今の仕事のままでいいか悩む人へ。街録chディレクター、三谷三四郎がテレビ業界から副業のYouTubeに賭けるまで - ミーツキャリアbyマイナビ転職

スキルを高めて「やらないこと」を決める。テレビの派遣ADだった僕が“副業”のYouTubeに賭けた理由|街録ch・三谷三四郎

三谷三四郎さんトップ画像


仕事を通じて何らかの“スキル”と言えるようなものは身に付けたけど、それを最大限生かすための場所や方法が分からない。現状だと生かせているような気がしない……。

スキルの生かし方は自分のキャリアを大きく左右します。そして、そんなモヤモヤを昇華する方法の一つとして、副業に目を向けている人もいるかもしれません。

YouTubeチャンネル『街録ch〜あなたの人生、教えて下さい〜』を運営する三谷三四郎さんも、自分のスキルを生かす場所を探して試行錯誤してきた一人。

三谷さんがキャリアのスタートに選んだテレビの世界から、当初“副業”として足を踏み入れたYouTubeの世界へ転身した背景には、映像編集のスキルを武器に生き残るという覚悟と、数えきれない取捨選択がありました。

三谷さんの生き方や考え方は、身に付けたスキルで自分のキャリアを切り拓こうと考える方々に何かしらの示唆を与えてくれるはずです。

『街録ch』というYouTubeチャンネルを運営する、三谷と申します。

僕はかつてフリーのテレビディレクターとして4~5本の番組を掛け持ちしていました。テレビの世界ではいろいろなことを学びました。でも、10年後の自分を想像して「この業界で働き続けたい」と思うことができず、自分のスキルを最大限生かせる場所を探した結果、“副業”としてYouTubeの世界に飛び込みました。

一時期はテレビの仕事とYouTubeチャンネルの運営を並行していましたが、現在はYouTubeの仕事に専念し、YouTubeの収益で生計を立てています。紆余曲折ありましたが、おかげさまで仕事は軌道に乗り、収入もテレビ時代の最高月収を越えました。また、テレビ時代よりも時間面・精神面でゆとりが増えています。

僕がこの環境を手に入れられたのは、テレビの仕事で培ったスキルをYouTubeで生かせたのは一つ大きな理由ですが、それ以上に「やらないことを決めた」のが大きいように思います。

順番的に、スキルを高められたから、やらないことを決められたと言ったほうが正しいのかもしれません。自分の信じた映像編集というスキルを突き詰め、そのスキルが生かせる場を考えた時、テレビ業界で生き残る選択肢や人付き合いで仕事を取るという選択肢を捨てたのです。

今回は僕の過去を振り返りつつ、テレビの仕事で培ったスキルやYouTubeの仕事が軌道に乗るまでの経緯を中心にご紹介します。自分の育てているスキルが今いる場所であまり生かせていない、本業で得たスキルを本業とは別の場所で生かしたい、とうっすら考えている方々に、僕の経験が何かしらのヒントとなれば幸いです。

辞めたいと思い続けた日々。映像編集のスキルに活路を見出す

僕は“派遣AD(アシスタントディレクター)”としてキャリアをスタートさせました。

そもそもテレビの仕事に興味を持ったきっかけは、大学1年生のときに読んだ『遺書』(著・松本人志)。目からウロコの連続で、将来松本さんのような人と働きたい、と思いました。

しかし、就活ではテレビ局はおろか、番組制作会社にすら受からず、内定をもらえたのは番組の制作現場にADを派遣する派遣会社ただ一社のみでした。

それでも入社後はお笑いの現場に関わりたい一心でバラエティ番組への派遣を志望しました。が、最初に派遣されたのは、とある情報番組の現場。

バラエティ番組のADは「1週間家に帰れない」と言われるほどの激務です。今振り返ると、「見た目も雰囲気も鈍くさいコイツにバラエティの現場なんて務まらない」と会社には思われていたのかもしれません。

派遣された情報番組の現場は週に2日休めて、毎日家に帰れる環境でした。にもかかわらず、要領の悪さから仕事に全くついていけず、上のディレクターやプロデューサーに怒られてばかりいました。「いたくもない場所で、やりたくもない仕事をして、なんで怒られなきゃいけないのか」。この頃は、いつかバラエティ番組に携わってやるんだ、という思いで日々の仕事に向き合っていました。

そこからいろいろな現場を転々とし、今度は商品紹介の再現ドラマを作る現場に派遣されました。セミリタイアしたディレクターと、僕みたいな「使えないAD」が集まる、まさに“窓際”でした。

ただ、僕はバラエティ番組に携わることをまだ諦めていなかった。

この頃から、「3年後にバラエティの仕事ができるなら、そのときに役立つスキルは何だろう」と考え、本来ディレクターの仕事である映像の編集作業を“勝手に”やりはじめたのです。勝手に、と言っても、ディレクターに怒られることはなく、むしろ「代わりに編集してくれてありがとう」と喜ばれるほど(笑)。映像編集のスキルを身に付けたい僕と、できる限り仕事を他人に渡したいディレクター、両者の利害が一致していたわけです。

