日記なんかつけてみたりして

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30年後のultra soul

 那覇の初日の出の時刻は7時17分で、その少し前にフェリーの客室を出てデッキへ向かった。まだ闇に包まれている那覇港を朝7時に出港したフェリーは、私の故郷である沖永良部島へ向け、沖縄本島の西側を北上していた。7時のフェリー、5時40分のタクシー、5時の起床……と逆算して作成したスケジュールをきちんとこなし、あとはフェリーの上から初日の出を見るだけであった。5時の起床であれば遅くとも夜11時ぐらいには就寝したいところであるが、そこは大晦日、大人しく眠るわけにもいかず、宿泊していた那覇のホテルのカウントダウンイベントに参加した。プールサイドでエイサーの演舞と、HYのボーカル仲宗根泉のいとこにあたる平川美香の歌唱、そして、年が明けた瞬間の花火を楽しんだ。新年の目標など立てるタイプではないけれど、当座の目標「朝5時に起きる」を胸に就寝。そして見事目標を達成し、順調にスケジュールをこなして、たどり着いたデッキの上、眠い目をこすりながら、東の方角に目を向ける。海の向こうに沖縄本島が横たわり、その上から朝日が顔を覗かせるはずだが、そこには分厚い雲が覆い被さっていた。曇天。地元で初日の出を見るときもいつもそうだった。水平線から昇る朝日を期待してもそこは雲に覆われ、ある程度の高さになった太陽が雲の隙間からようやく海上を照らすのが常だった。周囲を海に囲まれていると雲が発生しやすいのだろうか。逆に関東はいつも晴れているイメージで、自身、コロナ禍で一度だけ都内で新年を迎えた際も、浅草ビューホテルスカイツリービューの部屋から見事な初日の出を見ることができた。

 2016年の元旦に地元で初日の出を見てからもはや10年連続、世界中どこにいても初日の出を拝んできた。年末年始をどこでどう過ごすかは、どうやって初日の出を見るか、と同義だった。スペインはグエル公園から見たサグラダ・ファミリア越しの初日の出、クロアチアドゥブロヴニクで見た初日の出、コロナ禍の東京で見た初日の出、香港は尖沙咀から見た初日の出、そしてその合間合間に曇天の沖永良部島で見た初日の出があった。

 特にきっかけがあったわけでもなく、何となく始めたこの行為を惰性で続けて10年目、そして2025年の初日の出の時刻、7時17分を迎えた。太陽は雲に隠れたまま、その姿を見せようとしない。沖縄の気温は10度を下回らないものの、潮風が容赦なく吹きつけ、体感温度を下げる。一度客室に戻ることにして、ちょうど東向きだった窓から状況を見守った。

 雲の上下から光芒が伸び、その背後で太陽が出番を待ち構えていた。「今でしょ!」と元予備校講師の声が脳内に響き渡り、再びデッキへ。同じく初日の出を見ようと待機する乗客とともに固唾を飲んで見守る。雲が途切れたその隙間からようやく太陽が現れ、デッキの上の乗客と睡魔を照らした。今年もなんとかその姿を拝むことができた。謹賀新年。初日の出に照らされ、フェリーは北上を続ける。故郷までは7時間の船旅、左右に大きく揺れるフェリーに船酔いの危険を感じ、睡魔の助けを借りて、到着までの間、深い眠りについた。

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 14時、沖永良部島和泊港には、弟夫婦とその息子二人(四兄弟のうち三男と四男)が迎えに来てくれていた。少子化に奮闘する弟の運転する車で実家へと向かう。車窓から右に目を向けると田畑が連なり、左側には太平洋が広がっている。二年ぶりの景色だけれど、もはや「二年ぶりの帰省」慣れしている私。地元の雰囲気は懐かしいけれど、その懐かしいという感情に慣れてしまっている不思議な心地がする。鹿児島県の離島にある沖永良部島へは、東京からの直行便はなく、鹿児島経由の飛行機、または沖縄経由の飛行機またはフェリーという、時間もお金もかかる経路を辿らなければならない。もはや直行便のある東アジアの国々の方が近い感覚もあり、実家への足は遠のくばかり。結果、二年に一度ぐらいの帰省になってしまっている。30分後に実家に到着し、両親とも久々の再会を果たした。

 翌1月2日、日中は弟の家族と曇天の沖永良部島の観光地を巡った。道中、自分の子供を諭し、面倒を見る弟に幼少期の面影はない。勉強を教えても物分かりが悪く注意散漫で、いつまでも子供のように思っていた、そんな弟がいつの間にか立派に家族を築いている。

「 兄とは常に、弟の先を行ってなければならない」漫画『宇宙兄弟』で兄の六太の心の声として頻出する文章である。将来共に宇宙飛行士になることを約束した兄弟、時が経ち、弟の日々人が宇宙飛行士となって月へ旅立とうとしているとき、兄の六太は上司に頭突きをして自動車開発会社をクビになっていた。「だけど……何をやっても俺を追い越し、先を行くのは弟・日々人じゃないか」という兄・六太の苦悩と共に物語は幕を開ける。いつからか宇宙飛行士になるのを諦めた六太が、再び宇宙を目指すその姿に胸が熱くなるが、それはまた別のお話。私の話をしよう。

 ずっと弟の先を行っていると思っていた。勉強もスポーツも音楽も何もかも。島にかろうじて一校だけある高校を卒業後、大学進学を機に弟より一足先に島を離れ名古屋に住み、就職で上京して以来ずっと都心に住む生活をしている。一方弟は、私より二年遅れて高校を卒業し島を出て、大阪の専門学校に通った。その後早々に島に戻り、実家の電気店を継ぐ前提で今は電力会社で働いている。私が全く経験したことのない「家族を築く」という点においては、ずっと先に行ってしまった。弟の長男は、四月から高校に通うらしい。

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 その日の夜は親戚20人弱が実家に集まり宴会をした。父、母、弟、義妹、叔母、従兄、甥、その他、もはや関係性を一言で言い表せないたくさんの親族たち。テーブルの上に並ぶ料理の上を箸が行き来し、話題は過去と現在を行き来する。帰省すると繰り広げられるいつもの風景。数年前に祖母が他界し、弟や従兄に新たな命が生まれ、メンバーを変えながらもただただ楽しいひと時は変わらずにそこにある。しばらくするとお菓子を景品にしたビンゴゲームが始まり、それに続いてカラオケ大会が開催された。近しい人にこそ歌声を披露するのに恥じらいが生じてしまう私は歌うのを固辞し、甥っ子たちの盛り上げ役に徹するが、周囲からの圧に屈し、結局B'zの『ultra soul』を熱唱、実家が紅白のNHKホールと化した。思い返せば、人生で初めて購入した音楽アルバムはB'zの『LOOSE』だった。子供にとっての3千円はとても高価で、弟をそそのかしてお金を出し合い、今は亡き近所のCDショップで購入した。あれから約30年が経過していた。新進気鋭のアーティストたちに追いやられることなく、今もなお第一線で活躍している二人の凄さを痛感しながら、声を張り上げて歌った。親族一同の「ハイ!」が鹿児島県の離島の片隅に響き渡った。

 翌日は近所で親戚の子どもと過ごし、母方の実家を訪れた後、居酒屋で家族と酒を飲み交わす。その翌日の1月4日、あっという間に島を離れる日。沖縄行きのフェリーは時刻通りお昼の12時に和泊港に入港した。夕方に那覇港に到着し、夜のフライトでその日のうちに東京へ戻ることになっていた。

