トレッキング第二弾 阿瀬渓谷四十八滝と金山廃村 11/24 - 苦楽園オフロード雑記帳

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兵庫・京都・鳥取・岡山の自然と林道をSHERCO TY125、 TRRS XTRACKで楽しんでいます。乗れない時などはスノーシュー、クロカンスキー、たまに料理ネタも入ります。

Happy go Lucky!

トレッキング第二弾 阿瀬渓谷四十八滝と金山廃村 11/24

我が愛する但馬のバイクシーズンはそろそろ終了。
そりゃ寒さを我慢すればもう少しは乗れますが、なにせ山陰特有の変わりやすい天気になるので、いつ冷たい雨や雪に変わるかわかりません。
昔からこの地方では「弁当を忘れても傘を忘れるな」と言われているそうですが、これからは自分の足を使って山歩きが楽しい季節です。
今回は10年ほど前から訪れてみたかった『阿瀬渓谷四十八滝』とその奥にある『金山廃村跡』についに行って来ました。
ソロで行こうかとも思ったのですが、先日に手のオペをして暇そうなダマさんに声をかけると『行きます!』と返事が返って来たので、それならばと他の人にも声をかけてみると、koma2さんと息子さんのコータくんもご一緒にということになりました。



阿瀬渓谷とはこんなところ↓↓↓
四十八滝というネーミングは八反の滝と同じくらい各地にありますが、どれも実際にはその数や落差とは乖離があるのが常套で、偽りなしという方が珍しいのではないかと思います。





紅葉の季節は手前の第一駐車場までしか入ることができずそこに車を置きましたが、先行者の車はすでに2台あり。
でももっと混んでいるかと思っていたのですが・・



理由はすぐに分かりました。
今年はどこも紅葉の見頃がかなり遅かったので、ここもひょっとしたらまだ素晴らしい紅葉が残っているかもしれないという淡い願いは打ち砕かれていました。



それでも!
歩き始めしばらくは道も舗装されていますが、眼下には美しい滝が連続して現れます🎵










谷とは反対の山側からもいくつもの沢や湧水が流れ込んでいます。



ここに落ちたら絶対に助からないよな〜、と思えるような場所も。
実際に4年前には70代女性が足を踏み外して亡くなったこともあるそうです。
少し離れたところには平家落人伝説で、お姫様が追手が迫ったと思い、自ら身を投げたという淵もあるのですが、それに比べてもかなり迫力があります。



コータくんは先日6回目の誕生日を迎えたばかり。
「連れて行って大丈夫でしょうかね?」と尋ねられて、「たぶんダイジョーブでしょ!」と無責任に答えていたのですが、前日降ったたっぷりの雨に加えて、歩き始めは青空が広がっていながらも、雨雲が流れてきてポツポツ落ちてきて、歩くところも岩に乗るとものすごく滑ります。
最初は張り切っていた彼もちょっとテンションも下がり気味ですが、励ましながらゆっくりと歩いて行きます。



この一帯にはこんなダブルやトリプルの滝もたくさんありました。



これは同じ場所を写した画像ですがiPhoneの長時間露光を使っています。
意外とこの機能を知らない人が多いようですが、一度使ってみれば簡単なので参考にしてみてください。
やり方は違いますがAndroidでもできるようですね。




道は次第に幅が狭くなって、ところによってはキャンバーになっていたり、小さな崩落を越えるようなポイントもあります。
つい、う〜んバイクで走ってみてぇ・・と思いますがそれはもちろん御法度。







しかしこの一帯、紅葉真っ盛りだったらどれほど美しさが増していたのでしょう?
足元に重なり落ちているもモミジやカエデの葉はすでに茶色くなっていますが、その数からして半端ではありません。


Photo by koma2



時折こんな青空が広がってきます。



川に沿って歩いて行けば迷うことはありませんが、それでもルートが不明瞭なところも増えてきて、油断をするとぬかるんで足がズボッと足首くらいまでハマります。
暑い季節はヤマビルも当然ながら多いことでしょう。



さらに危険な箇所が増えてきたので、koma2さん親子はここで勇気ある撤退を選択。
帰り道コータくんは岩で滑ってお尻を四つに割ったそうですが、泥に足を突っ込んでも怒られないと喜んでいたそうです🎵
うん、将来有望だぞ!