そうやって地道に編集作業を頑張っていると、それがプロデューサーの耳に入り、ADの状態でディレクター業務をお試しで任せられる「ご褒美」をもらえたりすることもありました。

三谷三四郎さん

AD時代の一枚

バラエティ番組に“絶望”。スキルを生かす場所について思う

入社から3年後、ひたすら希望を出し続けたおかげで念願叶い、あるバラエティ番組への派遣が決まりました。しかし、喜びもつかの間、派遣先の番組が生放送だったことで再び苦しい状況に立たされます。

生放送の現場で映像編集のスキルは必要とされません。ADの仕事といえば、「続いてはこちら!」と書かれたパネルをディレクターがめくりやすいようにノリ付けしたり、ディスカウントストアに小道具を買い出しに行ったりすることくらい。

映像編集のスキルを生かす場面はゼロ。屈辱だったのが、その生放送の番組で3年間経験を積み、特殊スキルを身に付けた同期がいて、生放送ADとしてのレベルが雲泥の差。その同期からペーペーとして扱われる惨めな日々を送りました。
配属から2年で番組が終了してくれたおかげで、その環境から逃れることはできましたが、あの状況が続いていたら……と思うとゾッとします。

もちろん、バラエティの現場でも一般的に映像編集のスキルは役に立つのですが、僕はその数少ない例外である生放送番組に派遣されてしまったのです。この経験を通じて、ある場所で役立つスキルは別の場所で全く役立たないこともある、と学びました。

だからこそ自分のスキルをどこで生かせるのかという課題意識が芽生えたのかもな、と。

フリーランスという働き方。“頭を使って”仕事する大切さ

次に派遣されたのは、フリーランスのディレクターが数多く働く番組でした。

フリーランスのディレクターはいわば出入り業者であり個人商店。常にクビを切られるリスクに晒されており、仕事の本気度が違います。そして、常に時間がなく、ADにムダな説教もしません。

当時僕は、映像編集のスキルを生かし、時間のないディレクターを手助けしていました。ディレクターが編集する前にこちらである程度編集しておく。すると、いつも「おお、助かるわ!」と言ってもらえたのです。

効率よく、賢く働く先輩たちと仕事をするうちに、僕はいつしかフリーランスディレクターとしてのキャリアを思い描くようになっていきました。ありがたいことに、別の仕事に誘ってくれる人や「ディレクターになれば」と言ってくれる人も周囲にいました。そんな経緯で僕は新卒で入った派遣会社を辞め、ディレクターに転身します。

ディレクターの仕事は映像編集のスキルをフルに生かせる反面、とてもシビアです。作業効率やミスの多寡で評価されるADに対し、ディレクターは純粋に「作った映像が面白いか・面白くないか」で評価されます。上に怒られることはすなわち「才能がない」と言われているも同然です。「使えない」と思われたら、今度こそ終わり。

だからバカみたいに頭を使って考え続けました。

受けたダメ出しは全部ボイスメモに残し、なんども聞き返しながらVTRや台本を直す。それを繰り返すうちに、だんだんとダメ出しの数は減っていきました。

そして仕事量も増やしました。フリーになった直後から2つの番組を掛け持ち。仕事の量も怒られる量もキャパオーバーの状態でしたが、「2個できるなら3個もいけるかな」と番組の数を増やし、最終的に担当番組の数は4つ、5つになっていました。

三谷三四郎さん

フリーディレクター時代の一枚

その働き方を1年以上続けた結果、仕事の筋肉が鍛えられ、スキルも格段に成長し、結果としてどこの現場でもありがたがられる存在になったように思います。

スキルを高めて見えてきたこと。テレビ業界で出世しなくてもいい

それでも僕は、冒頭に書いた通り、自分がテレビ業界で10年後も働いている未来が想像できなくなったのです。

多くのフリーランスディレクターにとっての“ゴール”は、「総合演出」の肩書。総合演出になれば、自分の裁量で番組を作れるようになるはずだと思っていました。

でも、ディレクターとしての経験を積めば積むほど、「テレビ局員でもない限りそんな自由はなさそう」で、フリーのディレクターが自由に振る舞うには「雇い主であるテレビ局員にメチャクチャ気に入られていること」が大事なのだと分かってきました。

また、自分の番組を持つうえでは演者の芸能人とも仲良くなる必要がありますが、皮肉なことに、演者が「デキる」人であればあるほど、ディレクターの力量はいらなくなります。

例えば、店舗ロケをする番組で吉村崇さん(平成ノブシコブシ)がキャスティングされていたら、ディレクターは吉村さんに台本を渡すだけで、面白い番組を作れるでしょう。吉村さんがこちらの意図を的確に汲んで現場で立ち回ってくれるからです。その意味で、『さんま御殿』も(明石家)さんまさんに任せるだけで面白くなる番組と言えるかもしれません。

