の本屋さんで、なんとなく手に取りました。
長田弘さんはご本人が翻訳した詩集を一冊もっていたので、名前は知っていのたのですが、著書を読むのははじめて。
なんとなく読み始めた本なのに、この本には今、わたしが求めていたこと、世の中への違和感が書かれていたように思います。
数年前からどうも「本」がおもしろくない。
特にビジネス本です。
書店で平積みになった特集コーナーでは、海外のベストセラーを薄めた内容が並ぶ。
インフルエンサーという肩書の人たちの本が日々、乱発されている。
インターネットにたくさん流れている内容をまとめただけのような「まとめ記事」ならぬ「まとめ本」がほんとうに増えました。
そう思った時、わたしにとって「読書」はひどくつまらないものになりました。
しかし『読書からはじまる』を読んで気づいたのは、どうやらわたしがつまらないと思う読書は、読書ではなかったということ。
じゃあなにかと言うと、それは「情報収集」だったのだろうと思います。
それは「役に立ちそうなもの」を摂取するだけの行為です。
例えば食事において、栄養だけ摂取することを楽しいと思うでしょうか。
サプリメントを飲むことに楽しさがあるでしょうか。
もっと言えば、点滴から栄養を摂取するのは楽しいことでしょうか。
むしろ苦行に思えます。
食事が楽しいと思える時は、心と技術のこもった料理を、教養をもって味わえたときでしょう。
サプリメントとは、まさに「情報収集」であり、料理を味わうことが「読書」であった。
では、「味わうような読書」とは、いったいどういうことか。
世の中ではときおり
「これからは、なにを言うかではない、だれが言うかだ」
と流布されます。
情報それ自体はあふれるようになり、情報の価値は目減りした。
だから情報を届けたいのなら「届ける人」そのものに信頼性や人気が必要だと。
これは半分正解で、半分間違いだと思います。
「だれが言うか」を重視するあまりに、「この人が言うなら、間違いも正解」という状況がところどころで噴出しています。
特にインターネットの世界において。
なぜ、そのような事になってしまうかと言うと、これは受け手側に「どう言うか」という視点が欠けているからであろうと思います。
著名な人(だれが言うか)が、
自らの専門領域(なにを言うか)を
目の前で語っていたら、それは信頼に足りるかもしれません。
しかし、ソファにふんぞり返って、荒れた言葉遣いで語っていたらどうでしょうか。
つまり「どう言うか」という視点において、違和感を発していたら?
受け手は慎重にならなければいけません。
実際、そのような状況に出くわした時、わたしたちは自然と警戒するのではないでしょうか。
しかし、インターネットの世界ではこの「どう言うか」は極めてわかりにくい。
発信者の態度、表情、声色などが無い、もしくは加工されているからです。
結果、盲目的にその情報を信じる人が増えているのではないでしょうか。
もっとも、「どう言うか」が見えないので、「信じるしかほかない」のかもしれません。
『読書からはじまる』が教えてくれたのは、この「味わうような読書」とは、この「どう言うか」を味わうことです。
インターネットの世界、言葉の世界ではたしかに「どう言うか」は見えにくい。
でも見えにくだけで、確実に存在しています。
具体的にいえばそれは文体であり、デザインであろうと思います。
だれが言うか、
なにを言うか、
は、たしかに大切な要素です。
しかし、もうひとつ「どう言うか」のスイッチを起動させなければいけません。
そうでなければ、情報の大波をただ無批判にあびるだけで人生が終わってしまう気がします。
高速で動く新幹線の車窓から、あぜ道に咲く花を見つけることはできない。
見えるのは、そのスピードの中でも見えるように最適化された、どぎつい看板広告でしょう。
わたしたちが今、インターネットから言葉を得ることは、まさに新幹線に乗ることに他なりません。
遠くの目的地に早く行きたいがために、無限の看板を見続けている。
わたしは、その時間はおそらく豊かではないだろうと思うし、その風景に違和感をもっています。
だからわたしたちは、ときどき新幹線を降りて、自分の足で歩いてみたり、走ってみたりして、見える風景を変えてみる必要があります。
本屋の平積みがつまらないものになったのは、新幹線の車窓で人気の出たものを並べるからです。
新幹線のスピードや、窓枠の大きさを「アルゴリズム」と言います。
アルゴリズムが変われば、読み手が見える風景が変わり、書き手の見せたい風景も変わってきます。
そしてアルゴリズムは、そのプラットフォームの主催者が決める。
今、プラットフォームを作っているのは、主にAppleやFacebook、GAFAと呼ばれるIT企業。
わたしたちはIT企業の決めた窓枠のなかで、より目立つように、より儲かるように、言葉を発し続け、また読み続けています。
つまりわたしたちの言葉は、アルゴリズムに最適化されるのです。
IT企業がみずからの利益を優先するアルゴリズムを推進する限り、そこで発せられるわたしたちの言葉も、宿命的にその方向に寄り添うことになります。
そして今、そのアルゴリズムの中では、「どう言うか」がないがしろにされていると思うのです。
もっと言えば「どう言うか」はアルゴリズムに決定づけられ、そこに書き手の自由がない。
だから「味わうための読書」をして、「どう言うか」という視点を手に入れるためには、「アルゴリズムの外側の言葉」にふれる必要があります。
アルゴリズムの外側とはどこか?
