マガジン航[kɔː] https://magazine-k.jp for the future of the book Fri, 30 Aug 2024 08:19:04 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.6.2 https://magazine-k.jp/wp-content/uploads/2015/09/cropped-magko_logo-32x32.jpg マガジン航[kɔː] https://magazine-k.jp 32 32 153732581 文フリに現代の「文学とは何か」を見た https://magazine-k.jp/2023/11/16/literature-in-bunfree/ Thu, 16 Nov 2023 00:24:30 +0000 https://magazine-k.jp/?p=28243 続きを読む]]>

11月11日(ポッキーの日)、かねてより見物したいと思っていた「文学フリマ」に参加した。おのぼりさん感覚、文化祭感覚、そしてかつて開いていた僕の本屋「フィクショネス」感覚を、存分に味わうことができた。誘っていただいた破船房の仲俣暁生さん(当「マガジン航」の編集発行人)に、まずは感謝する。現場でも仲俣さんは大奮闘なさって、おかげで僕は楽ができた。

開場は12時の予定で、準備は10時からということだったが、僕たちが到着した時(つまり開場2時間前!)には、すでに来場者が行列を作っていた。東京流通センターをフルに使った会場は広かったが、個々のブースは狭かった。破船房もひとつのテーブルを半分だけ使うことができて、そこに仲俣さんや僕の本を、なるたけ見栄えよく並べて客を待った。

テーブルの残り半分を占める隣のブースは、11時を過ぎても人が来なかった。大きな段ボールがいくつも積んであるばかりで、他人事ながら大丈夫なのかと心配になったが、開場20分くらい前にようやく段ボールが開かれた。中からは表紙に可愛い男女の描かれた、B5サイズの300頁くらいある本がどかどかと出てきた。

寒風の中で待ち続ける来場者たちを慮ってか、開場を10分早めるというアナウンスがあった。僕たちのブースはすっかり準備が整っていたが、となりは段ボールを開くので精一杯の様子である。間もなく開場となった。すると来場者たちは、はっきりとなりのブースを目指して集まり、そのぶ厚い本を中心に次々と買いあさっていくのである。たちまち行列になり、僕たちのブースの前を覆い始めた。仲俣さんは行列に向かって、通路の中央に並んでくださいと何度も声を上げたが、行列は伸びる一方、ついには文フリのスタッフが人員整理をしなければならない仕儀となった。

僕も驚いたが、そのブースの人たちにもこの人気は意想外だったらしい。印刷所から届いた本の帯封を切るのさえもどかしげに、ばんばん本を売っていった。千円札や一万円札が飛び交い、空になった段ボール箱を片づけることすらできず、開始10分で売れ切れた本もあったようだ。

そのブースの人たちはとても礼儀正しく、僕たちに御迷惑をおかけして申し訳ありませんと、何度も言ってくれた。中の一人は僕のことを知っていたばかりか、数年前にご挨拶もしてくれていたという。文芸畑の人なのだった。他の方々も僕たちに終始気をつかってくれた。その間も本は売れ続け、金庫代わりにしているクリアファイルは紙幣で膨れ上がり、ラグビーボールみたいになっていた。

そうなると僕としてはもはや羨ましくすらない。そういう現象を目の当たりにしたという、お祭り見物みたいな愉快な気持ちであった。そしてもちろん、彼らの売りまくっている本の内容が気になる。覗いてみるとどうやらそれは、ビジュアルノベルの批評集なのだった。

少し客足が落ちついてきたころに、僕は訊いてみた。

「ビジュアルノベルっていうのは何ですか? ラノベみたいなもんですか?」

「むしろゲームですね。コンピューターゲームなんだけど、小説として楽しめるというか」

「ああ」僕は必死に貧弱な知識を動員して理解しようとした。「つまり『ポートピア連続殺人事件』みたいな?」

「あのへんが起源ですね」

のちに知ったのだが、僕の出した例も完全なトンチンカンでもなかったにしろ、むしろ『ときめきメモリアル』と言ったほうがよかったようだ。恋愛シミュレーションゲームである。

なるほど、と僕は思った。彼らはあれを「ノベル」=「小説」と見なしているわけか。

論争のない世界

破船房のブースの売り上げが悪かったとは思わない。仲俣さんがさかんに声を出してくれたおかげもあって、破船房から出してもらった『新刊小説の滅亡』は50冊近くも売れたし、仲俣さんの本には完売も出た。知り合いにばかり売れたのでもなかった。我々は我々なりに奮闘し、成果を上げたと言える。

僕たちが売った本には写真集もあるが、大半が「純然たる小説」とそれに関わるものだった。「純文学」のことではない。「ビジュアルノベル」に較べれば純然、という意味である。ビジュアルもなければ音も出てこない、文章だけで出来ている小説を僕たちは売っていた。

水と油である。ビジュアルノベルから見たら僕たちのやっていることなどは、殆ど遺跡の発掘も同然だろう。一方で僕から見ればビジュアルノベルは果たして「ノベル」なのか、と問いたくなる。

だが僕は問わなかったし、彼らも僕らを嗤わなかった。それどころか彼らは僕らに気を配ってくれたし、僕も彼らに好感を持った。僕たちはお互いに笑みを交わし、気持ちよく別れた。

それはこの「文学フリマ」全体を象徴する光景に、僕には思える。店番の合間に会場を回ることもできたが、そこには多種多様な、あまりにも多種多様な「文学」があった。詩集あり海外文学あり、ラノベあり二次創作ありフォトエッセイあり、マイナーな趣味のエッセイあり政治的提言あり短歌あり旅行記ありエロあり創作文藝ありと、細分化していけばまだまだいくらでも広がるジャンルの「文学」が、幾千の著者によって書かれていた。ブースからブースへ渡り歩く人たちはそれらの小冊子や本でエコバッグをぱんぱんにしていた。つまりここで売られている「文学」はただ幾千の著者が書いているだけでなく、幾万の読者に読まれているのである。ちなみに著者と読者が重複するのは当たり前のことで、今に始まったことでも、論じて何かになることでもない。

そんな、収拾のつけようもない「文学」の乱切りポトフが「文学フリマ」であり、「文学」なのだと、僕はその巨大な空間を呆気にとられながら思い知った。

かつて文学には論争があった。お前の文学は間違っているとか、こんなものは文学じゃないとか、そんな言葉が真剣に応酬されていた。そこでは恐らく、弁証法が信じられていたのだろう。相容れない二項を対立させれば、そこに止揚が、アウフヘーベンが現われるという希望があったに違いない。

だがもはやそんなことは希望すべくもない。なぜなら対立するのは二項ではなく、百項、千項であり、これをアウフヘーベンするなんて芸当は非現実的だからだ。これら「文フリ」に広がる百項を統合し、二項か三項くらいにまとめあげようとすれば、そこにはどこか権力志向を思わせる雑駁さ、図々しさが露呈するだけではなかろうか。

人はもはや「文学とは何か」を共有しようとはしていない。『新刊小説の滅亡』と「ヴィジュアルノベル」は水と油なのかもしれないが、この二項が対立するには、まずお互いへの基本的な理解が必要になる。そしてその「基本的な理解」に至る道は、なんと遼遠なことだろう。私たちは勉強をしなければならない。その勉強の先に、もしあるとすれば「対立」は生まれるかもしれないが、対立するためにする勉強など、どこが面白いのか。そもそもそんな対立は生じることなんかなくて、互いへの理解を深める可能性だって小さくはない。水と油は、どちらも液体という共通項を持っている。それで充分という結論に達する可能性だってある。

だったら最初から相手に深入りしなければいいのだ、というのが「文フリ」なのかもしれない。実際、ヴィジュアルノベルの人たちに限らず、言葉をかけあったどのサークルの人とも、私たちは礼儀正しく振る舞うことができたし、人々も礼儀正しかった。そしてお互いのやっていることや目指していることにはほぼ抵触せず、ポッキーの話や来場者の多さを語り合って別れたのである。それは居心地のいい空間であり、居心地がいいのは悪いことでは決してない。それに私たちは、自分らの本を買ってくれる、自分らに関心を持ってくれる人たちとは、短いながらもしっかりと対話をすることができたのだ。

「判る人だけ判ればいい」と「仲良きことは美しき哉」。これが「文フリ」の空間を支えている不文律だった。表現芸術全般にとって「判る人だけ判ればいい」は、今に始まったことではない。僕が現代性を感じたのは「仲良きことは美しき哉」の方である。実際それは美しい。機会があればまた訪れたい。「文フリ」は魅力的で祝祭的な場所である。

だがその「美しさ」は、何かを隠蔽してはいないだろうか。その何かを突き止めるのは、批評の重大な役割ではないだろうか。

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雨雲出版を立ち上げる https://magazine-k.jp/2023/11/07/amagumo/ Tue, 07 Nov 2023 00:00:00 +0000 https://magazine-k.jp/?p=28172 続きを読む]]>

「どうして出版したいんですか」

初対面の編集者から単刀直入に訊かれた。どうして? 一瞬、戸惑ってしまう。

作家ベッシー・ヘッド作品の日本語訳を出版したい。熱い思いを胸に多くの出版社に持ちかけたが、そのように根本的な問いを投げる編集者はいなかった。でも、不意を突いたその言葉は、わたしにもっとも大切なことを気づかせてくれた。自分は純粋に、敬愛する作家の圧倒的な素晴らしさに感動してほしかったのだということを。

