皇帝とエリザベート皇妃は
オーストリアの南方、ラクセンブルク宮殿でハネムーンを過ごしますが
ちょうど英仏が、対ロシアとのクリミア戦争に参戦しており、
皇帝は早朝にウィーンへ行き
夜遅く帰ってくるという状態。
エリザべートの家族たちも
ミュンヘンに帰ってしまいます。
そこへやってきたのが
大公妃ゾフィーご一行様…
さっそく皇妃教育が始まります。
歩き方、歩幅
お辞儀の仕方
言葉遣い
毎日完璧な装いをし、
靴は一度履いたら廃棄する…
また、ミュンヘンとは違って
ウィーンは入浴の習慣はありませんでした。
身体を拭くための薄い衣を着て
その上から女官たちが拭くのです。
着替えも女官がします。
格式ばった儀礼は
すなわち権威の誇示
それを厳格に守ろうとする大公妃
しかし
自由な雰囲気の中
近代的な教育を受けてのびのび育ったエリザベート…
これはなかなかたいへんだったことでしょうね。
ウィーンに戻ってからのホーフブルク宮殿での生活も
監視のもと、制約に縛られる毎日…
まもなく
エリザベートは妊娠します。
1855年3月、女児誕生
エリザベートは17歳で母親になりました。
大公妃がさっさと子供を取り上げてしまいます。
エリザベートが知らぬ間に
子どもはゾフィーと名付けられますが
祖母の名を付けるのは慣習のようで
後のエリザベートの子供たちも
それぞれの長女をエリザベートと名付けています。
子供部屋は、大公妃の隣に設けられます。
エリザベートの居室からは遠く、
自分の子どもに会うのにも
いちいち大公妃の許可を得なくてはなりませんでした。
翌年1856年7月第二子が誕生します。
また女児
名前はギーゼラと名付けられますが
この子も取り上げられてしまいます。
この年の9月
皇帝夫妻はお忍びでシュタイヤマルク地方、
グロースグロックナーの山岳地帯を訪れています。
自然の中で
二人はリラックスして
山歩きなどを楽しみました。
そこで、エリザベートは夫に訴えます。
「子どもを近くにおいてください」と…
皇帝は
母親に手紙を書き
子供部屋を移してほしいと申し入れますが
ゾフィーは激怒
「そんなことをしたら自分は宮殿を出ていく!」
というわけで
エリザベートの望み通りにはいきませんでしたが
それでも
夫が自分の言うことに耳を傾けて
頭が上がらない母親にアクションを起こしてくれたことには満足したのでしょう。
2ヵ月後、夫妻は北イタリアを公式訪問します。
このころのイタリアは
統一独立気運が高まっており、
けして歓迎ムードではありませんでした。
ここで皇帝は
1848年革命(ウィーン体制が崩壊することになった)で財産を没収されたり
政治犯となった者たちに対し、
恩赦を行います。
北イタリアから帰ると
今度は、もっとも不安定な地域、ハンガリー訪問です。
ハンガリーはもともとは独立した王国ですが
オスマン=トルコの脅威にさらされ分割され
17世紀末にハプスブルク家の支配下に入っていました。
1848年革命では
ハンガリーでも多くの貴族が独立を目指しますが
失敗していました。
ここでのエリザベートの好意的な態度が
ハンガリー人を軟化させます。
婚約時代のエリザベートに
オーストラリアの歴史を教えた学者は
ハンガリー出身でした。
そのためにハンガリーには愛着を持っていたのです。
しかし、このとき悲劇が起きてしまいます。
エリザベートは
このハンガリー訪問に
わずか2歳と1歳のゾフィーとギーゼラを同行させています。
これについてゾフィーは大反対しましたが、
エリザベートは強行していたのです。
子どもたちはハンガリーで下痢と発熱に苦しみ、
妹のギーゼラは助かったものの
ゾフィーは亡くなってしまいます。
チフスだったと言われています。
エリザベートは放心状態…
この件以降、
