テューダー朝④ リチャード3世はほんとうに甥を殺したのか : Lotus Life
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テューダー朝④ リチャード3世はほんとうに甥を殺したのか

テューダー朝までもう少し…

ラドロー城で父親エドワード4世の死を知ったエドワード5世は、4月24日、戴冠式を挙げて正式な国王になるため、ロンドンへ向かいます。

一方、スコットランド国境に遠征中だったグロスター公リチャード(エドワード4世の弟)は、北からロンドンへ向かっています。

一行は、ストーニーという小さな町で合流しますが、ここで、エドワード4世妃エリザベス・ウッドヴィルの兄リヴァース伯やエリザベスの前夫との間の子リチャード・グレイらが逮捕され、北方へ送られて処刑されます。

なぜ彼らを処刑したか・・・

亡くなったエドワード4世は、自分の弟グロスター公リチャードを摂政にと遺言したのです。

ところが

そのリチャードを差し置いて、王妃の兄リヴァース公が中心となって、かってに、ロンドン塔の兵器庫と宝物庫を引き継ぐなど不穏な行動をとったからです。

その他、随行してきたウッドヴィル家の者は排除され、リチャード自身がエドワード5世を護衛して、5月4日にはロンドンへ到着。

いったん、新王エドワード5世はセント・ポール寺院の僧正の館にとどまり、5月19日になってあらためて、戴冠式準備のためロンドン塔に入ります。

ロンドン塔は、身分の高い者の収監場所でもありましたが、
王族の住居としても使用されていますので、なんらおかしいことはありません。

6月5日には、摂政リチャードは、エドワード新国王戴冠式のために
バース勲章を授けられる40人に召集状を出すよう指示しています。
(戴冠式と叙勲はセットだったようです)

エドワードが身に着ける戴冠式用の衣装も注文されます。

6月16日、エドワード5世の弟、ヨーク公リチャードもロンドン塔へ入ります。

ところが

6月22日、神学者ラルフ・シャーが、「エドワード4世は、エリザベス・ウッドヴィルと秘密結婚したときにはシュルーズベリー伯爵の娘、エレノア・バトラーと婚約中であり、エリザベスとの結婚は無効である」と宣言します。

当時、婚約はほぼ結婚と同等のものと考えられていました。

そうなると、エリザベスとの間に生まれた子供たちはすべて庶子ということになり、王位継承をすることができません。

グロスター公リチャードの兄、クラレンス公ジョージにも男子がいますが、クラレンス公はエドワード4世に対する反逆の罪により、王位継承権を喪失しています。

6月25日、ついに議会は、エドワード5世を退位させ、翌26日、グロスター公リチャードが、リチャード3世として即位します。

退位後も、元エドワード5世とその弟は、ロンドン塔の奥に暮らしていましたが、夏ごろから姿を見かけなくなったと言われています。

後のヘンリー8世の時代に大法官となったトーマス・モアは「王子たちは、枕で窒息死させられ、手を下したのはリチャード3世に命じられたティレルである」と "History of King Richard III" に書いています。

とはいうものの、トーマス・モアは、この事件が起こったとき、わずか5歳です。
つまり、これは伝聞なのです。
トーマス・モアは、大法官ジョン・モートンの元で教育され大きな影響を受けていますが、ジョン・モートンは、リチャード3世と敵対関係にあった人物で、後にリチャード3世を破って王位に就いたヘンリー7世の引き立てで大法官の地位を得た人物です。

 なんか、におうね~、クンクン

トーマス・モアの歴史書は、エリザベス1世時代に活躍したシェイクスピアにも影響を与えており、『リチャード3世』では、背中にこぶがあり、片腕も不自由な姿に描かれています。

2012年になって、行方がわからなかったリチャード3世の遺骨が発見されました。

リチャードは脊椎側弯症を患っていたようですが、これは、衣服を身に着けていれば、わからないくらいの程度だそうです。

若干肩の高さが違っていたようですが、若きリチャードはスラリとして手足が長く、ダンスが上手だったという話もあります。

さらに、ティレルという人物が”告白”したことになっていますが、”告白”があったとされたのは、ティレルが処刑された後だったのです。

1768年になってホレス・ウォーポールという人物(首相を務めたロバート・ウォルポールの息子)が"Historic Doubts on the Life and Reign of King Richard The Third"という本を書いて、初めて”甥殺し”に疑問を呈し、その後、多くの研究者も同じテーマで書いていますが、いまだにはっきりした真実はわかっていません。

1674年に、ロンドン塔のホワイト・タワー近くで2体の子供と思われる骨が発見され、1933年にやっと調査されましたが、はっきりと身元を特定することはできませんでした。

では、仮にリチャード3世が命じたとして、いったい何のためでしょう。

庶子ということで、もう決着はついています。
殺す必要はあったでしょうか。

それとも、将来、ランカスター側(ウッドヴィル家は元々ランカスター派)に利用されることを恐れたのでしょうか?

それでも、継承権がないことは認められましたし、第一、エドワード4世には、愛妾に産ませた男子がほかにいるのです。
彼らのことは危険だと思わなかったのでしょうか?

”甥殺し”のほうが、デメリットばかりのような気がしますが…

では、首謀者がリチャード3世でないとすると
王子たちの存在を許しておけない人物とは、いったい誰でしょう。

 いるんでしょう?いるんだよね?

はい、とても怪しい人物。
それは、この人。
リチャード3世を倒して、王様になり、
テューダー王朝を作ったヘンリー7世ーWinter King-です。
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では、そろそろこの方に登場していただきましょう。

by lotuschar | 2019-03-16 20:10 | 英国史テューダー朝

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