本屋がアルゴリズムに飲み込まれつつあるなかで、アルゴリズムの外側がどんどん減ってきている。
手がかりのひとつは図書館でしょうか。
また文庫もそうかもしれません。
文庫は数年前に刊行された本を「これはこれから先も読まれてほしいな、読まれるな」という意図から、再編集された本です。
なにを隠そう『読書からはじまる』は文庫で購入しました。
本書は2001年に刊行され、2021年に文庫化。
わたしは2001年時点で、長田さんが情報社会に対して違和感や危機感を抱いていたことに驚きました。
それは今になって間違いなく表面化しており、その危機意識がわたしをこの本へと導いた気がします。
そしてこの本は、刊行から20年後にわたしを励ましました。
それこそが読書のおもしろさなのかもしれません。
この本は、おおよそインターネットではお目にかかれない「アルゴリズムの外側の言葉」です。
すっかりアルゴリズムに毒されたわたしも、なんだか面食らう気持ちがありました。
しかし一方で、目が覚めたという快感もあります。
ぜひ多くの人に読んでほしい一冊です。
AI時代の哲学「なにもない空間が価値を生む」
台湾の「IT大臣」として人気のオードリー・タンさんの言葉をまとめた本になります。
著者はアイリス・チュウという方で、著者がオードリー・タンさんにインタビューした内容を、連続した短いトピックにまとめてあります。
わたしはオードリー・タン関連の書籍だと『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る』を読んでいました。
でも、その本はちょっとむずかしかったですね(笑)
しかし『何もない空間が価値を生む』は、一問一答に似た形式で編集されているので、とっても読みやすい。
わたしもすべて読んだわけではありませんが、オードリー・タンさんに興味があるなら、いちばん手に取りやすい本ではないでしょうか。
本書は、例えば
「ネットをあまり使わないじぶんには、さいきんの若者の考え方がわからない」
とか
「ネットを使う世代だけど、楽しく使えていない」
なんて人が読むと、ちょっとヒントがあるかもしれません。
この本を読んで感じたのは、オードリー・タンさんの根底にあるにはピュアな「ハッカー思想」だということ。
かつて「Web2.0」なんて言葉が流行った時代があったんですね。
「集合知」とか「フリーミアム」などが人類を進歩させると純粋に信じられていた時代。
ところが現在ではみんなで知識を出し合って賢くなるどころか、みんなで二元論に興じて分断が深まるわ、無料の経済が広がるかと思いきや、無料だけを貪る人が出てくるわでてんやわんや。
インターネットに希望を見出すのが、なんだかむずかしいここ最近。
しかしわたしから見ると、オードリー・タンさんはその死にかけた「Web2.0」を地で行っているように見えました。
なぜ彼女がその理想を現実に帰すことができるのかというと、それはまさに「IT時代の哲学」が伴っているからだと思います。
ITだとかインターネットと呼ばれるテクノロジーの上では、人はどのような態度、言動、行動が適切なのか?
それを判断するのが「哲学」だったり、あるいは「倫理」ですよね。
年齢や性別、国籍がフラットになるネットの世界。
かんたんに言えば「多様性」や「寛容」が大事なのですが、本書ではそのようなことが軽快に語られています。
かつて、ほぼ日を運営する糸井重里さんは、
インターネットが車だとすると、「インターネット的」とはモータリゼーションだ
と説明しました。(『インターネット的』より)
車(テクノロジー)によって、人々の生活が変わった。
生活が変わったことによって、人々に意識が変わった。
多くのモノが運べるようになったら、全国津々浦々でモノが潤沢に行き渡り、手に入れやすくなった。
人もどこへでも短時間で移動できるようになったから、家族でも離れて暮らす選択をとる人が増えた。
そのようなことがモータリゼーションですよね。
同じようにインターネットの登場でも、やっぱり人々の意識は変わりました。
特にコロナ禍を経て「オンライン」が加速度的に定着する近年、どんどんと変わってきているように思います。
糸井さんのいう「インターネット的」と、オードリータンさんが語る「IT時代の哲学」は、かなり類似点が多いです。
この地球の国や地域には、それぞれ独特の「哲学」や「倫理」、「作法」や「マナー」が存在していますよね。
世界をつらぬく「インターネット」という広大な国にも、そのようなことが必要になってきます。
むしろ哲学がなけらば、無秩序で危険なインターネットになってしまうのではないでしょうか?
