「桜が好きなのかい?」
近くの公園に咲く一本の桜の木の下で、桜の花を眺めていると、
公園の庭師のおじさんが話しかけてきた。
「ええ、日本を思い出すもので」と言うと、「桜ってのは、もともと日本から来たのかな?」と聞いてきたので、「分からない、そうなのかな」と答え、「戦後に国連に贈ったという話を聞いたことがあるんだけどね」と言ったので、「へぇ、そうなんですね」と答える。
2メートルの間隔を保ちながらの、たわいもない会話。
なんともつかみどころのない会話であったが、和のひとときであった。
今、アジア系の人達へのヘイト行為が多発しているとのことで、私自身は直接被害はないものの、
やはり外へ出る時は、少しばかり気が張る。
ボディーガードだった私の相方は年齢のため外へ出ることができないので(若作り作戦のために、いろいろと帽子を試し、ファッションショーをしてみたが、すぐに諦めた)
しっかりとおめかしをして、赤いコートを羽織り、髪の毛をぴっちりと整えて、とにかく舐められないようにして、スーパーへ出向くようにしている。
それだけ鎧を重ね着していたものだから、そのおじさんが話しかけてきたとき、なんだか気が抜けてしまい、心が和んだのだった。
憎しみや恐怖が周囲に蔓延る一方で、近所のスーパーで働くお兄ちゃんが、我が家の扉をたたき、「何か困ったことはないですか?」と聞いてきたり、行きつけのオーガニック野菜のお店や肉屋さんでは、「How are you?」と必ず聞いてくる。そして、帰る際には、「Be safe(安全に)」と声をかけてくれる。
うまく説明することができないが、はじめて、How are you?の意味が分かった気がした。「ご機嫌いかが?」ではなく、むしろ、「困ったことはないですか?」という意味であり、「大丈夫ですか?」の意味であり、「何かあったら言ってくださいね」の意味である。
そうやって今は、何層もの意味が加わって聞こえてくるのだった。
というより、もともとこの言葉は、そういう意味だったのかもしれない。
ロックダウンが始まって2週間以上が経ち、我が家の庭には、Wren(ミソサザイ)という鳥がやってくるようになった。
毎朝ロビン(コマドリ)という鳥が挨拶しにくるし、カササギとクロウタドリが縄張り争いをしていたりするが、このミソサザイがやってくるようになったのは、初めてである。
鳥を観察するのが大好きな相方はさっそく本棚から鳥の図鑑を取り出し、ミソサザイのページをめくる。
「ミソサザイの鳴き声は、複雑で、数えきれないほどの音色が含まれるらしいよ」
と興奮気味に話し、「ピヨピヨピヨー」とマネしながら、
挙句の果てに、その鳴き声と共に身体をユサユサと動かし始めて、
「これで、ミソサザイ・ダンスができるんじゃないか?」
と言いながら、さらにフルフルと身体を動かし始める。
私はそんな相方を眺めながら、「不自由の中の自由」という言葉が頭に浮かぶのだった。
そんな中、愛蘭の首相が、医療の現場に週一だけ復帰するというニュースが流れた。
もともと医療従事者であったそうで、再び医者として登録しなおし、パンデミックの前線に立つという。
私はアイルランドに来て間もないので、このヴァラッカー首相のことはよく知らないのだが、この件で一気に好感度が増したのだった。
一方、この国の大統領マイケル・ヒギンズ氏は詩人である。まるで妖精のような可愛いおじいちゃんで、これまた大好きな人なのだ。
元医者の首相と、元詩人の大統領とは、なんとも素敵な組み合わせである。
2月の終わりに、ダブリンから1時間ほど車を走らせたところにあるニューグレンジという遺跡を訪れた。
エジプトのピラミッドよりも古い、5000年も前に作られた羨道墳である。
毎年、冬至の日になると、太陽の光が通路を突き抜け、遺体が葬られていた奥の部屋にまっすぐ当たるという。
冬至の日、真っ暗な暗い部屋から通路をたどり、外へ出ると、真正面から太陽の光が当たり、
まるで生まれ変わったような気分になるのだとか。
食料もままならない、長く暗い冬を終えて、やっと草木が芽吹き始め、生命が息を吹き返す。
この日が、昔の人にとってどれだけ大事であったかがとてもよく分かる。
そして、今ならば私も、この状況が、しっかりと想像できるような気がする。
まだ家から自由に出られなくなって2週間ほどであるが、
きっとこのパンデミックが収束に向かう頃、暗闇から這い出て真正面から光を浴びるような感覚に陥るのではないかと思う。
そうやって、ただただ「当たり前」を体いっぱいに浴びるのだ。
しかし、それでも、この体験から学んだことは計り知れず、
そんな当たり前が手の中に戻った後も、ミソサザイの鳴き声や、
お店の人達の言葉の響き方、桜の哀しくも美しい姿を
是非とも忘れないようにしたい。
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