丹波篠山デカンショ館 第80回ハイク [兵庫県]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
入社時の神戸事業所の仲間との第80回ハイキングでは最初に篠山城を訪れました。その後は右の写真の共通券の残りの3ケ所を見ることにして、篠山城の次に向かったのは青山歴史村の中にある丹波篠山デカンショ館でした。篠山城の記事の中で紹介した二階町バス停から篠山城に向かう途中のお堀の傍に建っていた篠山藩地方役所門をくぐってデカンショ館に向かいました。篠山藩地方役所門は明治初期に置かれた篠山藩庁舎の遺構で、篠山城大手門から真っ直ぐ北に進んで篠山郵便局の手前にありましたが、丹波篠山デカンショ館周辺の整備を機会に現在の場所に移設したそうです。役所門が建っていた元の場所には右の写真の「伊能忠敬笹山計測の道」の碑が建てられていました。碑には篠山ではなく笹山の文字が使われています。
ネットで調べていると郵便局横の場所も元々の場所ではなく、下記写真のように昭和57~58年頃に南側(城方向)から解体せずにコロ引きで郵便局横の場所に移動している動画が掲載されていました。移動元の位置は判りませんが篠山藩庁舎の通用門であったとのことなので詳しく調べることが出来れは分かるのだと思います。5枚の写真を6秒ごとに表示していますが、4枚の写真には郵便局が写っているのが分かっていただけると思います。2枚は移動中の写真で1枚は郵便局の近くに設置され塀も新しく作られた写真で、1枚は門が撤去された後の写真で、1枚は現在の場所でのお披露目式の写真です。5枚の写真の内、2枚は動画から、1枚はGoogle地図のストリートビューから、2枚はネットから転用させていただきました。Google地図のストリートビューには上で紹介の「伊能忠敬笹山計測の道」の碑が写っています。
篠山藩庁舎の場所を調べてみると、明治2年(1869年)には版籍奉還が行われ、 当時の藩主であった青山忠敏が改めて篠山藩知事に任命されて、明治3(1870年)に篠山藩庁舎は篠山城を出て大手馬出しの東に設けられたと丹波篠山市の資料の「2.2 社会環境 1)行政区の成り立ち」の部分に書かれていました。さらに別の資料には大手馬出しの東の地方役所を増改築し篠山藩庁舎が置かれ、その後、篠山県庁、豊岡県支庁、篠山区裁判所として明治 24 年まで使用したと詳しくかかれていました。現在の場所は昔は大手馬出の中に当たるので、もっと東にあったことが想像されます。現在の丹波篠山市役所の位置に篠山藩庁舎があったとの資料もあります。なお、本地図から判断して、今回の記事のデカンショ館は大手馬出し(北馬出し)の西端あたりに作られたことになります。下記の絵図は天保8年(1837年)に描かれ明治2年に写された丹州篠山城郭之絵図でクリックすると拡大図を表示します。丹州は丹波国の別称です。
篠山藩地方役所門は切妻、本瓦葺、三間一戸、4本の親柱に2本の控え柱がある趣のある門でした。
本来は青山歴史村も見ることができるはずでしたが地方役所門に貼られている説明板(右に拡大)にあるように青山歴史村は改修工事のために、見ることは出来ないのでデカンショ館のみの見学となりました。青山歴史村の資料の一部はデカンショ館に移して展示されていると書かれています。
青枠で囲ったところが青山歴史村です。紫色の枠の所がデカンショ館です。本来は青山歴史村の長屋門から入り、青山歴史村側からデカンショ館に入るのですが、我々は駐車場から直接にデカンショ館に入りました。橙色(━━)のラインは今回の第80回ハイキングでの散策したルートです。
デカンショ館でもらった青山歴史村の資料に掲載されていた配置図です。この配置図を見ていると青山歴史村が見れなかったのが残念に思えてきました。
こちらが駐車場側のデカンショ館の入口です。
デカンショ館の説明資料です。3画面を8秒間隔で切り替えています。内容を読みたい方は画面をクリックすると1枚の大きな画面を表示するので読めると思います。
こちらがシアター室です。
デカンショ節と言えば「デカンショデカンショで♪ 半年暮らす♪ あとの半年寝て暮らす♪」を思い出される方もおられると思います。全国的によく知られたフレーズですが、放映されているビデオによってデカンショ節が丹波篠山と大きな関りがあったことを知ることになりました。デカンショ館に入ると最初にシアター室でビデオを見ることをお薦めします。そうすることで展示されている資料を興味深く見ることができると思います。内容はデカンショ節の発祥と変遷です。
バーチャルデカンショ踊りブースです。ここではAR(拡張現実)を活用してデカンショ踊りが再現されています。
このコーナーには昔の写真やポスターが展示されていました。
デカンショ節は学生歌として広く歌われていることから、いろんな歌詞が創作されています。その中で最もポピュラーな歌詞を紹介します。
デカンショデカンショで半年暮らす アヨイヨイ