この場合、ディレクターに求められるスキルは、現場のディレクション力や映像編集力ではなく、あくまでタレントのサポートです。

これは、『笑ってはいけない』シリーズの1コーナーを担当したときにも感じました。憧れの松本さんと仕事で関われた喜びよりも、「この仕事、俺がやらなくてもいいな」という虚無感が先立ってしまったのです。

もちろん、テレビ局員や芸能人と良好な関係を築けるスキルが役立つことも多いでしょう。でも僕は、「そのスキルはなくてもいい」と思った。それよりも、世間的に知られていない人を発掘して、誰かを感動させるような映像を作りたいし、そのほうがスキルの成長もやりがいも大きいと感じていました。

僕は映像編集のスキルを高めた結果、ディレクターとしてやりたいことがより明確になりました(それ以外のことをやらないと決められた)。

ここがスキルを生かす場所。YouTubeという“副業”にキャリアを賭ける

その頃、僕はYouTubeに興味を引かれていました。YouTuberの動画を見ては「好きなことをやってるし、企画を通すためのムダな時間もなさそうだし、羨ましいな」と感じていたのです。

ちょうど、「これなら一生続けていきたい」と思うほど楽しかった『その他の人に会ってみた』という番組が打ち切りになったタイミングでした。MCの東野幸治さんが一般人の街頭インタビューを見てリアクションする、というこの番組がきっかけで、僕は街頭インタビューの楽しさに目覚めます。

「スキルを生かすために自由に映像を作って発表できる場所が欲しい」。こうして2020年3月、『街録ch』をオープンさせました。街頭インタビュー動画をただひたすら投稿していくだけのチャンネルです。

フリーランスの立場だったので、当時から本業・副業の区分けはあまりしていませんでしたが、テレビ以外の活動という意味では、当時の僕にとってYouTubeは「副業」と言えるものだったと思います。

街頭に繰り出し、道行く人に声をかけ、インタビューし続ける毎日。動画は毎日投稿し、反響を見ながらクリエイティブも調整しました。

チャンネル運営に集中するためテレビの仕事は極力減らしましたが、妻には「半年で月30万円稼げるようにならなかったらやめてほしい」と釘を刺されていました。

開始1カ月で登録者数は1000人程度。まったくお金になっていません。それに、テレビ業界のように分業されていないため、企画から編集・公開までのプロセスを全て自分がやらなければならず、2時間睡眠の日が1カ月半ほど続いたこともありました。

それでも、テレビの仕事とは違う手応えや「これなら一生できる」という楽しさを感じていました。テレビ時代に培った映像編集のスキルや体力が役立ったのは言うまでもありません。

開始から4カ月で登録者は1万人を突破。無事収益が30万円を超えた時、「ここから1年は何が何でもテレビの仕事はしない」と決めました。

同時に、良い動画を作ることに専念するため、「自分の価値を高めてくれる仕事以外は外部の仕事を受けない」「YESかNOで答えられることに3分以上時間を取られる電話を連絡ツールに使わない(知らない番号から電話がかかってきた場合はトラブルが怖いから出る)」「すでに連絡先を知っていて連絡を取り合っている相手には名刺も極力配らない」などいくつかの“やらない”を決め、自分の中のルールを作りました。

「頑張り方」が大事。スキルは戦略的努力で高められる

こうして自分の経験を振り返ると、大事なのはどんな仕事もただ盲目的に頑張るのではなく、必死に考えながら頑張ることだと思います。指示にただ従うのではなく、指示の意図を考えながら頑張る。そして「今の頑張り方がベストかな?」と疑い、考え続ける

そうすると自分のスキルが確立され、自ずとそのスキルが生かせるポジションを探しやすくなったり、やらないことを決められたりして、結果キャリアにもつながりやすくなると思います。

もちろん、そんな戦略を立てたとしても、飲み込みが早くて要領のいい人のほうがスキルの成長は早いでしょう。でも、飲み込みが早くて要領もいい人は、諦めるのも早いように思います。僕は飲み込みも要領も悪いタイプでしたが、だからこそこれと決めたスキルを伸ばすことができましたし、忍耐力もつきました。

ちなみに、独立するべきか否かで迷った時には、自分のスキルがある程度育ち、「(仮に会社を辞めたとしても)会社や仕事仲間から個別に発注が来るかどうか」で判断するのがいいのかもしれません。

20代後半くらいで「あまり仕事がうまくいっていないな」と感じている人でも、戦略的な努力と忍耐力で、先を走る人を逆転することは可能だと思います。

(MEETS CAREER編集部)

三谷三四郎

1987年、東京都生まれ。『笑っていいとも!』などのADを経て、『さまぁ〜ずの神ギ問』『有吉ジャポン』のディレクターを務める。現在は、街ゆく人々の人生を街頭インタビューで聞くYouTubeチャンネル『街録ch−あなたの人生、教えてください』を運営。

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