だから学ばないといけない。
いや、学ぶと言うよりも、「IT時代の哲学」は、実はわたしたちみんなが育んでいかないといけないものなのかもしれません。
否応なくみんながこの「インターネット国」の住民として生きているわけですから、それはそれなりに当事者として責任があるでしょう。
そう考えると、本書はある種の教科書として多くの人に読んで欲しい1冊かもしれません。
初心を思い出させてくれる「野中モモの「ZINE」小さなわたしのメディアを作る」
そもそもZINEとは何かというと、個人が営利を目的とせず発行する出版物のこと。
ウェブのブログやSNSも個人が営利目的としないものはたくさんありますが、ZINEの場合は特に紙媒体であることが多いようですね。
ZINEと聞いて、「誰でもネットで発信できる時代に今さら…?」と思う人は多いと思います。
ごたぶん洩れず、わたし自身もずっとネットで発信(ブログ)してきた身なので、ZINEとは縁遠い人でした。
ところがウェブ発信をずっと続けていく中で、違和感を覚えることが多くなってきたんですね。
この本を読むことでその違和感がだいぶクリアになってきたように思います。
「ウェブ発信力を身に着けよう!」
「SNSで人生を変える!」
本屋やネットで、そんな宣伝文句を見たことはないでしょうか?
実際、インターネットはすごい力を持っています。
趣味の料理がインスタで話題になって本を出版!
たまたま書いたブログがきっかけで転職!
そんなシンデレラストーリーは列挙にいとまがありません。
ところがそんな状況が当たり前になると、今度は成功を見越してネットで発信をすることが半ば常識のようになってきました。
多くの人に届け、影響を与えることを唯一の目標として文章やイラスト、写真など自分の作品を発信する人が増えてきました。
またネットはお金とカンタンに紐づけることができます。
誰でも簡単にブログに広告を貼ることができますし、SNSでフォロワーが増えれば企業から広告投稿を頼まれることもあるでしょう。
noteというプラットフォームを使えば自分の作品に値段をつけて売ることだって今すぐにできてしまいます。
わたし自身、ネットでの発信とウェブ広告で生計を立てている身です。
ところがそんな生活を送る中で忘れてしまっていたことがあるような気がするんですよ。
影響力やお金の獲得を目的とした「発信」。
ZINEはそんな発信とは一線を画した行為のようです。
『野中モモの「ZINE」小さなわたしのメディアを作る』では野中さんのZINE史と実際にZINEを作っている人たちへのインタビューが主な内容になっています。
その中で紹介されているZINEとは実に様々。
個人の日記のような、壁新聞のようなZINEもあれば、フェミニズムをテーマにしたZINEもあり。
フリーペーパーのようなペライチ枚もあれば、折り紙のようなオリジナルの装丁もあり。
自分の想いを本当に自由に表現されています。
そこから見えてきたのは、いわゆる「発信」ではない「表現」の楽しさでした。
結果的にZINEが影響力やお金に繋がることもあるでしょう。
しかしZINEはその前段階に確かに存在していた「表現の楽しさ」を尊重したムーブメントに思えます。
そもそも文章を綴る、絵をかく、それ自体が目的となり得る。
一心不乱に何かを作っていると集中して、ストレス解消を感じたことはありませんか?
作ること、表現することのセラピー効果はきっとあると思います。
日記のように、表現したことを一人で留めるのではなく、手の届く範囲のあの人に届けることでそれはコミュニケーションにもなります。
「届ける」といった一点においては、ネットの方が優秀でしょう。
しかし逆にネットだと不特定多数に届いていしまう、というのがリスクとして浮かび上がってきます。(いわゆる炎上)
手の届く範囲の人たちにそっと届けられるZINEという媒体なら安心して表現できる。
そんなメリットもZINEにはあるんですね。
この本を読んで、わたしの中に、
- 発信=影響力、お金を目的とした概念
- 表現=作る楽しさを目的とした概念
という2軸が浮かび上がってきました。
思えば自分がブログを始めた時。
表現の楽しさに夢中になっていました。
発信のメリットがたしかにモチベーションになってはいたのですが、誰かに届けたい思いや広めたい知識があることが、いちばん根底にあった気がします。
だから1日に何記事も書いたり、ブログそのものの勉強もしました。
その努力が実って今ではそれで生計を立てることができているわけですが、一方であの頃感じた「表現の楽しさ」はとんと忘れていたように思います。
ZINEはネット的発信から隔離されていることで、表現の楽しさが脈々と息づいている文化に見えます。
今は仕事になってしまったブログも楽しい方が絶対良いに決まっている。
そしてその楽しさは「表現」のことだったんだ…。
この本を読んでそのことに気づけたのは、わたしにとって大きな収穫でした。
ブログも十分に表現の楽しさを味わえる媒体ではあるのですが、ZINEは紙媒体であるがゆえにさらに自由に表現できるもののようです。
