携帯電話は、もはや私の身体の一部になってしまったようだ。
ウルトラマンの3分間タイムリミットみたいに、電源が切れそうになると、まるで自分が機能停止にでもなってしまいそうな恐怖感に襲われる。
最近では充電器を持ち歩かなければ不安というところまで来ている。
そんなに頻繁に使っている訳でもないのに。
めんどくさくって仕方なかったはずなのに。
どうなっちゃったんだろう私・・・おかしいんじゃないの?
と思っているこの頃。
* * *
昨日、事務所の片隅で海外ボランティアに行く人たちの打ち合わせ会議があった。
聞いていると、その内のひとりは、携帯電話を持つ習慣のない人だった。
みんなでお互いの携帯番号を交換しようという時、その人に非難の声が集まった。
「困るんだよ、ケータイ持ってくれないと、いざっていう時連絡取れないじゃないか。」
「はぐれたらどうする気だ。団体行動なんだから、お互いの調整が取れないのは致命的だぞ。」
「はっきり言って、あんた、いっつも連絡取れないんだよな。この前も・・・・」
「責任感がないんだよ。今や海外でもどこでも、ケータイを持つのは常識だろう。」
可哀そうに、結局その人は今すぐケータイを買って、みんなに番号を教えるということになったようだ。
確かにね、一度持つ習慣が身に付いちゃうと便利なことはよーくわかる。
みんなが持っていて、それで仕事が回っている場合など、自分だけが持たないという訳にはいかなくなった。
でもさ、10年前にはみんな、こんなこと言わなかったよね。
つい5、6年前だって、無ければ無いなりの手段を別に考えたはずだ。
今やケータイ保持は、完全に現代人の、時代の常識になったのだと改めて思う。
ケータイの普及は、人から人への伝達手段と時間の距離を大きく変えたのだ。
そして、あって当たり前の生活からは、無くて当たり前だった生活には戻れないんだなと、つくづく思った。
こうしてまたタイマー切れを気にするウルトラマンが増えていくのだ。
捕鯨反対運動の合宿で鯨肉を食べさせられた友人 (仮称K君) の話。パート2です。
彼にまつわるエピソードというのは数知れず、それがことごとくどこかマヌケで悲哀じみているので、私としてはそこが面白くて、付き合いが辞められない。
K君というのは、どちらかというと育ちの良いお坊ちゃまで、だからゆえの大らかさや清さが特徴の、世間一般の価値観など関係ないところで生きている茶人のような人である。
逆に言えば自己の価値観に忠実に生きている人ということで、その点俗人が持つ所有欲とか名誉欲などのガツガツしたところが無いのが良いのが、悪く言えば、今日の競争社会から外れた落ちこぼれでもある。
昔ながらのエコロジストなのに、いかんせん時代遅れの服装や貧乏臭さから、今日のエコ流行りの中にあっても、ちょっとばかり浮いてしまっている。
何というか、風貌からして、今どきこんな人がいるんだ・・・と思われてしまう人なのだ。 いや、今どきで言ったら「ホームレス」または 「歳のいったネットカフェ難民」 に間違えられるだろう。
今回の「事件」も、実はそこから起こったのだから。
彼は、箸は割り箸を使わないために「マイ箸」を持って歩くような人なので、当然買い物の際のパッケージやビニール袋提供のサービスも受けず、マイタッパーやマイエコ袋を使う。
それだけならまあ普通といえるだろうが、外で食事をする際にはマイ皿を出し、そこに盛り付けしてもらうというような徹底ぶりで、その他ありとあらゆる事態に備えてのエコグッズを常備携帯しているので、持ち物が異様に多い。
そこで、移動する際にはどうしてもリュックサックとウエストポーチは必携になるらしい。
バックパックで世界旅行とか、これで山歩きするなら違和感がないかもしれない。
しかし年季の入ったこの格好、街中ではちょっと目立つ。
案の定よくおまわりさんから職務質問を受けるらしく、不愉快だと言って怒っていた。
ある時は彼の愛用品であり必需品のアーミーナイフを携帯していたことで、拘留もされたらしい。
まあ、彼の立場からすると気の毒なことではあるが、今のご時世では警官の対応もわからなくもない。
要するに見た目が変で「不審者」っぽいのだ^^;
そんなK君が、ある日デパ地下を探索していた時のこと。
美味しそうなお惣菜が並ぶショーケースの上の試食品に手を伸ばしたところ・・・
バシッ!!
