2024/06/23
思い出した、昔の酒田
5月20日は酒田祭の日だったがあいにくの雨が午後まで続いた。
今年は何年かぶりで「東京ディズニーリゾートスペシャルパレード」もあったが、観客が多すぎるので、見に行くのをやめた。
翌21日は酒田を発ち、石巻の知人に会いに日本海側から太平洋側へ移動の日。
つい数日前に新たな場所、酒田市総合文化センター内に開設された酒田市資料館に、ちょこっと立ち寄った。
いろんな懐かしく興味深い資料がたくさん展示されていて、昔を思い出しながら予定以上に長い時間を過ごしてしまった、
明治後半の山居倉庫。
二つの橋の位置も現在にほぼ同じだ。
昔は庄内米の積出港だった。
我が家も写真のほぼ中央に近い右下に写っている。
と言っても大邸宅でもない普通の小さな家なので、虫眼鏡で見ても見えない。
この写真を見ると子供の日々がよみがえってくる。
昔、こどものころは、中央から左上にかけては美しい砂浜と防風林としてクロマツの松林の丘陵だった。
その松林の中には、今ではほとんどの人が知らないと思うが、アメリカの進駐軍のキャンプがあり、海兵隊員たち家族の立派な白い家屋がたくさん緑の林のなかで映えていた。
我が家から歩いて5分ほどの砂浜では初夏から真夏にかけて毎朝のように地引網漁が行われていた。
私はバケツをもって砂浜に行き、地引網を曳くのを手伝って、とれた魚をバケツにもらってきたものだった。アジやカレイ、キス等が主だったが、たまにはワタリガニももらった。
夏は砂浜で海水浴やキス釣り、秋は松林でキノコ採り。
シメジやハツタケや丸くて歯触りもいい美味しいショウロもたくさん採れた。
この写真を眺めていると、当時のいろんなことが思い出される。
しかし、あの美しかった砂浜は、今は防潮堤と酒田北港、それに東北火力発電所に置き換わり、すっかり様変わり。
松林も大分減り、代わりに海外からのコンテナや材木の貯木場やそれらにともなう施設にかわった。
奥に見えるのは鳥海山。
昭和51年10月29日(1976年)。
秒速25メートルを超える雨交じりの強風が吹き荒れる中、午後5時40分頃、ここ「グリーンハウス」から出火。
12時間にわたる火災で、22.5ha焼失、1,774棟が灰になった。・・・・
ここがその洋画専門映画館。
大火焼失区域。
実家はグリーンハウスから北西約2.5Kmだ。
昔、高校生のころよく通ってい図書館「光丘文庫」。
静かな閲覧室は真夏でも涼しくて、ここでよくノートを広げていた。
今は図書館はあたらしい総合文化センター内に移設されている。
こんな写真も展示されていた。
ここはかつての料亭「宇八」、現在は「山王クラブ」という観光施設になっているところ。
個人的な事情から好きになれない竹下夢二が地元の谷町と写っている。
移設前の酒田資料館に8年ほど前の5月に訪れた時の事。
館内にやはり酒田大火の資料が展示されていて、「あなたの酒田大火体験談」といった企画で、一般から体験談を募集していた。
そして集まった何件かはすでに張り出されていた。
私もある意味ユニークな体験をしたので、PCでしたためた次の文を印刷し資料館に送った(2016年5月)。
それが以下の体験談である。
今回の新しい資料館では体験談展示コーナーはなかったので、私の送った体験談が日の目を見たのか否かはわからない。
『 1976年は米国では建国200年祭で、年間を通じてお祝いムード沸いていた年。
あの年は、1月から13か月の長期出張でニューヨーク州の田舎町エンディコットにある会社で勤務していました。
あの日10月29日の夕方、仕事を終えアパートに戻り、いつもの通りソファにすわり、缶ビールの栓を開け、TVニュースを見るためにスイッチを入れ、画面が出始めた時でした。
画面全体に表示されていた日本地図に、TOKYO、NIIGATA、そしてSAKATAの文字とそれぞれの位置がマークされていました。
おや?酒田が?と思った瞬間、アナウンサーが、「日本の酒田で強風の中、大火事が発生し、現在もまだ燃えています」。
画面は変って、中町でしょうか、強風にあおられて猛威を振るう炎に必死に放水する消防士たちが映し出されていたのを、今でもよく覚えています。今にして思えば現場からの生中継ではなかったようです。
時差があるので、そのTVニュースを見ていた時は、日本時間で翌日30日の朝5時~6時頃。
直ぐに、光ヶ丘の実家の電話番号をダイアルしたところ、幸にも電話回線はパンクしておらず、無事つながりました。
「グリーンハウスからでた火の手が、中町と内匠町を焼きつくし新井田川の方に向かっているようだ」と、母が恐ろしさで興奮しながら話していたのを、今でも覚えています。
その電話の数時間後に最新の様子を聞こうと、再度実家に電話しましたが、回線パンクでもう全く通じませんでした。
翌日だったでしょうか、現地のローカル新聞にも、燃えている写真と酒田大火の記事が載りました。
あの世界一の映画館と言われた、グリーンハウスやシネサロンを始め、当時の中町や内匠町などがすっかりなくなってしまったのは本当に残念です。 』