カラフルに描かれた絵画に個性的な柄のポーチ、きらきら光るアクセサリー。
他の雑貨屋さんとは違い、商品の1つ1つが個性を輝かせながら主張してくる素敵なお店『=vote(イコールヴォート)』が、2023年2月に東彼杵町にあるsorrisorisoのお隣にオープンした。
店内に並ぶ約100種類の作品を手掛けているのは、長崎県内の就労継続支援B型に通いながらアーティストとしても活躍している方々だ。
新たな視点を福祉に落とし込み、今では地域と福祉を繋ぐ重要な場所となっている=voteだが、お店を手掛けた石丸徹郎さんのお話を聞くと福祉業界に関わるようになったのは30歳になったときからだというから驚きだ。
島で育った子ども時代。夢を見失った学生時代。個人事業主として駆け回っていた社会人生活。
さまざまな局面を乗り越えて出会った自分だからこそ、福祉の枠を超えた発展をもたらせると石丸さんは語る。
福祉の在り方、そして=voteにかける想いを、石丸さんの半生を辿りながらご紹介していこう。
創造性を培った島生活。30歳まで手探りだった不透明な将来像とは
今回の記事の主役であり、この施設を手掛けた石丸徹郎さんは、長崎県内で視点を広げた障がい者就労支援事業を展開しています。
1981年に佐世保に生まれ、30歳のときに障がいのある方の就労支援事業所を開設するに至った石丸さんは、どんな子ども時代を過ごしていたのでしょうか?
「佐世保生まれなんですけど、3歳のときに炭鉱の島・池島というところに渡って、小学3年生まで約6年間くらい島ですごしました。島で育った思い出といえばとにかく自然の中で遊んだことですね。あとは、唯一買ってもらったブロックを永遠繰り返して遊ぶか。友達と佐世保独楽で遊ぶか。そんな感じでしたね」
「遊び道具とかおもちゃがない環境なので、何をして遊ぶかは自分たちで考えますよね。今でも覚えているのは、格子模様の大きなタイルで巨大すごろくをしたことです」
場所や生活、遊びが制限される島という環境で育ったからこそ、足りないところから自分で何かをつくり出していく力が自然と備わっていったと言います。
小学校4年生には佐世保に戻り、それから高校進学まで地元の佐世保で過ごしたという石丸さん。
学生時代を振り返り、自分に得意なことがないもどかしさや将来の目標が定まらなかった想いを語ってくださいました。
「小学校4年生のときに佐世保に戻って、中学高校とそつなく過ごしました。進路についてはあまり考えていなくて、高校は地元佐世保にある普通科の学校に進学。勉強に関してはそこそこできる方だとずっと思っていたんですけど、高校3年生のときのテストで360人中333番を叩きだして。その衝撃は未だに覚えていますね。(笑)」
高校2年生の時には1個目の夢が敗れるというターニングポイントを迎えたといいます。
「ずっと建築士になりたいっていうのがあったんですけど、理系を選ばなくてはいけないのを知らずに文系を選んでしまったんです。そこから夢が全て白紙に戻った経験がありました。その当時、建築士になるにはどうやったらいいの?って聞ける大人が周りにいなくて、簡単に文系を選んでしまったんですね。今思えば、ここで建築士になる道を行かなかったのは人生を変える出来事だったんですけどね」
「それから30歳になるまで本当に自分が何をしたいのかわからなくて。進路を選ぶときも、そもそも社会のことを何も知らないし、何を勉強したら何になれるかも知らないまま「将来何になる?」って聞かれるのが本当にストレスでしたね。夢を失ってから次の夢を見つけるまで、18から30歳までなので12年間かかりましたね」
夢を見失った石丸さんは、大学進学時も「行けるところに…」という考えで進路選択をしたそうです。
「もう単に入れる大学から選びましたね。歴史がとにかく苦手だったので歴史での受験は捨てて、当時うすっぺらい教科書だけが配られた倫理を独学で勉強して良い点を取ったりしてましたね。昔からなんですけど、人と同じやり方をしてても敵わないという気持ちがいつも前提にあるので、ちょっとひねくれてすごしてました」
そんななかで大学生活をどのようにすごしていったのでしょうか?
「何を目指すのか。自分のなかで大学に入る目的が決まっていないということだけが明確に決まっていましたね。そんな大学の時の僕のミッションは、とにかく色んなアルバイトをする!ということでした。ボウリングの裏方とかお寿司屋さんで玉子焼き焼いたり、ハウステンボスのビール屋台で働いたり。職種は幅広く経験したと思いますね」
とにかく目の前のことに飛び込んでみる。
石丸さんの飛びぬけた行動力は、目標が定まらなかった時代があったからこそ生まれたものなのかもしれません。
行動力に任せてイベント会社へ。そこで出会った自分自身を投影できる“福祉”という仕事
大学卒業後は長崎の大手地元企業であるジャパネットたかたに就職したものの、働きすぎがたたってわずか1年ほどでリタイア。
社会経験1年。そこからすぐに個人事業をスタートさせた思い切りの良さには、どんな想いがあったのでしょうか?