手紙にするか否かで大きく変わるフォント。 写真やイラスト、見出しの配置も自由自在。
さらには紙だって正方形じゃなくて良いし、折っても、切ってもOK。
自分の「作りたい欲求」を受け止める度量は、PCやスマホのそれよりもやはり紙の方が大きいと思います。
『野中モモの「ZINE」小さなわたしのメディアを作る』の本の装丁も実はZINEの体験版のようになっているのかな?と感じました。
手書きフォントが取り入れられていたり↓
最近見ない二段組!↓
スマホじゃ絶対不可能な装丁ですよね。
この本から見えてくるイキイキとした表現。
発信者として生きているわたしも改めて表現の楽しさや大切さを知ることとなりました。
また野中モモさんはライムスター宇多丸さんがMCを務めるラジオ「アフター6ジャンクション」に出演しています。
Spotifyやラジコなどで今も聴けると思うので、ぜひ聞いてみて下さい。
本を購入して配送を待つ間に聞くとテンションが上がってより本が楽しみになるのでおすすめです!(笑)
購入はこちら↓
クリエイターのためのライフハック本
クリエイターの頭の中「Do it yourself 自分の人生のつくりかた」
いつだったか、なんとなく「沸騰ワード10」を見てたら、取り上げられていたのがマイケル・キダさんでした。
ニューヨーク出身の彼は役者でもあり、モデルでもあり、タレントでもあり、農家でもあります。
「コンフィデンスマンJP」にも出演しており、ご存知の方も多いかもしれません。
そんなマイケル・キダさんは、あるきっかけで神奈川県葉山に移住。
自給自足に近い暮らしをしています。
葉山は前に行ったことがあったし、こういったオルタナティブな暮らしをしている人には基本的に興味があるので、ずっと覚えていたんですね。
そんな折、本屋さんでたまたまこの本を見つけました。
副題に「自分の人生のつくりかた」とあるように、この本ではマイケル・キダさんの人生観が語られています。
ユニークなのはその人生を家づくりに例えているところ。
例えば「壁」は「健康」。
すべての良い家に、異物の侵入を許さぬ強固な壁が必要なように、人には強い身体が必要だ。家づくりにおける「壁」は、人生においての身体。もしも壁のひびに気づいたら、しっくいで埋めて、ペンキを塗りなおすべきだ。
本というのは、抽象的で想像しにくい「人生」という概念を、文章でもって2次元に表現する試みですよね。
この本はさらに「家」を用いることで、2次元をとおりこして立体的に想像させることに成功しています。
中でもおそらくいちばん大切になるのは「柱」で表現されている「時間の使い方」の部分。
曰く、人生には
- Feel(感じる)
- Play(遊ぶ)
- Work(働く)
- Think(考える)
の4つの柱があると。
人それぞれ、この4つの中で太く、強い柱は違うでしょう。
しかし2本3本では家が成り立たないように、やっぱり4本ないとダメ。
わたしたちはなにか困難にぶち当たった時、どれかひとつの柱でもって解決を試みようとしがちではないでしょうか。
フッと力を抜いて、4本の柱をバランス良く点検する目線は、人生を健康的に過ごすうえですごく重要だと思いました。
余談ですが、わたしはBlankey Jet Cityというバンド(2000年解散)が好きなんです。
そのバンドのドラマー中村達也さんが、あるインタビューでの「音楽がなくなったらどうしますか?」という質問の答えがコレ。
「う〜ん、つくる」
たんにファンだ、ということもあるんですけど、なにかすごくガツン!ときて、ずっと胸に引っかかっていたんですね。
ふつう、この質問だったら「死んじゃう」とか「他の仕事する」とか言いそうなもんじゃないですか?
でも、わたしはこの達也さんの答えを聞いて「そうだよな…なければつくればいい話だよな」と素朴に思いました。
この質問の「音楽」の部分をいろんな言葉に変えても「つくる」という答えを持つことがだいじだと思います。
例えば「仕事」がなくてもつくればいいし、「家」がなくてもDIYすればいいし、「恋人」がいなくてもまた出逢えばいい…。
何を言いたいかというと、マイケル・キダさんはまさにその「つくる」ことを実践されている人だと言うこと。
情報と人間関係が過多の現代、わたしたちは未来を過度に恐れているように見えます。
わたし自身もそうです。
でもなにを失っても、またつくればいいんですよね。
なにより人類には、そもそも創る力が備わっているからこそ、今この瞬間の豊かさがある。
そしてまた創る行為そのものが、過去や未来を消し去って「今ここ」に集中するための方法だったりします。
わたしは「創る力がだいじなんだ」という想いはもっていたにせよ、その志はか弱いものでした。
しかしそれを実践されているマイケル・キダさんの姿をみて、なんだかたとても励まされた気がします。
ここ最近、脳科学に関する本がマイブームでして、いろいろ読んでいました。
マイケル・キダさんも、脳科学に少なからず影響を受けているのではないでしょうか?