 初めて親元を離れたときのことを思い返す。高校卒業まで18年間過ごした島での生活は退屈極まりなく、ようやく島を出て都会での生活を謳歌できると期待に胸を膨らませていた。テレビも無え、ラジオも無え、は流石に言い過ぎだけれど、車はそれほど走ってないし、コンビニやマクドナルドもなかった。映画館とボウリング場は幼少期になくなってしまった。映画『タイタニック』が巡業でやって来て、同級生と町民体育館へ見に行ったのを覚えている。とにかく、都会の若者が享受できるあれこれが島には欠けていた。いつからか心の中に吉幾三が住みついて、『俺ら東京さ行ぐだ』で歌われる「俺らこんな村いやだ」という心の叫びを胸に抱くようになった(さすがに東京で牛を飼おうとは思わなかったが)。テレビに映し出されるマクドナルドの広告や、鹿児島市内にあるデパートのセール情報や、ドラマの登場人物の暮らしぶりなど、島民には手が届かない、手を伸ばしたところでブラウン管で突き指するだけの別の世界の出来事だった。

 スーパーファミコンの名作RPGMOTHER2』をご存知だろうか。主人公のネスは地球の未来を救うため、実家を離れて旅に出るが、ことあるごとにホームシックになり戦意喪失してしまう。ママに電話することでその状態は回復するのだが、私はというと島を離れてからホームシックにかかることなどなく、実家への電話も必要最小限。故郷を顧みず、ブラウン管の中の生活を楽しんだ。ちょうど反抗期真っ只中の時期に島を離れたことも関係しているのだと思う。思春期特有の、親と接するのが煩わしいような気持ちがずっと続いている私は、実家への執着心はなかった。「親ガチャ」という言葉が流行語になるずっと前に、それと似た考え方で自らの境遇を嘆いていたのかもしれない。それでも、毒親、虐待、ネグレクト、家庭内暴力、そういった言葉が他の家族の実例とともに目の前を通り過ぎて行くたびに、自分の家族への印象は改められる。特段誇れるようなものがない平凡な田舎の家族だったけれど、普通に愛情を注がれて育てられることの尊さを最近になってようやく思い知る。今なら少し分かるよ、ネス。ホームシックは家族への愛情の裏返しだったんだろう? 私もテレポートが使えるようになりたい。

 親族と宴会をしているとき、黒糖焼酎を飲みながらふと、島で暮らし、家族を築き、折に触れて親族と宴会を楽しむありえたかもしれない(これからありえるかもしれない)日々を想像した。そんな生活は今となっては魅力的に感じるけれど、一方で近しい人を島外へ送り出す寂しさもついて回る。高校卒業後、進学や就職のために一度は皆島を出ることが多い。去る者と去られる者、どちらが辛いだろうか、と考えたとき、それは去られる者だと思う。だけど、去られる者の心象に寄り添うとき、もはやこれまでのようにただ無邪気に去るだけの者ではいられない。和泊港で家族と別れる際、母親の表情から名残惜しさを感じ、去られる側の寂寞感を胸に私は去る。それは、都会で忙しなく生活する間に忘れ去ってしまうかもしれないし、心の隅にしぶとく残る類のものかもしれない。

 両親ももう高齢で、この帰省のペースでは、生きているうちにあと何度、あと何日会えるだろうか、と考えたりもする。その日が来たときに、ほとんど側にいられなかったことを後悔するだろうか。いつかそう遠くないうちに、島に戻って暮らすという決断を下すことがあるのだろうか。元予備校講師の「いつ戻るか?今でしょ!」という声が、胸に響くそのときが来るのだろうか。島に戻るとして、一体何をして生計を立てればいいのだろうか。

 フェリーが島を離れていく。島での3泊4日を振り返り、その遥か向こうにある18年間を思う。故郷がゆっくりと遠ざかり、見えなくなる。フェリーはしっかりと南へ航路を取って進んでいくけれど、私は大きく蛇行しながらの航海を続けている。

京都音楽博覧会2024

 10月12日土曜日、京都、晴れ。

 10月13日日曜日、京都、晴れ。

 京都音楽博覧会(以下、音博)の一週間ほど前、開催日両日の天気予報をチェックして出てきたその予報に、悲観的な私が否を突きつけていた。ここ数年の音博は悪天候に見舞われ、もはや雨雲は音博の準レギュラー、今年も出演オファーが届いているはずだった。数ある天気予報サイトの中でも私が最も信頼を置いていて、iPhoneウィジェットにも追加しているウェザーニュースの天気予報だったが、過去滝のような雨に打たれてライブを鑑賞した苦難の記憶がその信憑性を上回る。音博当日が晴れだなんて、珍しくて雨が降りそうだ。表示されている太陽のマークの隅に雲マークが現れ、次第に面積を広げて気がつけば雨のマークに変わる、そんな嫌な予感を抱きながら日毎天気予報をチェックしていた。それでも開催日直前、微動だにしない太陽のマークをようやく信じることにして、京都に持っていくものリストから雨具を外した。好天に恵まれ、最高の音博になりそうだ。この時はまだ、逆の心配をしなければならないことに気づいていなかった。ふとこの記事をタイプする右腕を見ると、日焼けした皮膚の皮がむけてしまっているのだが、それはともかく音博の一日目。

 10月12日土曜日、京都、晴れ。

 新幹線の改札を抜け、JRの中央口から外へ出ると、快晴の空を突き刺すように京都タワーが屹立していた。曇天の空を背景に立つ白いタワーを見ると、ここはモノクロの世界かという錯覚を抱いてしまうけれど、この日は真っ青な背景に白が映える。同じ白でも天気によって見え方が違うような気がして、アンミカの「白って200色あんねん」という名言を思い返す。

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 京都タワーの真下、京都タワーホテルに荷物を預け、音博会場の梅小路公園へ。10時半頃に会場に入り、舞台に向かって左側、やや前の位置にシートを広げて場所を確保、開演まではまだ時間があったので、コンビニに行ったりグッズを買ったりしていた。それにしても暑い。過去二回の「次回は、次回こそは晴れてくれ」という思いが成就しすぎての30度弱。10月半ば、もう秋が深まってもいい時期であるが、残暑が残りすぎている。

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 例年通り、くるりの開幕宣言から音博がスタートした。CHO CO PA CO CHO CO QUIN QUINの多国籍な音楽で、京都にいながら中南米から沖縄まで世界旅行を堪能する。菊池涼介ラフマニノフメドレーにさりげなくくるりの『JUBILEE』を織り交ぜ、更には岸田繁との『さよならリグレット』を演奏するというサービス精神。くるりと同時期にデビューのKIRINJIは、暑さにうだる我々に爽やかな風を届け、次のDaniele Sepe & Galactic Syndicateでその風がナポリの潮風に変わる。二年目の羊文学は、重厚感のあるサウンドに塩塚モエカの透明感のある歌声が心地いい(『1999』が好きです)。ド世代のASKAは『SAY YES』の頭のコードが梅小路公園に響き渡った時点で昇天。余計な物など無いよね。時間も空間も軽々と超越するそうそれが音博。トリのくるりは『ばらの花』から豪華な編成。またこの場所でくるりを聴くことができる喜びに包まれながら、最後の『琥珀色の街、上海蟹の朝』まで満喫する。一日目の余韻と二日目への期待を串揚げ屋に持ち込んで初日終了。