南アフリカ/ボツワナの作家ベッシー・ヘッド

ベッシー・ヘッドは南アフリカ出身の作家である。1937年、ピーターマリッツブルグの精神病院で生を受けた。母親は白人で父親は不明だ。生まれて間もなく白人夫婦に養子に出されるも、肌の色が濃いと突き返されてしまう。時代は人種隔離政策アパルトヘイト下の南アフリカ。カラード(*1)の夫妻に引き取られ、この夫妻を実の両親と信じて育つも、13歳でダーバン郊外の孤児院に入れられると宣教師が出生の秘密を告げる。

ベッシー・ヘッド(1937-1986)

「あなたの実の母親は白人女性でした。アフリカ人の子どもを身ごもったから精神病院に入れられたのです。あなたも母親のように頭がおかしくならないよう気を付けなくてはいけません」

この言葉は、生涯ベッシーの孤独な人生に影を落としてしまう。その後、ベッシーはケープタウンやヨハネスブルグでジャーナリストとして働き、同じくジャーナリストのハロルド・ヘッドと結婚して息子のハワードが生まれるが、反アパルトヘイト闘争が激化した1960年代半ば、結婚は破綻しベッシーは幼い息子を連れて隣国ボツワナ(当時の英国保護領ベチュアナランド)に亡命する。何年もの間、貧しい生活で苦労を重ねるも、英国や米国の雑誌等に記事を投稿し、やがて1968年には小説When Rain Clouds Gatherを発表する。これをきっかけに世界に名が知られ、1971年にMaru(邦題『マル:愛と友情の物語』)、1974年にA Question of Power(邦題『力の問題』)を発表し、その他多数の短編小説やエッセイを執筆した。作家としての活動が軌道に乗ると様々な国に招聘され活躍の幅を広げていった。

しかし、自伝の執筆に取り掛かった1986年、彼女は48歳の若さで亡くなってしまう。南アフリカに戻ることもなく、アパルトヘイトの終焉も見ることがなかった。


*1:主にケープタウン周辺を中心とした南アフリカ西部の民族集団とオランダ系白人を含む様々な由来の人々との混血グループを指し実際は人種ではないが、アパルトヘイト時代にはひとつの人種グループとされた。

アフリカ人生の始まりとボツワナ

わたしが作家ベッシー・ヘッドを知ったのは大学3年生のころだ。

アフリカ地域研究のゼミで卒業論文のテーマを探していたときに偶然出会った本に夢中になった。文学専攻ではなく国際学部だったが、この作家をテーマに作品の社会的背景、とくに人種差別や作品の政治性について論じることにした。

そして大学4年生になった1998年、卒業論文の調査のためボツワナと南アフリカに旅立った。初めてのアフリカだ。ベッシーが暮らしたボツワナ中部のセロウェという小さな町にあるカーマ3世メモリアルミュージアムには、彼女の遺した大量の原稿や書簡がアーカイブとして整備・保管され、研究者に開かれている。大学生のわたしは研究者用に用意されたロンダベル(*2)に宿泊し、タイプライターで書かれた書簡を読みふけった。学部卒業後は英国エディンバラ大学アフリカ研究センターで修士課程を修了した。

カーマ3世メモリアルミュージアム


*2:円錐形の草ぶき屋根と円筒状の壁で作られたアフリカ風の住居。

開発コンサルタントとしてアフリカ実務へ

仕事でアフリカに行きたい。そんな思いが芽生えていた。

研究の世界は面白かったけれども、むしろ実際のアフリカで社会に触れ、人々と関わりダイナミックに案件を動かす国際協力の実務に従事してみたかった。留学を終えたわたしは、一般企業に勤めた後、外務省専門調査員として在ジンバブエ日本大使館に赴任した。帰国後は、国際協力の政府系機関に勤め、仕事でアフリカに行く目標は達成した。その後は開発コンサルタント(*3)となり、ケニア、タンザニア、ウガンダなど行ったことのなかったアフリカの国々も訪ねた。

そんなふうに慌ただしく働きながら、いつしかわたしの中で学生時代に出会ったベッシーの小説を自ら日本語に翻訳し出版したいという考えが生まれていた。アパルトヘイトという非人間的な環境で生きたベッシーは、ボツワナの農村での暮らしを舞台に、貧困や差別、農村開発、政治、ジェンダーの課題を、人間の内面を追及し文学という形で描き出す。社会課題そのものを描くのではなく、彼女自身が人間を愛する作家であることが作品を通して伝わってくるということに、自分の実務経験を通じて改めて気づかされたからだ。

そこからわたしは、翻訳スクールに通ったりもしながら少しずつベッシーの小説の訳出を進め、伝手をたどって出版社への持ち込みも行いはじめた。2007年にはベッシーの生誕70周年を記念したベッシー・ヘッド・フェストが開催され、わたしもボツワナを再訪した。各国から集まった研究者やファンとの交流を通じて翻訳出版への思いはますます強まった。

しかし、開発コンサルとしてのキャリアを積んで、一か月以上のアフリカへの長期出張が年に数回続くこともある生活の中で、翻訳作業はずるずると後回しになっていった。自分のキャパシティ不足もあって、いつしか十数年の月日が流れていた。

そんな2022年の秋、様々な要因が重なり、わたしは心身ともに調子を崩して開発コンサルタントの仕事をしばらく離れることになった。ちゃんと仕事をしなくてはと思うほど翻訳ができなくなるという強迫観念が、少しずつ重圧となっていたのだと思う。

翌2023年の初夏、わたしは16年ぶりにボツワナを訪ねた。セロウェのミュージアムでベッシーが遺した膨大な手紙を読み、研究者や生前の彼女を知る人々と話すうちに、ベッシー・ヘッド研究者としての自分がようやく戻ってきたような気がした。

ベッシー・ヘッドのアーカイブ調査(2023年)


*3:主に国際協力機構(JICA)や国際機関が企画立案する途上国援助プロジェクトに関し、専門技術をもって現地における調査や実施運営等を行う。

雨雲出版を立ち上げる

何故、出版したいのか。誰に読んでほしいのか。

ボツワナに行って気付いたが、20年以上のあいだ仕事をしながら翻訳出版を目指す中で、いつしかわたしは多くのものを手にしていた。作品の著作権者であるベッシー・ヘッド・ヘリテージトラストのメンバーになり、組織内では日本語訳をわたしが出版するという共通理解までできていた。長年、どこかの出版社でないと出せないと思い込み探し続けてきたが、必要なカードは実はすでに手元にあったのだ。

出版は手段だ。ベッシー・ヘッド作品を日本の読者に届けたい。遠い国の出来事ではなく自分事として受け入れてもらいたい。それがわたしのやりたいことだった。

翻訳出版に向けて奮闘し始め20数年。わたしは、自分自身で雨雲出版を立ち上げて作品の日本語訳を世に出すことにした。

現在翻訳中の『When Rain Clouds Gather』の原書。Waveland Press – When Rain Clouds Gather by Bessie Head

ベッシーの作品では農業・農村開発の経験に基づく詳細なリアリティが描かれている。未だ開発の世界で議論される課題について、ベッシーは人間の内面を絡めて鋭く描く。開発はセオリーではなく人間を相手にするものだ。開発コンサルタントとして働きながら、開発課題の深い理解に文学は非常に有効だと常々思ってきた。どれほど報告書や論文を読み、開発プロジェクトを通じて知見を深めても、文学が放つパーソナルな領域への強烈なメッセージが心に与える影響力は絶大だ。開発ワーカーほど文学作品に触れてほしい。

ベッシー・ヘッドに出会って四半世紀余り。研究や文学の世界とは違う実務の世界で生きてきた中で、ひと回り巡って人生が縒り合さり始めた気がしている。

現在わたしは、ベッシー・ヘッドが最初に出版した1968年の小説When Rain Clouds Gatherの日本語訳を、来年を目途に雨雲出版から刊行する準備を進めている。その前段階として、11月11日に開催される文学フリマ東京37に出店するための本づくりに夢中だ。ベッシー・ヘッドに出会ってから開発コンサルとして仕事し現在に至るまでのアフリカ人生を描いたエッセイと、ベッシー・ヘッド作品の引用を集めたものだ。

わたしなりのアフリカとのかかわりを通じて、世界に伝えたい大切なメッセージが誰かに届くことを願っている。


【お知らせ】
11/11文学フリマ東京37にて出店
出店名: 雨雲出版(小説|海外文学・翻訳)
ブース: し-58(第二展示場 Fホール)

『雨風の村で手紙を読む』
『雨雲のタイプライター』
ブックデザイン 吉崎広明(ベルソグラフィック)

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軽出版者宣言 https://magazine-k.jp/2023/10/22/light-publishers-manifesto/ Sun, 22 Oct 2023 14:57:39 +0000 https://magazine-k.jp/?p=28124 続きを読む]]>

「軽出版」という言葉をあるとき、ふと思いついた。

軽出版とは何か。それは、zineより少しだけ本気で、でも一人出版社ほどには本格的ではない、即興的でカジュアルな本の出し方のことだ。何も新しい言葉をつくらなくても、すでに多くの人がやっていることである。にもかかわらず、私自身にとってはこの言葉の到来は福音だった。