「会社で働く時間が長いという環境ですごしたときに、この時間を全部自分に使ったらどうなるんだろうって純粋に興味が湧いたんです。自分がやりたいこと、自分が考えた仕事に時間を使ったらどれだけのことができるんだろうって思ったんです」
商売の何もわからないままにジェットタオルや女性用リップを個人で売り歩く日々。
そんな生活をして1年ほど、石丸さんに新たな転機が訪れます。
「個人事業で毎日走り回る生活をして1年くらいのとき、「君、行動力があって面白いよ。音楽とか興味ないの?」と声をかけてくれた方がいて、当時音楽にはあまり興味がなかったんですけど「音楽めちゃくちゃ興味あります!」ってなんとなく答えてしまったんです。そしたらその方に「来週福岡に引越しておいでよ」と言われて、そのおじさんが誰かも分からないままに福岡に行くことを決めました」
「蓋を空けたら大手音楽会社の方だったんですね。ちょうど福岡に子会社的な会社を作るけど人が足りなくて声をかけてくれたことが分かりました。音楽イベントのブッキングやアーティストの発掘という業務をしながら、大人に揉まれていろんな世界を見始める時代がスタートしましたね」
驚くべき行動力で福岡に引越し、音楽関連の仕事に関わったといいます。
しかし、結局その会社は約1年ほどで福岡の子会社を撤退。
石丸さんは会社撤退とともに上京することは選ばず、そのまま福岡でイベント企画会社を立ち上げることになりました。
心機一転してリスタートしたイベント会社でさまざまな仕事に関わっていくなかで、石丸さんにとって人生最大ともいえるターニングポイントがやってきます。
「音楽やガーデニング、街中でのティッシュ配りなど、あらゆるイベントの仕事を請け負いました。そんななかでたまたま、自分の生まれ故郷の佐世保の団体さんから、引きこもりの方を支援するプロジェクトをやりたいということで仕事をいただきました」
「内容は引きこもりの方が働くための下準備をするための半年間の訓練を担当して欲しいという依頼でした。その仕事を受けたことで、それまでは大きな括りでしか見てこなかった“引きこもり”と言われる人たちのなかには、近年では注目されるようになった障がいのある人がいたり、障碍者手帳を持っている方がいたりとか、いろんな環境のなかで引きこもりという現状に向き合ってる方がいることを知りました」
初めて福祉という仕事にたずさわり、石丸さんはそのやりがいにどんどん魅了されていきます。
「その方たちと半年間みっちり訓練をしていくという企画を任されたのが30歳の時でした。とてもやりがいのある仕事でした。勉強ができなかったのもあって、自分は得意能力がある人間だと思ってなかったんですね。福岡では仕事が溢れているのでなんとなく居場所があったけど、自分じゃなきゃいけない仕事っていうのはなかなか出会えてなくて。ただ、その引きこもりの方の復帰プログラムの中では、等身大の自分がやったことに目の前の人がちゃんと向き合ってくれていることに気づいたんです。喜んでくれて、サボった時には怒られて、頑張った時に褒めてくれて。なんか本当の人間らしい人間関係っていうのを久しぶりにそこで感じました。久々だと感じたのは、島での人間関係や風景の記憶が重なったからです。こういう人との交流ができる仕事があったんだって。初めて福祉の魅力に気づいたのは、この仕事を受けた30歳の時でした」
大きな失敗と福祉施設立ち上げ。専門外の人が関わることで福祉の世界は広がっていく
自分自身の行動が利用者の成長に、人生に直結していく。
福祉の魅力に気づいた石丸さんは、2011年に自分の手で福祉事業所を立ち上げることになります。
福祉の道で生きることを決めたのちに踏んだ福祉事業所立ち上げという大きな一歩には、半年間の復帰プログラムで経験した大きな失敗がきっかけになったと語りました。
「実は半年間任された復帰プログラムのなかで大きな失敗もしました。すごく勉強熱心で、半年の間にホームページを作れるようになり、名刺デザインもマスターした利用者さんがいらしたんです。個人でお客さまから仕事を受注できるようになったので、これからやっていけるねってことで、その方は僕たちとの縁が切れて卒業されました。それから三か月後ぐらいにたまたま街で再会して声をかけると、「実は今病院の帰りです。あれからうまくいくかなと思ってたけど仕事を受けた時に失敗しちゃって。前より酷い状況になって通院しています」って話してくれて。あの時は自分が良かれと思って最後に発破をかけたのが、彼女達を追いつめてしまったのかもしれないととても後悔しました。そこでこのままじゃいけないって!もっと利用者さんを継続して支援できる仕組みを作りたいと思い立って、障害福祉っていうお仕事の制度があることを知ってからは大慌てで福祉施設を作りました」
地元である佐世保に福祉事業所を立ち上げ、新たな一歩を踏み出した石丸さん。
福祉という未経験の分野でのスタートを切るなかで、どのようにコンセプトを決めて施設作りをしていったのでしょうか?