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 10月13日日曜日、京都、晴れ。

 朝食バイキングにベトナム風チキンカレーが並んでいて無視できず、プレートの上が多国籍の音博状態。これまで一体どれだけのカレーが、宿泊客の朝食バイキングのバランスを乱してきたのだろうか。

 カレーの功罪について思いを馳せながら、昨日と同様、好天の空の下、梅小路公園へ向かう。ふとSNSをチェックすると、miletが体調不良の為、出演キャンセルというニュースが飛び込んできた。様々な音楽番組でくるり愛を語っており、今年の音博で最も楽しみにしていたアーティストの一人だったので残念である。そんな暗い気分を吹き飛ばすようなSHOW-GOのビートで二日目の音博が開始。口の中に小人たちが住んでいて、複数の楽器をいろんなリズムで奏でているような、そんな複雑なことを一人でやってのけているのがすごい。次の玉井詩織 feat. 武部聡志では、この日の太陽以上に力強いアイドルのパワーが我々に降り注いだ。岸田繁を加えての『男の子と女の子』のカバーは秀逸で、一時期ももクロにハマっていた私にとってラストの『走れ!』は感慨深いものがあった。オペラ歌手の平野和は、MCでその人となりが垣間見れた瞬間に人として好きになってしまい、『島唄』や『魔王』などでその歌唱力に圧倒された。最後、一番好きな作曲家の曲を、ということでくるりの『Remember me』をカバー、彼のくるり愛が十二分に伝わってきて、とても感動的なステージだった。二日目のDaniele Sepe & Galactic Syndicateは、miletの不在をカバーすべくプログラムを加え、昨日に負けず劣らずの濃厚な演奏を届けてくれた。また、インターバルを挟んでくるりのメンバーも加わり、くるりとの新曲『La Palummella』などを披露。そして夕暮れのフジファブリックは『ショウ・タイム』から演奏開始。最後に演奏されたのが、夏から秋へと季節が移り変わろうとするその時に必ず脳内に流れてくる『若者のすべて』だった。「真夏のピークが去った」と歌われたところで有無を言わさずこの存在感の強い夏がようやく退場していくような気がした。季節の移ろいや今後のこのバンドの行く末を重ねて聴いてしまい、いつになく哀愁の漂う『若者のすべて』であった。そして今回の二日間に渡る音博も最後のアクト、くるり。『Morning Paper』のギターリフが梅小路公園の空気を切り裂くように響き渡り、その後、構成を変えながら次々と曲を演奏していく。やはり京都で聴く『京都の大学生』は格別で、「願っていれば夢は叶う」という岸田繁のMCの後の『奇跡』は胸にぐっと来るものがあった。そして、最後の『宿はなし』で今年の音博も幕を閉じた。

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 10月14日月曜日、京都、晴れ。

 朝食バイキングでベトナム風チキンカレーの前を通り過ぎ、プレートの上に京都のおばんざいを並べる。歴史から学べる私の前には、どこに出しても恥ずかしくないバランスの良い朝食プレートが。食後、ホテルをチェックアウト。京都タワーホテルの宿泊に京都タワー割引券が付いてきたので、今更ながら初めて京都タワーに登ることにした。京都市内はもちろん、遠く大阪の摩天楼がうっすらと見える。そして、西に目をやると、昨日まで熱演が繰り広げられていた梅小路公園が。

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 今年の音博について振り返ってみると、音楽を通じての演者同士の繋がりというものを強く意識させられたイベントだった。岸田繁が20年前にCDを手にとって以来ファンだったというDaniele Sepe & Galactic Syndicate、ジブリの企画繋がりで音博参加となった玉井詩織くるりの二人もずっと聴いていたというASKA、雑誌の対談で岸田繁と会いくるりファンを公言している平野和、学生時代からくるりが好きでくるりのサポートギターも努めたことのあるフジファブリック山内総一郎。これまでの音博もそういった繋がりによって成り立ってきたのだとは思うけれど、今年一層その感覚が強く感じられるのは岸田繁のMC「憧れの人に会えたり、いい意味でまさかこんなことが起こるはずはないだろうということが起こったり。願ってたり、思ってたりしたら叶うんやなということを思った」という言葉によるものかもしれない。

 思い返せば、私も音楽活動を続ける中で築くことができたたくさんの関係があった。軽音楽部でバンドを組んだときのメンバーはもちろん、演奏に刺激を受けた他の部員たち。また、社会人になって会社の先輩とバンドを組んだ際、ライブハウスで共演した対バンの方々。ライブ終了後、互いの演奏を称え合って飲むお酒は世界で一番美味しかった。もはやステージ上から退いてしまった今の私には、そんな繋がりを築く機会はなくなってしまったけれど、一方で、演者ではなく観客としての繋がりができた。2015年のシルバーウィークに初めて一人でやってきた梅小路公園、いつの間にかここで知り合った方々と再会を喜び、同じ時間を共有する場所となっていた。

 昨日までの熱演が嘘のように、遠く梅小路公園はひっそりとしているように見える。ここがまた多くの観客で熱気に包まれるその時に帰ってこられたらいいなと思った。

 京都滞在三日目も好天に恵まれた。絶好の観光日和である。夕方の新幹線の時間まで目一杯京都を満喫しようと、鴨川デルタへ向かうバスに乗り込んだ。

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ぼくのなつやすみ

 母親がいつか愚痴る様に言った 夏休みのある小学校時代に帰りたい

 夏休みの曲、というとTUBEの『あー夏休み』とか、吉田拓郎の『夏休み』とかいろいろあるけれど、夏休みが近づくにつれ私の脳内に頻繁に再生されるのは、別に夏休みの歌ではないMr.Children『光の射す方へ』の一節である。その歌詞における母親は、私の心を代弁してくれているのか。社会人になった今、夏休みが全くないわけではないが、小学校の夏休みと比べるともはや秒。目の前に有り余るほどの自由が広がっていた当時に帰りたい。

 とは言えその自由に水を差していたのが夏休みの宿題。小学校の頃の私は、夏休み終盤、放置していたたくさんの宿題に苦しめられるのが常だった。夏休み最終日に感じるあのやるせなさは、宿題が終わっていないことへの絶望感か、夏休みが終わることへの寂寥感か。自由研究を新学期が始まってから取り組んだこともあった。いくら自由研究だからといって、自由すぎる。自由を履き違えている。そして、成長の跡が見えない私は、八月中旬の夏休みの旅行記を、もはや秋めいてきた十月にこうして綴っている。

 年末年始に海外旅行のリハビリを香港で済ませた私は、暑夏の足音が聞こえてくる六月、夏休みの旅行先について思いを巡らせていた。コロナが落ち着いてもう世界中どこへだって行ける気がしていたけれど、「円安」がその気分に歯止めをかける。五日間という期間の制約もあった。円安のダメージを和らげてくれる物価が安い場所、そして五日間で行ける近場、かつこれまで行ったことがない場所、そんな風に場所を絞っていくと、自ずと目の前にツインタワーがそびえ立っていた。東南アジアはマレーシアのクアラルンプール。日本の夏が暑すぎてもはや東南アジアへ行くにも以前ほどの抵抗がなくなったのは良いのか悪いのか。私にとって初めての東南アジアは2017年のカンボジアだった。熱帯モンスーン気候に恐れをなして冷却グッズを買い揃えたあの日。今回はもはや丸腰で向かおうとしていた。東京の夏は去年に劣らず灼熱。気温だけで言うと、クアラルンプールは東京とほぼ同じ、むしろ低い日も多々あった。

