王妃となったマリー・アントワネットのとりまきの中でも、もっとも美しいと言われていたのが、ポリニャック公爵夫人です。
ガブリエル・ド・ポリニャック
1749年生まれなので、アントワネットより6歳年上です。
生まれた家も、嫁ぎ先も、由緒ある家柄ではあるものの、経済的には豊かではありませんでした。
ポリニャック夫人がアントワネット王妃に初めて会ったのは、1775年、ヴェルサイユ宮殿鏡の間
女官をしていた義妹によって、公的レセプションに招待されていたのです。
ダークな髪色、白い肌
珍しいすみれ色の瞳、真珠のような歯…
アントワネットは、ポリニャック夫人の美貌に心を奪われます。
王妃は、ポリニャック夫人に、ヴェルサイユ宮殿に住むよう懇願しますが、宮廷内に住むことは多額の経費がかかります。
夫人は正直に、金銭的理由で無理であることを話します。
すると王妃は、すぐにポリニャック伯爵(当時は伯爵)の借金を清算し、さらに、もっと収入の得られる官職につけました。
こうして、ポリニャック夫人は、アントワネットのアパルトマン近くに、部屋を与えられました。
ルイ16世は彼女を歓迎します。
ポリニャック家は有力貴族ではなかったので、権力争いからも遠く、なにしろ王妃が喜びますから。
しかし、ヴェルモン神父やメルシー伯は反発、その他多くの側近たちも反感を持ちます。
メルシー伯はさっそくウィーンのマリア・テレジアに報告
「こんな短い期間に、こんな巨額の金が、たった一家族に与えられたことはありません」
しだいに、ポリニャック夫人に気に入ってもらえなければ、王妃のとりまきグループにいれてもらえなくなるほど、大きな権力を持つようになります。
夫人だけではなく、ポリニャック一族もまた、贅沢をし、宮廷を牛耳るようになります。
1780年に、夫人の長女が12歳で結婚したときには、高額なお祝い金と土地が与えられましたし、次男が誕生した時は、出産祝いとして、ポリニャック伯爵は公爵の位を与えられました。
1782年、ポリニャック夫人は、王家の養育係主任女官に任命されます。このことも分不相応と宮廷内で反感をかいます。
また、プチ・トリアノン敷地内に造営された「王妃の村里」に自分のコテージを与えられます。
プチ・トリアノンは、ヴェルサイユ宮殿敷地内にある離宮のひとつ。
庭園は英国風で、ここに「王妃の村里」があります。
フランス革命で荒廃しますが、ナポレオンによって修復されました。
プチ・トリアノン
「王妃の村里」にある王妃の家
トリアノンまで外を歩いていけ、そしてリラックスして過ごせるようにとデザインされたのが、シュミーズ・ドレスです。
シュミーズ・ドレスを着用した、王妃とポリニャック夫人
1780年の後半になると、アントワネットとポリニャック夫人は同性愛であるというビラが庶民の間にもまかれるようになりました。
上の絵は、1783年頃に描かれたポリニャック夫人です。
夫とも契りを結べず、宮殿内には心を許せる者はほとんどいない状態で、王妃も、心を割って話せる同性の友人を必要としていたのだろうとは想像できますが、自分のお気に入りにお金を使うのはまずかったですね。
ポリニャック夫人は、他の貴族や側近、そして民衆からも反感をかうようになっていきました。
🐤つづく