じいちゃんトライアスリートの旅

じいちゃんトライアスリートの旅

還暦過ぎのトライアスリートです

人生のたが(箍)

年に数回、定期的に見る夢がある。

シーズンに一度くらい。

夢はくり返しやってくる。

重要な試験が近づいている。もしかしたら人生を左右するかもしれない重要な試験だ。

クラスメートの何人かが問題について話をしている。

彼らはすでに問題集を2周回ほどして、「あー、あれならこうだろう」と互いに頷きながら、答えを導き出している。

しかし、私はまったく話についていけず、途方に暮れるばかりである。

同級生たちとはかけ離れた、自堕落な生活を送っていたようなのである。

もう間に合わないと、ハラハラしたところで目が覚め、夢であったことに安堵する。

なぜ、このような夢を繰り返し見るのだろう?

もしかしたら、たが(箍)が外れると、どん底に落ちてしまいそうで、そうならないように生きてきた小心者の自分に対し、もう一人の自分が、過度の用心深さ、臆病さに警鐘を鳴らしているのかもしれない。わからないが。

先日、菅原道真公ゆかりの松山市内にある履脱(くつぬぎ)天満宮に参拝した際、受験シーズン真っ只中の絵馬に、志望校や資格試験の文字が書かれていた。

今この瞬間、人生の大きなターニングポイントに、ガチで向かおうとしている彼らの姿勢に、改めて感銘を受けた。

彼らの幸運を祈りつつ、遅咲きの梅の花を愛でながら家路についた。

愛媛マラソン完走

25キロまでは絶好調だった、

毎度のマラソンの落とし穴にはまった。

そこからは走って、歩いての繰り返し。

川内選手が言ったように、苦しくないマラソン大会などない、

それはそうだが、一方いくつになっても、どんなにタイムが落ちても、こんなに楽しめる運動競技は他にない。

そこでは、休みたい自分と、鼓舞し続ける自分との、ひとりパワハラが繰り広げられる。

自分の弱さ情けなさに、向き合わされることなど、日常生活では、そうそうない。

私は4時間半を存分に楽しんだ。

できれば次回も参加できますように。



走れるおじい

この世界の常として、人は人の注意を引くために少し誇張することがある。

例えば、以前ユーミンがラジオで言っていた「スキーをしなければ、人生の半分を損したようなもの」などと。

彼女にならって言うなら、こんな感じだろうか。

おじいさんには2種類ある。ひとつは走れるおじいさん、もうひとつは走れないおじいさん。

私がジョギングを続けているのは、走れるじいさんであり続けたいからだと思うことがある。

見た目はおじいだが、走れるという自負。

それがなくなると、ただの老人になりそうで怖い。

昨年の秋口から膝を痛めて走れなくなっていた。

それどころではない、

しかし、やっとのことで、昨日ランラン愛媛さん主催の30キロ走に参加し、結局20キロしか走れなかったが、とにかく膝を気にせず走ることができた。

心臓も脚力もかなり弱っているが、かろうじて走れる老人の範疇に、踏みとどまることができた。

孫たちが大きくなっても、私と競って走ってくれる。

そんなおじいであり続けたい。 

 

                                       

もしかして走れるかも

正月休みは2週間ずっと、家族の用事や旅行で走らず、というか走れなかった。

その結果、ほぼあきらめていた左膝が復活した。

正月明けに初日は5km、翌々日は8km走ってみたが、大丈夫そうである。

薄っぺらなターサーRP3でも走れた。

キロ6分台でなら、何とかなりそうだ。

12日(日)にはランラン愛媛さん主催の北条地区30km走が待っている。

あまり無理をせず、20kmくらいでやめておくのが賢明のようだ。

30分を切っていた頃よりも、いろいろと考えるようになった。

愛媛マラソンのスタートラインに立てたとして、どう走ろうか。

秋からの雀の涙ほどの走行距離では、以前のようなパフォーマンスは到底期待できない。
キロ6分で入ったらどうなるだろう?