しかし彼は現実に実践されているので、グッと説得力があり、また読者もその知識への理解が深まる気がします。
ライフハック系の本としてはいちばんおすすめしたい本です。
クリエイティブの大敵をやっつける「ストレス脳」
『スマホ脳』で日本でもベストセラー作家になったアンディ・ハンセンの本です。
ストレス、不安、うつなど負の感情について書かれた内容になっています。
偉大なクリエイターほど、負の感情に悩まされているイメージはないでしょうか?
クリエイターは「生計を立てられるか」「ヒット作を生み出せるか」など、クリエイターならではのストレスがある職業です。
それなのに、ストレスは脳の機能を低下させ、クリエイティブの冴えを鈍らせる。
だからぜひ、多くのクリエイターにストレスの正体を知っておいて欲しい。
注意点はストレスの「治し方」ではなく「捉え方」を書いていること。
日常生活を送れないぐらい強いうつ症状に悩まされている人が、これを読んで即時回復するというシロモノではありません。(そんな本は存在しませんが)
本書でも、強いうつにはは受診が勧められています。
しかし、「捉え方」を知ることで、前向きな効果はあるようです。
負の感情、とりわけ「うつ」になると、「じぶんは異常だ、壊れている」と思いがちですよね。
ところが、負の感情はあくまで脳が正常に反応した結果であると著者は説明します。
わたしたちの脳は、太古の昔より進化していない。
太鼓の昔とはつまり、食べ物が貴重で、常に外的の危険にさらされており、感染症や殺人、飢餓が死亡の主たる原因だった時代です。
脳は未だにその前提で反応しており、人類が現代の恵まれた環境に生きていると知らない。
脳だけが原始時代からタイムスリップしてきたようなものでしょうか。
例えば、わたしたちは「うつ」をたんなる感情と問題だと捉えがちです。
しかし脳からすると、「うつ」 になるのは別の理由があると。
さっき言った通り、原始の時代では感染症が主たる死因のひとつでした。
感染症のリスクが高まる時、それは外傷を負ったときです。
だから外傷を負うと、直ちに脳は危険だと判断しストレスを発生させ、わたしたちを引きこもらせるために「うつ」的な感情を作り出す。
脳はひたすらに「生き延びる」ための判断を下していると言います。
何から生き延びるためかと言うと、それは感染症や殺人、飢餓からなんですね。
脳は癌や心筋梗塞、脳卒中など現代の主たる死因に想定しているわけではない。
なぜなら原始の時代では、そんな病気が発症する年齢になる前に多くの人が亡くなっていたからです。
しかし現代では、それらの死因で亡くなる人は劇的に減っており、わたしたち自身もその危険性を自覚していないはず。
実は今を生きるわたしたちのストレスの多くは、脳が「それは感染症や飢餓のリスクだ!」と勘違いした結果起こると。
だから、予想だにしない「不安」や「うつ」に襲われる。
脳とわたしたちの意識とでは、認識のズレがあったというわけです。
このズレを解消することを本書は目指します。
正しい認識をすることで、「不安」も「うつ」も少なからず軽減されるのではないでしょうか。
なんの偶然か。
わたしはこの本を読み始めた頃、ちょうど失恋しました(笑)
強いストレスです(笑)
本書を読む限り、けっきょく、人間関係のストレスは「群れから外れる」ことに由来しているよう。
群れから外れると、食べ物にありつける可能性が減り、外敵から身を守ることもむずかしくなる。
それは死に直結しますから、脳はストレスを発生させ、なんとか群れに留まるよう促す。
おそらく恋愛でフラれることも、群れからはぐれることに似ていますよね。
しかし現代では、フラれたぐらいでは現実として死に直結しません(笑)
フラれても食べ物は失わないし、外敵から襲われることはないからです。
だからイメージとしては「そんなストレスいらないよ、今は安全だよ」と脳を再教育してあげるような心持ちでいると良い感じでした。
気休めのようにも思いますけど、そういった客観的な認知はストレスや不安には侮れない効果があるように思います。
あくまで個人の実感でしかないですけど、わたしはそのように感じました。
また本書で説明されている「運動」の効能もしっかり実感しながら、確実に実行していくと、やはりそれなりに効果はあるような気がします。
少なくとも、本書が主張するような生物学的な由来から「不安」や「うつ」を理解することで、「じぶんはダメなヤツだ…」と言ったような無下にじぶんを攻める態度が軟化するのではないでしょうか。
脳科学と言うとむずかしそうですが、さすがベストセラー作家の本。
まるで著者のYouTube動画やTEDトークを見ているかのように、わかりやすい語り口です。(翻訳者の腕も素晴らしいのだと思います)
また根拠となるいくつかの論文が引用されていますが、具体的な数値までは(おそらく意図的に)言及しておらず、結論をサクサクと述べていきます。
だからスピーディに話が進むので、とても読みやすい。
「不安」や「ストレス」、「うつ」に悩まされている人が真剣に読むのも良いでしょうし、見方によってはけっこう人に喋りたくなる雑学っぽさもありますね。(ホンマでっかTVみたいな)
そしてクリエイターは、自分の才能や特技を活かす商売であるだけに、
「好きなことやってて、羨ましい」
と、ストレスに共感してもらえないことも多いです。
なので、ストレスの正体を知っておくことはクリエイターにも大切なことだと思います。
もちろん、テーマに普遍性があり、とても読みやすいので、多くの人におすすめできる1冊です。
王道のライフハック「さぁ、本当の自分に戻り幸せになろう」
