著者/ 車 浮代(くるま うきよ)
出版社/PHP
発刊日/2010年4月9日
“さ・し・す・せ・そ”とは、和食の基本調味料である「砂糖(みりんを含む)」「塩」「酢」「醤油」「味噌」+「酒」のこと。この語呂合わせの順に調味するだけで、味がよくしみ込み、材料の旨味を引き出し、やわらかに香りよく仕上がります。
これら調味料と地元の食材で作られ、庶民に愛されたのが江戸料理。江戸文化に造詣の深い著者曰く「健康的で経済的な料理」だそう。冷蔵庫がないから旬の素材を使い、短時間調理で燃料費節約、油は控えめ、肉をあまり食べない……というのがその理由。
アートディレクターの経歴を持ち、小説家であり、浮世絵研究家で江戸文化に造詣が深く、美食家で話題が豊富で話術も上手い。
だからつい話に引き込まれ、彼女の話を聞いているだけで、あっという間に時間が経ってしまいます。
一品一品の料理にまつわる歴史や、「江戸っ子の食生活」 「江戸の食、おもしろ話」 「浮世絵に観る江戸の食」など、各所に彼女の小話が載っていて楽しめますよ。
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『完全版 江戸の暮らし』双葉社
こちらもお薦めです。
ちょっと変わった人の本です。
著者/久島 弘
出版社/東海教育研究所
発刊日/2010年3月19日
日本が高度経済成長期にあったころ、六畳一間の安アパートに住み、裸電球の下で眠りながら、「月給が上がること」に怯えていた青年がいた。それから三十年―。時代は変わって「貧困」が語られるいま、歳を重ねた「青年」は、変わらず同じ六畳間にいる。バブルの時代も世の風潮に流されず、「工夫で生きる」をモットーに、「自由な快適生活」を求め続けた「お金に頼らぬ知恵の人生」―。貧困がはびこるいまこそ、見習うべき「生活」と「哲学」がここにある。
序章 被災者とバックパッカーのサバイバル―モノのないところで生きるということ
第1章 食って、生きる!―何を、どう作って食べるのか
第2章 住んで、生きる―火と水と衣と寝床の家政学
第3章 動いて、生きる!―生活道具を持ち歩く暮らし
第4章 思って、生きる!―放浪と「社会復帰」から見えてきたもの
見ているだけで面白いというか、呆れ果てるというか・・・はっきり言って普通の人は引きます^^;
『ロビンソン・クルーソー』は、西欧資本主義の生い立ちを孤島に移して再現した寓話じゃないか。
そんなタイトルはイヤだ。せめて『ぼくは都会のヨコイさん―恥ずかしながら・・』にしてくれ!
との筆者の悲痛な叫びも、担当者には通じなかった。(メールから抜粋)
でもさ、今の若い人はヨコイさんなんて知らないんじゃない?と思っちゃった。
“エコはエゴだ”
“ビンボウ人は粗食ではなく「素食」を”
なんて、あまりバカにしたことばかり書くのもナンなので、いちおうフォローしておきますが、
マニアックな生き方を貫いているけれども、礼儀正しい穏やかな紳士でもありますよ。
というか、本人は大枚はたいてわざわざ買う必要はありません。図書館に頼んで斜め読みで十分。
と言っております。
本が売れて彼がお金持ちになっては困るので、皆さんそうしてあげてください。(笑)
昨夜は松本城に夜桜を観に行ってきました。
3度くらいでしょうか。
一度暖かくなってからだと寒さが余計に身にしみます。
真冬のコートと手袋で重装備しいても、シャッターを切る指先が凍えてきます。
だから楽屋での写真を撮る人はひとり・・・私が一手に引き受けて各楽屋をまわりました。
ただ漠然と気持ちのままに撮っていたら、絶対偏りが出てしまいます。
それに、自分が撮りたい写真と、親御さんや被写体になった子が記念に欲しい写真は違うかもしれないし・・・
つい同じ子ばかり何枚も撮ってしまって、あ、いけないいけない、またこの子にカメラが向いてしまった。あっちの子も写さないと・・・という感じ。
被写体になりやすい子というのが、普段目立つ子かといえば、そうでもないところが不思議なんですが。
当たり前だけど、素人カメラマンの腕ではシャッターチャンスを逃します^^;
ジャージ姿でいる時は、まるっきり子どもにしか見えないのだけど、髪をアップにしてお化粧して衣装に着替えると、すてきなバレリーナに早変わり。
ほんの少し女性らしさが出てきているけど、まだ無駄な肉がついていない体がとても清々しくて美しいのです。
お肌もピチピチつるつるだし、ああ羨ましい・・ってなもんです。(笑)
その後の自意識が過剰になってくる年頃になると、カメラを向けた途端なんとなく不自然な感じになって、これまた素人カメラマンとしては撮るのが難しくなるからです。
明らかに「今から撮るからね。」と構えさせて、ピースサインでもさせるか、ポーズを取らせるかしたほうが逆に自然に見えるくらいだから面白いものです。
そうじゃない子との差は歴然としちゃうんです。
持って生まれたものなのかしらね。。。
こういう子って、踊り手としても才能があるんじゃないでしょうか。
特に本番中の、舞台のライトがうっすら漏れた暗い袖が。
出を待っている出演者と装置やスタッフたちが醸し出す緊張感で、ピンと張りつめた空気がたまりません。
祭りは終わったという雰囲気がいいです。
なんとなく忙しくて気持ちが落ち着かない日々が続き、ブログもさぼっているこのごろである。
先日は身内の法事があって東京まで日帰りで行ってきた。
気持ちの上で年々距離が遠くなり足が遠のいている東京だが、葬式や法事でだけ行く回数が増えてきているのは皮肉なことである。
みんな、死んでばかり(笑)
法事の日はあいにくの天気で、こちらより一足先に桜でも観て帰ろうかと思っていたのに寒くてその気になれず、それどころか悪寒さえしてきて、法要後の会食もせっかく四川飯店にしたのにロクに食べられない始末。
なんだか妙に疲れて、風邪をひきそうになりながらぐったりして帰ってきた。
基本的に私は、法事というものが嫌いなんだと思う。
宗教心もないし、親族と顔を合わすのも苦手だ。
そして何より決定的なのは、身内や死者を敬う気持ちが欠落している。
それでもやっているのは、形式には何がしかの意味があるのだろうという考えと、そんな自分だからこそやったほうがいいのではないかという、人としての後ろめたさからである。
だが、そんな冷淡な私でも最近ふとした折に、もういない人の「思い」を強く感じることがあって驚くことがある。
思い出すというより、気持ちに入ってくる感じだ。
それは決していいことばかりではないのだが、そのことについてしばらく物思いに耽ることもある。
現実にはこの世界から消えてしまっても、その存在感は私の中に残っている。
あの人も、あの人も、そしてあの人も、確実にまだ自分の中にいる。
普段は思い出さないけれど、思い出した時にそれがわかる。
とすると、それぞれの死者の魂を少しずつ譲り受けて、自分は今生きているんだろうなと思ったりする。
自分と関わりのあった人が亡くなることが少しずつ増えている今日、
人生の半ばを過ぎると死者と共に生きることになると聞くが、このことだろうか。