ことの始まりは2023年春の文学フリマ東京36だ。このときの文学フリマで私は、インディ文芸誌『ウィッチンケア』をやっている多田洋一さんのブース「ウィッチンケア書店」に相乗りさせてもらい、自著のコピー本を売るつもりでいた。

2020年に一人出版社のつかだま書房から出してもらった文芸評論集『失われた「文学」を求めて|文芸時評編』の販売促進のため、本に収録したもの以後の時評からセレクトして簡単な冊子を作ろうと思い立った。さっそくAdobeのInDesignで組版したまではいいが、ホチキス止めの製本が面倒で手作業が止まってしまった。正直なところ、少し腰が引けていたのである。

ところでこの回の文学フリマには、常勤で教えている大学のゼミ生も出店していた。一つ前の回に見学に行ったところ感じるものがあったらしく、自分たちもzineをつくって売りたいという。早々と彼女らがつくったzineを見せてもらったところ、ネットでみかける軽印刷(いわゆる同人誌印刷)の業者に刷らせたもので、内容のみならず仕上がりもなかなか見事だった。

それをみて、私も軽印刷で刷りたくなった。学生が印刷所に出すのに教員がコピー本でお茶を濁してどうする。さっそくウェブで見つけた印刷業者で見積もりを取ると、こちらが考えていた額よりはるかに安い。(たまたまだが、学生が使ったのと同じ業者だった)

ならば、ということで100部ほど刷った小冊子は文フリ36だけでそこそこハケてしまい、印刷代はすぐに回収できた。そしてこのやり方なら、基本的に赤字にはならないことがわかった。

私のような仕事をしていると、雑誌やウェブに書いた後、とくに本にまとめられることもなく、二度と誰にも読まれないままの原稿が山のように溜まっていく。そのようなテキストを、zineを作るくらいの気楽さでサクサクと出版していきたい。そんな風に考えている私にとって、ネットの軽印刷業者で印刷し、SNSで告知し、即売会や独立系書店で売るのは最適のやり方なのだ。

軽出版とは、そのような営みのことである。

出版界は長らく、本を大量に安く売ることをよしとしてきた。巨大な装置産業である大手印刷会社や、全国一律発売を担う大手取次会社に支えられた、雑誌や文庫や新書を中心とする大規模出版は、これらの商品が与える軽やかな印象とは裏腹に、実際は巨大な装置と資源を必要とする「重たい出版」だと言える。たくさん売らねばならないために中身も薄く浅いが、にもかかわらず、それはまさしく「重出版」なのだ。

「軽出版」は、その対極にある。

たくさんは作らない。読者も限られていてよい。売る場所も、ネット以外は限られた書店や即売会だけでよい。少部数しかつくらないから在庫も少ないし、運よく売り切れたらその都度、また作ればいい。そのかわり中身は、好きなことをやる。重たい中身も軽出版なら、低リスクで出せる。

私がもっとも尊敬する作家の橋本治は生前、「自分には一人で1000人分の力を発揮してくれる5人の読者がいる。その5人を裏切らないために、その水準で書いている。自分に1万人の読者がいるとしても、書いているのはその5人に向けてだ」と言っていた。私が軽出版によって本を届けたい読者も、その「5人」のような人たちだ。

私はプロの物書きだし、プロの編集者だが、デザインや組版のプロではない。でも軽出版で出すくらいの本ならなんとかなる。だから自分で書いて自分で編集して自分で校正し、組版も装丁も自分でやる。InDesignが使えて、出版編集の基本が分かっていれば、いまは誰だって好きなように本を作れる時代なのだ。

本を作るのは容易く、売るのは難しい。でもいちばん難しいのは、書くべきことを書くこと、売るためでなく書くために書くことだ。

軽出版は、書き手が書くことの自由を取り戻すための仕組みでもある。破船房というレーベルでは、とりあえず自分の書いた文章を少しずつ本にしていくつもりだけど、この仕組みでもよいと考えてくれる人の文章やその他の作品も形にしていきたい。

「軽出版」や「軽出版者」は、私一人だけの言葉にしたくない。

臆することなく、軽々と、ヘヴィな中身の本を出していこうよ。

これが私の軽出版者宣言である。


【お知らせ】「マガジン航」の編集発行人、仲俣暁生は11月11日に開催される文学フリマ東京37に「破船房」名義で出店します。

出店名: 破船房
ブース: せー61 (第二展示場 Fホール)

また、この機会に小説家の藤谷治さんの『新刊小説の滅亡』を続編と併せて破船房レーベルより刊行しました。ご期待ください。

藤谷治・著『新刊小説の滅亡』
(収録作:「新刊小説の滅亡」「新刊小説の逆襲」)

B6 判・64 ページ、予価:1,000 円
文学フリマ東京 37ほかにて随時販売予定。

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「世界に向けた言葉」 https://magazine-k.jp/2023/06/12/fujitani-to-nakamata-39/ Mon, 12 Jun 2023 00:30:24 +0000 https://magazine-k.jp/?p=27927 続きを読む]]>

最終信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣暁生様

仲俣さんの手紙を受け取って、僕はこの三十通以上ある往復書簡のところどころを拾い読みしてみました。

この数年間に私たちに起こった最大の「事件」は、いうまでもなく我々自身の老いですが、歳をとった人間になじみ深い、あの「数年前など、ついこのあいだ」という感覚が、この手紙のやり取りに感じられなかったのは、興味深いことでした。2018年は充分に遠い昔の出来事で、当時の自分を懐かしくすら感じました。

環境の変化ということもあるでしょう。この期間に私たちは教師になりましたし、肉親との別れも経験しました。そういう話は、この書簡のやり取りの中ではほとんど語られることはありませんでしたが、私たちの言葉の背後に、そういった変化が裏打ちされていたのを、今読み返すと感じます。

しかしそれだけがこの書簡の始まりを「昔」のように感じる理由では、無論ありません。

仲俣さんが書いておられる通り、数年前と今との間には、「長期間にわたる世界規模のパンデミック」ばかりでなく、ヨーロッパでの戦争があります。私たちはまさに「世界戦争の鳥羽口に立って」いる。五月の広島サミットが、僕には連合軍の団結式のように見えました。

これもまた仲俣さんがどこかで書いていましたが、今年亡くなった大江健三郎が晩年まで語っていた「核の恐怖」を、僕は時代遅れの取り越し苦労のように思っていたものでしたが、今やそれは(いくらなんでも、そこまで……)と思いつつ、しかし二年前までの空想ではなくなって、それこそヒロシマでサミットが行われることの国際世論的な効果が見込まれる程度には、恐怖しなければならない事態に至っています。

自分の生きている今現在を、歴史的な転換点だと思うことには慎重な僕ですが、事態がこうまで動いてしまえば、何かが始まっていると認めるほかありません。もう以前の世界には戻れないところまで、物事は進み始めていると思います。

ツヴァイクのそれとは違う形で、私たちは知らないうちに「昨日の世界」を綴っていたのかもしれません。今ここにあるのも「昨日の世界」なのかもしれません。現在の僕はこれまでになく――1995年よりも、2011年よりも、2020年よりも――世界に対して恐怖を感じています。

ところがどういうわけか、僕は文学に対しては、あるいは広く「表現」に対しては、いささかの悲観もしていないのです。我ながらこれは奇妙なことです。今年に入って僕はどこからも仕事の依頼を受けておらず、生計を考えればどうあっても悲観しなければならないはずの立場なのですから。

それでも文学に対し悲観がありません。仲俣さんの言う「言葉をもちいて表現を行う者にとって、逆境は必ずしも絶望とイコールではない」ということは、もちろんあります。

しかし、それより何より、僕自身が今、世界に向かって語りかけなければならないという熱に浮かされているのです。状況に即した発言をしたいとか、社会に物申したいとか、そんなことではありません。ただ物語りたい。

この青臭い焦燥感はまったく幼稚なもので、小説家になる以前にくすぶらせていた苛立ちに似ています。題材やアイディアはあるものの、それをどうやって「世界への語りかけ」にしていくかは見当もつかない、という点でも、デビュー以前の五里霧中を再び経験しているようです。活力がなく沈潜しているよりはマシですが、カッカするばかりで自分を持て余し気味です。普段学生に向かっては、手を動かさなければいけないと、偉そうな口をきいているくせに。

そうだ。今思い出したことです。なぜ学生に、小説を書きたかったら手を動かさなければならないと言っているか。手を動かすことで「書くべきこと」があとから現れてくるからです。世界に向かって語るべきことが。あるいはむしろ、手を動かした結果現れた言葉が、僕の「世界に向けた言葉」なのです。それが貧弱な、情けない言葉であっても、それは僕の無才によるのだから仕方がないのです。自分の無才が露呈するのを恐れて何もしないのが、いちばんいけません。

*  *  *

仲俣さんからこの往復書簡の話を持ちかけられたとき、僕はこの形式での対話が大いに楽しめるだろう、とだけ期待していました。当意即妙な掛け合いを求められることもなく、あらかじめ準備して取りかかる対談でもなく、しかしその時々の目先にある問題や関心事について、お互いが言いたいことを存分に言う、たとえそれが多少噛み合わなくても、おのおのが思うことについて――相手に口を挟まれることもなく――言い尽くした、と、その時点で思える程度には書いていく。往復書簡とは面白い形式だと、このやり取りの中で実感できたのだけでも収穫でした。