あとの半年寝て暮らす ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
丹波篠山山家の猿が アヨイヨイ
花のお江戸で芝居する ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
酒は飲め飲め茶釜でわかせ アヨイヨイ
お神酒あがらぬ神はなし ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
灘のお酒はどなたが造る アヨイヨイ
おらが自慢の丹波杜氏 ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
雪がちらちら丹波の宿に アヨイヨイ
猪がとびこむ牡丹鍋 ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
丹波篠山鳳鳴の塾で アヨイヨイ
文武きたえし美少年 ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
展示されていた昔の写真の写真を紹介します。
デカンショ節が全国に普及したの明治時代です。そのきっかけになったのが東京一高(現在の東京大学と千葉大学)の学生たちでした。明治になり廃藩置県により篠山藩も廃藩となりましたが、旧篠山藩青山家の奨励によって、郷土の秀才を年々東京に遊学され、多くの秀才を養成したことは有名な話ですが、遊学生たちは夏になると房州八幡の浜(現在の館山市)を銷夏地としてやってきていたそうです。明治31年(1898年)の夏にその江戸屋の2階で青山忠允他篠山町出身の若者達が蛮声を張り上げて郷土の盆踊りの唄を歌っているのを、ちょうど階下に居合わせた東京一高の水泳部員たちがこれを聞いて、気に入り篠山出身の若者たちに付添っていた亘理章三郎(後の東京高等師範学校の教授)らから唄の指導をうけ意気投合、そして彼らは東京に帰ってからも自由奔放に唄い多くの学生や若者の共鳴を受けて愛唱されるようになり、デカンショ節が全国に広まったと言われているそうです。そんなことからデカンショ節は学生歌として全国にひろまったようです。
昔のデカンショ祭りの写真も展示されていました。デカンショの語源は諸説ありますが、篠山町七十五年史(1955年)では「デカルト・カント・ショーペンハーウェル」説を採用しているのに対して、篠山町百年史(1980年)では「はやし言葉にすぎず、特別の意味を持たない」と断言しているそうですが、みつ節の中に「デコンショ デコンショで半年暮らす あとの半年泣いて暮らす」のフレーズもあることから「出稼ぎしよう」も有力な語源だそうです。
デカンショ祭りにはクイーン神戸も参加されていました。デカンショ節は明治大正時代に全国的に学生歌として広まりましたが、元は江戸時代から歌われていた篠山地域の盆踊りの民謡「みつ節」でした。
デカンショ節の元となった三つ節(みつ節)の動画を紹介します。
前半は音声が無いのでプレーボタン( ► )をクリックすると音声が出る部分から開始するように設定いたしました。ただし動画が終わると頭から表示し停止ボタンをクリックするまでは繰り返し永遠に表示し続けます。
1979年に丹波篠山市後川新田原で撮影された「みつ節」の歌や踊りの映像で、唄っているのは小島健次郎さんです。
昔の写真をもう一枚紹介いたします。
デカンショ祭の動画も紹介します。掲載しているのは2018年の第66回デカンショ祭です。毎年8月15日と16日の2日間行われていますが、第67回は台風10号の被害で8月16日の1日間だけの開催となったそうです。2020年は新型コロナウイルス感染拡大の影響で第68回の開催は厳しいのかもしれません。第58回から67回の映像を紹介します。→第67回 第66回 第65回 第64回 第63回 第62回 第61回 第60回 第59回 第58回
丹波篠山の郷土品も置かれていました。
外に出て次の武家屋敷方向に歩いていると、2017年4月25日にお披露目となったデカンショ節の踊り子人形がありました。白い繊維強化プラスチック製で、高さは165cmだそうです。青山歴史村の入口辺りです。
見事な長屋門がありました。
その長屋門が青山歴史村の入口でしたが、すでに紹介の通り整備中のために中に入ることは出来ませんでした。
せっかくなので頂いた青山歴史村の説明資料を掲載します。クリックすると読める大きさに拡大いたします。
こちらが説明し利用の裏側です。
JR篠山口駅とデカンショ館や篠山城との位置関係が判る地図を掲載いたします。篠山口駅から二階町バス停までの距離は約5.9kmです。
オリジナル地図はこちらです。→Google地図
2020-04-09 18:47
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コメント(20)
