ぼざろが中国で異常に流行った理由の一つはコミュ障(社恐)を公に表現して良い価値観だったと聞いた。面子を気にする社会でコミュ障を公言するのはありえなかったらしい。超てんちゃんも弱者寄りだし地雷系女子(地雷女)という言葉も根付いている。二次元作品が若者文化に与えている影響は大きい https://t.co/TdWW58iOwn pic.twitter.com/9T5jaacLTq
— 上海在住のえいちゃん (@Eichan_GZ) October 20, 2024
で、思い出した話 (※ちなみに「ぼっち・ざ・ろっく」は当方、まったく未見)
ひとりで飯を食べるなんてありえない、という習慣や価値観が「孤独のグルメ」放送が引っ繰り返した(要因の一つ)https://t.co/jxBwC65cLyと言われる、韓国の同番組の人気も思い出した。https://t.co/NIZ3LWCPnD pic.twitter.com/nfVnV0NaM7
— Gryphon(INVISIBLE暫定的再起動 m-dojo) (@gryphonjapan) 2024年10月20日
孤独のグルメは中国でも有名です。中国のスシローのカウンター席には仕切りがあり、2人向けですが1人で使っている人も多いです pic.twitter.com/Amqc1rqjUt
— 上海在住のえいちゃん (@Eichan_GZ) 2024年10月20日
「会食文化」って、強いところと弱いところとあるみたいですね(飲食店には「カップル」で入るのがデフォルトな国も)。一人で食事する人には声をかけて、一緒に食べるのが「美徳」な国もあるし(日本でも中学や高校ではお弁当を誰と一緒に食べる?が大テーマか…)https://t.co/HJDH7hqqPS
— Gryphon(INVISIBLE暫定的再起動 m-dojo) (@gryphonjapan) 2024年10月20日
文中でも引用してるけど、この話はそもそも現地紙などから来てるのよ
japan.hani.co.kr
ドラマの初期、日本と違って韓国では「一人飯(韓国語でホンパブ)」が恥ずかしいことやタブー視されるという話を聞いて驚いたという松重は、「五郎は一人で食べるが、隣の人たちが何を食べるのか気にしたり、料理過程を興味深く見守りながらわくわくする時間を過ごしているので、一人ぼっちで寂しい感じはしない」とし、「一人飯は食べることにより多くの自由をもたらすという点で、悪くないと思う。ドラマのおかげで韓国でも一人飯に対する否定的な認識が消えたなら嬉しいことだ」と話した。
もちろん、この作品ひとつによって、ではなく、韓国ではそれが起爆剤になれば、大きく火が付きそうな状況になっていたのだろう。
日本も、うっすら似たような経路は辿っている。
2008年、まだドラマ化前に「孤独のグルメはじわりじわりと売れ続けている」というコラム記事があったんだけど
http://book.asahi.com/bestseller/TKY200711280169.html
94〜96年に雑誌連載、97年に単行本、00年に文庫化。読者層は10〜30代が中心。「気がついたら在庫がなくなっている」というジワジワとした売れ方で、ネットでよく取り上げられる。
◇
21刷・8万8000部
その中にも「最初は、そのことに世間の抵抗がある中での『敢えての』孤独=一人の食事だった」「それが現実に社会の中で一般化してきた」、みたいなことが書かれていたはずだ…ああ、保存していた
女性の読者が4割も。版元販売グループの村上雅人さんは、外で「一人メシ」をする女性が増えたことを理由にあげる。たしかに牛丼屋で女性をよく見かける。10年前はなかった光景だ。
コンビニ・フーズをまとめ買いして食べる場面がある。「今では普通ですが、当時はこんな食べ方はなかった」と連載担当の壱岐真也さんはいう。社会の変化による新しい読者層が「孤高のグルメ本」を支えている。
ただ、
韓国ではかつて、「一人の食事」のタブーというか、道徳的、美学的なためらいがもっとさらに強かったそうだだ。孤独のグルメと全く関係ない、韓国留学の東洋思想研究者がその風景を綴っている。
https://m-dojo.hatenadiary.com/entry/20080319/p2
…(略)著者はサントリー学芸賞を著書「東アジアの思想風景」で受賞しており、単純な印象論ではない。
ただ、それと同時に具体的な経験談も豊富にある。(略)……時代や近代化によっても当然変わるわけで、古田氏は1992年に、韓国の食堂で「一人で(!)食事をする」人を初めて発見、「80年代には決してなかった」「一人で外食するとみんなが見るのでうしろめたい」「不幸でもあったのかと店の人から慰められる」と断言している。上の(!)マークも原文ママだ。「孤独のグルメ」はなかなかあちらではままならなかったようで。
