那覇の初日の出の時刻は7時17分で、その少し前にフェリーの客室を出てデッキへ向かった。まだ闇に包まれている那覇港を朝7時に出港したフェリーは、私の故郷である沖永良部島へ向け、沖縄本島の西側を北上していた。7時のフェリー、5時40分のタクシー、5時の起床……と逆算して作成したスケジュールをきちんとこなし、あとはフェリーの上から初日の出を見るだけであった。5時の起床であれば遅くとも夜11時ぐらいには就寝したいところであるが、そこは大晦日、大人しく眠るわけにもいかず、宿泊していた那覇のホテルのカウントダウンイベントに参加した。プールサイドでエイサーの演舞と、HYのボーカル仲宗根泉のいとこにあたる平川美香の歌唱、そして、年が明けた瞬間の花火を楽しんだ。新年の目標など立てるタイプではないけれど、当座の目標「朝5時に起きる」を胸に就寝。そして見事目標を達成し、順調にスケジュールをこなして、たどり着いたデッキの上、眠い目をこすりながら、東の方角に目を向ける。海の向こうに沖縄本島が横たわり、その上から朝日が顔を覗かせるはずだが、そこには分厚い雲が覆い被さっていた。曇天。地元で初日の出を見るときもいつもそうだった。水平線から昇る朝日を期待してもそこは雲に覆われ、ある程度の高さになった太陽が雲の隙間からようやく海上を照らすのが常だった。周囲を海に囲まれていると雲が発生しやすいのだろうか。逆に関東はいつも晴れているイメージで、自身、コロナ禍で一度だけ都内で新年を迎えた際も、浅草ビューホテルのスカイツリービューの部屋から見事な初日の出を見ることができた。
2016年の元旦に地元で初日の出を見てからもはや10年連続、世界中どこにいても初日の出を拝んできた。年末年始をどこでどう過ごすかは、どうやって初日の出を見るか、と同義だった。スペインはグエル公園から見たサグラダ・ファミリア越しの初日の出、クロアチアはドゥブロヴニクで見た初日の出、コロナ禍の東京で見た初日の出、香港は尖沙咀から見た初日の出、そしてその合間合間に曇天の沖永良部島で見た初日の出があった。
特にきっかけがあったわけでもなく、何となく始めたこの行為を惰性で続けて10年目、そして2025年の初日の出の時刻、7時17分を迎えた。太陽は雲に隠れたまま、その姿を見せようとしない。沖縄の気温は10度を下回らないものの、潮風が容赦なく吹きつけ、体感温度を下げる。一度客室に戻ることにして、ちょうど東向きだった窓から状況を見守った。
雲の上下から光芒が伸び、その背後で太陽が出番を待ち構えていた。「今でしょ!」と元予備校講師の声が脳内に響き渡り、再びデッキへ。同じく初日の出を見ようと待機する乗客とともに固唾を飲んで見守る。雲が途切れたその隙間からようやく太陽が現れ、デッキの上の乗客と睡魔を照らした。今年もなんとかその姿を拝むことができた。謹賀新年。初日の出に照らされ、フェリーは北上を続ける。故郷までは7時間の船旅、左右に大きく揺れるフェリーに船酔いの危険を感じ、睡魔の助けを借りて、到着までの間、深い眠りについた。
14時、沖永良部島の和泊港には、弟夫婦とその息子二人(四兄弟のうち三男と四男)が迎えに来てくれていた。少子化に奮闘する弟の運転する車で実家へと向かう。車窓から右に目を向けると田畑が連なり、左側には太平洋が広がっている。二年ぶりの景色だけれど、もはや「二年ぶりの帰省」慣れしている私。地元の雰囲気は懐かしいけれど、その懐かしいという感情に慣れてしまっている不思議な心地がする。鹿児島県の離島にある沖永良部島へは、東京からの直行便はなく、鹿児島経由の飛行機、または沖縄経由の飛行機またはフェリーという、時間もお金もかかる経路を辿らなければならない。もはや直行便のある東アジアの国々の方が近い感覚もあり、実家への足は遠のくばかり。結果、二年に一度ぐらいの帰省になってしまっている。30分後に実家に到着し、両親とも久々の再会を果たした。
翌1月2日、日中は弟の家族と曇天の沖永良部島の観光地を巡った。道中、自分の子供を諭し、面倒を見る弟に幼少期の面影はない。勉強を教えても物分かりが悪く注意散漫で、いつまでも子供のように思っていた、そんな弟がいつの間にか立派に家族を築いている。
「 兄とは常に、弟の先を行ってなければならない」漫画『宇宙兄弟』で兄の六太の心の声として頻出する文章である。将来共に宇宙飛行士になることを約束した兄弟、時が経ち、弟の日々人が宇宙飛行士となって月へ旅立とうとしているとき、兄の六太は上司に頭突きをして自動車開発会社をクビになっていた。「だけど……何をやっても俺を追い越し、先を行くのは弟・日々人じゃないか」という兄・六太の苦悩と共に物語は幕を開ける。いつからか宇宙飛行士になるのを諦めた六太が、再び宇宙を目指すその姿に胸が熱くなるが、それはまた別のお話。私の話をしよう。
ずっと弟の先を行っていると思っていた。勉強もスポーツも音楽も何もかも。島にかろうじて一校だけある高校を卒業後、大学進学を機に弟より一足先に島を離れ名古屋に住み、就職で上京して以来ずっと都心に住む生活をしている。一方弟は、私より二年遅れて高校を卒業し島を出て、大阪の専門学校に通った。その後早々に島に戻り、実家の電気店を継ぐ前提で今は電力会社で働いている。私が全く経験したことのない「家族を築く」という点においては、ずっと先に行ってしまった。弟の長男は、四月から高校に通うらしい。
