子どもの悪態にまで傷ついてしまう/頼りない生蠣のような感受性/それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
ひょんなことから、復学することになった。
アイルランド国立大学コーク校UCCで開催される、芸術の世界では比較的新しいウェルビーング・コーディネーターWellbeing Coordinatorの資格をとるためのコースの奨学金をいただいた。アーティストのメンタル面を支える役割を担う立場だ。
私は、昔から情けないくらいストレスに弱い人間で、心の平穏を保つために、手あたり次第、自分を癒す方法を試してきた。若い頃は、不安定なばかりに、いろんなチャンスを逃して来たように思う。今になって、あの時はこうすればよかった、ああすればよかったなどと後悔することが多いのだが、そんな恥ずかしい経験が山積みだからこそ、こういう分野で役に立てるのかもしれない、などと開き直りつつある今日この頃なのだ。
強くて器用そうなアーティストがどんどん前へ出て、繊細そうなアーティストがやや引っ込みがちな最近の傾向が気になっていた昨今。そんなときに、このコースの奨学金のことを知って、ピンと来てしまった。
パートタイムのコースとはいえ、再び大学で学べるのは嬉しい。
そんななか、これまたひょんなことから劇作家のグループから声がかかり、とある企画に関わることになった。
現在、英国や北アイルランドでも大きな問題になっているが、ダブリンでは昨年の11月末に都内で大きな暴動が起きた。なんとも後味が悪い暴動だった。反移民の右翼の人たちがネットの呼びかけをきっかけに街を乗っ取り、バスや路面電車やパトカーに火をつけ、警察も追いつかず、一時的に大混乱となった。彼らの目的が移民を追い出すというものだっただけに、見た目が思いきりアジア人である私は、その後しばらくは一人で街の中心へ赴くことができなかった。その後も、難民が滞在予定の施設が放火される事件が相次いでいる。
今年の11月は、そのダブリン暴動から1周年を迎えると言うことで、この暴動にまつわる小作品を発表しようと、知り合いの劇作家さんから声がかかった。別の用件で、彼女とお茶をしていたのだが、知らぬ間にそんな話になり、ちょうど暴動に関する詩を書いていたこともあって、詩で参加することになった。いつだって「はじまり」というのは、見た目が地味である。
ただ被害者に徹するのではなく、なんでこんなことが起きたのだろう、と事件に思いを巡らしながら言葉を綴る過程は、私自身の癒しにもなっている。劇作家によって、この暴動の捉え方が異なって興味深い。
何歳になっても生牡蠣のように頼りない心を受け入れつつ、ヨタヨタと、一歩一歩、前へ進むのみである。