以下の新聞記事へのレビューの形で、大屋雄裕氏が書いている。
……別姓選択は国民のコンセンサスがないともいわれる。しかし、必要なコンセンサスとは夫婦が同姓か別姓かについてではない。別姓を望む一部の家族の願いを拒否すべきか否かである。そこまで他の家族の選択に干渉したい国民がどれだけいるのだろうか。
(略)別姓選択とは、夫と妻が同姓でなければならないという現行民法の規制を、自由に選択できるようにするだけだ。これにより、家制度を守りたい人と、壊したい人の双方を満足させることができる。
他人に迷惑をかけない限り、個人や家族の選択肢は最大限に保障されることが民主主義の基本である。個人の自由を規制するにはその明確な根拠が必要だ。「家族の一体性を損ねる」というような曖昧な理由で長年、放置してきたことは、日本の民主主義の未熟ぶりを示す一例といえるのではないか。
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①またこういう議論が出てきたのでうまくいかないという話をしておきます。
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) 2021年3月9日
>「他人に迷惑をかけない限り、個人や家族の選択肢は最大限に保障されることが民主主義の基本である。個人の自由を規制するにはその明確な根拠が必要だ。」https://t.co/OFSCBTEK42
②この議論では、個々人には家族のあり方を選択する自由がまず存在していることが前提となっている(だから他者の「迷惑」がなければ制約できない)。確かに選択的夫婦別姓がここでいう「迷惑」を生み出すとは考えにくいし、同性婚も行けそうなので飛び付く人が出てくるだろう。
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) 2021年3月9日
③しかし問題は、群婚・複婚や同世代内の近親婚も(もちろん当事者の合意があることを前提として)同じくらい「迷惑」がなさそうだという点。これらをすべて受け入れる覚悟がない限り、このタイプの議論は成立しない。
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) 2021年3月9日
④(なお受け入れれば理論的な筋は通るが戸籍制度にせよ家族を基礎とする社会福祉制度にせよ大幅な改変が必要になり現実的にはいたく不便であろうなあ「我々は256人で一つの家族なのです」とか言い出す人いたらどうするのかなあという話にはなる。)
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) 2021年3月9日
⑤もう一つの理論的に有力な見解は、家族制度は法により創設されるもので、法に先行する自由などないというもの。この場合、異性間・同姓の婚姻が認められているのはまさにそれを認める法制度が民主的に選択されたからだということになる。
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) 2021年3月9日
⑥なので、選択的夫婦別姓も民主的にそれが選択されれば許されるし、そうでなければそうでない。群婚・複婚と夫婦別姓の内在的な価値の差などを説明する必要はなく、単に民主的決定の有無に還元すればいいことになる。
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) 2021年3月9日
⑦注意すべきなのは、「家族」という言葉が多義的だということ。現実的な家族と法的な家族、つまり誰と生活をともにするか・ツガうかという問題と、どのような関係に特別の法的保護や権利を与えるかという問題はイコールではない。
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) 2021年3月9日
⑧「家族を構成する自由」という議論は、現実的な家族にはよくあてはまる。かつての欧米諸国のように同性間・異人種間の性交渉を刑事罰の対象にするようなことは良くないという水準では、多くの人がこれに同意するだろう。だが同じレベルの同意が、法的な家族にも与えられるだろうか。
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) 2021年3月9日
⑨少なくとも現在の日本では、選択的夫婦別姓や同性婚については検討の対象である一方、一夫多妻制や近親婚はそうではないというあたりが相場だろうと思う。その程度の議論を展開したいのであれば「家族を構成する自由」を法的な議論へとうかつに持ち込むべきではないという話なのであった。
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) 2021年3月9日
⑩なお補足しますが、私自身は選択的夫婦別姓についても同性婚についても「検討に値する」(積極的に推進するわけでも反対でもない)という立場であり、ただ制度整備には相当の手間がかかるので立法ルートで考えるのが本来ではないかと思っている程度です。(終)
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) 2021年3月9日
- 作者:大屋 雄裕
- メディア: 新書