なかなか決心がつかなくて見そびれていた映画 『カティンの森』 を DVDを借りて見た。
ポーランド映画の巨匠アンジェイ・ワイダ監督の作品である。
なかなか見る決心がつかなかったというのは、この映画の内容が、かつてソ連の捕虜となったポーランド軍人のうち1万数千人の将校、技師、医師らが虐殺されたカティンの森事件を扱ったもので、「重い」 だろうことが分かっていたからだ。
こういうのを見るのは気が重い。
じゃあ無理して見なきゃいいじゃないかと思うのだが、うんと若い頃に、この監督の 『地下水道』 や 『灰とダイヤモンド』 を見て強い衝撃を受け、感動を受けた私はどうにも気になって仕方がない。
結局見てしまった。
カティンの森で(実際には3か所)大虐殺事件が起こったのは1940年の春。
その事実は、3年後ソ連に侵攻したドイツ軍が、折り重なる遺体でいっぱいの墓穴を発見して発覚したが、ソ連はこれをナチスの仕業だったとして逆にプロパカンダに利用し、犯行を否認し続けた。
みんなうすうす気づき、知っていたこと。
でも、大戦後にソ連の統治下に置かれたポーランド国内では、カティン問題は人民共和国への忠義の尺度。
この事件の真相を追究することは許されず、ソ連崩壊直前の1990年、最後の大統領ゴルバチョフが事実を認め謝罪するまで、なんと50年間近くもうやむやにされたままだったのである。
この映画は、虐殺された一人の将校とその家族を巡る周辺の人々のそれぞれの生きざまが、その重苦しい空気の中で生きるポーランド人たちの姿の代表として淡々と描かれている。
そして最後には、 夫の遺品として残ったノートを見入る妻とだぶって、「その時」 カティンで行われた無情な処刑シーンが延々と流れる。
目を逸らしたくても逸らすことを許してくれないような映像に圧倒されて、茫然となっているうち、映画は無言のまま終わった。
この無言というのが凄い。
一体この処刑というのは何だったのか。
戦争に勝利するということ、ひとつのイデオロギーを浸透させることに何の意味があるのか。
多くの人間を虐殺することも厭わなくなる、全体主義の怖さとおぞましさ。
希望を持つこと、あるいは「信じる」というのはどういうことなのだろう。
父親をカティンの森で失ったというワイダ監督は、昔から一貫して反スターリニズムの姿勢を貫いていると思うから、無念の中で抹殺された人たちに焦点に当てているが、同時に、自己保身と良心との葛藤の中で声を上げることができなかった人々のことも描こうとしている。
「本当につらいのは見捨てられること。他は何もつらくない。」と、映画の中でアウシュビッツから生還した役の女性に言わせていることからしても、ただただその事実、祖国ポーランドが辿った非劇の歴史、その中で生きていかなければならなかった人々の思いが風化されないように、映画という手段で残したかったのだと思う。
80歳を超えた現在、人生最後の仕事として渾身の思いを込めてこの映画を作ったのだろうことが、ひしひしと伝わってきた。
見ましたよと言いたい。
甘い見方かもしれないけど、とにかく心に刻んだ。
しかし、本当は心に刻むだけではだめなことはわかっている。
映画の場面で、兄を殺された姉妹の会話があった。
姉は体制に迎合して生きる道を選ぶのだが、妹に非難され、「私は違う。心は決して体制側にあるわけじゃない。」
と言い訳する。
「それでも今は、生きること、生き抜いていくことが大事なんだ。」と。
それに対し、妹は言う。
「思いは違っても、(現体制と)行動が同じなら同じこと。思っているだけでは何も変わらない。」と。
これは痛烈なメッセージだと思う。
その通りと思うし、真摯に受け止めたい。
だけど私は弱い。こんなふうにぬくぬく生きている。
もし自分に信念というものがあったとしても、それをどれだけ行動に結びつけられるだろうか。
この妹のように、反動分子として処罰されても貫き通す道を選べるのか。
やっぱり考えると重いのだ。
でも、見て良かったと思う映画だ。
ついてない日というのは最後までついてないものだ、と思ったのは昨日のこと。
