最近、連続して中国の史書についてのことを書いている。
これはちょっとしたシリーズであって、最後にひとつ書いて〆たいと思っているのだけど、以前書いたつもりで、調べたら書いてないことがあった。
ここのコメント欄でも紹介したんですけどね。
今後も何度も引用・紹介するんだろうけど、ブログ記事にしておこう。
「司馬遼太郎はどういう風に、シロウトをだましてきたのか?」(※褒め言葉) - Togetterまとめ http://togetter.com/li/986379
こちらのほうが鮮明に読めます↓
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/g/gryphon/20160615/20160615082127_original.jpg?1465946515
…この史書(三国志)は、事実、ないしは事実の経緯についての記載がいたって不備である。
そのくせ、というか、そのかわりに、というか、人物の発言の記載はむやみに詳細である。
(略)
…実はこれが中国の史書の特質ないし習慣であって、前後の事実の脈絡に抵触しなければ、人物の発言は自由に作ってよいのである。あるいは、そここそが歴史家の腕のふるいどころなのである。
史実を捏造するわけにはいかないが、発言はどうせだれも聞いていないのだし、聞いていた人があったところで、しゃべった当人も聞いていた人もそう一々おぼえているはずがないし、どっちにしてももうみんな死んでしまっているのだから、そこはもう歴史家の自由裁量の範囲なのであって、テン大の筆をふるって華麗な発言を創作するのである。
いやいや、言われればそうなんだろうとしか言いようがないけどね。
みもふたもなく、その点をあっさり言われると…やっぱり「そうだろうね」としか言いようがないか(笑)。
もちろん、現在の記録、歴史記載のルールからは大きく異なり、今ではそういうことは基本的にやれない。
本田靖春氏が、ノンフィクションとたとえば歴史小説を、「サッカーとラグビー」に喩えていたっけ。
http://randomkobe.cocolog-nifty.com/center/2011/07/post-8049.html
私の本業はノンフィクションを書くことである。この仕事はまことに効率がわるい。なぜなら、事実によってしか事柄を語ることが許されていないからである。
たとえていうなら、小説はラグビーで、ノンフィクションはサッカーということになろうか。小説家はいくらでも想像力を広げることができるが、ノンフィクション作家は同じ手を使うことができない。ひたすら事実の片々の蒐集に手間と時間をかけ、それを積み上げていく。
サッカーは、人間の意のままに動く両手の使用をあえて禁止することにより、わずかな点差を競い合うゲームとなって、ラグビーとは違った緊迫感を観客にもたらす。
“手”をしばられたノンフィクションの書き手が目指すのも、不自由をくぐり抜けた末のゴール・ポストである。
もちろん、書き手がこっそり“手”を使う場面もないとはいえない。だが、そんなことをすれば、かりにその箇所が好都合に運んだとしても、かならず全体がそこなわれる。インチキくさくなるのである。
──「“やらせ”を問う」(1993)
しかし、サッカーだって後年に「オフサイド」のルールが作られたのだし、
PRIDEでは有効だったサッカーボールキックは、UFCでは反則であった。顔面へのヒジ攻撃はその反対。
パンクラスは顔面へのパンチもパウンドも禁止だった時代から、本格MMAに2000年に転換したが、通算の勝敗記録は旗揚げからカウントしている。
中国史書、そこから影響を受けたであろう本朝の史書の「会話は創作していいのだ」というのも、一つのルールであったし、そこで「面白い!」と興奮する読者の情熱や熱狂が、が語り継がれていく原動力でありました。そうでなければ、これらの記録そのものが数千年の中で散逸し、消滅したであろう。
2014年のtwitterやりとり。
これ初めて読んだのは横山光輝『項羽と劉邦』だったか陳舜臣『小説十八史略』だったか。
— Great Icosahedron (@Polyhedrondiary) 2014年11月4日
よくできた話で,史実かどうか疑わしくはあるけど,東洋史ってそういうものとして読むのが正しかったりするよね。印象深いエピソードは言わば伝説。それを日本を含む中華文明圏で共有してきたという事実が重要。
中国の史書を創るという伝統は、その面白さも含めすばらしい。「発言や挿話は編纂者が創作していい」というルールも一つのルールであり、そこで養われた
— gryphonjapan (@gryphonjapan) 2014年11月4日
「面白さ」それ自体も歴史記録を残し、諸外国にまで広めるパワーだったのでしょうね @Polyhedrondiary @finalvent
<事実だけを列挙したのでは歴史は索漠たるものになってしまう。その所々に、歴史をいろどった顕著な人物たちの、あるいは熱誠溢れる、あるいは犀利な、あるいは沈痛な発言がちりばめられている。それでこそ文質彬々(ひんぴん)たる中華の歴史なのである。>
一応、歴史を考えるときに
抑えておくべきところ。
こちらに、この話の関連記事。司馬遷の「史記」も面白すぎるのではないか、と宮崎市定が考察してた。この記事ではなぜ「氷菓」の連中が語っているかというと、いろいろ理由がある
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