「当時の佐世保には、障がいを持った若年層の人たちが夢を描けるような訓練が受けられる福祉施設が少なかったので、自分の経験も織り交ぜながらまずはそこを目指せるようにデザインを学ぶ福祉施設としてスタートを切りました」
最初の頃は、周りの事業者さんの専門性の高さに圧倒され、これまで福祉を勉強してこなかったという立場のコンプレックスを抱えていたそうです。
しかし、徐々に福祉を知らない石丸さんだからこそ得られた福祉のスタイルを確立させていきます。
「やっていくうちに、若い人が求める働き方のスタイルって僕たちが考えている以上に無限に広がっているんだなと気づきました。若い人が希望を持って将来の夢を語るためには、福祉施設だけが福祉をしているんじゃ絶対ダメだと。“働く”を支援するなら福祉業界の経験者だけじゃなくて、企業での働き方を知っている人がいる方がいいんじゃないかって思うようになりました。それが今の私たちの福祉のスタイルに繋がっているんですけど、福祉だけじゃなくて企業目線でじゃあどうするかっていうところを結構ストイックに追求するようにしていますね」
その精神は今でも大切にしているそうで、石丸さんの会社では福祉未経験の人も応募できるような求人を出し、実際に働いている人の半数以上が福祉の資格を持っていないんだとか。
福祉以外の視点から福祉を捉えることで、新たな可能性やアイデアの創出を手助けしているのですね。
活動を通して“働く”をポジティブに。石丸さんが考える福祉の在り方とは
通所される方の訓練に立ち会うなかで、働くということの価値観が石丸さんのなかで変わった出来事があったそうです。
「パソコン中心の訓練を行っていたとき、パソコンについていけない人が退屈しすぎて落書きをしていたことがあったんですね。そしたらたまたまその絵が佐世保のフリーペーパーの編集長の目に止まって。その方が描いた九十九島の牡蠣の絵が、次の号の表紙を飾ったんです。当時、写真以外でそのフリーペーパーの表紙を飾ったのはそれがはじめてだったと知りました」
「その出来事自体も素敵だったんですけど、自分の絵が表紙になって、何万人っていう人の目に止まったという事実に絵を描いた本人がとても喜んでいる。そんな本人さんの受けた衝撃の方が僕にとってはすごく響きました。承認欲求を得るための手段って、良い仕事をして良いお給料を稼ぐだけじゃないんだなあってことを、そのときに体感しましたね」
これまで働くことにコンプレックスを抱えて向き合ってきた人の内発的なやる気が引き出された瞬間。
石丸さんは自分が抱えてきた“特別なことがない”という悩みと重ね合わせ、通所している方に認められる体験を積み重ねていって欲しいと語ります。
「これから新しい能力を育てないとあなた通用しないよって考えが僕自身があまり好きじゃなくて。特別なものを持ってないと特別じゃないよっていうのは僕自身も言われ続けてきて苦労した部分なので。本人からしたら何気に書いた落書きを、他の人が見て当たり前に良いと評価してくれる。そんな経験をどんどんしてもらいたいなと思いながら日々訓練をやっています」
佐世保の「ホットライフ」という事業所を皮切りに、現在では就労継続支援B型事業所「佐世保布小物製作所」、就労継続支援B型事業所「アストルテ」、就労継続支援B型事業所「エルビレッジ」、就労継続支援B型事業所「ミナトマチファクトリー」を運営する石丸さん。
最後に石丸さんの心に根付く福祉の在り方についてお聞きしました。
「絵を通して成功体験を得られたという出来事をきっかけにデザイン、そしてアート関係にも活動を広げたわけですが、この活動自体は「デザイナーとして地域に出ていきなさいよ」といった訓練ではなくて、自分の能力で何かを生み出してそれを仕事に変えるということで、自分の働くイメージをポジティブに変換していく手段になってくれたらいいな」
「そんな経験を自分でしてもらって、そこから企業で働くことに対してのワクワクを育ててもらう。それから改めて地域にはどんな企業があるかとか、どんな仕事が自分に向いているか考えることに繋がっていけたらなと思っています」
身近にありながら閉鎖的にも思える福祉の問題点。
石丸さんの想いや挑戦は少しずつ地域に広がり、福祉という役割の在り方に変化をもたらしはじめています。
長崎の福祉に新たな価値を生み出す石丸さんの想い、これからの活動に注目です。
石丸さんが運営される=voteの記事はこちら。