カテゴリ
全体 Loggia/ロッジア 『石目』について ぼくの本 詩集未収録作品集 詩 歌・句 書物 森・虫 水辺 field/播磨 野鳥 日録 音楽 美術 石の遺物 奈良 琵琶湖・近江 京都 その他の旅の記録 湯川書房 プラハ 切抜帖 その他 カナリス 言葉の森へ そばに置いておきたい本 未分類 以前の記事
2024年 04月 2023年 11月 2023年 10月 2023年 05月 2023年 04月 2023年 03月 2023年 02月 2022年 12月 2022年 11月 2022年 10月 more... フォロー中のブログ
最新のコメント
メモ帳
ライフログ
検索
タグ
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
上は最後の会食になった2019年4月。 いつも氏のお住まいの近くのお店で年に2度ほど集まっていた。このときのブログにこんなことを書いている。 「宝塚の中山寺駅近くのイタリア料理店で、岩成達也さんを囲んで、いつもの会があった。今回は、瀬尾育生、宗近真一郎両氏の東京組はおやすみ。細見和之さんが久しぶりに参加。季村敏夫さんの個人誌『河口からⅤ』の各作品についての話題、岩成さんの近況など。何をおいても、岩成さんが、殊のほかお元気で、バリトンの張りのある声。原稿も意欲的にお書きになっているようで、このメンバーに会うことをずいぶん楽しみになさっている様子がなによりもうれしい。」 「写真を見てもおわかりのように、この会はいつも岩成さんが話題の中心で、今関心をもっておられること、自らの作品のこと、メンバーの新しい詩集や仕事についてのことなど、とにかく好奇心が旺盛で、この頃は耳が聞こえにくくて苦労しておられたが、それも苦にせず、明晰でディテールの描写ゆたかなお話をなさる。お身体のことで心配なようすだとうかがっていたからよけいに、「ああ、安心したね」とお別れしたあとメンバーで岩成さんのお元気な姿に胸をなで下ろしたのだったが。 一昨日は、岩成さんを偲んで黙祷を捧げ献杯をしたあと、それぞれに、岩成達也の存在がどういうものであったかを問いかけるひとときだった。 #
by loggia52
| 2024-04-02 21:58
| 詩
|
Comments(0)
大野ロベルト『紀貫之』を読了。副題には「文学と文化の底流を求めて」とあるように、紀貫之論であると同時に、王朝文化の中核もしくは総体として和歌というものをとらえ、その文化とはどのようなものだったかを考察していく、実にスリリングな一冊。600頁近い大作だが、長さを感じさせないどころか、文章もわかりやすく、しかも深く紀貫之というテクストを縦横に論じていて、作者の並々ならぬ意欲と論じるよろこびが読み手に伝わってくる。 何よりも、和歌の読み方の新鮮さ。 ロラン・バルトの「作者の死」や、クリステヴァの「間テクスト性」を、和歌を読む方法として取り入れ、例えば『古今集』の和歌の一首を、その前後の和歌の配列や、『古今集』に先行する和歌群(先行テクスト)や伝記的もしくは歴史的な事象をもとりこんで、そこに読み込まれた世界を解いていく。読んでいると、絡み合った糸がほどけていくような、あるいはほどけ合った糸が再びもつれていくようなめくるめく和歌の世界を体現することができる。 「間テクスト性」に関連した本書の一節を引用する。 「クリステヴァにとって、テクストとは複雑に反響する雑多な《声》の集合体であった。つまり「間テクスト性」という見方は、漠然とした形であれ、それまで命脈を保ってきた純然たる「オリジナリティ」の概念を消滅させ、あらゆるテクストを、その他のあらゆるテクストの間にある漂流物へと変貌させたのである。(略)その意味では『古今集』は単純に言って、1111首の和歌が漂流する言葉の海である。」(19-20p) しかし、実はこのような和歌の詠み方は、「間テクスト性」などというポスト構造主義をもちださなくても、すでに丸谷才一や安東次男が、「後鳥羽院」(筑摩書房1973年)や「芭蕉七部集評釈」(集英社1973年)などを通して教えられた読み方とさして変わらない。 とは言え、『新古今集』や芭蕉の時代ではなく、すでに遙かに先行する紀貫之が作り上げた『古今集』やその仮名序という和歌の詩学が、後の勅撰集や家集を通してカノン化していく過程を、間テクスト性の読みを通して縦横に論じ、また精緻に分析していく力業には驚かされる。 現代短歌や俳句においてはどうなのだろうか。現代短歌や俳句を、間テクスト性を重ねて読み解く試みも面白いのではないかということも思った。
#
by loggia52
| 2023-11-26 16:23
| 書物
|
Comments(0)