古い丸太の橋が架けてあったところはもはや折れそうで危険なので、それを回避するこんな渡渉ポイントもありました。
ゴアテックス素材などの防水トレッキングシューズは必需です。




川沿いをさらに進むとようやく目的の廃村跡らしき石垣が現れてきました。



この辺りは川の流れも緩やかになり、河原も少し広くなっています。





それにしてもここまでの区間、想像していたよりもかなりハードでした。
そんな区間を昔は麓の村と重たい荷物を担いで往き来をしていたのですから驚きです。


Photo by koma2



ここにも立派な銀杏の木がありましたが、前日の雨と風で完全終了、ざんね〜ん。



その銀杏の木が村のシンボルツリーだったかのように、その先に金山廃村跡がついに現れました。



思っていたよりも平地部分が多く広い面積です。



読みにくいと思うので文字起こしします。


私の子どもの頃、金山部落は十軒あり、十軒すべてが炭焼きで生計をたてていました。 終戦直後は七軒になっていましたが、七軒みんなが家族のようなもので、助け合って暮らしていました。 長男が家を継ぐ時代で、どの家にも若者がいましたので、遊ぶのも村ぐるみでした。 印象に残っている遊びは、冬場の兎取りです。 当時はどの家も猟銃を持っており、雪の中を兎撃ちに出ました。 炭一俵が二百円ちょっとの時代で、兎を金屋部落まで持っていくと、一羽十円から二十円になりました。 昭和30年には、関西で力から労力さえ提供してもらったら発電所を造るという話があり、今と同じ交流の電気が通じました。 それまでの電気は直流で、単に明かり用だけでした。 当時の七軒の家々では、出力調査のため電灯はつけっ放しで、 さらに外灯もあちこちに取り付け、金山部落の夜は電灯で明々していたものでした。 最盛期には98の電灯を数えていました。 32年には、三方小学校の金山分校が出来ました。 また、NHKからテレビの提供があり、分校に据え付けました。 金山峠で山仕事をしていた人夫さん達が、早めに仕事を終えて相撲放送を見に降りて来ていたのを覚えています。 山の中の生活でしあが、案外新しい生活をしていたことになります。 しかし、時代の流れには逆らえず、一軒減り、一軒減りして、昭和37年には、私の家族6人だけになっていました。 一家族だけでは金山の冬は越せません。 この冬が来るまでには金山を出ていかなければならないと決心していました。 何百年という歴史があると聞いていましたが、金山から人がひとりもいなくなったことは、これまでなかったことでしょう。 これで金山の歴史が終わるのかと思うと、土橋にペタンとすわり込み、泣くまいと思っても涙が止まりませんでした。 小高いところに金山の墓地が見えます。 もう亡くなった父親や母親の顔、世話になった村の人、葬式を出してあげた人達の顔が浮かんできました。

(豊岡市日高町記念史より抜粋)


なんと!僕が生まれた翌年に分校が建ち、ちょうどコータくんと同じ年の頃までここで住人の方々が生活を営んでいたことになります。
但馬は古くから度々、大雪の被害に見舞われていますが、昭和では20年、38年、43年にあり、行政からも僻地からの移住を勧められ、用意された麓の村などに移住されたケースがいくつかあると聞いていますが、ここも、僕の大好きな熱田や小城などもそれに当てはまるようです。



そんな頃以前から造られたであろう石垣があちらこちらにあり、その規模や数の多さには驚かされました。
いつも感じるのですが、重機などまるで無い時代どれほどの苦難苦行だったことか。


この村ができたきっかけである金鉱は室町時代から江戸中期に渡って栄え、織田信長、豊臣秀吉や徳川家康など歴代将軍たちの財源ともなっていたそうです。
それは日本の重要な歴史の一部だったとされ、永禄4年(1568)、ポルトガル人のドラードが作った「日本図」では、石見国には「銀鉱山群王国」、但馬国には「銀金山群王国」と書いてあります。
ヨーロッパから見ると、日本の国は金銀にあふれた黄金の国だったのです。