時事に即した文章を書き慣れない僕にとって、これを「破船房」で一冊にしていただけるというのは望外のことです。大きな商業出版社にできることではないというところも、非常に興味深いです。『その後の仁義なき失われた「文学」を求めて』は、内容も刺激的でしたが、造本も良かった。ああいう簡素でこざっぱりした感じの本づくりは、これからの文芸出版にあらたな道を拓くかもしれない。「破船房」にとどまらない、出版全体の大きな流れが始まるのかもしれない。そんな予感もまた僕を青臭く奮い立たせます。

2018年からこんにちまで、ありがとうございました。しかし私たちの対話は終わらないでしょう。モーリス・ブランショじゃないけれど、誰と誰の対話も、いかなる対話も終わることはないのです。それが偉大な死者たちに対して私たち生者の持つ数少ないスペリオリティのひとつであり、生者にあるのは過去でも現在もなく、未来だけだからです。

第1信第2信第3信第4信第5信第6信第7信第8信第9信第10信第11信第12信第13信第14信第15信第16信第17信第18信第19信第20信第21信第22信第23信第24信第25信第26信第27信第28信第29信第30信第31信第32信第33信第34信第35信第36信第37信第38信

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暗闇のなかの小さな希望 https://magazine-k.jp/2023/06/02/nakamata-to-fujitani-38/ Fri, 02 Jun 2023 02:27:56 +0000 https://magazine-k.jp/?p=27863 続きを読む]]>

第38信(仲俣暁生から藤谷治へ)

藤谷治様

5月の連休中に思い立ってTwitterをやめました。Facebookはずいぶん前にやめていて、いまはそれらに費やしていた時間を、書き下ろしの本の執筆と読書に宛てています。先日、小冊子をお渡しするため下北沢でお会いしたときに話したとおり、いま書いているのは、平成年間の現代文学史を自分なりの視点で語る試みです。

この本は十年前に声をかけてくれた編集者からいただいた企画です。しかしこの間、私はほとんど一文字も書けずにいたのでした。同時代の文学史を一人の書き手が独力で語るには蛮勇が必要です。その勇気をなかなか出せずにいたのですが、SNSをやめると手持ち無沙汰の時間が山ほどあり、その間に集中して仕事をすると、思いがけず順調に筆が運びました。この調子でなんとか年内に第一稿を書き上げたいと思っています。

この往復書簡を五年前に始めたとき、文芸と出版の世界が土台から大きく変わろうとしているのではないか、という話から書き起こしました。それから現在までの間には長期間にわたる世界規模のパンデミックがあり、いま私たちは世界戦争の鳥羽口に立っています。土台から大きく変わろうとしているのは文芸と出版どころではない。「世界」そのものが揺らいでいるといっても過言ではないでしょう。

そんななかで、昨年から専任教員として教えている大学の学生たちと一緒に、五月の終わりに「文学フリマ東京36」に売り手として参加しました。2020年に出した文芸時評集に収めた文章よりあとに書いた、いまも継続中の時評の文章をまとめた小冊子を試みにつくってみたのです。

2019年にインディペンデント文芸誌「ウィッチンケア」の編集発行人・多田洋一さん、同誌の常連寄稿者でもある編集者・ライターの木村重樹さんとの共同ブースで文学フリマに出展し、持参したコピー本もそこそこ売れて手応えを感じていたのですが、今回はコピー本ではなく印刷会社に簡易印刷を頼みました。それには理由があります。

私がゼミで受けもっている学生二人が、初めて見に行った前回の文学フリマに大いに刺激を受け、自分たちもあのようなものを出してみたいと言い出したのが話の発端でした。私は大学で学生に「編集」という仕事について教えており、学生は卒業までに課題としてそれなりの分量の編集物を制作しなければなりません。

しかし学内で制作される編集物は「出版」されることなく、成績評価されて終わりです。せっかく編集の実務を覚えたのに、自分たちが書いたもの、デザインしたものを「出版」しないのはもったいない。自分が表現=制作したものが他人の目にふれて評価されること、その評価を自身で引き受けることが教育効果として大きいのはもちろんですが、それ以上に、本や雑誌はただつくるだけより、原価計算から販売までを自分の責任で行うほうが、はるかに楽しいはずだと思ったからです。

とはいえ私自身は、今回の文学フリマにそんなに手間暇をかけるつもりはありませんでした。自宅に両面印刷ができるコピー機があるので、20〜30部程度のコピー本を制作し、お茶を濁そうと思っていたのです。しかし学生たちが自腹で出版物を制作し、その仕上がりがそこそこ見事なのを横目でみているうちに、考えが変わりました。これは自分も本気を出さなくてはいけない。そう思ったのです。

今回は「ウィッチンケア」が用意してくれたブースの隣に、もう一つブースを確保し、そこを学生のための場所にしました。学生側のブースで自主制作物を販売したのは、卒業生や他コースの学生も含めると5人。かなりボリュームのある文芸誌から、薄い小冊子(いわゆる「ジン」)、そのほか雑貨や写真などいろいろなものが並んでいました。正午から午後5時までの五時間の間に、学生のブースはお客さんが絶えることなく続き、私たち(いちおう「プロ」であるはずの)より遥かに大きな売上だったようです。

先日、下北沢でお会いしたときにも話したとおり、私のつくった小冊子も(自分の手間賃を考えなければ)印刷費と用紙代を取り返せる程度の売上はありました。隣の学生たちの熱気が伝わったおかげかもしれませんが、なんとか面目を保つことができました。

*   *   *

ひと昔前、大状況と小状況という言い方がありましたが、大状況として世界を眺めると、なにひとつよいことが起きていないように思えます。しかし今回の文学フリマに集まった1万1000人を超える(史上最大規模だったそうです)作り手と読者の双方から感じた熱気は、少なくとも「文芸と出版」の世界に対して私が感じてきた否定的な印象を、かなりの部分で払拭してくれるものでした。

なにより、初めて自分の「言葉」を世に問うた学生の勇気ある行動に、私自身が大きな刺激を受けたのです。彼女たちが文学フリマで売り出した制作物は、狭義の「文学」を扱ったものではありません。でも藤谷さんの「〈文学〉とは読者を特定しないすべての言葉のことである」という定義に従うなら、彼女たちがあの場で世に問うたのは、まぎれもなく〈文学〉です。私はあらためて、そのような〈文学〉を構成する一員になりたいと思ったのでした。

今回の小冊子の売れ残り(なにしろ100部もつくってしまいました)は、神保町のすずらん通りにある「PASSAGE」という古書店に持っている私の棚「破船房」で売ることにしました。「破船房」の名は、以前にやっていた「海難記」というブログのタイトルを受け継いだものです。荒海のなかを漂う破れ船は激動の二十一世紀初頭を生きる私自身の似姿ですが、そう簡単に沈むわけには行かないぞ、という決意の現れでもあるつもりです。

年に二回の大きな即売会としての文学フリマと、小さな販売拠点としてのPASSAGEを得たいま、私は小さな出版活動を始めようと、本気で考えるに至りました。まだ本にまとめていない雑誌やネット上での連載記事がたくさんあります。自分で書いたものを自分で編集し、レイアウトとデザインをした上で印刷業者に手渡すまでの作業は、私にはなんの気苦労もなくできます。どんな商品でもそうですが、最後の難関は流通と販売です。しかし百部単位の出版物ならば、文学フリマとPASSAGEだけでも、時間をかければ売り捌ける気がしてきたのです(甘い見通しかもしれませんが)。

そこで藤谷さんに提案です。この往復書簡を本にしませんか。私が編集し、本に仕立てます。どんな本にするかは、これから一緒に考えましょう。

本にするならば、どこかで終わりにしなければなりません。そしてこの往復書簡を終了させるタイミングとして、いまがちょうどよいように思うのです。2018年から現在までの五年は文学(あるいは「小説」と呼ぶべきでしょうか)、出版、編集のどの領域も揺れ動いた、まさに激動の月日でした。この間に藤谷さんとやりとりしたメールをあらためて読み返すと、そのときどきの切迫した話題を通して、やはり一つの筋道があったように思えます。

それは、言葉をもちいて表現を行う者にとって、逆境は必ずしも絶望とイコールではないということです。私の好きな書き手の一人、レベッカ・ソルニットが『暗闇のなかの希望』で書いているとおり、未来が見通せないということは、逆説的な意味で「希望」でもある。ただしその「希望」は、闘志を失わずに動き続けることによって、はじめて仄かに見えてくるものでもある。

以前の手紙で、読むこと、書くこと、編むことのトライアングルをまわすということを書きました。藤谷さんとのこの往復書簡を書籍化するアクションを、ささやかなその契機にできたらと、いまの私は考えています。五年もの間、途中で大きな中断を幾度も挟みながらも、私との手紙のやりとりにお付き合いくださった藤谷さんが、ぜひこの提案を受けてくださることを祈っています。

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最善なアウトプットのための、適切な“調べる”を調べたい https://magazine-k.jp/2023/04/18/do-not-oversearch-01/ Mon, 17 Apr 2023 23:00:30 +0000 https://magazine-k.jp/?p=27771 続きを読む]]>

こんにちは、心は永遠の大学生、山田苑子です。

いま、大人の勉強と調べ物というテーマは、大ブームらしいです。『調べる技術:国会図書館秘伝のレファレンス・チップス』が好評で早くも六刷3万部とか(*1)。『独学大全』も出版後すぐ話題になっていました。