「Marc and Angel Hack Life」というブログを書いているマーク&エンジェル・チャーノフの本です。
そのブログは月間200万PVの人気ブログ。
この本もニューヨーク・タイムズ・ベストセラーに認定され、Amazon.com(アメリカのAmazon)にて総合6位にランクインしたそうです 。(2018年5月27日時点)
内容は王道の自己啓発といった感じでしょうか。
習慣の作り方、あるべき人間関係、モチベーションの上げ方、自分の愛し方…。
まさにライフハックですね。
この本は9章からなり、あんがいボリュームがあります。
けれど伝えられるメッセージ、あるいはわたしたちに促される行動はいたってシンプル。
ほんの些細でちいさな、でも良い習慣。
それを続けていこうということです。
瞑想する、日記をつける、朝のパワーを利用する…これらはどんな自己啓発本を開いて、書いてあることが多いと思います。
しかし、これほど繰り返ししつこく訴えかけている本は、ちょっと珍しいかもしれません。
けっきょく、自己啓発ってものはそこから実際に行動しないと効いてきませんよね。
読者は行動を促すためには、やっぱり繰り返し同じメッセージを伝えるのが効果的だと思います。
各章の最後には「仕上げのエクササイズ」として、実際にやってみるべき行動が紹介されています。
その上で、わたしはただこの本を読むことそれ自体に、なんだかセラピー効果があったような気がします。
これはわたしの偏見なんですけど、日本の自己啓発本ってなんだかトラウマを掘り下げるのが深すぎる(笑)
本というのは、ネガティブな状態からポジティブな状態へと上がっていく「V字」を描くのが基本と言いますが、ネガティブを深くほることで、「上がり幅」を大きく見せるストーリーが日本人は好きなのかな?
逆にアメリカのコンテンツだとネガティブはそこそこに、どれだけポジティブに上がっていけるかを競っている印象があります。
結果的に日本のコンテンツは「日常の大切さ」に着地し、アメリカのコンテンツは「成長」に着地する傾向があるなと。
どちらが良いというわけではなく、今のわたしにはポジティブが心に優しい。
それは今、じぶんがネガティブな状態にいるからかもしれません。
ネガティブ時にネガティブなコンテンツを見ると、かえって「ひっぱられる」感覚ってないですかね?
落ちるところまで落ちるっていうのも、必要なことでしょうけど。
なんとなく不安な日々の中で、この本を読み進めている時は、それこそマインドフルネス的に読書に集中できました。
それは筆者がただまっすぐポジティブに、明るくいてくれるからだと思います。
一般に、自己啓発本を「読みっぱなし」にすることは「ノウハウコレクター」と言われ揶揄されることです。
けれど、また明日から頑張るため「ポジティブな逃避」として読書をすることは、極めて現実的な解にも思えます。
不安というのは、この本が言うように良い習慣を続けていけば、波のように引いていくもの。
だったら今をなんとかやり過ごすために、こういった本を読むのは、決して悪いことではないかなと思います。
考えすぎず、集中したい人へ「最先端研究で導きだされた「考えすぎない」人の考え方」
2020年8月に刊行された本ですが、2022年頃から人気が高まっているようです。
いろんな本屋さんに平積みされていました。
わたしはもっぱら考えすぎるタイプ(笑)
ちょうど「考えすぎで失敗したなぁ」と思うできごとがあったので、買って読んでみました!
たぶんテレビ番組「ホンマでっかTV」とか好きな人は好きな本。
本書は45の短いコラムから構成されていて、「考えすぎても、意味がない」というひとつのメッセージを補強しています。
例えば、
- 不安やネガティブな感情は、考え事をするほど強くなる
- 情報が多いほど、時間をかけるほど、人は合理的に判断できなくなる
- 忘れっぽい人、ものごとをざっくり記憶する人のほうが思考力が高い
などなど。
一遍が5ページほどなので、すごく読みやすい。
読みにくい数字やデータは端折って、結果だけぽんぽん教えてくれるので、ほんとにテレビを見ているかのようですね。
そしてどれもこれも、ドヤ顔で友達に言いたくなる内容ばかりです(笑)
しかし、そのまま話すだけではちょっと浅知恵っぽくて高感度が下がるかもしれません(笑)
本書では「考えないこと」がおすすめされているわけですけど、知識や知恵を身につけるためには、本に書いてある内容をじぶんで揉んで、濾して、作り上げていく必要がある。
つまり、考える必要があるでしょう。
おすすめは続けて同じジャンルの本を読むことです。
ただ知識をつけるうんぬんとか意識高い話じゃなく、シンプルに読むことで心が軽くなる本でもあったと思います。
現代人って基本的に考えすぎていると思うんですね。
とにかく情報が多いので、ある意味では強制的に「考えさせられている」状態です。
それってなかなか自覚できないし、自覚できないから知らずしらず疲れてしまう。
その慢性的な疲労状態を「考えすぎ」というキーワードで表現することでわたしたちに教えてくれているのが本書かもしれません。
だから「なんとなく疲れる…」「さいきん頭がいっぱい…」なんて感覚がある人は、本書をもって、スマホから離れて、読書するのも良さそう。
そして書いてある内容をひとつぐらい実践してみる。
実際、わたしはそれでずいぶんと助けられた気がします。
過去を礼賛することや、未来に不安を抱くことも、まぁ、あんまり意味がない。
それをかんたんな言葉で教えてくれた本でした。
この本はたぶん「ビジネス本」のカテゴリーにあると思います。
ビジネス本って「経済的成功」を達成するための本ですよね?