その日の夜は親戚20人弱が実家に集まり宴会をした。父、母、弟、義妹、叔母、従兄、甥、その他、もはや関係性を一言で言い表せないたくさんの親族たち。テーブルの上に並ぶ料理の上を箸が行き来し、話題は過去と現在を行き来する。帰省すると繰り広げられるいつもの風景。数年前に祖母が他界し、弟や従兄に新たな命が生まれ、メンバーを変えながらもただただ楽しいひと時は変わらずにそこにある。しばらくするとお菓子を景品にしたビンゴゲームが始まり、それに続いてカラオケ大会が開催された。近しい人にこそ歌声を披露するのに恥じらいが生じてしまう私は歌うのを固辞し、甥っ子たちの盛り上げ役に徹するが、周囲からの圧に屈し、結局B'zの『ultra soul』を熱唱、実家が紅白のNHKホールと化した。思い返せば、人生で初めて購入した音楽アルバムはB'zの『LOOSE』だった。子供にとっての3千円はとても高価で、弟をそそのかしてお金を出し合い、今は亡き近所のCDショップで購入した。あれから約30年が経過していた。新進気鋭のアーティストたちに追いやられることなく、今もなお第一線で活躍している二人の凄さを痛感しながら、声を張り上げて歌った。親族一同の「ハイ!」が鹿児島県の離島の片隅に響き渡った。
翌日は近所で親戚の子どもと過ごし、母方の実家を訪れた後、居酒屋で家族と酒を飲み交わす。その翌日の1月4日、あっという間に島を離れる日。沖縄行きのフェリーは時刻通りお昼の12時に和泊港に入港した。夕方に那覇港に到着し、夜のフライトでその日のうちに東京へ戻ることになっていた。
初めて親元を離れたときのことを思い返す。高校卒業まで18年間過ごした島での生活は退屈極まりなく、ようやく島を出て都会での生活を謳歌できると期待に胸を膨らませていた。テレビも無え、ラジオも無え、は流石に言い過ぎだけれど、車はそれほど走ってないし、コンビニやマクドナルドもなかった。映画館とボウリング場は幼少期になくなってしまった。映画『タイタニック』が巡業でやって来て、同級生と町民体育館へ見に行ったのを覚えている。とにかく、都会の若者が享受できるあれこれが島には欠けていた。いつからか心の中に吉幾三が住みついて、『俺ら東京さ行ぐだ』で歌われる「俺らこんな村いやだ」という心の叫びを胸に抱くようになった(さすがに東京で牛を飼おうとは思わなかったが)。テレビに映し出されるマクドナルドの広告や、鹿児島市内にあるデパートのセール情報や、ドラマの登場人物の暮らしぶりなど、島民には手が届かない、手を伸ばしたところでブラウン管で突き指するだけの別の世界の出来事だった。
スーパーファミコンの名作RPG『MOTHER2』をご存知だろうか。主人公のネスは地球の未来を救うため、実家を離れて旅に出るが、ことあるごとにホームシックになり戦意喪失してしまう。ママに電話することでその状態は回復するのだが、私はというと島を離れてからホームシックにかかることなどなく、実家への電話も必要最小限。故郷を顧みず、ブラウン管の中の生活を楽しんだ。ちょうど反抗期真っ只中の時期に島を離れたことも関係しているのだと思う。思春期特有の、親と接するのが煩わしいような気持ちがずっと続いている私は、実家への執着心はなかった。「親ガチャ」という言葉が流行語になるずっと前に、それと似た考え方で自らの境遇を嘆いていたのかもしれない。それでも、毒親、虐待、ネグレクト、家庭内暴力、そういった言葉が他の家族の実例とともに目の前を通り過ぎて行くたびに、自分の家族への印象は改められる。特段誇れるようなものがない平凡な田舎の家族だったけれど、普通に愛情を注がれて育てられることの尊さを最近になってようやく思い知る。今なら少し分かるよ、ネス。ホームシックは家族への愛情の裏返しだったんだろう? 私もテレポートが使えるようになりたい。
親族と宴会をしているとき、黒糖焼酎を飲みながらふと、島で暮らし、家族を築き、折に触れて親族と宴会を楽しむありえたかもしれない(これからありえるかもしれない)日々を想像した。そんな生活は今となっては魅力的に感じるけれど、一方で近しい人を島外へ送り出す寂しさもついて回る。高校卒業後、進学や就職のために一度は皆島を出ることが多い。去る者と去られる者、どちらが辛いだろうか、と考えたとき、それは去られる者だと思う。だけど、去られる者の心象に寄り添うとき、もはやこれまでのようにただ無邪気に去るだけの者ではいられない。和泊港で家族と別れる際、母親の表情から名残惜しさを感じ、去られる側の寂寞感を胸に私は去る。それは、都会で忙しなく生活する間に忘れ去ってしまうかもしれないし、心の隅にしぶとく残る類のものかもしれない。
両親ももう高齢で、この帰省のペースでは、生きているうちにあと何度、あと何日会えるだろうか、と考えたりもする。その日が来たときに、ほとんど側にいられなかったことを後悔するだろうか。いつかそう遠くないうちに、島に戻って暮らすという決断を下すことがあるのだろうか。元予備校講師の「いつ戻るか?今でしょ!」という声が、胸に響くそのときが来るのだろうか。島に戻るとして、一体何をして生計を立てればいいのだろうか。
フェリーが島を離れていく。島での3泊4日を振り返り、その遥か向こうにある18年間を思う。故郷がゆっくりと遠ざかり、見えなくなる。フェリーはしっかりと南へ航路を取って進んでいくけれど、私は大きく蛇行しながらの航海を続けている。