こういう、在日文化や近代化による時代の変化もあるので、さらにややこしい。
「1992年、はじめて食堂で一人で食事をする人を発見した!!」と印象に残るような話だったんだと。
この話も印象的なんだが
から孫引きで
1人でグルメという文化スタイルは、今や多くの国で求められている。
もともとそれが難しくない日本や、台湾みたいな国に住んでいるとピンとこないかもしれないが、ヨーロッパなどはもちろん韓国だって1人でレストランに入って食事するのは大変なこと、「敷居」はとても高いのである。
ちょっと前まで、韓国は「1人で飯を食う人間はいない」と言われていた。私が初めて韓国の会社に就職した時も、社長自ら一緒にランチをする人を決めてくれた。韓国で1人でご飯を食べるほど淋しいことはなく、そんな可哀想な人はいないーーと思われていた。
でも、韓国人だって時には1人で食べたいし、1人で食べざるを得ないこともある。特に最近は…(後略)
韓国にかつてあった一人飯の忌避
異国で就職した若者に、社長自ら「一緒にランチをする人」を決めてくれた____決して悪い話ではないし、それを人情溢れる心遣い、すばらしい濃密な人間関係だと評価する人だってすごく多いだろう。
その一方で、「えー、でも、そこまでは……」とうっすら思う人も、これまた一定数は確実にいるだろう。それは国を超えてどこにもでもいるだろうし、その一方で上のような「文化」によって濃淡もあるだろう。
そういうところに、エンタメ、創作物のような形で異国異文化の、習慣、キャラクター、概念、類型、あるいはライフスタイル___そういったものが丸ごと入ってきて「あー、孤独のグルメみたいなもんね」「ぼっち・ざ・ろっくのあれね」と、それが、堅い壁に穿つ一つ目の穴、になる、のかもしれない。
最近、関連で良く言われるのは中韓の「学習」圧力は日本より相当高く、高校ぐらいになると基本的に勉強、勉強、勉強ーーー漬け(それが両国の技術躍進を支えてもいるのだろう)
そこで日本の漫画、アニメを見ると部活動とかバンド組むとか文化祭で一生懸命とか、なんとも”緩い”。異世界のように、別物として需要してる面もあるが、その光景がやはりなにがしか、意識に変化を与えてる____とも言われる。
日本にも、たとえば高度成長期の、アメリカなどの海外ドラマは家族の意識などにも大きな影響を与えたとも言われるよね。「パパは何でも知っている」とかなんとか。
あるいは「E.T」の家族描写とか……
ほか、何があるのかな
おまけ そんな「孤独のグルメ」も、松重豊は或る種の「キャラの終活」「代替わり」を考えているのでは、という推測を読んだ
松重豊、基本孤独のグルメという作品には消極的だったのに最近人が変わったように「それぞれの孤独のグルメ」とか「劇場版孤独のグルメ」とかを企画してる辺り、井之頭五郎というキャラの終活を始めたとしか思えない。
— いかてん (@igacrystal) October 19, 2024
劇場版は五郎の最後の大舞台で、それぞれの〜は本作を他の俳優に譲るための準備
特に後者。「孤独のグルメ」フォーマットはそれ自体が強固なので、別に松重豊の井之頭五郎じゃなくても成り立つよ、っていうことを示すのが目的な気がする。
— いかてん (@igacrystal) 2024年10月19日
ここである程度視聴者に松重豊以外の孤独のグルメに慣れさせておけば、来たる人の世代交代も受けいられやすくなると。
それぞれの孤独のグルメ、今までのフォーマットを変えてゲストキャラメインにしたのには賛否あるけど、内容的にはむしろ本家シリーズよりもちゃんと一般的な意味で「ドラマ」的な話をしてるなと感じる。
— いかてん (@igacrystal) 2024年10月19日
今週の話とか、肉体の衰えからかつてほど働けなくなって、現場から後進の指導者への転身を薦められ悩むも、それでも現役で現場にいたいという思いを新たにして、老いを受け入れつつも前に進む…という筋の通った話がちゃんと食に絡めて描かれてて、こんな話むしろ本編でできないなと思った。
— いかてん (@igacrystal) 2024年10月19日
孤独のグルメ本編、長期シリーズの宿命上、主人公を成長させたり人生の分岐路に立たせたりできないので、なかなかドラマ的な話とかできないのよね。
— いかてん (@igacrystal) 2024年10月19日
こういう人生の選択と葛藤みたいな話、今シリーズみたいな1話完結の形式の1話っきりの主人公にして初めてできる。
おまけ2 反響をいただく中で「クロエ・モレッツの言葉」を紹介されました
「東京には1人きりで食事できる場所がある」クロエ・モレッツの東京を好きな理由動画に共感が集まっています
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