もちろん、本書もそのように読むことは可能ですが、もうちょっと普遍的な「人間の本」として読むことも可能かと思います。
幅広いテーマと読みやすさが両立しているので、多くの人におすすめです。
ライフハックを疑う「限りある時間の使い方」
どうすれば納得のいく時間の使い方ができるのだろう?
この本は、その問いに答えていく本です。
有限な時間をうまく使いたいと思うのは、人間の普遍的な欲求。
だから世間には「タイムマネージメント」や「ライフハック」に溢れています。
この本もそのジャンルの一冊ではあるけれど、過去の本と明確にちがう主張をもっています。
それは
「タイムマネージメントを駆使しても、いっこうに時間は増えない」
ということ。
同じ本棚に並びながらも、隣に並ぶ本たちにカウンターパンチを喰らわせる。
そんな挑戦的な内容になっています。
この本は巻末に「有限性を受け入れるための10のツール」という付録があります。
すべて読み飛ばして、その付録だけをみれば、あっけないくらいふつうの「タイムマネージメント」「ライフハック」です。
そう、けっきょくやることは既存の本で紹介されていることと、それほど変わらないと思います。
それなりの「ライフハック好き」なら既視感をもって読めてしまう部分でしょう。
しかし翻って内容をみると、そこに書いてあることは実に哲学的。
まず「タイムマネージメント」が前提とする、時間を”使う”という概念から疑ってかかります。
そもそも時間とは、人と一心同体の存在で、使うも何も、ただいっしょに流れていくだけだと。
そしてまた「タイムマネージメント」は無言で「未来」がくることを前提としていることにも批判の目を向けます。
厳然たる事実として、未来がくる保証はありませんよね。
それなのに「タイムマネージメント」は、それを駆使すれば駆使するほど、人生の喜びを先送りすることになり、実は「今を味わう」邪魔になっていると指摘します。
この本に称賛を寄せているカル・ニューポートの『デジタル・ミニマリスト』でも、デジタル技術に対して、確固たる哲学を持って挑むことの必要性を主張していますよね。
それは「タスク」に対しても同じでしょう。
この現代において、「タスク」はほぼ無限のように舞い込んできます。(しかもスマホをとうしてじぶんの手元に!)
どれだけ仕分け作業=タイムマネージメントが上手になっても、タスクが無限である以上、それは焼け石に水です。
つまりタスクに対して「必要・不必要」「好き・嫌い」あるいは「大切・大切でない」といった基準でもって、タスクそのものを捨てていく、諦めていくことが必要になる。
その断捨離の判断基準になるのが、まさに哲学ということ。
しかし哲学とは、一朝一夕で身につくものではありません。
行動や挑戦、失敗をへて徐々に磨かれていくものでしょう。
それこそデジタル技術が勝手に運んでくる「情報」や「タスク」を半自動的に処理していくだけでは、決して磨かれない。
ただこなしていくだけのその習慣に、どこかでクイを打つことができなけば、一方的に情報とタスクを浴びるだけであっという間に人生が過ぎ去ってしまう。
この本を1冊読み切ることは、もしかしたらその負のループを断ち切ることになり得るのかもしれません。
わたしはこの本を読んで「諦める」の語源を思い出しました。
一節によると「諦める」の語源は「明らかに見る」だそうです。
この本は一貫して「タイムマネージメント」に通底する「無限への渇望」を否定し、有限であることを認めようと言います。
そう、諦めよう、と。
諦めることで、明らかに見えてくる。
見えてくるのは、絶望も悲しみもあれど、おそらく希望や喜びも。
30代も中盤になって、いろいろと諦めることが必要になってきたわたしにちょうど良い本だったように思います。
ただ書くだけで効能がある「すべてはノートからはじまる」
ブロガーの倉下忠憲さんのブログはときおり読ませていただいており、著作も何冊か持っています。
2021年7月に刊行された新刊『すべてはノートからはじまる』を買いました。
その名のとおり「ノート」について語られています。
思えばわたしたち現代人は、日々何かを書いているのではないでしょうか?
