須賀敦子エッセイ(1957~1992) : Lotus Life
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須賀敦子エッセイ(1957~1992)


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午後は、
ずっとほったらかしにしていた須賀敦子さんのエッセイを読んで過ごしました。

その中から
印象に残った個所

~福祉という柵~

福祉という柵を設けて、ふつうの人間と同じように生きられないと私達の決める人を、そこに閉じ込めてしまう。そして、自分は、福祉のお世話になんかならないですむ世界にぬくぬくと生きている。もし私が、そんな福祉の対象になる立場に置かれたとしたら、どんなにつらいだろうか。

理想的な施設を目指すよりは、その施設に送られるはずであった赤ん坊を、身障者を、老人を、その他あらゆるハンディキャップを負った人たちを、自分達で抱え込み、共に生きていくような場を、社会にふやしていきたい。そのためには、私達の日常生活は、勿論、より非能率的になるのだけれど。

ある「種」の人びとが、自分達の社会にいなくなったほうが、社会が整頓され、自分達の日常生活が楽になるという思想。電車やバスのシルバー・シートの思想。あの「施設」をつくったあと、もう自分の前に立っている老人に席をゆずらなくともよいと考える人間がふえるのだったら、これは明らかに、社会の非人間化、非文明化の第一歩である。


~想像するということ~

想像力という概念が、持てるものから持たないものへ、強者から弱者へと、一方通行的になって、縮んでしまったときに、思いやりということばが出てくるように私には思える。弱いものも、自分より強いものの心の、あるいは行動の構造を、想像力を駆使して理解につとめるべきだという自由な発想を、私たちはとかく忘れがちではないだろうか。

それにしても、なにかひとりよがりの匂いの抜けきらない「やさしさ」や「思いやり」よりも、他人の立場に身を置いて相手を理解しようとする「想像力」のほうに、私はより魅力を覚えるのだが。


~ほめる~

いったん外国語をならおうとすると、わたしたちはずいぶんこわい目にあわされる。まちがいを探すのに血まなこで、ほめることを忘れたかのような、おおくの教師たちによって。

もっとおたがいにほめてみたら、みんなの外国語が、すこし上達するかもしれない。


~霧のむこうに住みたい~

こまかい雨が吹きつける峠をあとにして、私たちはもういちど、バスにむかって山を駆け降りた。ふりかえると、霧の流れる向こうに石造りの小屋がぽつんと残されている。自分が死んだとき、こんな景色のなかにひとり立ってるかもしれない。ふと、そんな気がした。そこで待っていると、だれかが迎えに来てくれる。

by lotuschar | 2019-10-27 22:22 | 読書 | Comments(0)

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