吉本直子《鼓動の庭》(2012年)。兵庫県立美術館のギャラリー棟の部屋の壁面いっぱいに、人が着用した白い古着をブロック状に固めたものが隙間なく整然と並べられている。 着替えをするとき、ごく偶に蛇の脱皮や蝉の抜け殻のことを思う時がある。脱いだシャツや、もう用済みになった衣服のことをあまり思い入れをもって考えたことがないのは、むしろそこに自分の生命の残滓のいくらかが付着しているということに気づいているからだ。日常のなかではそれ以上の思い入れはあえて断ち切られているが、立ち止まって考えると、着古した衣服には、確かに自分の体臭や着ぐせや、付けた汚れの痕などがないまぜになった自らの履歴が編み込まれている。それらを処分するとき、大切にしていた人形を無造作に捨てられないのと同じように。しかし、こうやって、白いシャツだけに限定して、汚れを洗い落とし、フリーズしたように固められると、生命の履歴が、ある抽象性を帯びたものに見える。この抽象性、普遍性、言い換えれば透明な無名性(アノニム)こそが、この立体の生命なのだと思う。 個の時間や個性や体臭などは洗い流され、生命の痕跡としての息遣いが抽出されている。それらは抽象性を帯びた埋葬をも引き受けている。埋葬――死へと誘われるイメージを。ひとつひとつのシャツはもとはそれぞれ所有者の私性を持っているが、それらの私性が埋葬され、アノニムな生命の記憶の静かな量感の詩情として蘇る。私たちが、蝉の抜け殻に魅入ってしまうのは、むしろ抜け殻のほうにこそ、生命の痕跡がはっきりと現れるものではないのかという思いがあるからだ。私たちも見えない——あるいは気づかない脱皮を繰り返しながら生きていることに思い当たるのである。 イスラエルとパレスチナとの戦禍、ウクライナの惨状。私たちは報道を通して、毎日刻々と伝えられる死者の数が、この「鼓動の庭」の全面に敷き詰められたシャツのブロックをおのずと連想してしまう。死者の止まった息と命がフリーズされてそこにある。コロナの災禍も思い出される。それらは作品成立のずっと後である。芸術が時代とは無縁でないのはわかっているが、芸術は時代をこうやって映しうる。同時に、わたしたちはこの作品にたんに死のアナロジーを見るだけではない。《鼓動の庭》にも《白の棺》にも、生命や息遣いのつながりを感じないだろうか。祈りと言ってもいい。 吉本さんの作品の美質は、それらが、闇の深さをくぐり抜けたある種の向日的な明るさ、それは祈りの光といっても、希望といってもいいし、連帯といってもいいような未知な光を希求してやまないところにあるような気がする。アノニムな生命の記憶がフリーズされた衣服の無数の塊が放散している死と生のせめぎ合いを超えた不思議な静かさと明るさ。生命の記憶の痕跡ですら、こうして集まれば、時代を映すことができるのだ。 #
by loggia52
| 2023-10-29 21:11
| 美術
|
Comments(0)
季村敏夫・個人誌《河口から Ⅸ》が先日届いた。130頁に及ぶ。号は、農業史、環境史の藤原辰史、ルーマニア文学の阪本佳郎、仏文学者の鈴木創士の寄稿が目を引く。さらに詩では、先年第2詩集『attoiumani_nizi』を上梓した藤本哲明、「キルケゴールを研究する大学院生でもある詩人のシーレ布施など、新鮮な顔ぶれ。 それに毎号寄せている、詩人のぱくきょんみ、瀬尾育生、水田恭平、瀧克則、倉本修。 岩成達也さんの親族から、遺品の整理を依頼されていた季村敏夫さんが、岩成さんの随想「菅野彰三君のこと」(2014年)を載せている。その後に、「夏と遺品」と題して、岩成さんとの出会いや思い出とともに、段ボール箱30箱に及ぶ遺品の整理から編まれた「岩成達也氏資料目録」も貴重だ。「初期草稿詩篇」「推敲メモ」、「構想ノート」などに分類されている。その中に、岩成さんの14歳ごろと推定される習作2編が引用されているのが目を引いた。 《河口から》は季村敏夫の精神の気圏に共鳴した人との出会いがこのリトルマガジンを形作っている。蓋し、無二の個人誌である。 1000円(税込み)(澪標=540-0037中央区内平野町2−3−11−203 電話06−6944−0869)
#
by loggia52
| 2023-10-14 20:08
| 書物
|
Comments(0)
昨日は、神戸女子大学教育センターで、中也の会の研究集会へ。
近藤洋太さんの講演「中也と新平」に引き続いて、季村敏夫、倉橋健一、佐々木幹郎による鼎談。 二人の出会い、わずかの期間だったが、今まで気になっていた二人の関係。 残された作品や証言や詩誌をたどりながら二人の交流を推理していくおもしろさ。 近藤さんの講演も興味深いものだった。草野心平について、改めて考えさせられた。 #
by loggia52
| 2023-05-28 09:21
| 詩
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||