 8月10日、出発の日。9:15成田発のキャセイ便に間に合うよう、マッドマックス怒りの朝5時起床、そして6時過ぎにスカイライナーに乗る。同じ車両に乗る乗客は全員睡魔かと思うぐらいの眠気とともに列車は空港へ向かっていく。空港に到着し、搭乗の手続きを進めようとしていると、キャセイのスタッフから思わぬ提案が。香港経由でクアラルンプールへ向かおうとしていたところ、香港行きの便がオーバーブッキングで、クアラルンプール直行のJAL便への振替を依頼された。値段が安く、帰りに香港で少し滞在しようとキャセイの香港経由便にしていたのだが、往路が直行便になるのは渡りに船、もとい飛行機、ということで二つ返事で了承した。9:15成田発 20:15クアラルンプール着が、11:15成田発 18:55クアラルンプール着に。早起きは三文の徳、と言いたいところであるが、少し意味合いが違うかもしれない。せっかく早起きしたのにあまり意味がなくなってしまった、という意味合いの類似ことわざを作りたいが、使用頻度が低すぎて生まれた途端死語になってしまいそうである。空いた時間は便変更協力者の特権であるキャセイのラウンジで朝食を取り、ワインを飲みながら着陸する飛行機をぼんやり眺めていた。そしてショッピングモールを見て回る。そんな風に久々の成田空港でゆっくり過ごせる時間を持てたことはやはり早起きしてよかったと言うべきか。そして、JAL機はクアラルンプールへ向けて離陸した。

 定刻より少し早めにクアラルンプール国際空港に到着。我々の到着を現地の民族音楽の生演奏が歓迎する。独特の雰囲気に包まれながら空港内を歩く。バス移動を経て入国審査を終え、手荷物を受け取り外へ。市街地にあるホテルへは料金定額の空港タクシーで移動することにした。約1時間約60kmの移動で118.7リンギット約4,000円。テリマカシ、とドライバーとマレーシアの物価安に現地語で礼を言い降車。トレーダーズホテル、というシャングリラ系列のホテルにチェックイン、部屋に入りカーテンを開けると目の前にペトロナスツインタワーがそびえ立っていた。リッツカールトンが世界で一番安く泊まれる場所クアラルンプール、ここトレーダーズホテルも高級ホテルの分類だが、香港の同等のホテルの宿泊費と比べるとやはり安い。

 夕食は、ホテルから徒歩圏内のショッピングセンター「パビリオン」にあるマレー料理チェーン店「セライ」で「ナシクラブ」という混ぜご飯を食べた。「バタフライピー」という花で色づけた青いご飯はココナッツミルクの味がする。英語の教科書の新しい単元かというぐらいの新出単語の多さ。テストには出ないので覚えなくていい、けれどもしクアラルンプールに行く機会があれば試してほしい。「パビリオン」の「セライ」で「バタフライピー」で色付けされた「ナシクラブ」を食べるのを。

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 ホテルへ戻ると、部屋の窓からは煌々と輝くペトロナスツインタワーが見えた。そして、窓の外のツインタワーとともに寝起きする数日間が始まった。

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 翌朝、ホテルで朝食ビュッフェを取った後、雨にけぶるツインタワーを見て折り畳み傘を持って出かける。地下鉄に乗って雨の中華街へ。異国の地で公共交通機関に乗ると、その国の日常が染み付いていく感覚があって楽しい。中華街近くのマーケットを散策し、アートスポットREXKLの本棚に圧倒され、「南香」というお店で中華料理を食べた。世界中どこでも安定したクオリティを提供してくれる中華料理の偉大さを痛感する。ロンドン旅行で食事に困ったとき、頻繁に中華街を訪れていたことを思い出した。

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 食後、タクシーで郊外のバトゥ洞窟へ向かった。クアラルンプールから北へ約10km、ヒンドゥー教の聖地である。幼少期をRPGとともに過ごした私は「洞窟」と呼ばれる場所を無視できなかった。到着時には雨は上がっていた。目の前にはカラフルな272段の階段が洞窟の入口へと続いている。ここを登りきった暁にはいくばくかレベルが上っているかもしれない、否、もはや上がるレベルなどなく疲労が蓄積されるだけの老体。階段周辺には野生の猿が数多く出没し、持ち物をひったくられないよう気配を消して登る。登りきった先は鍾乳洞になっていて、ヒンドゥー教の神々が祀られていた。天井から光が差し込み、その神秘的な雰囲気を堪能する。

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 タクシーで市内へ戻り、夕食をとった後、様々な角度からペトロナスツインタワーを眺めた。根本から見上げるツインタワーは圧巻。一本でも圧巻なのにそれが二本もある。ツインタワー前の公園で行われる噴水ショーを見てホテルへ戻り、ホテルのルーフトップバーからもツインタワーを眺めた。

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 翌日はそのペトロナスツインタワーの約一時間のツアーに参加。まず41階(高さ170m)のスカイブリッジを見学し、その後片方のタワーの86階(高さ370m)のオブザーベーションデッキへ。市内を一望した後は、クアラルンプールから南へ約25km、プトラジャヤというマレーシアの行政上の首都へタクシーで向かい、ピンクモスクを観光する。市内へ戻り、ショッピングモールで軽食を取って、お土産を購入。夕食はホテル近くの「客家飯店」で中華料理を食べる。

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 一通りクアラルンプールとその周辺の観光を終え、翌朝8時のフライトに備えて空港ホテルにタクシーで移動した。チェックインを済ませた後、ホテルのバーへ。マレーシア最後の夜、空港に隣接かつバギー送迎サービス有りという安心感にお酒が進む。

 そして、あっという間にマレーシアを発つ日。やはり社会人の夏休みは秒で、脳内の和寿ママが「夏休みのある小学校時代に帰りたい」と愚痴るように言う。でも、当時と比べると一瞬の夏休みだけれど、それでも小学校時代にはできなかったような過ごし方ができるのも大人の夏休みである。初めてのマレーシア、クアラルンプール周辺だけの短い時間だったけれど、消去法で選んだ割には楽しめた。イスラム教の国、だけど中国の文化も強く、これまで訪れたどの国ともまた異なる雰囲気があった。

 キャセイの便は香港へ向けて離陸。帰国途中に香港も楽しもうとあえて12時間の乗り継ぎ時間を設けていた。機内でゆっくり休めばいいものを映画『怪物』視聴で睡眠不足の香港着。眠る時間さえ惜しい。そして、もうちょっとだけ、夏休みのアディショナルタイムを最後まで満喫しようと、長蛇の入国審査の列に並んだ。

2024年1月の花火

 新型コロナウイルス収束後の初めての海外旅行、海外旅行のリハビリは、行き慣れた香港にしようと思っていた。しかし、年末年始の休暇の日程が確定したその頃、心の中で湧き上がるプレミアリーグ熱を抑えることができず、私はマンチェスター行きの航空券を仮押さえしていた。2023年秋、遠藤航リヴァプールに移籍したことは私にとって大きなニュースで、追い打ちをかけるようにビートルズが新曲を発表、ジョン・レノンの歌声は時間も空間も越えて私に呼びかけているような気さえした。ストロベリー・フィールドを訪れ、キャバーン・クラブでビールを飲み、ビートルズ銅像と写真を撮り、アンフィールドリヴァプールニューカッスルの試合を観戦する、そんな瞬間を何度も思い描いていた。

 それでも、やはり心のどこかで香港のことが気にかかっていた。高校の修学旅行で初めて訪れた海外であり、大学の交換留学で初めて住んだ海外。コロナ収束後の初めての海外も香港でなければならないような気がしていた。