エリザベートは子供の養育に口を出さなくなってしまいます。
1858年8月21日
ラクセンブルク宮殿で男児誕生
ルドルフと名付けられました。
世継ぎの誕生でしたが
またも大公妃に取り上げられます。
次の皇帝を立派な軍人に…
ゾフィーは大張り切り…
エリザベートはもはや立ち向かうこともありませんでした。
翌年1859年
イタリアの独立運動が激しくなり、
北イタリアのサルディーニャ王国がフランスと組んで
オーストリアに挑んできます。
オーストリア軍は北イタリアに侵入するも
6月には、ソルフェリーノの戦いで惨敗し
ロンバルディアを失います。
(ロンバルディアの中心はミラノです)
翌年1860年10月ごろになると
エリザベートが体調を崩してしまいます。
診断は肺結核…
ウィーンは寒いのでどこかへ静養へ…
選ばれたのは、ポルトガル領のマデイラ島でした。
ウィーンには戻りません。
スペインに行ったり、
マルタ島、コルフ島を巡ったりして
春になってようやくウィーンに戻ってきました。
しかし、肺結核が再発…
今度は、ギリシャのコルフ島へ向かいます。
ここには、姉のヘレーネが単身で訪問しています。
エリザベートはさぞ嬉しかったことでしょう。
ヘレーネの勧めもあって
皇帝も自らエリザベートを迎えにきます。
しかし、すぐには戻らず、
子どもたちを呼び寄せて
ヴェネツィアなどで数か月のんびり過ごします。
しかし、1862年5月
足に水がたまる水腫となり
歩けなくなってしまいます。
そこで
鉱泉治療をすることになり
故郷バイエルンのバート・キッシンゲンへ
仲の良かった弟カール・テオドールと合流します。
歩けるようになった後も
いったん実家で過ごし、
1862年8月16日、ようやくウィーンへ帰ってきました。
ウィーン市民は大喜び
祝賀行事もいろいろと行われました。
24歳のエリザベートは
このあたりから
自分の好きなように振舞うようになっていきます。
皇帝も、エリザベートを自分の元へとどめておくために
いろいろと譲歩をするようになります。
もともときれいな女性でしたが
さらに美しさに磨きがかかるのもこのあたりからです。
身長172センチ
体重50キロ
♬脅威のウエスト50センチ♬
コルセット、キュウ~~~💦
ダイエットはこんな感じ
午前中は、ミルクや紅茶、ブイヨンスープ、卵
遅めの昼食は、わずかな肉と野菜、アイスクリームやシャーベット
あるいは、果物、野菜ジュース、オレンジジュース
低タンパク、低脂肪、低カロリー
驚くことに
仔牛や牛の生の肉の肉汁を絞って
飲んでいたといいます。
ただし、甘いものは大好きで
「デーメル」のスミレのお菓子や
「ホテル・ザッハー」のザッハトルテが大好物だったそうです。
(当時は、ザッハトルテは「ホテル・ザッハー」でしか食べられませんでした)
甘いもので
ダイエットのストレスを解消していたのでしょうか。
日に数回体重計に乗り、
食べる量に対して多すぎる運動
得意の乗馬、フェンシング
そして、ホーフブルク宮殿内には、
吊り輪や平行棒の運動器具…
1日数時間も早足でただただ歩く歩く…
女官たちもたいへんです。
腰まで届く長い髪の手入れもおこたりなく
3週間に1度、コニャックと卵と香料を使ったシャンプーで洗髪
1日がかりの大仕事です。
やれやれ、たいへんですね
女官の方たちも…
公式行事の晩餐会に出席しないのは
極度の人見知りに加え、
”食べたくない”からだったとも言われています。
公務は、彼女の”やるべきこと”ではなかったようです…
いやいや、それは皇妃としてどうなんだろうか…
エリザベートさん…
さて、そんな中、皇太子ルドルフはどうなっていたのでしょうか。
つづく
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