この周辺には人ひとりがやっと入れるほどの坑道が200以上あったそうです。
言い換えれば我が國のゴールドラッシュがかつてここに存在していた訳ですが、その頃はどれほどの人たちがここで暮らし働いていたのでしょうか。
ただアメリカなどとは違い一攫千金ではなく、領主によってしっかりと管理されていたそうですが。



今現在残っているのは新たに造られた掲示板と東屋。
そして古い石垣群と五右衛門風呂だったであろう、苔むしたそれらのみです。





その近くにはガラス瓶がありましたが、これはまだ少し新しそう。


ひとりその場の中心に立ち、往時を想像すれば様々な想いが頭の中を駆け巡り、目の前に浮かんでは消えるるような錯覚に襲われます。
この辺りは谷間で太陽の光も多く入りますが、とにかく四方八方から沢や湧水が流れ込み、梅雨時などはさぞや大変だったであろうし、鉄砲水が出れば家も流されることもあったでしょう。
そしてそれ以上に冬場2〜3mも雪が積もったら、一体どうやって生活をしていたのでしょう?


普段は会話が楽しいダマさんと一緒でも、そんなことをずっと考えながら引き返していくとどうしても無言になってしまいがちでした。
おまけに降り道の滑ることったら!僕は3回足を滑らし大転倒しそうになりましたが、ダマさんも危うくオペしたばかりで抜糸も済んでいない手をつきそうになっていたそうです。




巨大な落石がゴルジェを作っているところもあります。



途中で分岐して周回するコースもあるのですが、天候も悪くなってきたし、時間も予想以上にかかったのでこの日はピストンで引き返しました。
その分帰りにはルート序盤に集中している美しい滝群のそばまで降りて、じっくりと撮影してきました。









前述した通り、途中からは険しい区間もあり相応しい装備が必要になりますが、序盤の区間(主要な滝が多い)は軽装でも大丈夫です。
歩くのが苦手な人でも、序盤だけで十分満足できると思いますよ。
ここはぜひまた瑞々しい新緑と、真っ紅に染まる季節に訪れてみたい!
愛する但馬に、またひとつ大好きな場所ができました🎵



少し遅めの昼食は、先日初めて訪れて豚角煮定食に虜になった「GOHANYA但馬長寿の郷」でステーキ丼という名の焼き肉丼。(下にご飯あり)
写真だとステーキ肉を焼いてからカットしてあったのですが、これはちょっと違うんじゃない?部位はブリスケかな?
味は悪くはなかったですが、やっぱりここは八鹿豚角煮の方が正解だったようです。



それをチョイスしたダマさんは、プルンプルンな肉質に喜んでくれていました。



ダマさんとはここでお別れをして、そこから小一時間かけて久しぶりの浜坂七釜温泉ゆーらく館に。
但馬全域ではかなりの数の、いわゆるスーパー銭湯がありますが、その中で源泉掛け流しは村岡温泉とここだけだそうです。
先に引き返したkoma2さんにもすすめていたのですが、距離も離れているので今日は実際に行くことは多分ないだろうなと思っていたら、しっかりと先に湯船に浸かっていたのには嬉しい驚きでした。
ハンバーガーよりも蕎麦、チョコは噛まずに溶けるまで舐める派、そして温泉を好むというシブい6歳児です。


ここは室内の浴槽はそれほど広くはないのですが、露天が広く、岩風呂と別にこれより一回り大きさのまるい陶器のような風呂があって、そこにひとりのんびりと浸かるのが最高なんです。



特に僕にとっては湯温が最適で、普段はカラスの行水ですが、のぼせたら冬場の冷たい風にあたることを繰り返しながらふやけてしまうほど長湯すれば疲れもすっ飛びます。


駐車場に戻ると、ここでも先に出たkoma2さん親子が車に乗っていて、コータくんとバイバイする時には初対面時の照れや恥じらいも消えて、明るく屈託の無い笑顔でお別れ。
僕が出てくるまで待っていてくれたのかなあ?また遊ぼうね🎵


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