誰でもネットで簡単に検索できる時代となった結果、結局「調べる」が結構難しいことだ、ということが可視化されつつあるのがこの5年位じゃないかな。私自身、ちょっとだけ大学で非常勤講師をした時は、結局学生に調べる方法ばかり伝えていたような気がします。だからこそ「調べる」本が今、ブームなんでしょう。

現実問題として、「調べ過ぎる」ほうが怒られる。

でもね、ちょっと待って欲しい。私、仕事として複数業界の専門誌ライターをしてもうすぐ10年目に突入する者なんですが、原稿を納品して「よく調べてくれた!」「そんなに調べ上げてくれて、すごいね!」などと言われたことは、まぁ、ほぼ無いに等しいんです。それは毎回大幅に締切を破り倒しているから、ではあります。クライアントさんとしては「サッサと出してくれ」としか言いようがありません。

調べなくても怒られるし、調べすぎても怒られる。それなら調べないで怒られたほうが、コスパはいい気がします。怒る人はだいたいヒントをくれるはずですから、そこから辿った方が早い。だとすると、「まずは、調べない」が、ごく普通の選択になるんじゃないでしょうか。

思い返しても、自分が調べたことに対して「足りない」と激詰めしてきたのは、史学科在籍時代に顔を出していたあらゆるゼミの教員陣、そして大学院時代の指導陣。つまりアカデミックの人達だけです。自分の場合、18歳から22歳という若い時代に「調べが足りない」と激詰めにさらされたことが、その後の習慣に大きな影響を与えているようには思います。

特に修論を書いた後は、この影響をハッキリと日常的に感じています。何を書いていても指導教授の「それは誰が言うたんや、あんたか?! あんたの勝手な意見か」という言葉が脳内で襲ってくるようになりまして。「いや、先生に説明出来るほどは、調べ切れてません……」と思うと、体が勝手に動いて調べている。

そんな状態なので、私自身は「よし、もう調べなくていいや」って思えたことが、一度もないんです。常に、いつも、ビクビクして、調べて、調べて、「もうこれ以上は、締め切りを踏み倒すと食い詰める」というタイミングでなんとかアウトプットをまとめているに過ぎません。

で、結局、どこまで調べたら「オッケー」なのか。

私のメモリアルを駆け抜けてみると、「調べ続けてしまう」という行動そのものの動機として、「調べること」が好きか嫌いかは、あまり関係ないのではないかと思えます。コレは最早、「業(ごう)」に近い。編集氏の言葉を借りれば「呪い」のようなものでしょう。脳内に巣喰う何かを鎮めるために、調べ続け、その結果をくべ続けて祭祀を行い続けている。そんなイメージです。

この呪いをどこで断ち切っていいのか、今、私は切実に知りたい。「調べる」ことを推奨している方々に聞いてみたいんです。「私は、いつ、調べるのを、終えたらんいいですか」と。

「どこまで調べたらいいかって、結局、調査の前段にある“目的”を達成できるかどうかによるからなんとも言えないよねー」そんな答えが返ってくることが、まぁ、瞬間的に思いつきます。「調べる」には大抵、目的があるはずです。提案書のため、企画書のため、取材原稿のため、論文のため、何かをつくるため、何かを証明するため……。

だとしたら、調べることよりも、何を調べるべきか考えるところが「調べる」のキモな可能性があります。自分の目的を達成できたところが、「調べる」の終わりなんでしょうか。生意気を言うようですが、なんかそれって、底が浅い感じがします。

あと「調べる」っていうと、ちょっと前までは「ググれカス」って言葉がよく取り沙汰されていました。今なら「ChatGPTに聞いとけ!」と言われそうです。実際、そこで出てきた情報をもって「調べた」と言い切る人も、昨今、結構、いるようです。

インターネットに載っていない情報や歴史は、そもそも存在しないと考えている人たちもいるようだ……なんて、笑い話なのかホラーか分からない話も聞くようになりました。大学のレポートとかじゃないですよ、出版書籍の話です。担当の編集が“仕事”してるかどうかはともかく、著者はきっとこう言うでしょう、「自分はよく調べて、書いてます」って。

はて、そうだとしたら、そもそも「調べる」ってなんなんでしょうか。私も一生に一度くらい、自信を持って「よし、調査終わり!」って、なってみたいモノです。

ところでこの原稿、ここまでで「調べる」っていう漢字が一体何回出てきたか、数えてた方はいらっしゃいますか。あまりに回数が多いので、私はだんだんゲシュタルト崩壊してきていて、調べるを調べるよりも調べと調べる、ほら「妙なる調べ」っていうじゃないですか、アレ、なんで同じ漢字なんですかね、それを調べたくなって今すぐ漢和辞典が必要な精神状態になってるんです、いやここはやはり『字統』か。そうすると事務所までいかないと……でもああ、さっきから、編集氏から「それ調べる前にとにかく一度、初稿出してください」って、ホラ、連絡が……。

(次回に続く)

*1 記事公開時の累計部数が誤っていると版元よりご指摘があり、正確な数字に修正しました。この件については「調べ」が足りないままでした。お詫びして訂正いたします(編集部)

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棺を蓋うて事定まる https://magazine-k.jp/2023/04/10/fujitani-to-nakamata-37/ Mon, 10 Apr 2023 00:54:15 +0000 https://magazine-k.jp/?p=27745 続きを読む]]>

第37信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣暁生様

二人の偉大な日本人芸術家が、ともに三月のうちに亡くなったというのは、僕にとっても思うところの多い出来事でした。三日に大江健三郎氏が亡くなったと報道され、その死と業績について思いめぐらしているうちに、坂本龍一氏が二十八日に亡くなったと、四月に入って報じられました。

有名人の、報道によって知らされる死というのは、いつもであればある象徴性をともなったマイルストーンのように感じられるばかりで、その肉体的な死には思い至らないものですが、三月の大きな二つの死は、僕にはけっこうな生々しさをもって迫ってきたのでもありました。というのも、僕は二月に母の臨終に立ち会ったばかりなのです。母の年齢は大江氏に近く、死因は坂本氏のそれと同種のものでした。

無論、だからといって僕に彼らの死が「判る」などとは毛頭思いません。それらの死を同列に扱うような非礼もするつもりはありません。

ただ、「棺を蓋うて事定まる」という古い言葉が、ひと月前、ふた月前までとは、まるで違う重さと厳しさを持つのを、人間の生の厳しさとして感じます。

大江氏も坂本氏も、世界的な評価を得た日本人ということで、その死亡記事は新聞の一面トップに掲載されました。「反戦」「非核」「自然との共生」といった言葉が、どちらの記事にも並んでいました。

これらの言葉に、二人が力を注いでいたことは事実です。しかし同じこれらの言葉によって、彼らの「事(がたとえ半ばでも)定まる」のでは、やはりたまったものではないという思いがあります。ましてや、これらの言葉によって彼らが「批判」されるのも「称賛」されるのも、快く見ていられるものではありません。

そういった批判や称賛は、僕自身が30年前に彼らへ、とりわけ大江氏の仕事に対して感じたものでもありました。仲俣さんとちがって学生時代から大江健三郎を、「読まなければ話にならない」ものとして読んでいた僕は(そういうことが「コモン・センス」として通用していた時代でした!)、同時にそれが80年代という、直近の過去を嗤うことが新感覚と見なされた時期――ポストモダン、とも言うようですが――であったがために、いわばあらかじめ否定的な態度でもいたのでした。

仲俣さんは大江氏を「日本の近代文学的な伝統から切れている作家」と評していますが、それは今現在の視点から見たときの評価だと思います。現役作家であった頃――今の僕たちよりも若かった頃――の大江健三郎は、僕には文壇そのものに見えました。芥川賞や谷崎賞、野間文芸賞や三島由紀夫賞といった、主だった文学賞の選考委員をかけ持ちし、のべつまくなしジャーナリストや批評家たちと論争を続けていたのが大江健三郎で、そういう文壇ゴシップを無視して氏の小説を読むことはできませんでした。論客としての大江氏には直情径行の感があり、冷静で紳士的に見えた論敵・江藤淳の方が、僕は好きでした。

読まなければいけない文学としてでなく、これは本当に素晴らしい、と思えるようになったのは、88年の『キルプの軍団』からです。ディッケンズの小説をモデルとして、極左集団と暴力犯刑事とオリエンテーリングを組み合わせたこの小説は、ひたすら読んで楽しく、作者の小説技術の粋を極めたものでありながら、同時に心のこもった青春小説の傑作です。後年、僕は確かどこかの大学系文芸誌で大江作品の特集をした時に依頼されて、この作品について短い文章を書いた覚えがあります。(ちなみに今、書棚のどこを探しても、その雑誌も原稿も見つからないんですけれど、調べてみるとそれは、「早稲田文学」の2013年6号でした)

以後の作品も決して文句なしに、というわけではありませんでしたが、比較的短い、あまり批評の対象にならなかったような長編小説や連作短編が、僕は好きでした(『人生の親戚』や『静かな生活』)。驚かされたのはノーベル賞受賞以後の作品で、『取り替え子(チェンジリング)』や『二百年の子供』『美しいアナベル・リイ』といった小説を、老いただの書くのをやめるだのと言いながらも書き続けたのは、驚くべき積極性です。これから老齢に向かっていく僕たちの、もっとも学ぶべきありようでもあるでしょう。(しかしこうしてみると、同じ80年代以降の大江作品でも、僕と仲俣さんとの挙げる小説が、ほとんど重ならないのは興味深い)