 香港行きの背中を押したのがプレミアリーグのチケット入手の難しさだった。シーズンチケットを有しないビジター向けに残されているのは僅かな数の座席。小さなパイを奪い合う状態で、リヴァプールのホームチケットで言うと、HISなどの正規代理店から購入すると約20万円、専門の業者を見つけて見積もりをお願いすると約10万円、試合時間が90分としたら1分間に1,000〜2,000円かかっている計算になる。もう瞬きすらできない……恋かよ。その一方で、貴重な経験のためにはどんどんお金を使うべきであるという考えもあった。あのアンフィールドで、名将クロップが率いる世界的なチーム、リヴァプールFCの試合を観る経験はプライスレス。

 どちらを選ぶべきか。リヴァプールニューカッスルの試合を前に、香港とイングランドが激しい戦いを繰り広げていた。

 

 年の瀬、M-1グランプリを見ていた。大会も終盤、勝ち上がった三組による最終決戦が行われていた。「三密回避で、ステイホームですけれども」「お前まだそこなの!?」令和ロマンの漫才のツカミに笑いが起こる。ようやくここまで来たのだ、と思った。「三密回避で、ステイホームですけれども」がボケとして機能する時代に。「お前まだそこなの!?」がツッコミとして機能する時代に。長かった。余計な検査や証明書を必要とせず、以前のように気軽に海外旅行に行ける時代がまた訪れていた。令和ロマンの優勝を見届けた約1週間後、これまでずっと活躍の場を奪われていたリモワのクラシックフライトに荷物を詰め込み、羽田空港へと向かった。結局選んだのは香港だった。

 自粛中でもJALカード利用でコツコツと貯めた陸マイレージを一部利用してのビジネスクラス、年越しの瞬間はラグジュアリーホテル、と行き先をイギリスから香港に変えたことで節約できたはずのお金を注ぎ込んだ。コロナ後初めての海外旅行はこれぐらい贅を尽くしてもよいだろう。2023年12月29日9:40、JAL機は定刻通り羽田空港を離陸した。

 香港までは僅か5時間のフライト。いつもは到着が待ち遠しいはずの機内だが、リクライニングシートで豪華な食事とシャンパンをいただき、このまま何時間でも乗っていたい気がする。それでも香港国際空港に到着したとき、ようやくここに戻って来られたのだという感慨深い思いに包まれた。前回訪問は2019年年末、ローマへ行く際の乗り継ぎで9時間ほど滞在しただけだった。オリンピックの周期と同じ、4年ぶりの香港。金メダリストが新勢力の台頭に怯え、表舞台から姿を消してしまうのに十分な時間が経過していた。入国審査にかかる約30分はそれに比べると誤差のようなものだった。

 スーツケースを受け取り、到着ロビーへ。いつも持ち帰って香港訪問の度に持参する交通系ICカード、オクトパスが最後のチャージから1000日経過して使用できなくなっていたため、空港の窓口でリアクティベートしてもらった。空港トイレでこの旅のファースト小心地滑(滑る床に注意!の看板)を目にする。その側を通る私の足元はどんな床でも滑ることを拒むようなNIKEエアフォースワン。しっかりとした足取りで、クリスマスの余韻を残す空港構内をバス乗り場へ向かって進んでいく。尖沙咀へ向かうA21のバスに乗りこみ、再設定したばかりのオクトパスをタッチして二階席へ。

 車窓からは空港周辺の自然豊かな景色、しばらくすると遠くに高層ビル群が見え、気がつけば九龍半島の密集した高層マンションの間を縫ってバスは走る。

 佐敦で降車、あまりの暖かさに脳内エルサが「少しも寒くないわ」と歌い出す。レリゴー、ここは私がありのままでいられる第二の故郷、香港。スーツケースを引きずって2泊する予定のB P INTERNATIONALへ向かう。あらゆる種類のお店が立ち並ぶ商業の街、尖沙咀近辺で、安く泊まりたいけどゲストハウスまでレベルを落としたくないときの私の定宿。あらかじめ連絡を取っていた留学中の友人との待ち合わせの時間まで、しばしホテルで疲れた体を癒やす。

 19時、尖沙咀は漢口道にある樂意點心というお店の前で、留学以来20年ほどの付き合いとなる友人と再会を果たす。香港が様変わりしていく中で、留学中に知り合った友人らも家族を築いたり、香港から離れたりしていて、状況の変化に伴い疎遠になってしまった。かろうじてfacebookで繋がっていても更新がなければ糸の切れた凧。そんな中でも変わらず香港に住み続け、香港訪問の度に会っている友人とカジュアルな飲茶を楽しんだ。

 食後、プロムナードを散策する。対岸の香港島の夜景も当時とは変わっているだろうけれど、それでも受ける印象は当時のままで、香港で過ごしたときのことを思い返してしまう。

 翌日は、上環でブランチの燒味飯(ローストご飯)を食べ、香港島随一の商業地区である銅鑼灣を散策、鰂魚涌の複合高層ビルで香港の市井の雰囲気を感じた後、中環からフェリーで尖沙咀に戻った。更にその翌日、大晦日の朝はホテルの近くで年越しワンタン麺を食べ、ホテルをカオルーンシャングリラに移動、荷物を預けた後、留学中に住んでいた新界へ。よく行っていた沙田の吉野家で牛丼を食べ、留学先の大学へ足を運んでみたものの、関係者以外構内に入れない状態になっていた。もはや20年ほど前の留学生である私は関係者と言えるのか、言えたとしてもそれを証明するものがなく、外から校内をただただ眺める。学内の寮に住み、学食で友人らと語り、広大な構内をバスで移動していた当時を思い返しながら。その後、香港らしさが凝縮されたような雑多なショッピング街、旺角を散策した。

 無性に懐かしかった。留学以来、両手でも足りないぐらい香港を訪れてきたが、一体そのどれを参照して「懐かしい」という感覚を抱いているのだろうか。留学中の思い出なのか、それ以降に訪れた際に感じたあれこれを参照しているのか、はたまたそれらの蓄積が私の中で一つの香港像を築き上げていて、それを参照して「懐かしい」という感覚を抱くのだろうか。香港の街を歩き、この外国語には翻訳しがたいと言われる「懐かしい」という感情が何度も押し寄せてきて、一方で様々な街の変化がその感情をぶち壊す、その繰り返しだった。

 昔住んだ街を歩くというのは不思議な感覚である。変わらない部分を見つけて懐かしさを感じるとともに安堵し、変わってしまった部分に失望しながらもその変化を楽しむ。故郷としての香港と旅行先としての香港が自分の中で入り混じった状態で、香港の街を歩き続けていた。

 15時半ごろにホテルに戻った。部屋に入ると、自動でカーテンが開き、目の前にはビクトリアハーバーが、そしてその向こうに香港島の景色が広がっていた。食料とお酒を買い込んで、年越しの準備は万全。衛星放送でNHK紅白歌合戦を流しながら、次第に暮れゆく香港島の街並みを眺める。紅組の優勝を見届け、日本時間での年越しの瞬間を見届け、その一時間後の香港での年越しを見届けようと待つ。外には花火を見ようと数多くの人が詰めかけていた。そして年越しの瞬間、香港島から花火が上がるのをカオルーンシャングリラのハーバービューの部屋から眺める。20年前、学内の格安の寮に住み、近くの学食で150円の食事でお腹を満たしていたあの頃からずいぶんと遠くまで来たような気がした。コロナ禍を経て、ようやく海外で、自分にとって特別な場所で年越しを迎えることができた。

