さて、チャールズ1世ですが
この国王もロンドンからスコットランドを治めていました。
王のいないスコットランドでは
担当国務大臣が摂政のようになって政治を行っていました。
6月には、フランス王アンリ4世の娘、ヘンリエッタ・マリアと結婚します。
ただ、この王妃はカソリックだったので反感もかいました。
なお、アメリカのメリーランド州は
彼らの息子が王妃の名前にちなんで命名したものです(メリーランド植民地)。
チャールズは、父親同様「王権神授説」(Divine right of kings)を信奉していました。
「王権は神から授けられたもので、ローマ教皇にも拘束されることもなく、人民は反抗できない」というものです。
これによってイングランド議会と対立。
1628年、議会は国王に「権利の請願」(Petition of Right)を提出します。
議会の同意なしでは課税できないなど、国民の権利を再確認するものです。
しかし、1629年、チャールズは議会を解散し、指導者を投獄。
専制政治を行います。
また、カンタベリー大主教ロードの力を借りて、国教統一に着手します。
イングランドでは、ピューリタンを弾圧。
そして、スコットランドにおいては、国教会祈祷書(ロード祈祷書)を押し付けようとしました。
それが、1637年のことです。
これには、スコットランドの長老派教会派が猛反発し、暴動が起こってしまいました。
1638年には、長老派の貴族たちが「国民盟約」(National Covenant)を結成。
結んだ人たちを、カヴェナンター(Scotish Covenanter)と言います。
カヴェナンターたちは、イングランドに2度に渡って侵攻します。
これを主教戦争(Bishops' Wars)と言います。
1回目は、1639年のことで、べリックで対峙します。
ここでは戦闘は起きませんでした。
スコットランド軍が優勢と見たイングランド国王軍が和平を提案したのです。
和議がととのったものの、相変わらず国王は国教統一を諦めないし、スコットランド側も妥協しません。
チャールズはスコットランドの反乱を鎮圧するための戦費を捻出しようと
11年ぶりに議会を開きますが失敗に終わり、ろくに準備もないまま、2回目の戦いに臨みます。
これが、1640年の「ニューバーンの戦い」です。
上の写真は、戦いのモニュメント。
結果は、スコットランドの圧勝です。
チャールズは和睦を申し出て、
ノーサンバーランド州とダラム州をスコットランドに割譲し、おまけに補償金まで支払いました。
1642年1月、反国王派の5人の議員を逮捕しようとして失敗し、
これをきっかけに議会派と王党派の内戦(English Civil War)が始まります。
最初は国王が優勢でした。
しかし、議会派のオリヴァー・クロムウェルの活躍で、王党派が各地で敗れ始めます。
さらに、議会派はスコットランドの反乱軍と協定を結び、今度は議会側が盛り返します。
なかでも、1645年のネイズビーの戦い(Battle of Naseby)では、
国王軍に徹底的な打撃を与えます。
1646年、チャールズはスコットランドに逃げ込みますが、
長老派教会を樹立したいという要請を断って、
1647年、イングランドに引き渡されてしまいました。
1649年1月30日
チャールズ1世はホワイトホール宮殿のバンケティング・ハウス前で公開処刑(斬首)となりました。
ここからちょっとの間、
共和制の時代となります。