八千枚護摩修行、着々・・
今、副住職は「五穀抜き&無言行」ちう。
まぁ、ワタシとは話せるのは良かった。
しかしながら、彼の心中は分からない。
五穀抜きも、中の1週間は「塩抜き」。
よく言えば、野菜の本来の味を感じているワケになるのだが・・・辛かろう。
自ずと食は減り、断食に向かう、ということなのだろう。
親としても、師僧としても、何もしてあげられない。
彼自身との勝負だ。
負けるわけにはゆかない勝負。
現在「無言行」中。
得度をしている者とは話して良いらしいが、最低限のことにして、できるだけ話さないようにしている。
かける言葉もない。
己との戦いの最中。
外からの言葉は不要なのだと思う。
自分が得度をする時は、祖父が余命幾ばくも無い、という時で、お爺ちゃん子だったワタシは、それなりに感じていた。
祖父に得度した姿を見せる、ということは分かっていた。
病院に行った、ということは朧気な記憶になるが、その時の祖父の顔を覚えていないのが、ナサケナイ。
だいたい、寺の子は、幼稚園とか、小学校の低学年の頃に、ワケも分からず得度「させられる」のが多い。
ほとんどだと思う。
そういうのは嫌だったので、我が親たちは五月蠅かったが、得度はいつでもできる。
「大正大学」へ行く、と決まったら得度すればいいし、やりたい事があればその後でもいいと思っていた。
ウチの母が言っていたのだろう、中学の野球が終わった夏、得度をすると自分から言った。
お婆ちゃん子だったから、言うことを聞いた、ということかも知れない。
ま、とりあえず「自分から言った」ということは重要。
大正大学でも野球ができる、ということになって、両立は立派だったと思う。
クズだったワタシと違って良くできた大学生だったと言える。
彼は、ワタシとは違う人生を歩んでいるという感じがする。
僧侶であるという点は同じだが、大学卒業と同時にサラリーマンになってしまったため、青年会にも参加できなかったし、そういうお付き合いもできないどころか、僧侶としての努めも、ブランクができて、いざ始まった時に、忘れていることもあったり、院生をされた方などに遅れを取った感じだった。
サラリーマンとして得る物も大きかったが、僧侶都としての学びの時間を棒に振ったという感じがした。
息子には、就職してもスグに辞めることになるのを分かっていて採って下さるところもそうそう無いだろうし、採っていただいても辞めさせるのも申し訳ない。
・・ということで、息子には、スグに寺に入って貰うことにして、顔見せも兼ねて、通夜・葬儀に同行して貰うところから始まった。
また、施餓鬼の出仕もして貰って青年会のお皆さんにも面倒見ていただくことができた。
そういう付き合いも、ワタシと違って、息子は上手く出来る。
祈願寺の手伝いにも積極的に参加して、いまや、すっかり「多氣山の人」にもなってる。
そういう関係で、山伏の修行にも参加、日光連山の縦走や、御嶽山詣でもやっている。
すっかり、山伏にもなった。
そういう中で、令和元年の宇都宮・東海寺さんの八千枚護摩供の手伝いに行き、胸を打たれたようで「自分もやりたい」と思い、今に至る・・・ということ。
心配ではあるけれど、始まってしまった以上、突っ走るしかないのだから。
無事の結願を祈るばかり。
【カメラの話】
ニコンD500+シグマ50-100mm F1.8
シグマfp+コシナフォクトレンダー・ウルトロン75mm F1.9
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