手の甲に鋭い痛みが走った。
いきなりお母さんのような年格好の店員さんから、菜箸の裏で叩かれたのだ。
思わず手を引っ込め呆然とするK君と、彼を睨みつける店員のおばちゃん。
K君は最初どういうことなのかまったく訳がわからなかったが、数秒後に全てを理解した。
自分が「浮浪者」に間違えられたのだと。
あまりのショックに頭が真っ白になり、何も言えないままその場を離れたらしいが、
彼のプライドは未だに癒えない。
だめだ・・・悲劇なんだろうけど、また笑ってしまうw
☆
春の暦どおり急に暖かくなって、本当にぽかぽか穏やかな二日間でした。
陽気がいいって、こんなに楽なんだな、幸せ気分になれるんだなって思いました。
久しぶりに遊びに来たBちゃんと弟さんも、ぽかぽか陽気にはしゃいでいました。
幸せ気分と言えば、今週は木曜日が休みで、金曜日に仕事に行った時は月曜日の気分でしたが、
翌日が週末で、またすぐ休みなんだと思ったら、ものすごく幸せでした。
最近、お休みだけが楽しみみたい。
今、明日は仕事なんだと思ったら、急に気分が重くなってしまいました^^;
なんだかなあって感じです。
1ヶ月ぶりに遠出のドライブ(120キロ程度ですけど)に出かけたら、運転で肩が張って腰が痛くなりました。
運転に自信ないし、人を乗せて走るのって、けっこう疲れるんです。
ちょっとだけ夕寝したら治りましたけどね。
そのあとスタットレスタイヤをノーマルに交換したけど、まさかもう雪なんか降らないよね。
うん、降らないでほしい。
COOLさんの「性は見た目が9割」に関して寄せられたコメントから、女性が流行のファッションに身を包んだり、おしゃれをする場合、異性よりも同性を意識するというのは何故なのか興味を持ちました。
私もそうかもしれないと思ったからです。
このことについてコメントし始めたのですが、長くなりそうだったので記事にしてしまおうと思います。
***
ファッションとは、流行とは何かということはさておき、服装や化粧はどの時代も「異性に対してのセックスアピール」の意味があることは事実と思います。
けれども、じゃあ女性は男性の目に止まるためにだけおしゃれをするのかと言ったらそうではない。
現代のようにファッションの目的が多様化する中では当然と思いますが、結果的にそれが男性の目を惹くものになっていたとしても、多分ほとんどの女性は、それが自分のためであり、同じ女性から見ても「かっこよく」映って欲しいと望んでいるのです。
むしろ同じ女性に評価されたいという思いの方が、意識の上ではより強く浮上してきたりします。
痩せたいという願望がいい一例です。
恋人がいくらそれ以上痩せなくてもいい、世の男性があまり痩せているのは魅力がないと言っても、多くの女性たちは必要以上に痩せたがります。
これは一体どういうことでしょうか。
多分それが今のかっこよさ、ファッションであり、ほとんどの女性が望むものだからでしょう。
では、女性は女性の中の勝ち組になりたいのでしょうか。
女性が選ばれる側という立場にあった一昔前なら、「男性から見た女性としての魅力の度合」がその女性個人の価値に繋がることはあったと思います。その場合、「価値ある女性」になるためにしのぎを削り、けん制し合う意味で、同じ女性の目を意識するということはあったと想像できます。
けれども女性が個としての主体性を持つ今、「個性」が価値を持つ今、こんな競争は意味をなさないと思えるのです。
そして本当に、競争の意味で女性の目を意識するだけではない、というのだけは分かるのです。
本気で女性にアピールしたいと思っているわけです。
同性である女性に「ステキ」と言って貰うのが好きなのです、何故か。
しかし、いろいろ思い浮かぶことがあっても、どうも今ひとつ、その理由を捉えることができないことにイライラします。
そこで考えるのを諦めて、ひとつ思い出した話を書いてみようかと思います。
中学から短大まで女子校に通っていた女性に聞いた話です。
彼女が高校生だったその時代、若い子のファッションンリーダーとして君臨していたのが安室奈美恵で、8割方の女の子は「アムラー」と言われる流行のファッション要素を厳しい規制のある制服の中にも取り入れていたそうです。