なんの話をしていたんでしたっけ。そうでした「棺を蓋うて事定まる」でした。これは僕のアテにならない予想にすぎませんが、大江氏の論争や罵倒は、棺が蓋われたこれからは、次第に色褪せ、消えていくものだと思います。そして氏の反戦や反核の言葉が、それに次ぐのではないでしょうか。こんにちトーマス・マンやロマン・ロランの政治的エッセイを読む者がいないのと、それは同じだと思います。

最後には、小説が残るのです。いうまでもなくそれは「エッセイよりも小説の方がエラい文学なのだ」なんてことじゃありません。人間がもっとも多様で、制御不能で、遠慮ないとき、つまり孤独なときにあらわれる表現が残るのです。大江健三郎の場合、それは小説であり、坂本龍一にとってのそれは、音楽だったのでしょう。

「魂のこと」とは、そういう孤独な表現のことなのかもしれません。生きている、つまり魂が肉体とくっついたままでいる人間に、「魂のこと」だけを抜き出して考える、あるいは表現するのは、おそらく、とても難しいことです。

ただ、種々の死を短期間に突き付けられ、ようやっと心の落ち着いた今、あらためて思います。僕たち生者は死者の価値を「定める」けれども、死者たちもまた生者に向かって、問いかける目を向けている。彼らは私たちに尋ねているのです。生者よ、お前たちは私を批判する権利を持っている。私の生前の行いを最初から最後まで洗い直し、解釈し、位置を定め、あたいを決めることができる。だがそれをするお前は何をしているのだ。お前は自分の生の時間を使って、これまで何をし、これから何をするつもりなのだと。

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魂のことをする https://magazine-k.jp/2023/04/06/nakamata-to-fujitani-36/ Wed, 05 Apr 2023 23:25:25 +0000 https://magazine-k.jp/?p=27717 続きを読む]]>

第36信(仲俣暁生から藤谷治へ)

藤谷治様

大江健三郎さんが亡くなりました。その死に自分でも驚くほど静かな衝撃を受けています。

生前はろくに読まなかった作家をその没後にようやく読み始めるのは、あまり行儀のよいことではないでしょう。しかしいま私は彼の遺した膨大な作品群を、晩年に書かれたものから遡るかたちで、取り憑かれたように読んでいます。

1935年生まれの大江健三郎は私の父母とほぼ同世代であり、1963年生まれである彼の長男・光さんも私や藤谷さんと同学年です。ある時期から大江健三郎は、いわば「家族小説」とでも呼ぶべき話をもっぱら書くようになりましたが、そのことが私から大江の作品に手を伸ばす機会を奪った理由のひとつでした。若い時期は誰しもそうでしょうが、家族という人間関係をうまく扱いそこねていたのです。

しかしいま私は、むしろ大江健三郎の家族小説にこそ心惹かれています。個別の作品への感想や論評はきりがないので避けますが、現在から遡って大江の小説を読んでいくなかで、1980年代に書かれた連作集――『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』(1982年)、『新しい人よ眼ざめよ』(1983年)、『河馬に嚙まれる』(1985年)、『静かな生活』(1990年)――がもっとも豊かな読後感を与えてくれたからです。

あらためて読んでいくとよくわかるのは、大江健三郎が日本の近代文学的な伝統から切れている作家だということです。彼自身そのように意識して(ブレイクやオーデン、ダンテに依拠しつつ)小説を書き始め、やがて自身のルーツである「森」を根拠地に、巨大な物語世界を幾度もかたちを変えて語り直してきました。世界にむけて開かれた文学であると同時に、きわめて私的な経験に裏打ちもされている、それが大江健三郎という作家の特異性でしょう(もちろん、本質的にはあらゆる文学がそうなのですが)。

ノーベル文学賞を受賞したとき大江健三郎は、いまの私や藤谷さんと同じ年頃、還暦直前でした。大学在学中にデビューしてすぐに芥川賞を受賞し、59歳でノーベル賞を受賞――こうした文学者としてのあざやかな成功の裏で、大江自身はおそらく自分の書く小説にいつまでも満足することがなかったはずです。一度は、もう新しい小説は書かないと発言したものの、相次ぐ親しい友人(武満徹、伊丹十三など)の死にむしろ「励まされ」(これは大江健三郎の重要な語彙のひとつです)たかのように、さらに20年近く、彼は偉大といってよい小説を書き続けました。驚嘆すべきことです。

私が本当の意味で大江健三郎を「読んだ」のは、2017年に出た加藤典洋の『敗者の想像力』(加藤さんはこの本が出た2年後に亡くなりました)での卓抜な『水死』論に触発され、同作からいわゆる「おかしな二人組(スゥードカップル)」三部作へ、そしてさらに『宙返り』へと、大江健三郎の「晩年の仕事(レイト・ワーク)」を読み継いだときです。昨年2022年にはすぐれた大江健三郎論として、長年にわたり大江にインタビュー取材をし続けてきた元読売新聞の尾崎真理子による『大江健三郎の「義」』、そして谷崎論や井伏論の著作もある仏文学者・野崎歓の『無垢の歌──大江健三郎と子供たちの物語』の二冊が出ました。これらを頼りに未踏の大江作品を読んでいくのは、なんとも新鮮で充実した体験でした。

思い起こせば、私が同時代の小説、とりわけ純文学を面白く読むようになったのは、1990年代半ばを過ぎてからのことでした。きっかけは同世代の魅力的な小説家の相次ぐ登場でした。ここでは阿部和重と星野智幸の名を挙げるにとどめますが、いまの私なら、この二人に大江の影響が歴然たることに即座に気がついたでしょう。無知とはなんと恐ろしいものでしょうか、そのことに無自覚なまま私は彼らに代表される新しい文学の誕生を歓迎したのです。そして、このときすでに大江健三郎はノーベル賞作家でした。

大江健三郎は私にとってながらく巨大な盲点であり、もしかしたら心理的タブーでした。私個人だけでなく、もしかしたらある世代全体にとって、そうだったかもしれません。

大江健三郎は旺盛な創作活動の傍らで、愚直なまでに戦後民主主義の達成を擁護する立場から政治的発言をしてきました。そうした愚直な政治性からは距離を置いた、いわゆるポストモダンの小説家や思想家――ここではやはり村上春樹と柄谷行人の名を挙げるにとどめますが――もまた、それぞれの長い迂回を経て、反戦や平和、つまり普遍的価値への「愚直」なコミットメントをするようになっていく。大江健三郎が揺らぐことなく「愚直」であり続けたのとは好対照ですが、たどり着いた場所は同じでした。

1980年代から90年代を経て、21世紀の最初の四半世紀がそろそろ終わろうとする現在まで、日本でもっとも大きな影響力をもった小説家はまちがいなく村上春樹です。まもなく発売される彼の最新長篇には、封印されている初期の中篇作品と同じ題名が与えられていることが話題になっています。村上春樹のこの「新作」を楽しみにする思いが、私のなかにないわけではありません。しかし大江健三郎の作品を少しずつ読んでいくなかで、これまでに一度も考えたことのない、こんな問いが生まれてきました。

この十数年、大江の次にノーベル文学賞を受賞する日本人作家がいるとしたら、それは村上春樹だろうと言われ続けてきました。しかし、あらためて考えてみるならば大江健三郎はノーベル賞受賞後も現役の書き手であり、村上春樹にとって、手強い同時代のライバルでもあったはずです。デビュー二作目に『1973年のピンボール』という題名を与えた村上春樹が、大江健三郎の意識的な読者でなかったはずはありません。

なにより、村上春樹自身、大江と同様に日本の近代文学的な伝統から切れたところからスタートした作家でした。違うところがあるとすれば、依拠するものがヨーロッパ文学から、アメリカ文学に切り替わっただけでしょう。そして21世紀になっても書き続けた大江の創作活動の総体こそ、村上春樹「以後」の文学への根本的な「批評」でもあったと、いま、私は考えています。

大江健三郎はノーベル文学賞を受賞した際のストックホルムでの講演、「あいまいな日本の私」のなかで、当時の日本文学を「東京の消費文化の肥大と、世界的なサブカルチュアの反映としての小説」と述べ、それらとは「ことなる、真面目な文学の創造を願う」と述べています。「サブカルチュアの反映」とは、この時期にはすでに大江の論敵であった批評家の江藤淳が、村上龍のデビュー作『限りなく透明に近いブルー』に与えた評言でした。もちろんこの言葉は、村上春樹の小説に対してもよく当てはまる「批評」です。

「魂のことをする」という、大江健三郎の独特な言い方があります。「魂のこと」とは、普遍的であり、かつ個別的でもある価値、たとえば同じくらい愚直な「文学」のような言葉に対応するものでしょう。日本の現代文学のなかに希望の芽を探し出す「大江健三郎賞」を2014年で休止した後、こんどこそ自分にとっての「魂のこと」に残された時間を費やすことを決め、大江健三郎は私たちの前から姿を消しました。その消え方も含め、じつに見事でした。

