心の隙間 2010年04月
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心の隙間

日々感じること・思うこと

二冊目の紹介本はこれ。

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"さ・し・す・せ・そ"で作る<江戸風>小鉢&おつまみレシピ
著者/ 車 浮代(くるま うきよ)
出版社/PHP
発刊日/2010年4月9日

【解説】
“さ・し・す・せ・そ”とは、和食の基本調味料である「砂糖(みりんを含む)」「塩」「酢」「醤油」「味噌」+「酒」のこと。この語呂合わせの順に調味するだけで、味がよくしみ込み、材料の旨味を引き出し、やわらかに香りよく仕上がります。
これら調味料と地元の食材で作られ、庶民に愛されたのが江戸料理。江戸文化に造詣の深い著者曰く「健康的で経済的な料理」だそう。冷蔵庫がないから旬の素材を使い、短時間調理で燃料費節約、油は控えめ、肉をあまり食べない……というのがその理由。

本書は特に簡単な小鉢料理とつまみを厳選し、カラー写真とともに紹介するもの。焼き大根、新しょうがのみそ漬け、ねぎま鍋、さんまのわた焼き、磯納豆、白和え各種、鳴き卵、深川飯など、見て楽しく、食べて美味しい68品です。



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著者の浮代さんは、美人で才能豊かな、まさに才媛と呼ぶにふさわしいステキな女性です。
アートディレクターの経歴を持ち、小説家であり、浮世絵研究家で江戸文化に造詣が深く、美食家で話題が豊富で話術も上手い。
だからつい話に引き込まれ、彼女の話を聞いているだけで、あっという間に時間が経ってしまいます。


この本は、ただのレシピ本ではありません。
一品一品の料理にまつわる歴史や、「江戸っ子の食生活」 「江戸の食、おもしろ話」 「浮世絵に観る江戸の食」など、各所に彼女の小話が載っていて楽しめますよ。

お薦めです。


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【追記】

こちらの本に、この著者の江戸料理再現の特集ページが組まれています。
  ↓
『完全版 江戸の暮らし』双葉社 
こちらもお薦めです。
このところ、友人が本を出したというのが続けて2件あったので、ここでご紹介します。


まず一冊目は、ここのブログ日記にも「友人」として何度か登場し、話題を提供してもらったことのある、
ちょっと変わった人の本です。

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僕は都会のロビンソン-ある貧乏主義者の生活術-
著者/久島 弘 
出版社/東海教育研究所
発刊日/2010年3月19日


[要旨]
日本が高度経済成長期にあったころ、六畳一間の安アパートに住み、裸電球の下で眠りながら、「月給が上がること」に怯えていた青年がいた。それから三十年―。時代は変わって「貧困」が語られるいま、歳を重ねた「青年」は、変わらず同じ六畳間にいる。バブルの時代も世の風潮に流されず、「工夫で生きる」をモットーに、「自由な快適生活」を求め続けた「お金に頼らぬ知恵の人生」―。貧困がはびこるいまこそ、見習うべき「生活」と「哲学」がここにある。

[目次]
序章 被災者とバックパッカーのサバイバル―モノのないところで生きるということ
第1章 食って、生きる!―何を、どう作って食べるのか
第2章 住んで、生きる―火と水と衣と寝床の家政学
第3章 動いて、生きる!―生活道具を持ち歩く暮らし
第4章 思って、生きる!―放浪と「社会復帰」から見えてきたもの

***

とにかく彼は、存在自体がユニークなんです。
見ているだけで面白いというか、呆れ果てるというか・・・はっきり言って普通の人は引きます^^;

このタイトルもご本人は気に入らないみたいで、
『ロビンソン・クルーソー』は、西欧資本主義の生い立ちを孤島に移して再現した寓話じゃないか。
そんなタイトルはイヤだ。せめて『ぼくは都会のヨコイさん―恥ずかしながら・・』にしてくれ!
との筆者の悲痛な叫びも、担当者には通じなかった。(メールから抜粋)

とのこと。あははw
でもさ、今の若い人はヨコイさんなんて知らないんじゃない?と思っちゃった。

“貧乏は美徳ではない。単なる「気の毒」である”
“エコはエゴだ”
“ビンボウ人は粗食ではなく「素食」を”

などのシニカルな名言も多くあり、ついつい笑ってしまいます。
なんて、あまりバカにしたことばかり書くのもナンなので、いちおうフォローしておきますが、
マニアックな生き方を貫いているけれども、礼儀正しい穏やかな紳士でもありますよ。


興味のある方はご購入を・・
というか、本人は大枚はたいてわざわざ買う必要はありません。図書館に頼んで斜め読みで十分。
と言っております。
本が売れて彼がお金持ちになっては困るので、皆さんそうしてあげてください。(笑)
こちらでも先週あたりからやっと桜が開花し始めた様子。
昨夜は松本城に夜桜を観に行ってきました。

でも寒い。
3度くらいでしょうか。
一度暖かくなってからだと寒さが余計に身にしみます。
真冬のコートと手袋で重装備しいても、シャッターを切る指先が凍えてきます。


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ライトアップされた桜と松本城


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お堀を囲む桜も幻想的でした。



この日の真夜中には雪が舞いました。
先日はバレエ教室の子どもたち(高校生まで)の発表会で、楽屋でのスナップ写真係として裏方のお手伝いをしてきました。

その教室の方針として、子ども同士がお互いに撮り合いっこなんかを始めると、はしゃぎ過ぎて収拾がつかなくなるということで、楽屋でカメラを使うことを禁止しています。ケータイカメラもだめ。
だから楽屋での写真を撮る人はひとり・・・私が一手に引き受けて各楽屋をまわりました。

