今度こそ世継を産んで
Queenの地位を不動のものにしたい、
新たな妊娠に期待をかけていたAnne Boleynですが…。
1536年1月7日、最初の王妃(3年前に結婚無効を言い渡されていた)キャサリン・オブ・アラゴンが
ケンブリッジシャーにあるキンボルトン城にて亡くなります。
防腐処理された遺体は
1月29日、ピーターバラ大聖堂に埋葬されます。
まさに同じ日、アン・ブーリンは流産してしまいます。
男の子でした。
この男の子についてはもうひとつ噂があって
身体的になんらかの障害があったので窒息死させられたというものです。
ヘンリー8世は激怒。
「神に最も近いところにいるのに世継に恵まれないのは、
この結婚が神に祝福されたものではないということかもしれない」
3月30日、国王は、かねてから惹かれていたアンの侍女ジェーン・シーモアに
お得意のLove letterを書きます。
ところが
ジェーンはその手紙にキスをして、中身を読まずにそのまま国王に戻します。
その頃にはヘンリー8世は
ジェーンこそ、王妃にふさわしいとまで考えるようになっていました。
華奢で色白
控え目でおとなしい。
容姿はまさにヘンリー好み。
気性もアンとは正反対。
しかし、どうやったらジェーンを王妃にできるのか…。
ここでまたまた、
ロイヤル・アドバイザーかつポリティカル・カウンセラー、
トーマス・クロムウェルの登場です。
しかし、特にこれといって結婚を無効にできるような理由もないし、
離婚するにはどうしたらよいか。
再び、イングランドの宮廷に呪われた日々が始まりました。
クロムウェルはまず、
グリニッジパレスにジェーン・シーモアの居室を置きました。
これは
ジェーンがロイヤル・ミストレスになったことを公にしたことになります。
強国スペインの後ろ盾があったキャサリン元王妃と違って
アンが頼りにできるのは国王の愛情だけ。
その愛が別の女性に移っていく…。
アンは焦り、嫉妬します。
さて
宮廷に出入りする人間の中に
神聖ローマ帝国のイングランド大使シャプイがいました。
シャプイはアンを憎んでいます。
なにしろ“我が国のプリンセス(キャサリン・オブ・アラゴン)を不幸に落とした女”です。
影でアンを“売春婦”と呼んで
けして顔を合わせようとはしませんでした。
それを知っている国王は
故意に2人が出くわすような機会を設定します。
狭い回廊ですれ違う2人。
当然礼儀として
シャプイが頭を下げて、王妃を先に通さなくてはなりません。
これが彼にとってはたいへん屈辱的なことでした。
そのシャプイと、国王、そしてクロムウェルが何やらヒソヒソ。
その後です。
宮廷に、アンの姦通・不倫の噂が広がり始めました。
噂を広めていたのは
アンの侍女のひとり、ウースター伯爵夫人です。
彼女もまた、国王の愛人のひとりでした。
1536年4月30日、宮廷の音楽家マーク・スミートンがクロムウェルに呼ばれます。
おそらく彼は拷問を受け、アンとの不義密通を告白したのではないかと言われています。
スミートンの告白によると、
彼は1535年5月13日に、グリニッジパレスでアンと関係を持ったということですが、
当時、アンはリッチモンドパレスに居住していたので
事実と食い違いがあります。
翌5月1日、アンは逮捕され、
3年前の戴冠式と同じように
グリニッジパレスからテムズ川をロンドン塔に向かいます。
前回と違うのは、
テムズ川から直接中に入れるようになっている
トレイターズ・ゲイトを通ること。
テムズ川から見たロンドン塔の左下の緑色のところが
トレイターズ・ゲイトだったところです。
ここには、斬首された反逆者の首がディスプレイされていました。
不倫の相手とされた男性はスミートンだけではありません。
ヘンリー・ノリス
フランシス・ウェストン
ウィリアム・ブレアトン
この3人は、廷臣であり、国王の友人でもありました。
そしてさらに、
アンの実の兄である、ジョージ・ブーリンまでが…
4人は逮捕されロンドン塔に収監されますが
拷問を受けることはありませんでした。
そして、いずれも容疑を否認します。
1520年の初めのころに
アンと恋に落ちたと言われている詩人トマス・ワイアットも逮捕されロンドン塔に収監されますが、
後に放免されます。
これは、彼の家族や彼自身が、クロムウェルと親交があったためだと言われています。
1536年5月17日
5人の男たちは処刑されました。
罪状は、反逆罪と不義密通。
さて、アンですが…。
ロンドン塔内で、裁判が行われ、
2000人の聴衆の前でアンは無実を訴えますが
すでに結論が出ている裁判でしたので、何を言おうと無駄でした。
陪審員の中には
叔父であるノーフォーク公や
以前別れさせられた恋人ヘンリー・パーシー(当時はノーサンバーランド伯)がいました。
ノーフォーク公が判決内容を言い渡した瞬間、
ヘンリー・パーシーは気を失って部屋から担ぎ出されたと言われています。
アン・ブーリン、有罪。
火刑あるいは斬首刑(結局、斬首刑になります)
罪状は、反逆罪、不義密通、近親相姦でした。
1536年5月19日午前9時を少しまわった頃、
アン・ブーリンは処刑されます。
イングランドの斬首は斧で行われていました。
なかなか1回で済むことは少なく、相当の苦痛を伴うことも多かったようですが、
アンの処刑は、フランスからプロの首切り人を呼んで
剣による斬首でした。
ロンドン塔のタワー・グリーンで処刑されたとなっていますが
実際には、ホワイト・タワーとウォータールー・バラックスの間で行われたようです。
処刑からわずか11日後、
ヘンリー8世はジェーン・シーモアと結婚します。
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