SNSは誰にとっても手軽なものとなり、You Tubeのコメント欄、Amazonのレビュー欄など、ネットでなにかしらを書いたことがある人は多い。
ただほんとうに自由に書いているかといえば、それは疑問が残ります。
たとえばSNSが煽る射幸心、ブログの広告収入。
それらが書くことが原動力になっていることも多いはずです。
わたしたちが今、書くこととは「〇〇のために書く」といった目的ありきの行為かもしれません。
いわば、自由に「書いている」のではなく、なにものかによって「書かされている」状態。
しかし本書で語られているのは、自由に書くことの有用性です。
書くことがネットのアルゴリズムや市場原理に巻き取られる中で、それらから自由になり、ただ書く。
目的なき書く行為の礼賛。
しかし目的がないことと、意味がないことは違います。
本書を読むと、ただ書くことのおもしろさ、その意味ををひしひしと感じることができるでしょう。
わたしはなんども立ち止まりながら、ゆっくりこの本を読みました。
新書ですから、どちらかといえば「読みやすい」部類の本であろうと思います。
しかし、著者の倉下さんは決して安易な答えを提供しません。
「今すぐ使えるライフハック」のような情報は少ないように思います。
抽象的な部分を、ゆっくり考えながら読みすすめていく必要があります。
それでいて300ページのボリュームがあるんです。
300ページを考えながら読むことは、今のわたしにとってなかなか骨の折れる作業でした。
だから休み休み、ゆっくり読みことになった。
思えばそのような読書体験は久しぶりでした。
「読みやすさ」は明らかに良書の条件のひとつのように語られています。
ところが、読みやすさに偏向すると、まるでまとめサイトやニュースアプリのように、ひとつひとつの情報をただ消費するだけに留まってしまいます。
本に求められることは、たんに情報を消費することではなく、血となり肉となるような「考える」行為であったろうと思うのです。
わたしもついつい「読みやすさ」を選んでしまいがち。
しかし、それが少し悪い習慣になっているような気がしていました。
だからある意味で「考える」ことを強要してくるこの本を、わたしは読み切る必要がありました。
そして本書には、感じたことをノートに記すことで考えることが促進されるとあります。
湧き水に浮かんでは消える泡のように、人は何かを感じては忘れてを繰り返している。
その一瞬の泡をノートに書き残すことで、感情が相対化され、理性でもってあらためて「考える」ことができると。
つまりこのブログもまた、わたしが「考える」ために書いていると言えるでしょう。
実際にこの文章を書きながら、なにか頭の中がクリアになっていく感覚があるのです。
むずかしいと感じた本。
だから読まなければいけませんでした。
そして書かなければいけなかったのだと思います。
その意味では、実は多くの人におすすめできる本ではないかもしれません。
この本は、あなたが今もっているストライクゾーンのど真ん中に刺さることを良しとしないからです。
むしろ「ボール球もすこし振ってみなよ?」と提案しています。
となると、これは逆に多くの人に読んでほしい1冊になります。
ストライクゾーンのその枠組が、悪癖になっていることが多々あると思われるからです。
とりわけ現代の情報環境にはびこる悪習慣は強烈なもの。
ネットとは乖離していると思われる書店でも、今やAmazonでの販売数やランキングを評価基準のひとつとして強く押し出しています。
そしてAmazonのランキングをハックすることは、もはやインフルエンサーの常套手段になっています。
つまり、アルゴリズムと市場原理があらゆる情報環境を飲み込もうとしている。
本が「考える」媒体から、単なる消費アイテムへと変わりつつあると言えます。
だから「ノート」が必要なんでしょう。
情報の大波を自分の力で受け止める防波堤。
それがノートです。
わたしもできることなら、このブログを自分らしいノートにしていきたいと思います。
クリエイターの健康習慣「サ道 ととのいの果てに」
空前のサウナブームが続いています。
わたしはだいたい8年前ぐらいにサウナにハマり始めました。
それは肉体労働の仕事から、文筆業(クリエイター業)に仕事を移したタイミング。
サウナに入ると、暑い・冷たいの感覚の世界へ強制的に移行して、余計なことが考えられなくなります。
だからついつい考えすぎちゃうクリエイターには、リフレッシュできるありがたい習慣なんですね。
そのうえで血行が促進され、一定の健康効果も見込めるので一石二鳥。
そしてこの本は、まさにサウナブームの礎となった「マンガ サ道」の後日談的なエッセイです。
サウナについてはもちろん、著者タナカカツキさんの漫画家生活で培ったライフハックも紹介されています。
サウナとライフハック。
ひと粒で2度美味しい本になっています。
【関連】クリエイターに伝えたい名言
わたしがクリエイターとして大事にしている言葉を紹介しています。
書籍と合わせてチェックしてみてください。
関連記事:すべてのクリエイターに贈りたい名言6選。ものづくり、創作を支える言葉たち