 年が明けても過去と現在を行き来するような時間が続く。元日、尖沙咀を散策し、新しくできたスポット西九文化區を訪れ、油麻地の興記菜館に並んで煲仔飯(炊き込みご飯)を食べる。帰国日前日には再度ホテルを移動、尖沙咀のプロムナードに近い立地最高のYMCA Salisbury Hong Kongへ。それから香港島の南側、淺水灣と赤柱で市内とはまた違う雰囲気を堪能し、香港旅行の定番であるヴィクトリアピークで夜景を眺め、円安と物価高と観光地プライスの三重苦に苛まれながらもB級グルメを楽しむ。もはやサザンオールスターズ『LOVE AFFAIR 〜秘密のデート』のサビのような目的地の羅列。兎にも角にもあっという間に一週間にも満たない旅の最終日を迎えた。1月3日、午後の便で香港を発った。

 流行り病を経て、久々の海外。思い返せば私の留学も流行り病に怯えながらのスタートだった。留学の前の年にSARSが流行、行けるかどうか不透明なまま時が流れた。患っても死ぬことはないだろう、と楽観的でいられたのは若さの特権か。大学の留学センターのスタッフと面談を繰り返す中で、行きたいという強い思いを伝え続け、予定通り2003年8月に灼熱の香港の地を踏んだ。

 当時の私とは違い、コロナのせいで留学の機会が奪われてしまった学生もたくさんいるのだろう。結局どんな環境下に置かれても、その生活を充実させるか否かは自分の気の持ちようであって、行かないことで得られた経験、繋がりもあったのだと、そう願うばかりである。

 私にとっても、香港に行かなかったことで展開された別の素晴らしい人生があったかもしれない。バンド活動に精を出し、武道館を観客で埋めていたかもしれないし、お笑いコンビを組んで、令和ロマンのM-1優勝を阻止していたかもしれない。今とさほど変わらない生活で、ただアンフィールド遠藤航の活躍を目の当たりにして興奮冷めやらぬ中の帰国便だったかもしれない。

 それでも私は香港に住むことになって、ここが自分にとって特別で足繁く通う場所になった、それを幸せに思いたい。

 ビジネスクラスで和食を食べ、カクテルを飲み、ダイヤモンドぐらい硬いハーゲンダッツと格闘しているうちに飛行機は日本上空を飛んでいる。機内のフライトマップには地元の地名が表示されていた。帰省しなくて申し訳ない、と遥か上空から実家の家族に懺悔。親戚の子らに与えるべきだったお年玉、そのお金で私は少しリッチな旅を満喫してきた。

 20:25、羽田空港箱根駅伝青山学院大学が復路を制した数時間後、私も復路を完走した。

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【私の香港歴】

1999年11月 修学旅行

2003年8月〜2004年4月(8ヶ月)留学

2005年12月(6泊7日)

2007年3月(12泊13日)

2008年12月〜2009年1月(6泊7日)

2010年12月〜2011年1月(5泊6日)

2011年12月〜2012年1月(5泊6日)

2013年12月〜2014年1月(6泊7日)

2016年8月(3泊4日)

2017年5月(1泊2日)シェムリアップへの乗り継ぎ

2018年8月(3泊4日)

2018年12月(9時間)バルセロナへの乗り継ぎ

2019年12月(9時間)ローマへの乗り継ぎ

2023年12月〜2024年1月(5泊6日)

続・京都音楽博覧会2023

 今、好んで聴いているアーティストを最初に認識した瞬間を覚えているだろうか。それは、雷に打たれたような衝撃的な出会いでくっきりと脳裏に焼き付いているのかもしれないし、気が付けばじわりじわりと自分の生活の一部になっていたのかもしれない。私にとってその人は後者で、認識した最初の瞬間をはっきりとは覚えていない。それでも何とか思い出そうと記憶の糸を辿ると、恐らく最初はその人のYouTubeチャンネルで、その人はスタジオジブリの曲を演奏していた。その後、情熱大陸で密着されているのを見て人となりを知り、フジロックのステージで演奏する姿をYouTubeの中継で目にした。

 音博2日目のステージに登場したその人は、ピアノに向かい、直後、ショパン英雄ポロネーズ梅小路公園に響き渡る。また音博に新しい風が吹いたような気がした。二日間に渡る音博も終盤に差し掛かっていた。

 

 何から伝えればいいのか、わからないまま時は流れて。音博に過去3度出演した小田和正の代表曲『ラブ・ストーリーは突然に』の歌い出しを反芻する日々だった。今回二日間となった音博は、その分濃密な時間が数多くあって、一体何から語ればいいのか、わからないまま時は流れる。小学生の頃、作文が苦手だった私は、白紙の原稿用紙を前に全く書くことが思い浮かばず、ただ時間だけが過ぎていったが、当時とは逆に書くことがありすぎて筆が進まないというのは幸せなことなのかもしれない。

 この二日間、ラインナップは以下に記す通り、豪華な面々が梅小路公園で素敵なステージを届けてくれた。

 

10/8(日):羊文学、ハナレグミ、中村佳穂、マカロニえんぴつ、槇原敬之くるり

10/9(月):秦基博、Saucy Dog、sumika坂本真綾、Tigran Hamasyan “StandArt”、角野隼人、くるり

 

 最初から順を追って語るとなると、膨大な量になってしまい、どこよりも遅い音博レポートが日の目を見ないことになってしまうかもしれない。私はこの思いを墓まで持って行くことになりかねない。個々のアーティストの詳細は他の方々に任せるとして、私は私が最も心を動かされた瞬間、その少し前から書き記すことにしたい。

 英雄ポロネーズの演奏を終えた角野隼斗さんは、その後自らのオリジナル曲を次々と演奏していく。実家の太った猫をイメージして作ったという『大猫のワルツ』は子犬のワルツのオマージュか、大ぶりな猫がそれでも軽やかに飛び回る様が目に浮かぶようで楽しい。『胎動』『追憶』とオリジナル曲を続けたあとは、バッハのメドレーを。弦を直接指で鳴らしたり、ピアノを打楽器のように使ったり、学校の音楽の授業で触れたクラシックというジャンルの堅いイメージ、あの音楽室のベートーベンの肖像画の険しい表情が代表しているような厳格なイメージが解きほぐされていく。

 ステージの終盤、角野さんがくるりの岸田さんをステージに招き入れ、期待値は否応なく上昇、京都の空にしぶとく居座る曇り空を突き抜けて大気圏に突入した。ピアノとエレキギターで演奏されたのはくるりの『JUBILEE』、普段ならオーケストラを従えて演奏されるこの曲の究極の引き算とも言える構成で、それでも全く世界観が損なわれることがないむしろ楽器の一音一音、言葉の一節一節が際立って届いてくる演奏に圧倒される。

 クラシックのことなどよく分からん。でも、音楽の知識とか、どれだけライブに行ってるとか、楽器が演奏できるとか、そんなものはこの瞬間些細なことで、ただ今耳にしている音楽に感動できている事実が本当に価値のあるものなのだ、と思った。それは別に生演奏である必要もなく、生活の中で能動的に聴く音楽もしくは受動的にふと耳にした音楽に強く感動する、そんな瞬間がこれからもありますように、と思いながら『JUBILEE』を聴いていた。