未知の世界が待っていそうだ。

 

立ち止まって考える

本当にこれが自分のやりたいことなのか、と。

例えば、この10数年ほど続けてきたマラソントライアスロンのレース。
そして、そのトレーニングに費やしてきた時間。

なぜ自分がそうしているのかと問うと、明確な言葉で即答できない。

こう考えるに至った訳は、高校の同窓会の報告を聞くと、同級生の何割かがすでに亡くなっているらしい。また70歳ちょっとで亡くなった著名人のニュースを耳にすると、自分もそんなに時間がないのかな、などと思うからだ。

卑近な言い方かもしれないが、やれることは今のうちにやっておきたいという気持ち。

数年前、白浜でトライアスロンのレースに参加した翌朝、海水に洗われる露天風呂に入っていたら、同年代の男性が入ってきて、少しお話をする機会があった。

関東から一人でやってきて、数日かけて熊野古道を歩いているという。とても楽しそうだった。

私が嬉々として、レースに参加したことを伝えると、彼は少し呆れたような表情を浮かべ、会話が途切れた。

お互い、相手に対して優越感や見栄を張っているつもりはなかったのだが、少しくらい驚いてくれるかと期待した彼の反応は、思いがけず、そっけないものだった。

先月、群馬県高崎市に行く用事があった。

高崎は中仙道の宿場町で、難所である碓氷峠にも近く、今は、そこから先が廃線となった横川駅までも30分ほどだ。

横川駅からの廃線跡は遊歩道になっており、5キロほど歩いた。ほんのさわりだけ。

その時の画像がこちら

メガネ橋手前のトンネル

よし、来年の目標のひとつに、あこがれだった中仙道、碓氷峠超えを加えるとするか。

やれるうちに、やっとかないとな。

踏んだり、蹴ったり

このところ、参加費だけ払って、DNSっていうのが多すぎて。

まず、11月はじめのマスターズ、1500m。

レースが近づいた頃、走り込みが足りないのを自覚していた。

焦りから、準備運動もそこそこに、薄底シューズでのスピード練習まがいの結果、めったに傷めない膝をやってしまった。

翌日から、左膝に違和感出現。

深く曲げると痛みが出る。

いよいよ走り込みなど、できなくなってしまい、出場を諦める。

スパルタンな相方は、それでも出てこいと言うのに。

どんなレースでもそうだが、特に1500mは心臓も足も完璧でないと、恐ろしくて出る気になれない。

次が、防府

これが12月はじめ。

徳山のホテルも早々に抑えて、出る気満々だった。

防府は4時間制限なので、もしかしたら今年は引っかかるかもしれないと、それはそれで楽しみにしていたのだが。

なんと出張の日程が重なっていた事が判明。

防府がいつもより、早いことと、要件がいつもより遅いことが重なってしまい、出られなくなってしまった。

これ以外には、ハーフも何も予定していないので、2月の愛媛がいきなり本番になってしまう。

愛媛は何が何でも出なくては。

どこまで落ちていくのかな。

熱唱するトワ・エ・モワ

 

前の土曜日、膝の温存のため、午前中少しだけ自転車漕ぎしたあと、ふらふらと城山公園へ出向いた。

県のイベントが開催されており、デビュー55周年のお二人の歌声に、勇気づけられて、何故か松山でなく、札幌のテーマソングを口ずさみながら帰途につく老人であった。

青い国・四国

愛媛の大学に合格し、当初、何度かあった親元との行き来には、飛行機やフェリーを使ったが、何故かこの時は鉄道だった。

岡山駅で宇野行の鈍行に乗りかえ、宇野港から、宇高国道フェリーで高松に向かう。

フェリーにかかる時間はそれほどでもなかったように思う。フェリー内には珍しくうどん屋があった。食べたかもしれないし、食べなかったかもしれない。

高松港に着くと、今度は予讃線で松山に向かうため、港から高松駅まで、両者は接しているものの、早足で歩かなければならない。自由席で座りたいのだ。

おそらくこれが、初めて一人で四国に渡った時だったと思う。

四国で一人で生きていくんだ、という覚悟をしながらも、心細さは払いきれない。

そんな時、港から駅に向かう通路だったと思うが、柱に貼られたポスターが目に入った。

人に押されながら、早足で歩く自分の前にそれはあり、釘付けになった。

ポスターには縦書きの大きな文字で『青い国・四国』とあった。

バックの画像は何だったか、はっきり覚えていない。

足摺岬かどこかの海か。山とか、お寺や弘法大師ではなかったと思う。

刹那、なぜかホッとした。

そうか、四国という括りで捉える視点があるんだ。

そして、四国を称賛するような青い国という表現。

私が生まれ育った地元には全くなかった風土の香り。

ひっそりとだが、誰かから、関心を持たれているような土地。

縁あって、いいとこに来たのかもしれない。

ここで、一人で生きていくんだの覚悟を胸に、18歳の男子は予讃線に乗り込んだ。