「マイマイ新子と千年の魔法」の片渕須直監督、講義レポート・・・映画が観客に与える「印象」の力(1) - たまごまごごはん

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「マイマイ新子と千年の魔法」の片渕須直監督、講義レポート・・・映画が観客に与える「印象」の力(1)

「アートアニメーションの小さな家」で、「ブラックラグーン」「マイマイ新子と千年の魔法」「アリーテ姫」の片渕須直監督の講義を受けてきました。
新子好きな方も、見てはないけど映画が好きな方も面白い話だと思うので、自分の記憶整理もかねてメモしてきた内容をちょっとずつ書いてみようと思います。
 

●「印象」としての映画の話。●

円谷英二の映像世界」という本から。
円谷英二の映像世界
この本にはゴジラが上陸するカットがあります。
それを撮った人は「89カットくらいあったんじゃないか?」と思っていたのですが、実際にカット数を見てみると実は30カット強程度しかなかったりします。
この数値の違い、勘違いしていただけではなく、ゴジラの上陸シーンにある物語性が実際よりもイメージを喚起する力があった可能性がある、ということです。
 
男はつらいよ、寅次郎恋歌」という映画で、寅さんが大学教授に、信州のリンドウが咲く家で晩御飯の声が聞こえてきた情景を語るシーンがあります。
そこで信州のリンドウの家のシーンを入れることはイメージを伝える方法のひとつ。
ところがこの作品ではリンドウの家はまったくでてこない。縁側で話す寅さんと教授、そしてリンドウの花を映すだけです。
なのに見ていて、信州のリンドウの家を見たような効果を観客に与えます。
 
片渕監督は、観客のイメージというのは実は「見た目の映像」ではなく「印象」として焼きつくのではないか?と語っていました。
ゴジラが思ったよりもカットが少ないのに多く見えたように、寅さんの家が描かれていないのに見えるように。
映像で見せるということは情報量が半端ではなく多いという利点もありますが、それ以上を超えない限界もあります。
その限界を超えるには「観客のイマジネーションをいかに喚起するか?」を手法で探っていくことなのではないか?
 
たとえばアニメの場合。ぺたっとした色使いで肌や服の質感を与えるのは、リアルに描写するだけでは限界があります。
さらなるリアルを感じさせるには、観客の想像を刺激したほうがいいのではないか、と語っていました。
 

●映像にしないことで観客に焼きつくシーン●

アルプスの少女ハイジ」でクララが立つシーンはとても有名です。見てとても分かりやすい。
ところがその後の演出が面白いとのこと。
52話の最終回は、クララがフランクフルトに帰って、突如いなくなります。雪に閉ざされた小屋でハイジが生活を送ることになります。
そこにクララから手紙が。
『ちょっと走れるようになったのよ。』
考えてみたら立ったどころじゃない!まったく別の一面、その絵柄は見たくて仕方のない映像なわけです。
しかしこれは映像に出ません。心の中でイメージするシーンです。
映像に描かないことによって、その印象を観客に焼き付けるテクニックです。
 

●リアルを切り取り作品にするということ。●

マイマイ新子」という高樹のぶ子の作品をアニメ化すると決まったとき、どう映像化するのか、そのままアニメにしてよいのか、というのがポイントになったそうです。
ようするに「全部を描く必要はない」のではないか。語りきらないものが可能性を秘めているのではないか、というのを監督は考えていたそうです。
作品を作るとき、一つ一つを積み重ねて『くみ上げていく』というのが手法の一つですが、「マイマイ新子」に関しては『どんな風に切り取っていくか』の手法で作って行くことになります。
 
たとえば写真。
写真はあらゆる流れの一部を切り取ったものです。
背景ひとつひとつに意味があるし、背景にいる人間には人生がある。バックボーンは別のところにある。
背景そのものは、存在している。
しかしそれは写真では背景として写るだけ。
アニメでも「背景」は説明しなければいけないのか、と監督は考えます。
桃太郎を描くとき「何歳なのか」「どんな生活水準なのか」というような背景は物語にはありません。しかし絵にするとき、映像にするときそれは必須になります。そのバックボーンをどう描くか?
 
監督が考えたのは『もっと観客にゆだねていいのではないか?』ということだそうです。
マイマイ新子」の舞台は防府市。住んでいる青木新子という少女を描くとき、一つ一つを解説していくのではなく、リアルな世界から切り出していくほうがふさわしいのではないか、という考えに基づいて作品が作られていきます。
ひいては、『描ききれていないところを切り出すことでアピールできるのではないか?』という挑戦に変わっていきます。
 

●人間はそんなに記号的に出来ていない●

マイマイ新子と千年の魔法」のアニメ化の際、ロケハンの写真の量がありえないほど多いのを見せてくれました。なんというかほんと数え切れない量です。
これは『実際にある世界をどう切り取ればいいのか』という『必然』を描くための準備です。
 
人となりや接し方を考えていく時も、『実際にある世界から切り取る』ことをか考えていきます。
たとえばヒロインの新子。
通常の立ち位置で考えるなら「男勝りで明朗快活」なキャラです。しかしそれはリアルなのだろうか?
 
最初、もう一人のヒロイン貴伊子の間に距離感が生まれるシーンがあります。実際の空間としての距離です。
すごく離れたところをついて歩いていく、しかもばれているのに。
「なぜか」はセリフで説明することもできるけれど、それはムリに説明する必要はないのではないか?と考え、距離の描写はするけれど解説は入りません。
新子がどんな気持ちで後ろをついて歩いていたか、離れた位置を歩いていたか。それはきっちり表情や動きで描写をして切り取るけれども、説明するセリフはいりません。
 
そこで、表現に深みを加えるために使ったのが音楽だったそうです。
マイマイ新子と千年の魔法」で使われている音楽は人の声を多重録音したもので出来ているので、聞いていてとても印象的。セリフの表現を削ったかわりに女の子達の気持ちをその声で作った音楽で埋めていきます。あとは表情や位置で人の気持ちやあり方を描いていきます。
こうして内容を説明的にしないことで、「ああ、あったなあ」という観客の感覚に残りをゆだねる手法を取っていきます。
 
(続く)