連続小説・「アキラの呪い」(4) - KUROMIMIには本が足りない。

KUROMIMIには本が足りない。

活字がないとダメ系ヲタク。小説・音楽・詩・ときどき映画。自作の小説も書いてます。

連続小説・「アキラの呪い」(4)

 

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***

 


 自殺現場を目撃した時の気分を思い出して、その場で吐いてしまいそうになる。体が揺らぎ、手にしたビニール袋を取り落としかけた。俺はいつまで平常を取り繕えばいいんだ?…永遠に?自分の弟がこんな気分でいることをあの人でなしが知ったところでなんとも思わないことはわかっていた。単に俺が知られたくないだけ。これは自己満足だ。

『あの日姉の住む安アパートへ向かわなければこんな気分を味わうこともなかっただろうか』

  そんな問いが幾度も頭を過ぎることは避けられなかった。その程度には最悪の気分だった。問いが重なるたび、その一瞬だけは晶を心底憎く感じた。種火は瞬間的に激しく燃え、同じくあっという間に立ち消える。暴力的な衝動が俺の内部でカウントするのも馬鹿らしくなるほど繰り返した。この苦しみが始まったのは晶が目覚めた瞬間からだった。情緒がまるでメチャクチャでどうしたいのかもわからない。あの日から俺は狂いつつあるのかもしれない。それでも、あの日の行動を後悔したくはなかった。いずれにせよ姉は生きていて、これからあいつに会えるのだ。これに勝る結果などない。ただ、それだけは確信を持って言えた。

 考え事をしているうちにいつのまにか俺は晶の部屋に辿り着いていた。既に家主が帰宅済みなのは連絡を取って確認していた。インターホンを押すと、程なくしてドアが外に向かって開いた。ドアの隙間から覗けた顔は不機嫌そのものだった。こうして睨みを効かせる顔は若い男のようにも見える。なぜかその顔を見ているだけで頬が緩んだ。実のところ、実際こうして会うまでは姉の無事を確信できないでいたから。

 「姉さん、晩飯作ってやるよ。どうせまだだろ?」

 わざとらしく作り笑顔を浮かべて、俺はビニール袋を持ち上げてみせた。

 「あんたの憎たらしい面を見たら、食欲が失せたわ。もう会ったから約束通りってことでいいわよね?それじゃとっととおやすみ」

 晶は早口で捲し立てて、ドアを閉めようとするが、そうはいかない。すかさず足を差し込んで阻止する。ぶつかり合った衝撃でなかなか大きな音がして、足に激痛が走る。痛みを感じたと同時に生理的な涙が目の端を濡らした。どんだけ嫌なんだよ、おい。全くとんでもない女だ。

 晶はといえば、俺の足なんかお構いなしに力尽くで締め出そうと、今もなおドアノブを力一杯引っ張っていた。我姉ながら素晴らしいクズっぷりだ。いっそ清々しいほどに。ドアの隙間から見える表情は他人にはお見せできない悪魔の形相を呈している。一瞬相手の必死さに呆気に取られ、それからどうしようもなく笑いが込み上げてきた。俺は思い切り腹を抱えて笑うのを辛うじて押し殺しながら、ドアに手をかけて力を込めた。そして男の腕力に物を言わせてこじ開けてゆく。晶はしぶとくドアノブにしがみついていたが、俺が入れそうな幅が確保されてしまったと悟ると、苦虫を噛み潰したような顔でようやく手を離した。

 よし、勝った……!

 俺はいつぶりかわからない程の勝利を噛み締めた。と同時に堪えていた笑いが決壊した。玄関に侵入した途端、折り曲げた体を震わせながらくぐもった声で笑う俺を、もちろん姉はゴミを見る目で見下ろしていた。

 「いや、姉さんずりーよ…。あれは働く大人のしていい顔じゃねえって。いや、ほんとに面白すぎる。夢に見そう。この先十年はこのネタで笑える」

 「ふざけんな、帰れ!」

 そう叫ぶ姿がまた子供っぽくて俺の笑いを誘った。本人は至極真面目なのがまたおかしくて仕方がなかった。

 「俺を呼吸困難で殺す気じゃないなら、これ以上喋らない方がいい。墓穴だから。大人しく飯でも食ってたほうが賢明だよ」

 そう言って姉の肩を軽く叩くと、ようやく俺は笑い発作から立ち直った。止められないうちにさっさと室内に足を踏み入れてしまう。これでもう簡単には追い出せないはずだ。

 「スリッパとかねぇの?」

 「図々しい。あるわけないでしょ、そんなもの」

 「あっそ。今度家から持ってくるわ」

 そう言ってひらひら手を振ってみせる。

 「…また来る気なのね」

 「そういう約束だろ」

 首を後ろにそらして姉を見ると、玄関で仁王立ちして腕組みしていた。俺に笑われたことであいつのプライドはいたく傷ついたようだ。小さな腕組みはせめてもの威厳を取りこぼすまいという風に見えた。だめだ、面白すぎるし、なんだか可愛くさえ見える。わかってる。俺は少しおかしくなってる。でも、仕方ないじゃないか。何年も不可侵だった領域にやっと今夜入ることができたのだから。今日くらいはしゃがせて欲しい。明日になれば、どうせ嫌というほど正気に戻ることになる。

