2021年 04月 18日
ブロムシュテットの慈しみに満ちたブラームスは
ここ数日、ブラームスの交響曲第一番を色々な演奏で聴き続けた。
僕が今までこの曲を聴いてきた中で好きな演奏は、バーンスタイン、バルビローリ、ジュリーニ、ギュンター・ヴァント、セル等々たくさんあるけれど、今回初めてアーノンクール指揮ベルリン・フィルによるブラームスを聴いてとても面白かった。
これはブラームスの交響曲を構成する各部品をいったん全て解体して、もう一度新しく組み立て直したような演奏で、所々に軋みや歪み等があっておそらく好き嫌いが別れる演奏だと思うけど、僕にはとても新鮮で興味深い演奏だった。
随分たくさんのブラームス交響曲第一番を聴いたので今回はそろそろ中締めにしようかなあと思っていた時、ブロムシュテットがゲヴァントハウス管弦楽団と演奏した2019年のライブ録音があると知り聴いてみて「ああ、実に美しいブラームスだなあ」とため息をついた。
ゲヴァントハウス管弦楽団の弦の音色はほんとうに柔らかく、管楽器の響きは涙が出そうになるくらい懐かしい音がする。
冒頭のティンパニーを中心とする連打は普通どこか切迫感に満ちたただ事ならぬ出来事の前触れのように聴こえるけれど、ブロムシュテットの演奏では、まるで歌舞伎で雪景色を表す時に鳴らす太鼓の音のような静かな響きで始まる。
二楽章、三楽章もたおやかで優しくまるでシューベルト音楽のような歌心に溢れ美しい。
ブラームスが一番力を入れたであろう終楽章も基本的に静かで落ち着いたテンポの音楽が広がるけれど、冒頭から大いなるものの訪れを感じさせる気配が漂う。
そしてあの有名なベートーヴェンの歓喜の歌を思わせる旋律がゆっくりと現れる。
オーケストラを煽ることなく一つ一つの音を慈しむようなブロムシュテットのブラームスは、おそらく今のブロムシュテットだからこそ表現出来る唯一無二の音楽なのかも知れません。
作為の果てと無作為の果て、そのアプローチはまさに対極にあるけれど、シューマンから受け継がれたブラームスの純粋なロマンの魂に触れているという意味でどこか通じるものがあるかも知れないと、私なんかは思います。