というと、まるで 「運」 の問題であるかのようだが、私の場合、その原因を作ったのは自分の不注意である。
まず最初の失敗は、夕方からの会議をお昼にあると勘違いして (完全な自分の思い込みだったのだが)、
12名分のお弁当を発注してしまったことだ。
いつまで経っても誰も来ない、ガランとした会議室に並べた仕出し弁当を見て、初めて自分の失敗に気付いた。
どうしよう、このお弁当・・・と思った。
ただでさえ、少ない予算から捻出しているのだ。
再度夕方の分を発注し直すとしたら、この分の支払いは自分で責任取るしかない。
一瞬、これをそのまま夕方の会議に使い回そうかと考えたが、いくら冷房を効かせた部屋に置いておくとしてもこの季節である。食中毒でも起こったら、そっちのほうがリスクが大きい。
すぐに無理だと諦めた。
残るは、このお弁当の処分の問題である。
食べ物を無駄にするのは忍びない。
職場には誰もおらず、下の階の会社に打診てみるも、その時にはもう皆、お昼ご飯を食べた後であった。
とりあえず自分で2個食べたが、どう頑張ってもそれが限界。
残りの10個分は、ご飯だけラップに包み、職場の冷凍庫に詰め込んだ。
おかずのサバの味噌煮も同じくひとつひとつラップに包み、入るだけ冷蔵庫に入れ、あとは全部捨てた。
ガックリしながら仕事に戻ったが、その後もロクなことが起こらない。
コピー機の調子が悪くなったり、宅配メールの受け取りが行き違ったりで、なかなか思うように仕事が進まない。
夜会議のお弁当は、急きょ出席になった人が出て、私の分はなし。
作成した会議用資料はミスが多く、面目まるつぶれ。
極めつけは、仕事を終え、車で家路に向かう途中、一時停止無視で切符を切られたことだ。
なぜそこで一時停止しなかったのか全く覚えていないのだが、真後ろにパトカーがいたらしく、すぐに捕まってしまった。
罰金7,000円。
無駄にしたお弁当代8,000円で、計15,000円の出費。 痛手だわ~。
つくづく思ったけど、マイナス思考は不運を呼び込むのね。
気をつけよう。。。
今日から気持ちを切り替えるわ。
本日、昨年度の仕事の会計監査が終わり、やっと一段落したところである。
6月から今日まで、現実の表層部分ばかりに関わって生きていたから、もう限界だった。
でも明日から三連休。
そう思うと解放感が倍増し、その嬉しさで涙が出そうになる。
一時の解放感かもしれないけれど、とにかく今夜からあと3日は好きなことをして過ごせる幸せに、気持ちが華やいでどうしようもない。
そして改めて思ったのだ。
私の、好きなことをして過ごすの 「好きなこと」 とは、どこかに出かけることでもなく、美味しいものを食べることでもなく、人と愛し合うことでもない。
それは・・・
― どっぷりと内に籠りたい -
なのだ。
あはは、私って基本的に 「引きこもり」 なのね。
たぶん、気持ちを外に向けて解放させ、外交的に日常を送るだけではダメなんだと思う。
ただし、きっとずっと引き籠っているのも無理なので、そのへんのバランスを上手く取るのが重要なんだろう。
誰でもそうなんだろうけどね。
私の場合、極端に走らないと精神のバランスが取れないような気がする。
そこで思ったのだけど、私にとってブログってどっちなんだろう。
外交的な行為なのか、内向的な行為なのか・・・
そのどちらの要素もあるけれど、熱心ではないにせよこれだけ続いているところをみると、もしかしたら自分にとって最もバランスが取れる空間なのかもしれない。
その中で時々内向的になったり、社交的になったりするにしても、無理をせずに自分のペースでいられるというのが良いのだろうな、なんて考える。
近所の郵便局が、【和歌山の 『わけあり』 梅干し】お買い得キャンペーンをやっていたので注文していたのです。
自分が注文していたこと忘れちゃうの。
一瞬「はぁ?」なんて思ったし、図書館でリクエストした本も、連絡がある頃には、「え、何それ?」 なんてw
まあ、今回は現物見て思い出したからよかったけど^^;
でもお高くて、私の給料じゃなかなか買えなかったんですが、今回は安かったので思い切りました。
