2019年 01月 18日
セルのモーツァルトは
昨年末にジョージ・セル指揮クリーブランド管弦楽団によるベートーヴェンの交響曲に魅せられ、以来セル指揮によるブラームスやドヴォルザーク、シューマンの交響曲を聴き続けていて、どの演奏も楽しんでいる。
先日はモーツァルトの交響曲集を入手し聴き始めたら、これもまたはじめてモーツァルトを聴いたかのような新鮮な魅力に満ちている。
そういえば吉田秀和さんが確かセルのモーツァルトについて書いていたなあと思いだし『モーツァルトをきく』の中にこんな言葉を見つけた。
「ちっとも通俗的でなくて、甘ったるくなくて、むしろ必要にして充分なことを、しかしまた、はしのはしまでていねいにはっきりと演奏しているだけで、ほかのことは何もしないのに、毅然として雄々しく、高雅にして、時には壮重でさえある音楽」
これはセルの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」について書かれた文章だけど、セルのモーツァルトを的確に表現している。
吉田さんはこんな風に続ける。
「(セルのモーツァルトは)感情を音につめこもうとするところがなく、すべては音から生まれてくる表現によって、きくものを魅惑する歌になっている」
この表現はモーツァルトだけではなく、セルの演奏によるベートーヴェンにもドヴォルザークにもブラームスにもあてはまるよう。
またまだセル指揮による演奏を追いかける旅は続きそうです。
けどなあ、ドビュッシーやブルックナーもあるんやで。