 そして、二日間に渡って行われた音博の大トリであるくるりが登場。『琥珀色の街、上海蟹の朝』で踊り『ブレーメン』に聴き入る。考えてみれば、二日連続でくるりを見るのは初めての経験であった。「二日目のカレーくらいコクのある一日に」とは開会宣言での佐藤さんの言葉であるが、その言葉通りコクのある二日目を堪能し、終わりが近づく寂寥感が少しずつ押し寄せてくる『潮風のアリア』。二日目のカレー、上海蟹がトッピングされてどこかココナッツ風味のカレーをまた一日目とは違う形で美味しくいただいているような感覚。最新アルバムから『In Your Life』『California coconuts』『世界はこのまま変わらない』が立て続けに演奏され、『リバー』で河の中に飛び込んで、最後はお約束の『宿はなし』。「音博の終わり」という同じシチュエーションで何度も何度も聴いたけれど、聴くたびに違って聞こえるのは、この曲がその年の音博を内包しているからなのか。

 最後の和音が頭から抜けきらない中、京都駅へと向かった。音博が二日間になったことで、二日目の終演後に急いで新幹線に乗る必要があった。途中、特別に緑色にライトアップされた京都タワーが目に入る。

 Jubilee 歓びとは、と岸田さんは歌う。歓びとは、正にこの音博でしかあり得ないような角野隼斗・岸田繁スペシャルなコラボを聴いていた時間だった。いや多分それは期待に胸膨らませ音博の日を待ちわびる時間から始まっていて、新幹線で京都に向かっている時間や、京都に着いて馴染みの場所を散策している時間、音博会場に着いて開始を待っている時間、開演して様々なアーティストの演奏を聴いている時間、音博でのくるりファンとの再会を喜びお酒を飲み交わす時間。『JUBILEE』を脳内再生しながら、そういった瞬間瞬間を思い返し、またこの場所でたくさんの歓びを味わうために戻ってくることを決意し、新幹線の改札を抜けた。

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京都音楽博覧会2023

 どこよりも早い音博レポートをしたためようと思っていたのに、多くの参加者に先を越され、更に季節の流れは私の執筆速度を遥かに凌駕していて、気付けばゆっくりと12月のあかりが灯りはじめ慌ただしく踊る街を誰もが好きになる季節。暖かいから油断していた。カレンダーは否応なく進んでいた。マックでグラコロの温かさを口の中に感じながら、もう冬かよそういえばまだ書いてないやんけ、と書きかけの記事をふと思い出す。もはや記憶の彼方に過ぎ去ろうとしている京都での出来事は、今ならまだ残した写真やX(旧ツイッター)のポスト(旧ツイート)の助けを借りて復元可能だと、慌ててiPhoneはてなブログのアプリを開いてフリック入力。どこよりも早いはずだったどこよりも遅い音博レポートを今ここにお届けすることにする。お待たせしました。お待たせしすぎたかもしれません。誰も待っていなかったかもしれません。

 

 気がつけば一年で最も天気の心配をする日になっていた。毎年秋に開催される京都音楽博覧会。過去を振り返ってみると、2016年には、滝のような雨に打たれながら桜井和寿岸田繁の演奏する『シーラカンス』を聴き、自分たちがまるで深海の底で音を聴いているような強い非現実感に襲われ、曲の世界にどっぷり浸かるという体験ができた。2019年には、そのときを狙って降り出したかのような豪雨が、活動再開したNUMBER GIRLの演奏をドラマティックに盛り上げてくれた。そんな風にポジティブに捉えられるのは、後から振り返ってその苦難を無理やり変換しているからであって、実際に降られている最中は「もうやめてくれよ」のオンパレード。インドア黒帯の私にはつらい。野外イベントにおいて雨は降らないに越したことはない。

 記憶に新しい昨年2022年の音博は開演から雨に打たれて長時間の滝行。それで精神が鍛えられて、例えば仕事に対する前向きな姿勢などが得られればいいのだが、実際は音博ロスにとらわれ、心は会場の梅小路公園に残されたまま、音博の最後に演奏された定番曲、くるりの『宿はなし』を脳内再生して業務に取り組む私にやる気はなし。野外イベントにおいて雨は降らないに越したことはない。

 今年は二日間の開催となった音博、一週間ほど前にウェザーニュースをチェックしてみるとまさにその二日を狙ったかのように傘のマークがついている。まあまだ一週間あるし、そのうちずれてくれるだろう、という願い虚しく、その日が近づいてきても動く気配のない傘二つ。くそっ、現代の天気予報の正確性が憎い! 今年も音博に参戦するつもりですか雨雲。であれば共に楽しみましょう。雨にも負けず、風にも負けず、音博を最後まで楽しみ尽くすことをここに誓います、とZOZOTOWNで雨具をポチポチ。ドラクエのラスボスに挑むぐらいの重装備で、昨年とは一味も二味も違う自分を見せてやろうではないか。

 10月初旬の3連休の初日朝に新幹線で京都入り。京都駅南口のホテルにチェックインを済ませ、駅構内のコンコースを抜ける。京都タワーが目に入る瞬間、京都に来たのだという強い実感が湧き上がってくる。音博初日前日の京都の空は青空が広がる心地よい気候で、もう今日開催でいいだろう、と音博会場の梅小路公園に足が向きそうになるのを抑えてバスに乗った。

 毎回、京都訪問前に行きたい場所をリストアップして音博の前後に駆け足で回っていたが、今回は激務続きの毎日でプランを考える余裕がなかった。そもそも今年は音博が二日間開催となったため観光に割ける時間も少なくなったし、もう既に何度も訪れている京都である。音博前日に伏見稲荷神社を訪問し引き返すタイミングが分からず結局登頂して体力を使い果たしたこともあったし、森見登美彦の小説を読んでその舞台を巡ったこともあった。哲学の道で猫と戯れたこともあったし、宇治へ足を伸ばし抹茶に溺れたこともあった。とにかく、気になるところは行き尽くした感がある。そんなわけで、とりあえず何となく毎回訪れている定番の鴨川デルタを目指すが、ぶらり途中下車の旅、お昼どきで胃袋が京極かねよのきんし丼を求めていた。

 店の前で少し待って入店、オーダーして出てきたきんし丼は分厚いだし巻きをめくると鰻が顔を覗かせる。冬の朝の布団の中の私か。もう少し寝かせてあげたいところであるが、有無を言わさずいただきますこれが社会の厳しさ。

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 卵と鰻のハーモニーを堪能した後は再びバスに乗り北上、デルタ付近でバスを降りると長蛇の列が目に入る。美味しいから並ぶのか、並ぶから美味しいのか、出町ふたばの豆餅。今回もいただきたいところであるが、観光の時間と天秤にかけて今回はスキップ。嗚呼、遠く東の地から訪れた私にファストパスをください。鴨川を眺めながら食す豆餅の味を思い返す。またいつか。美味しいから並ぶのです。

 そしていざデルタ。まずは定番の角度、賀茂大橋の上から三角州を拝む。目の前で賀茂川と高野川が合流し、鴨川となって流れてくる。何度見ても美しい景観、この景色のどこかに黄金比が隠れているのかもしれない。

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 賀茂川の岸から飛び石を渡り中州へ。いつかスムーズに渡り切れないときが来たら、その時には自らの老いを認め、運転免許証の返納を真剣に検討しようと思うが、当分は大丈夫そうである。華麗に飛び石を渡り、鴨川デルタ飛び石渡りがオリンピックの新種目になった暁にはメダル狙えそうなほど。