『メイクしているところとか、お弁当食べているところとか、とにかくバシバシ撮ってくれればいいです。』 と先生に言われて気楽に引き受けたけど、そのあと、『なるべく各子どもたちを均等に撮ってね。後で親から文句が出ないように。』 なんて言われ、うわぁ、これって案外責任重大じゃないか!と、最後まで緊張が解けませんでした。

だって、被写体になりやすい子となりにくい子っていますからね。
ただ漠然と気持ちのままに撮っていたら、絶対偏りが出てしまいます。
それに、自分が撮りたい写真と、親御さんや被写体になった子が記念に欲しい写真は違うかもしれないし・・・

でもとにかく、きっとこういうのがスナップ写真として良いのだろうというのを全部で600枚くらい撮りました。


撮ってみて分かったのは、やはり均等に撮るというのは難しいということです。
つい同じ子ばかり何枚も撮ってしまって、あ、いけないいけない、またこの子にカメラが向いてしまった。あっちの子も写さないと・・・という感じ。
被写体になりやすい子というのが、普段目立つ子かといえば、そうでもないところが不思議なんですが。

ただ、落ち着きがない子の写真は撮りにくいですね。
当たり前だけど、素人カメラマンの腕ではシャッターチャンスを逃します^^;


それから10歳から13歳くらいまでの女の子って、被写体としてすごくいいことに気が付きました。
ジャージ姿でいる時は、まるっきり子どもにしか見えないのだけど、髪をアップにしてお化粧して衣装に着替えると、すてきなバレリーナに早変わり。
ほんの少し女性らしさが出てきているけど、まだ無駄な肉がついていない体がとても清々しくて美しいのです。
お肌もピチピチつるつるだし、ああ羨ましい・・ってなもんです。(笑)

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基本的に小さな子ほど写しやすいのは間違いないことで、それはどんな姿を撮っても可愛いからという理由の他に、本人がカメラ(人の目)に対して屈託がないからだと思われます。
その後の自意識が過剰になってくる年頃になると、カメラを向けた途端なんとなく不自然な感じになって、これまた素人カメラマンとしては撮るのが難しくなるからです。
明らかに「今から撮るからね。」と構えさせて、ピースサインでもさせるか、ポーズを取らせるかしたほうが逆に自然に見えるくらいだから面白いものです。


あと、改めて撮った写真を整理していてやっぱりね・・と思ったことですが、どんな瞬間にどんな写真を撮っても、表情や立ち振る舞いの姿が「絵になる」子っています。
そうじゃない子との差は歴然としちゃうんです。
持って生まれたものなのかしらね。。。
こういう子って、踊り手としても才能があるんじゃないでしょうか。


まあ、そんなこんなで、すごく頭も使い気も使って疲れたけれど、カメラを構えて被写体として人を見ていたら、いつもとは違った人の姿が見えたりして、とても楽しくて勉強になりました。



最後に***

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これは発表会が終わった後の上袖。機材だけが残っています。

舞台袖って大好き。
特に本番中の、舞台のライトがうっすら漏れた暗い袖が。
出を待っている出演者と装置やスタッフたちが醸し出す緊張感で、ピンと張りつめた空気がたまりません。



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華やかな演出後の舞台からガランとした客席を見たところ。
祭りは終わったという雰囲気がいいです。

なんとなく忙しくて気持ちが落ち着かない日々が続き、ブログもさぼっているこのごろである。

先日は身内の法事があって東京まで日帰りで行ってきた。
気持ちの上で年々距離が遠くなり足が遠のいている東京だが、葬式や法事でだけ行く回数が増えてきているのは皮肉なことである。
みんな、死んでばかり(笑)

法事の日はあいにくの天気で、こちらより一足先に桜でも観て帰ろうかと思っていたのに寒くてその気になれず、それどころか悪寒さえしてきて、法要後の会食もせっかく四川飯店にしたのにロクに食べられない始末。
なんだか妙に疲れて、風邪をひきそうになりながらぐったりして帰ってきた。

基本的に私は、法事というものが嫌いなんだと思う。
宗教心もないし、親族と顔を合わすのも苦手だ。
そして何より決定的なのは、身内や死者を敬う気持ちが欠落している。
それでもやっているのは、形式には何がしかの意味があるのだろうという考えと、そんな自分だからこそやったほうがいいのではないかという、人としての後ろめたさからである。

だが、そんな冷淡な私でも最近ふとした折に、もういない人の「思い」を強く感じることがあって驚くことがある。
思い出すというより、気持ちに入ってくる感じだ。
それは決していいことばかりではないのだが、そのことについてしばらく物思いに耽ることもある。

現実にはこの世界から消えてしまっても、その存在感は私の中に残っている。
あの人も、あの人も、そしてあの人も、確実にまだ自分の中にいる。
普段は思い出さないけれど、思い出した時にそれがわかる。
とすると、それぞれの死者の魂を少しずつ譲り受けて、自分は今生きているんだろうなと思ったりする。

自分と関わりのあった人が亡くなることが少しずつ増えている今日、
人生の半ばを過ぎると死者と共に生きることになると聞くが、このことだろうか。