1567年5月、メアリー女王とボスウェル伯、結婚。
しかしこの結婚は、
カソリック派からもプロテスタント派からも好意的に受け止められませんでした。
ボスウェル伯が、結婚の直前に妻と離婚したことをカソリック派は認めませんでしたし、
プロテスタントとしても、ダーンリー卿殺害の首謀者と言われている男と結婚したことは容認できないことでした。
フランスから、味方のいないスコットランドに帰り、
それでもなんとか融和策を用いて、カソリックとプロテスタントの間で統治していたメアリー女王が、
枢密顧問たちの反対を押し切って、見かけだけが華やかなダーンリー卿と結婚したことが最初の“過ち”であるならば、
夫殺しの疑いが払拭されていないボスウェル伯と再婚したことは、2度目の“過ち”ではないでしょうか。
さて、女王に対し、26人のマリ伯側の同盟貴族たちが挙兵します。
女王側も兵を率いて、カーベリー・ヒル(Carberry Hill)であいまみえることになりましたが、
実際に戦いになることはありませんでした。
なぜなら、女王側の貴族や兵は、投降する者そして敵前逃亡する者が相次いだからです。
メアリー女王は捕えられ、ロッホ・レーべン城(Loch Leven Castle)に身柄を預けられました。
1567年7月20日から23日くらいの間に、女王は流産。
双子でした。
7月24日、女王は、強制的に退位させられ、
1歳の息子ジェームズが、ジェームズ6世として即位します。
摂政はもちろん、マリ伯でした。
ここで、スコットランド女王としてのメアリーの役割は終わります。
しかし、波乱万丈のメアリー・スチュアートには、この後も、悲劇的な幕に向かうストーリーが用意されています。
さてと…、ボスウェル伯はどうしたかというと…。
カーベリー・ヒルから無事に逃げ、何度か挙兵しながら、自分の所領であるオークニー諸島あたりまでやってきます。
それでも追手は執拗に彼を追い詰め、ノルウェーに脱出しますが捕えられ、
デンマークで投獄されて1578年に獄死しました。
ボスウェルは、女王がフランスから帰国する際、マリ伯の甘言にも耳を貸さず、女王に忠誠を誓った貴族です。
そして、メアリー・オブ・ギース(メアリーの母であり摂政)からも、見どころのある者として認められ、
他国の政治家からも一目おかれる人物でした。
スコットランドとイングランドとの間をコウモリのように行きつ戻りつしていたマリ伯たち他の貴族たちとは違い、
大怪我を負いながらも国境警備にあたり、イングランド軍や国境窃盗団と戦い続けてきた武将です。
メアリー女王に対しては、終始一貫、忠誠心を持っていた男でもありました。
さて、上記の写真にあるように、ロッホ・レーベン城は湖の真ん中にあります。
しかし、この城から、メアリー女王は脱出します。
彼女に恋してしまった城主の弟が、手引きをしたと言われています。
1568年5月2日のことでした。
そして、王権を取り戻そうと、約6,000人を率いてマリ伯に対抗しますが、戦いに敗れ、敗走。南へ向かいます。
そして、
スコットランドとイングランドを分けるソルウェー湾(Solway Firth)を漁船で渡り、
継承権をめぐって確執のあるエリザベス女王の国、イングランドへと向かうのです。
メアリーは、エリザベス女王の後ろ盾を得て、マリ伯から王権を取り戻そうと考えたようです。
5月16日、イングランドのワーキントン
(Workington)に上陸し、
ワーキントンの館(Workington Hall)に留め置かれます。
18日には、いったんカーライル城(Carilsle Castel)に移され、さらに7月中旬にはボルトン城(Bolton Castle)に移動。
こちらのほうが、国境から遠く、それでいてロンドンからも離れていたからです。
エリザベス女王は、イングランド国内のカソリック派がメアリーを担ぎ出して反旗を翻すことを警戒していたのです。
その後も、
タトベリ城(Tutbury Castle)
シェフィールド城(Sheffield Castle)
ウィングフィールド館(Wingfield Manor)
チャッツワース館(Chatsworth House)など
国境とロンドンの中間あたりで、海から離れたところを転々としました。
イングランドの第4代ノーフォーク公トーマス・ハワード(Thomas Howard, Duke of Norfolk)は、
イングランドを再びカソリック国にしようという野望を持つ男でした。
その一環として、メアリーと結婚しようと画策し、1570年8月まで、ロンドン塔に幽閉されています。
1570年1月、スコットランドの摂政マリ伯が亡くなりますが、
同時期に、北部イングランドで、カソリック派が反乱を起こしました。
イングランド軍イングランドとウェールズのプロテスタント
スコットランドのプロテスタント
VS
メアリーの支持者
イングランドとウェールズのカソリック
結果的にはイングランドによって抑えられますが、
メアリーの存在は、エリザベス女王にとって目に見える脅威となってきていました。
エリザベス女王の家臣、ウォルシンガムとウィリアム・セシルは
メアリーの幽閉先にスパイを送り込むよう進言しています。
1571年には、リドルフィの陰謀(Ridolfi plot)が発覚。
これは、スペインとノーフォーク公(上の肖像画の方)の力を借りてメアリーをイングランド女王にし、
イングランドを再びカソリックの国にするというものでした。
ノーフォーク公は処刑されます。
1583年、今度はスロックモートンの陰謀(Throckmorton Plot)が明るみになります。
これは、カソリックによるエリザベス殺害の陰謀でした。
これも、メアリーをイングランドの女王にするという計画でした。
これをきっかけに、エリザベス女王に対し陰謀を企てた者を処刑することを承認する法案が導入されました。
メアリーは
堀のあるチャートリー城(Chartley Castle)に移されます。
1586年8月11日
バビントンの陰謀(Babington Plot)が明るみに出ます。
これもまた、エリザベス女王を暗殺し、メアリーを女王にするというもので、
暗号で書かれた文書にメアリーが返信し、それが、イングランド側の手に渡ったのです。
暗殺を承認したという証拠となったわけです。
ここでは、暗号の解読や、返信の手紙の入手法など、ウォルシンガムの諜報網が活躍しています。
1586年9月25日、メアリーはフォザーリンゲイ城(Fotheringhay Castle)に到着。
お城はすでに解体されています。
裁判が始まったのは翌月。
10月25日、メアリーは有罪となり、死刑の宣告を受けます。