 森見登美彦万城目学、そして過去を遡れば数多の文豪らが作品に登場させてきたデルタ、その三角の中でのんびり時を過ごす。私は、NHKドキュメント72時間でここ鴨川デルタが取り上げられた回を思い出していた。配偶者のプロモーションビデオを撮影する男性、卒業までに鴨川デルタで過ごした時間を記録する大学生、震災で家族を亡くし人生が狂った老人、大学が爆破予告されて休校になり遊びに来た大学生、小説の登場人物よりもユニークなキャラクターたちが鴨川デルタでそれぞれの物語を紡いでいた。そして自分も願わくばその一部になりたかったと、京都の大学生として過ごしたパラレルワールドの自分を夢想したりする。

 鴨川デルタはこの日も人々の憩いの場となっていた。ここは、二つの川だけではなく様々な思いも交錯する場所、なのかもしれない。

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 鴨川デルタを離れ、鴨川沿いをあてどもなくさまよう。夜は短し歩けよ乙女。夜でもなければ乙女でもないが歩き続ける。立誠ガーデンヒューリック京都を覗き、梅園の甘味で一休み、BIG BOSS京都でいつ使うのか京都五山送り火ピックセットを購入し、スターバックスコーヒー京都BAL店を訪れ、先斗町のあたりを徘徊する。音博の前はなるべく体力を温存しておきたいのに気付けば2万歩弱。人はなぜ歴史から学べないのだろうか。青すぎる空を飛び交うミサイルがここからは見えない。

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 さて、ここまで約2,800文字を費やしたがまだ音博開催まで辿り着いていないとはこれいかに。イントロがB'zの『LOVE PHANTOM』ぐらい長くなってしまった。記事の中の私は疲弊していて、これを書いている私も相当言語野を酷使して疲弊している。このあたりでひとまず筆を置き、どこよりも遅い音博レポートをますます熟成させることにしよう。

 果たして続きを年内に投稿することができるのか、期待しないで待っていてください。

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引越初夜

 暑い夏だった。夏は基本的に暑いものだが、今年の夏は例年にも増して暑かった。いや、去年の暑さの記憶なんて、その間にある冬でリセットされて覚えているはずもなく、実際はさほど変わらないかもしれない。でもテレビやらネットニュースやらで「真夏日」「猛暑日」が流行語大賞を受賞する勢いで使われ、それが私の「例年にも増して暑い」という感覚を後押しする。本当に暑い夏だった。ここまでの文章で「暑」という漢字が8回使われるぐらいに暑かった。これで9回目。現実にはもう何回「暑」を積み重ねたのか分からないほどの暑い夏を、引っ越して間もない新居で過ごした。

 帰宅する少し前、スマホを操作してリモートで冷房のスイッチを入れる。帰宅後、独立洗面台に置いたソープディスペンサーから出てくる泡で手洗いをして、ダイニングのサイドテーブル兼空気清浄機のスイッチを入れる。汗だくになったシャツはドラム式洗濯機の中に投げ込んで、新しいシャツに着替える。引っ越しのタイミングで家具を買い替え、また、新たに買い足した私の生活は引っ越し前と比べて一変していた。最強の装備で猛暑と対峙した。

 全てが変わった2023年6月3日、土曜日、引っ越し当日。事前に不動産に鍵を取りに行くタイミングがなく、結局この日の朝に電車を乗り継いで鍵を受け取った。引っ越し業者が来るのは午後2時で、旧居の最寄駅の駅ビルで最後のランチを食べる。名残惜しい気持ちは、新居との距離わずか二駅という近さが和らげてくれていた。

 帰宅した後、引っ越し業者から連絡があり、予定より少し早く到着した作業員たちが、慣れた手つきで荷物を運び出していく。手持ち無沙汰の私は部屋の隅っこでスマホをいじる。携帯がない時代の人たちはどうやってこの時間を過ごしていたのだろう。業者さんにエールでも送っていたのだろうか。この日のために応援ソングを作って、今まさに運び出されようとしているギターで弾き語りをすべきだっただろうか。この時間の過ごし方を義務教育で教えて欲しい。なんてくだらないことを考えている間にも手際よく運び出される家具たち。

 10年間過ごした部屋が、空っぽになった。私が暮らした痕跡はそれでもなお、床の傷や壁の汚れといった形でしぶとくそこに居座っている。それすらクリーニングが入り、リフォームされて綺麗になくなってしまうのだろう。この部屋で過ごした記憶さえも、この記事を綴っている11月頭にはもはや海原はるかかなた

 鍵をかける必要もなくなった部屋に鍵をかけて、新居に移動した。20分もかからず到着した新居、まだカーテンのない窓からは日光が燦々と差し込み、新しい門出を祝ってくれているかのよう。そして引っ越し業者とHello, Againのち運び込まれる逆レイモンドチャンドラー短いお別れの家具たち。

 窓の外の景色を見て、作業員が感嘆の声を漏らす。ああ、人から羨ましがられるタワマンという建物にこれから住むことになるのか、と思った。低層階とはいえ、一般のマンションで言うとそれなりに高い位置にあって、かつ周囲にそんなに高い建物がなく、眺望は良好だった。

 引っ越しのタイミングでベッドと洗濯機は買い替えることにしていて、引っ越し業者に回収してもらった。時間をずらして設定していたはずのガスの業者もだいぶ早めに登場、ダブルブッキング状態の私は双方に同時対応のプチ聖徳太子だった。

 部屋と段ボールと私を残して、業者たちは去っていった。荷物の整理を後回しにして、マンションの管理人に挨拶を、そして、ラウンジやゲストルームなどの設備の見学をさせてもらった。低層階住民だけど、管理費ゼロだけど、それらを使う権利はあるのだ(管理費は家賃に組み込まれている扱いなのかも知れないが)。そして、提出しなければならない数々の書類を受け取る。まだやるべきことは山積みだが、それでも何とかここまでたどり着いた。タワマンの一室で、仮置きした家具に囲まれた私はひたすら書類にペンを走らせる。

 北西向きの窓からは沈みゆく夕陽が綺麗に見えた。脳内では荒井由実が『翳りゆく部屋』を歌っていた。アウトロのギターソロがフェードアウトして曲が終わる頃に空腹を覚え、新居近くの立ち食いそば屋で引っ越しそばを食べた。この界隈では有名な蕎麦屋だそうで、名物のジャンボゲソ天をトッピングした。やけに噛みごたえのある引っ越しそばだった。

 食後、部屋に戻って届いたベッドを組み立てた。新しい部屋の新しい寝具で、新しい生活を始める。10年ぶりの引っ越し。10年前のことはほとんど記憶にないけれど、今日と同じように新しい生活に対する期待感を抱いていた気がする。この部屋に最初に訪れるのは誰だろうか。この部屋で何を考え、どんな本を読み、どんな曲を聴いて過ごすのだろうか。ここにどれくらい長く住むのだろうか。脳内では、荒井由実にかわってカネコアヤノが「たくさん抱えていたい〜」と歌っていた。少し広くなったこの部屋で、以前よりはたくさん抱えていても許されるような気がした。

 窓の外には東京の下町の、スカイツリーや東京タワーなど見えない地味な夜景が広がっていた。ランドマーク付きの煌びやかな夜景は特別な場面に取っておいて、とりあえずこれぐらいの景色が自分にはちょうどいいように思えた。しばらく眺めていたい気持ちを、引っ越しの疲労感が上回り、新しいベッドにダイブする。翌日は朝にドラム式洗濯機の搬入をしなければならない、そして午後に旧居の立ち会い、翌週は休暇をもらって区役所に、と羊ではなくやることを数えていたらいつの間にか眠っていた。