丹波篠山といえば私の姓が「篠原」(しのはら)であるため、「篠山」の「篠」がなぜ「ささ」と読むのか疑問でした。子どものころ、「篠」という漢字がどうしても覚えられず、「しの原拓生」と書いてました。
丹波篠山で思い出すのは子どものころ行った栗拾いと桂文珍さんです。
by リス太郎 (2020-04-05 09:48)
リス太郎さん こんにちは
自分の名前の中の文字が使われていると親しみが湧くことでしょう。「伊能忠敬笹山計測の道」の碑には笹山が使われていて江戸後期には笹山領もあったようです。築城以前は日置荘黒岡村で、城が出来て篠山(ささやま)と呼ばれるようになったそうですが、名前の由来は下記の2説があるそうです。
①小笹が生い茂っていたと言われる「笹山」という小山を利用して城が築かれたから。
②「さおとめ」「さゆり」など「清く神聖な」という意味の「さ」を重ねて名付けられた。
by SORI (2020-04-05 13:02)
三つ節踊り。珍しいもの拝見させていただきました★★★
by 夏炉冬扇 (2020-04-05 19:22)
訪れてみたいところです。
by JUNKO (2020-04-05 19:44)
丹波篠山の三つ節踊りですか
丹波と言うと京都とばっかり思ってました
丹波栗にマツタケが有名ですね
by kazu-kun2626 (2020-04-05 20:02)
デカンショの唄、大昔に歌ったことがあります。
三つ節踊り、いい物を見させていただきました。。
by 横 濱男 (2020-04-05 20:09)
夏炉冬扇さん こんばんは
みつ節踊りを探した甲斐がありました。歴史があるものはいいですね。
by SORI (2020-04-05 21:19)
JUNKOさん こんばんは
丹波篠山は学生時代に自転車で行ったりと通ったりしましたが、底を目的に電車で行ったのは初めてでした。電車の旅もいいものですね。
by SORI (2020-04-05 21:21)
kazu-kun2626さん こんばんは
丹波に行って松茸ごはんを食べるのを楽しみにしていました。デカンショ節がの元が丹波篠山であることを知ったのも値打ちがありました。
by SORI (2020-04-05 21:24)
横 濱男さん こんばんは
4組食らう集まるお泊りのゴルフコンペで、デカンショの替え歌がよく出てきます。きっとその人の出身校の伝統の歌なのでしょうね。
by SORI (2020-04-05 21:27)
こんばんは。デカンショの唄うちのデイサービスでもうたったりします。
by みぃにゃん (2020-04-05 22:27)
みぃにゃんさん おはようございます。
昔から歌われてきたので皆さんご存知なのですね。全国的になり長く親しまれていることは丹波篠山の人にとっても誇りだと思います。
by SORI (2020-04-06 05:58)
デカンショ祭りを生で観てみたいと思いました^^
デカンショ・デカンショ、楽しそうですね♪
by Rinko (2020-04-06 07:54)
Rinko
西日本最大級の民謡の祭典(イベント)だそうです。見ごたえがありそうです。ただし今年は新型コロナの影響で難しいのかもしれません。8月までに感染が収まるかどうかですね。
by SORI (2020-04-06 09:30)
SORIさん お早うございます
金閣寺にコメントを有難うございました。
1987年金閣の昭和大修理、2007年方丈の
解体修理も終わって金閣寺が輝いています。
歩いて観光、楽しそうです。
お祭りの時は、混み合うんでしょうね(^^♪
毎日サンデー、時間はたくさん有るんで
遊びに行きたいです。
by tarou (2020-04-06 09:46)
tarouさん おはようございます。
お祭りは楽しいことでしょう。子供たちも思いでに残る人も多いことでしょう。
by SORI (2020-04-06 09:56)
デカンショは聞いたことがあるような?
(たぶん)エリートな学生と祭りのはやし言葉との関係が面白そうです。
by サンダーソニア (2020-04-09 18:01)
デカンショってなに~? と思って調べたら、諸説あるみたいですね。
出稼ぎの意味もあるらしいですよ。
そう思って読むと、「デカンショで半年暮らす」の意味が何となくわかりますね。
実際のところはわかりませんけど。
by リンさん (2020-04-09 18:02)
サンダーソニアさん こんにちは
デカンショ節が学生歌になった経緯は面白いです。千葉県の館山での出会いが関係していたのですね。
by SORI (2020-04-09 18:20)
リンさんさん こんにちは
確かに 「出稼ぎしよう」から「デカンショ」になった説も有力ですね。本文も少し修正させていただきます。沢山の囃し言葉から淘汰されたために記録に残らなかったように感じます。
by SORI (2020-04-09 18:27)