 その日は結局、俺が簡単な夏野菜のパスタを作った。味は塩が効きすぎて手放しで美味いとは言えなかった。でもまあ、初めて作ったにしてはマシなほうだろう。夕食を摂る前にまた一悶着あったがどうにか姉を丸め込み、食卓につくことができた。晶の食生活がひどいものであることは事前に予想していたが、想像以上だった。キッチンは綺麗すぎて使った形跡すらなかった。水滴の一粒もついていないのだから、いかに普段から役立っていないかよく分かる。幸い、一人暮らしを始める際に両親が一通り買い与えたお陰で、食器や調理器具は揃っていた。それさえもほとんど使われないまま放置されていたのだろう。指を滑らせるとうっすら埃が積もっている。恐ろしい。

 昔から腹さえ満たせればいいと考えているのは察していたが、まさかこれほどとは。このままでは自殺しなくても早晩体を壊すに違いなかった。

 姉は俺の作った物を不味いとも美味いとも言わないまま、さっさと口へ放り込んでいく。早く食事を終わらせて俺を帰してしまおうという魂胆なのかもしれない。食事中はお互いに会話も少なかったが、意外と気まずくはなかった。曲がりなりにも家族として過ごしてきた時間があるからだろうか。

 俺は食事後の洗い物を終えると、早々に部屋を出ることになった。晶の早く出ていけという殺気に気圧されたのは間違いないが、それだけじゃない。食事が終わってすぐに、晶の口から明日も仕事だと聞かされたからだった。金曜の夜だから、多少長居してもいいだろうと高を括っていた。その時になって初めて時計を確認すると、既に夜8時を回っている。時間が過ぎるのが早い。姉は昔からロングスリーパーだ。睡眠時間を削るのは俺も望むところではなかった。結局、自分の至らなさに苛立ちを覚えながらの退出となった。

 俺が帰り支度を終えると、晶はアパートの一階エントランスまで見送ってくれた。まあ、俺を確実に追い出すためについてきたのだろう。表情の険しさからもそれは明らかだった。

 「じゃ、また来るから」

 そう告げた時の晶の苦りきった表情はどんな言葉よりも雄弁だった。『二度と来るな』『鬱陶しい』敢えて言葉にするなら、そんなところだろうか。

 「約束は守れよ」

 微笑んでから背を向けて数歩遠ざかった時、予想外に後ろから声がかった。

 「いつまで来るつもりなの?歩」

 なんでもないような短い問いが俺の核心部分を逆撫でした。気がつくと俺は足早に姉の前へと立ち戻り、その腕を掴んでいた。それは傷のある腕だった。走ったわけでもないのにいつのまにか頭には血が上り、心臓が激しく鼓動していた。体だけがあの日に戻ってしまったようだ。姉が自殺未遂したあの日に。嵐のような怒りが蘇り、俺の内部を蹂躙する。知らない間に腕を掴む指に力が入っていた。やっと僅かな正気を掴んで、深く息を吐き出す。そうしなければ、現在に戻って来られなかった。

「…腕、怪我してるのに。悪い」

 晶は何も言わなかった。ただ、俯いていた。この身長差では相手が見上げてくれなければ俺が屈まない限り、互いの顔を見ることは難しい。その事実が今はなぜかもどかしくて仕方がなかった。口元まで迫り上がった言葉を飲み下すと、努めて穏やかに囁いた。囁きは押し潰され、掠れている。隠しきれない激情に、末尾は震えを残したままだった。

 「傷跡が、無くなるまで」

 本当は、「お前が自殺を諦めるまで」と言ってやりたかった。

 「今度は素直にドア、開けてくれよ。もう足が痛いのはごめんだ」

 その言葉を最後に腕を離すと、再び背を向けて歩み始めた。これ以上この場にいれば、心の内を全てぶちまけてしまいそうだった。後ろを振り返ることはなかった。もしも目が合ってしまったら、今度こそ気が狂うと分かっていた。

  晶から完全に離れると、病室で生気のない顔を眺めていた時のことがにわかに蘇った。あの時、俺は確かに姉を生かすため頭捻っていた。それは間違いない。だが、心のどこかではこうも考えていた。この出来事は姉の数少ない弱点になる。利用できる、と。これは俺があいつに食い込む唯一で最後のチャンスなのだと。この機会を逃せばいずれ、晶はすべてから去るだろうとも。あの日から後ろめたさが影のように付き纏うのは、そのせいだった。俺は果たして、そこまで狡賢くなれるのか。少なくとも今はまだ、確信が持てなかった。曖昧な態度はなによりも晶が嫌うものだった。そんな性根を見抜いているからこそ、あいつは俺に辛辣なのかもしれない。

 もう何度目かのため息が闇に溶けていく。夏の夜は振り払えない悩みと共に、肌にまとわりついていた。晶にもこの苦しみがわかればいいのに。そんな無駄なことを考えてしまう夜だった。

 


(第一章おわり。第二章へと続く。)

 


「アキラの呪い」(5)へとつづく。

 

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