そろそろ晩年が近づいてきた私たちも、自身の「魂のこと」に取り組まなければない時期かもしれません。

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小説の”古層”へ https://magazine-k.jp/2022/11/28/fujitani-to-nakamata-35/ Mon, 28 Nov 2022 12:00:51 +0000 https://magazine-k.jp/?p=27521 続きを読む]]>

第35信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣暁生様

10月半ばの僕のフェイスブックの記事に、仲俣さんが恐らくは何の気なしに「時代小説なんてどうですか」と書いた、その一言に自分でも驚くほど触発されて、今の僕は平将門についてあれこれ調べています。

フェイスブックでやり取りしていた時点では、僕は『将門記』を流し読みしていただけでした。ウィキペディアの将門の記事を理解するのにもひと苦労だったくらいです。今でも当時の位階や行政制度はなかなか頭に入りません。それでもなぜか熱は冷めず、先日は「将門まつり」にかこつけて、茨城県の坂東市を歩きましたし(26000歩という自己ベストを記録しました)、北関東の地図を見たり、ネット上に少なくないらしい「将門ファン」のサイトを覗いたりして、今は再び『将門記』を細かく読み返しています。幸田露伴の『平将門』は読みましたが、仲俣さんに勧められた澤田瞳子『落花』(中公文庫)は買っただけで積んであります。

完全に無知であることをいちから知るのは楽しく、調べること自体に惑溺してしまいそうですが、やはり「これを小説にするには」ということが念頭を離れることはありません。御存知の通り将門というのは比較的信用できる史実一に対して伝説が百くらいの人です。そのせいか将門を描いた「時代小説」の多くは、それら伝説を剝ぎ取り、いわば「生身の将門」を目指したものが多いようです。史実があいまいで想像の余地が大きいから、リアルに書くのもきっと楽しいことと思います。

しかし千年の時の流れるうちに猛烈に膨れ上がった伝説を、ごっそり捨ててしまうのはいかにも惜しいと思えてなりません。史実を追うのに忙しい段階ですから、伝説を調べるのはまだまだ先になりそうですが、それでも目に入ってくる「将門伝説」を瞥見すると、開いた口がふさがらぬ思いがします。怨霊伝説ばかりではありません。出生伝説、影武者伝説、為政者として、また武者としての伝説、そして死後の遺児伝説に至るまで、将門のことならどんな荒唐無稽も許されるという暗黙の了解でもあったのかと思うほどです。同じように広く語り継がれている「義経伝説」さえ、将門のそれに比べればずっとリアルでしょう。

仲俣さんは前の手紙で、僕が「とりつかれて」いる「『物語』の問題」について書いてくれました。「近代小説の諸形式、つまり自然主義やロマン主義やモダニズムやポストモダニズムといった様式より、はるか以前から存在する物語の様式を、藤谷さんは意識的に作品に取り入れてきた、あるいはその『様式を借りて』書いてこられたのでは」ないか、というのは、面映ゆくも嬉しいご指摘でした。

明治以後の日本の近代文学が、物語をすっかり投棄してしまったわけではありません。圓朝もいたし仮名垣魯文も人気があった。しかし彼らの「物語」を重んじる態度は、「小説」を西洋列強に比肩する国家樹立に資する「文学」にしなければならないと勇む、帝大出身の学士たちによって蔑せられました。

この時に物語に代わって称揚されたのが、まさしく「自然主義やロマン主義やモダニズム」であったわけです。そして「ポストモダニズム」はというと、これはもう僕たちのカッコイイ合言葉だったわけで、意味はよく判りませんでしたが(今でも判りませんが)、資本主義社会の最先端を行くジャパニーズ・カルチャーにふさわしい逃走と脱構築の思潮、みたいな感じでした。

しかもそこでは、どうやら「物語」が「批判」されていたようでした。物語とは、語る者と語られる者が同質であることを確認しあうための装置として機能するがゆえに、果てしなく制度化されていく……。そんな風に、僕は理解していました。いや、むしろ理解しないままそんな風に受け止めてしまった、と言ったほうがいいでしょう。物語は自由の対義語に等しく、自覚しない凡庸さと紋切型に自足した言葉を再生産するだけだ。物語から解放された表現こそ「ポストモダニズム」の課題だ……。二十歳からほとんど二十年、僕はそう信じて疑いませんでした。

そういう、厳密な定義などはよく判らないままに流布された、あの頃の「ポストモダニズム」というのは――ここまで書いてきて気がついたことなんですが――、西洋文化を規範とし、既存の文化を野蛮と退けた明治の「維新」の思潮と、さして違いはなかったのかもしれません。結局それは、文学を含む人文全般が、国威発揚の一翼を担った・担おうとした、政治運動だったのです。つまりポストモダニズムとは、党派だったのです。ポストモダニズムという言葉など聞いたこともないまま80年代を生きた人たちは、言うまでもなく、圧倒的多数でした。僕はそのことにずっと気がつかなかった。

物語に対する僕のこだわり(よくも、悪くも)は、そんな「ポストモダニズム」に熱狂した自分への反省、あるいは反動から始まりました。斬新で難解で、世界文学の最先端を行くと評判だった『百年の孤独』を(ノストラダムスの)1999年に読み、それが難解でないばかりか斬新ですらないことを発見しました。それは、「むかし話」の濃密な集積によって、ひとつの村の未開から繁栄、そして衰亡までをわずか百年の時間に凝縮させた、巨大で堂々とした「物語」そのものであったのです。あの小説=物語は、今でも僕の中で衝撃波を震わせています。

その後、カルヴィーノの『イタリア民話集』やアストゥリアスの『グアテマラ伝説集』を読み、今は『今昔物語集』や義経伝説、将門伝説に目を向けています。小説や現代文学に対しても、僕はそのような目を向けているのかもしれません。それは決して、公平な視線ではないでしょう。現代文学には現代文学の役割が、それ以前の文学とは違う、なんらかの役割があるのでしょうから。

つい数日前、僕は授業で三遊亭圓朝を取り上げました。そしてついでに二葉亭四迷のよく知られた「余が言文一致の由来」も読みました。

もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いて見たいとは思つたが、元來の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで、坪内先生の許へ行つて、何うしたらよからうかと話して見ると、君は圓朝の落語を知つてゐよう、あの圓朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。

で、仰せの儘にやつて見た。(「余が言文一致の由来」)

学生たちの前で『牡丹灯籠』を読みながら、僕はつくづく思いましたよ。二葉亭四迷がどれだけ苦労して言文一致体をこしらえたか、その努力と成果には敬意を惜しまない。しかし二葉亭と逍遥が「人情」を小説表現の上位に置き、勧善懲悪を排斥するために「物語」を軽視し、しかし文体の模索は圓朝を参考にしたとき、彼らは圓朝の皮だけ取って身を捨ててしまったのだと。(後年の逍遥は『小説神髄』をはじめとする初期作品を「旧悪全書」と呼んでみずから否定し、馬琴をはじめとする江戸時代の読本への愛着を隠しもしませんでした)

それは社会状況の大変化に伴う、新しい文学と文体のために必要な改革宣言だったのかもしれません。また逍遥や二葉亭が始めたと言っていい「文学」とは別に、物語文学は現代にいたるまで書き継がれています。文学から物語が消滅したことはありません。

けれども逍遥が、小説の「主脳」は「人情」であり、「真を穿つ」ものであり、「ローマンス」を「奇異譚」として退けて以来(明治19年のことです)、物語は現代においてもなお、古層を保っています。それは物語がそれだけ、不気味なほど強靭である証左でもあるでしょうが、また同時に物語が、無批判に反復されているからでもあります。

物語が新しい可能性を見せてくれるとしたら、それは個々人の手による新しい創作の中にしか現れないでしょう。カルヴィーノが、アストゥリアスが、ガルシア=マルケスが達成したような創作の中にしか。これら偉大な名前にはとうてい比すべくもありませんが、僕の小説もそのような試みの隅っこにあります。この試みが果たしてどんな可能性に至るか。それは、やり続けなければ判らないのです。

第1信第2信第3信第4信第5信第6信第7信第8信第9信第10信第11信第12信第13信第14信第15信第16信第17信第18信第19信第20信第21信第22信第23信第24信第25信第26信第27信第28信第29信第30信第31信第32信第33信第34信第36信につづく)

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様式によって動き出すものがある https://magazine-k.jp/2022/09/24/nakamata-to-fujitani-34/ Sat, 24 Sep 2022 01:42:43 +0000 https://magazine-k.jp/?p=27413 続きを読む]]>

第34信(仲俣暁生から藤谷治へ)

藤谷治様

暑さ寒さも彼岸までという昔からの言葉どおり、台風14号が通過した後の東京はすっかり涼しくなりました。私が仕事場にしている部屋は陽当りがよすぎて、夏の間はどんなにエアコンを強くかけても室温が30度以下にさがらず、日中はアタマをつかって考える仕事ができません。そんなぼんやりしたアタマを抱えたまま、今年の夏はコロナ禍が3年目を迎え、ウクライナでの戦争が半年も続き、そして多くの著名人が生涯を終えました。

山田風太郎の『人間臨終図鑑』を繙くまでもなく、人の亡くなり方も享年も様々ですが、死を悼む側の人の振る舞いはどんな文化でも、ある程度まで様式化されています。堪えきれない喪失感を抱く人も、実際には少しも悲しくない人も同じ様式をなぞることで、痛みを軽減したり共有したりできる――それは人類が生み出した一つの知恵かと思われます。