要するに、一級品になれなかった 「はね出し」 ってやつよね。
美味しいわ。
料理にも使えるし、焼酎に入れても美味しいしね。
それぞれ素敵な浴衣姿での参加です。
その席も盛り上がりが凄い。
お互いのが聞こえないくらいなので、余計に声が大きくなります。
帰ってきたのは12時ちょっと前。
浴衣を脱ぎ棄てたまま、すぐに寝てしまいました。
過去に何度も書いているけれど、私の職場は一年ごとに役員が総入れ替えになります。
トップからして 「任期制」 で入れ替わるのです。
それで7月が年度初めになるので、今月1日から新体制でスタートが切られました。
今回のトップは女性です。
この組織で女性がトップになったのは初めてらしいのですが、考えてみたら私も女性上司に仕えるのは初めてなので、今までと勝手が違うのか同じなのか、ちょっと怖いような、楽しみなような、微妙な心境です。
この女性ボス、まだ付き合いが浅いので本当のところはどうかわからないけれど、大変気風がいいというか、並みの男以上にサバサバして見える人です。
見かけこそ女を強調するような化粧や服装をしていますが、我の強さと気の強さが前面に出ているせいか、いわゆる 「女性らしさ」 のようなものを人に感じさせないので、保守的な男性からは、「なんだ、あの女は!」 と眉をひそめられるタイプと言えるでしょう。
実際、そういう陰口は、もうすでに色んな方面から聞こえてきています。
でも、私は嫌いじゃないんです、こういう女性。
男にうとまれようが、人からどう思われようが、自分はこうだとはっきりモノを言える女性というのは少ないですからね。 田島陽子先生とか、けっこう好きですし。
でも、田島先生と違うのは、それを判って言っているわけではないところかもしれません。
押しが強いだけで、人の感情のキビや空気が読めないというのは、トップに立つ人間としてはどうなのか、
案外、気の強いお嬢様が歳とっただけだったりするのかな、なんてことも思います。
で、私は、そういうところを差っ引いたとしても、今のところはこの人のことを好意的に見ています。
問題は、このボスが私という人間を好意的に見てくれるかどうかなんです。
秘書という立場からすると、上司とウマが合う合わないは仕事上とても重要なんですが、
今まで年上(年配)の女性から好かれたり、可愛がられたという経験が乏しいから、自信ないんですよね。
せめて仕事上は信頼されたいと思いますが、私は肩入れしていても、相手の感情によっては全てぶち壊しになったりしそうです。
今までの男性ボスに対してきたように、初めから割り切って、感情を殺して仕事するほうが無難かもしれません。
ただ、この女性上司に対しての周りの男性陣の反発は相当なものなので、フォローはしていきたいです。
プライド確保のためにネチネチと嫌みめいたことを言ったり、陰でバカにしたり、嫌がらせ工作を謀ったりするのは、男性のほうが凄いと思っていますから。
そういうのに巻き込まれるのは本当に嫌なんです。
さてさて、これから一年どうなることでしょう。
楽しみだなあ。。。
25歳以下だと1000円だというから、すごく良心的よね。
それで急きょ行くことにしたのです。
3階の、文字通り天井桟敷の、上から舞台を見下ろすような末席だったけど、十分楽しめました。
上総佐倉の領主の圧政に苦しむ農民の訴えを江戸の将軍に直訴して、妻子共々極刑に処せられた名代、木内宗吾をめぐる物語です。
作詞はいとうせいこうなんですって。
元来歌舞伎は民衆演劇なのだから、江戸時代だって、笑いあり、涙あり、感動ありの人情ものに、こういう実験的な新しい演出をどんどんやっていたんじゃないかしらと思いました。
サイトウ・キネン・フェスティバルと共に、これから先も市の主要イベントの一つになっていくのではないでしょうか。
そういうのを見つけるのも楽しかったです。
そして、普通なら客席で飲食は禁止されている劇場で、歌舞伎公演中だけは客席で飲食可なのも嬉しい。
下手な芝居だと長いな~と感じる3時間の公演が、あっという間でした。 途中で寝なかったしね(爆)
また来たら観に行きたいと思います。
やっぱり当日券で^^v