私自身も昨年の秋に母親を亡くし、あの震災の直前に父親を亡くしたとき以来、久しぶりに葬儀を行う立場に置かれました。さいわいコロナの波が一段落していたので、家族と親族だけの小規模な葬儀で見送れたのは幸運だったのですが、一抹の寂しさもありました。というのも、母の友人・知人は、以前には入所先のホームにたびたび見舞いに来てくれていたのですが、長引くコロナ禍のなかで体調を崩された方も多く、連絡をとること自体が困難でした。母方の親族も、健在だと思っていた伯母が一足先に鬼籍に入っていたことを知らされ、あまり縁のないイトコ同士でぎこちない近況報告をするにとどまりました。

若いころから私は冠婚葬祭がひどく苦手で、親族以外の葬式にも結婚式にもほとんど出たことがありません。それでも今回ばかりは、葬儀という形式や手順を踏むことで、自分のなかで気持ちの整理がつけられたところがありました。それこそ、昔からの「人類の知恵」に救われたのかもしれません。儀式や様式というものには、傍からは無駄や無意味に思えたとしてもそれなりの力があるということを、この歳にしてようやく思い知ったのです。

藤谷さんは一つ前の手紙で、ご自身の「内なる神」について書いてくれました。藤谷さんの小説にみられるキリスト教的なモチーフは以前からとても気になっていたので、その秘密をチラリと見せていただけたのは、読者の一人として喜ばしいことでした。とはいえ、無粋な唯物論者である私にとって、宗教とはひたすら退屈で膨大な手順をともなう様式に過ぎず、それと共存している信仰体系を「信じる」人の気持ちは、いまもって想像することができません。私自身も現世利益のための神頼みくらいはしますが、その結果がどうあれ、感謝も逆恨みもした覚えがありません。

そんな私には、信仰という側面から宗教について語れる言葉は、なに一つありません。しかし様式ということに話を戻すことができるのであれば、もう少し意味のあることが書けそうです。そう、文学表現にもさまざまな様式があるからです。

この往復書簡以外にも、藤谷さんとはSNSを介してやりとりをすることがあり、なにかの折にメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を読むよう強く促されました。私も「SF小説の祖」と呼ばれることもある、この作品の概要は知っていました。「フランケンシュタイン」とは、映画やその他で繰り返しビジュアル化されてきたあの「怪物」の名ではなく、その創造者となった若い科学者の名前であること、作者メアリー・シェリーは高名なロマン派の詩人パーシー・シェリーの妻であり、フェミニズム的な視点からもこの作品がたびたび議論されてきたことなどです。

この小説が書簡体というスタイルで書かれていることは、廣野由美子さんの『批評理論入門――『フランケンシュタイン』解剖講義』(中公新書)を以前に読んだときに教えられたのですが、まさにこの「書簡体で書かれている」という予備知識こそが、私をこの小説から遠ざけていた最大の要因でした。物語の本丸に入るまでが迂遠で退屈に思えたのです。

今回、私が読んだのは芹澤恵さんの優れた訳による現行の新潮文庫版ですが、ご存知のとおり、その冒頭はこう書かれています。

手紙 一

イングランド在住 サヴィル夫人机下

一九**年十二月十一日
サンクトペテルブルグにて

ご安心ください。いやな予感がする、とずいぶんご心配いただいたぼくの計画ですが、今のところ、なんら災難に見舞われることなく運んでいます。昨日、当地に到着したところです。最愛の姉上のお心を安んじることこそ、第一の任務。まずは、ぼくが元気なこと、今回の計画はきっと成功するだろうとの自信をますます強めていることをお知らせします。

当地はロンドンよりはるか北に位置します。街の通りを歩いていて、北からの冷たい風に頬を軽く打たれると、五感が引き締まり、嬉しさが湧きあがってきます。この感じ、わかっていただけるでしょうか? この風は、これからぼくが向かおうとしている地から吹いてくるもので、彼の地の氷の大地を事前に味見させてくれているのです。
(以下略)

怪物のビジュアルやあらすじだけで、この『フランケンシュタイン』という物語を記憶している読者にとっては、サンクトペテルブルグからイングランド在住の「サヴィル夫人」宛に認められたこの書簡は、やや意外な導入かもしれません。しかし「この風」つまり導入の文章は、まさしく「これからぼくが向かおうとしている地から吹いてくるもので、彼の地の氷の大地を事前に味見させてくれている」のですね。

フランケンシュタイン博士と彼が創造した怪物との死闘は、まさにこの「北の大地」で行われます。その目撃者であり報告者である「ぼく」の手になるこの文章は、書簡体小説という文学の様式に則っており、そしてもちろん「書簡」が求める当時の様式にも則りつつ、この小説の核心から吹き付ける「風」をも表現しています。この小説をすでに最後まで読み終えている現在の私にとって、この書き出しはとても優れたものに思えます。しかし未読の段階の私には、退屈でうんざりするような様式の始まりに思えたのです。

様式といえば、この往復書簡もそうですね。もう何年も、公開のかたちでやりとりさせていただいているこの連載は、ともに小説や文学、創作や出版にかかわる藤谷さんと私が、誰に気を遣うこともなく自由に近況報告をしあう場であって、それ自体は「書簡体による文学表現」ではありません(少なくとも、私はそう考えていつも書いています)。それでも往復書簡という形式あるいは様式をとることで、すでに一定のルールができてはいます。

たとえば、基本的に交互に書くこと、相手の投げかけた疑問や話題に応えること。一回あたりの長さもそれなりに定まってきました。なにより、ここでお互いがもちいている言葉遣いそのものが、私も藤谷さんが実際に人に会って話すときや、SNSでのやりとりとはずいぶん違うはずです。もちろん、そうした制約のある形式、様式だからこそふだんは話せない、書けないことがやりとりできるかもしれない、と思って提案したのです。

その後、私はジョージ・オーウェルの『動物農場』も、川端康雄さんの(これまた秀逸な)訳文による岩波文庫版で読みました。この作品が(スペイン市民戦争に義勇兵として従軍したオーウェルにとってはその段階ですでに明らかであり、第二次世界大戦末期にはさらに歴然としていた)ソ連の全体主義体制を根本から批判した物語であること、オーウェルの代表作とされることの多い『一九八四年』(こちらは既読でした)と基本的なモチーフを共有すること等を、私は知識として知ってはいました。

しかしこの小説は、たんなる政治的寓話ではなく、岩波文庫版では正しく副題に「おとぎばなし」が追加されているとおり、原題にもA Fairy Storyという語が添えられています。そして私は『フランケンシュタイン』を敬遠したのと同じ理由、つまり「おとぎばなし」であることを苦手として、『動物農場』を長く読まずにきたのです。

この物語との出会いを促してくれたのは、私が読んだ版の訳者でもあるイギリス文学研究者、川端康雄さんの『オーウェルのマザー・グース 歌の力、語りの力』(岩波現代文庫)という本です。ここで川端さんは「政治小説」とみなされてきたオーウェルの諸作品のなかから、マザー・グースに代表されるイギリス民衆の「唄」や生活誌を拾い上げています。政治的なメッセージを「おとぎばなし」という様式で伝えることにまどろっこしさを感じていた私は、この本でようやくこの作品の、そしてオーウェルという「小説家」の面白さに目覚めたのでした。

もっとも、一般の読者にとっては事情は逆かもしれません。事実、ジョージ・オーウェルで最も読まれている作品がなにかと言えば、間違いなくこの『動物農場』でしょう。オーソドックスな近代小説の様式ではないこの「おとぎばなし」と『一九八四年』、そして記録文学的なノンフィクション作品ばかりが長く読みつがれ、オーウェルの真面目な小説が当時もいまもさして読者を得ていないのには、なにか理由があるはずです。

メアリー・シェリーは『フランケンシュタイン』の元になる話を、スイスにある詩人のバイロン卿の邸宅に夫のパーシー・シェリーとともに寄寓した際、長雨に降り込められた退屈しのぎ怪談ごっこのなかで思いついた、というのはよく知られたエピソードです。メアリーはのちに職業作家になりますが、出版されたのはこの作品が最初で、書簡体小説という形式も彼女のオリジナルではなく、「実話の伝聞」という怪談の定型的な様式に、書簡体という別の様式を重ねたものでしょう。

こうしてみると、このところ藤谷さんがずっと「物語」の問題にとりつかれている理由が、私にも少しだけ理解できるような気がします。以前に藤谷さんに、小説を書く上でジャンルというものをどのくらい意識するか、とお訊ねしたことがあります。そのときは現代の小説(産業)におけるジャンルというニュアンスでしたが、もう少し文学史的に言い換えるなら、近代小説の諸形式、つまり自然主義やロマン主義やモダニズムやポストモダニズムといった様式より、はるか以前から存在する物語の様式を、藤谷さんは意識的に作品に取り入れてきた、あるいはその「様式を借りて」書いてこられたのではありませんか。

内容ではなく、様式こそが大事だといいたいわけではないのです。しかし、たとえそこに込められたメッセージは空虚だったり、ありきたりだったりしても、様式に則ることで、何かが動き出すということがあるのではないでしょうか。フランケンシュタインが作った「怪物」とは、メアリー・シェリーが生み出した「物語」のことでした。そしてこの「怪物」は、いまも私たちを魅了しつづけているのですから。

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