例えばバッグや小物などの物質的なもの、髪型やルースソックスといったスタイル、細い体型になるためのダイエットなど、それから外れると「ダサい」と言われて仲間にも入れてもらえず、いじめのターゲットにされたりもするので、みな競って同じような格好をしていたと。
その中での優劣やわずかな差異が「個性」と言われていたというのですから驚きです。
私はこれを聞いて、くだらないなあと思いながらも、幼い集団の中において多数派の価値観に背くというのは、よほど強い「個」を確立していない限り、意外に労力のいる大変なことなのかもしれないという感想を持ちました。
一方、この学校の中で、まったく見た目を気にせず、流行にも無頓着でいたのがアニメなどに熱中するオタク、今いわゆる「腐女子」と言われる子たちだけだったというのが皮肉です。
しかしそれはそれでひとつの価値観を共有する「集団」であったことには変わりなく、この二つの「集団」は、お互いに興味がないから接点がなく、口もきかない関係だったといいます。
何というか、オタクが市民権を得始めた段階で、その世界を認めるような暗黙の了解があり、いじめも成立しない間柄になっていったというのです。
このことから、女の子同士の間では、ファッション(見た目)は、同じ価値観や美意識を持つか否かの判断基準にもなっているのだと思いました。そして、もしかしたらファッションや流行という土俵に乗って切磋琢磨し合うことで共通の仲間意識を育てているのかもしれないと考えました。
ファッションに無頓着でいられる人は、それに頼らなくてもいいくらいの他の能力があるとか、生まれ持った美貌を持っているとか、見た目より中身に自信がある(自身の思う別の価値館が、自己の中で完結している)人だと思います。
しかし大半の若い子たちは、自分の価値がどの程度他者に認められるかが自己評価に繋がるから、その集団に認められ、高い評価を得られるように、見た目という手っ取り早い方法で頑張ってしまうのでしょう。
そう、頑張るのは悪までも同じ価値観を持つ仲間内での評価に対してです。
大人からすれば、みんな同じように見えることでも、狭い世界しかない彼女たちにとって「仲間」に評価されないファッションなど意味がないのです。
世の中で人気がある流行のファッションは、「仲間」と世界が結びつく共通の概念であるから、現象としては制服であり、お互いを見分ける記号なのだと思います。
なんだか若い女の子のファッションに対する分析になってしまって、未だ「なぜ女性は女性の評価を得たいのか」という問いの答えに近づかないのですが、何か片鱗が見えたでしょうか。
私は自分で書いていて、余計に訳がわからなくなっています。
じゃあ結局、女性は仲間を見つけたいから、つるみたいから、その中での美意識を共有したいからおしゃれするのかと言われそうで恐いです。
違うと思うし、たとえそういう要素があったとしても、決してそれだけじゃないと思うから。
でもめんどくさくなったので中断します。ごめんなさい。
ただ、結局ファッションは、対象とする集団や異性、同性、個人全般に対しての 媚の形とも言えますね。
好いてもらいたいという媚。
しかし媚って実は生存に関わりがあり、美をも生み出すものなんですよね。
媚びを嫌う人もいるでしょうが、私は俗人なので、どことなくセクシー(ほんのちょっと媚びていて遊びがある)なのが、「カッコいい」と思っています。
そして、私に会う時にお洒落をしてきてくれる女友だちが好きなのも、その「媚」が自分への敬意であり、好意と思うからなんだろうと思います。
私も敬意を払って、その人のためにおしゃれしたいと思えるのです。
* * *
ああ、苦しい結論付け(笑)
没にしようと思ったけど、COOLさんに予告してしまったので、今のうちにコソコソとUPすることにします^^;
金銭感覚というのは人によって随分違うのだろうが、大雑把に言って、東京を中心とする地方の人間と、大阪文化に影響を受けた人間を比べた場合、その感覚には随分開きがあるように思う。
例えば『お得感』という感覚。
大阪出身のUさんは「お得」なことが大好きだ。
そして「損する」ということを何より嫌う。
たとえば安くて美味しいものを食べた時、
たとえばポイントを溜めて豪華景品が手に入った時、
気のいいUさんが「これ、お得感満載だよね♪」と言う度に、うんそうだねと言いながら、軽い違和感を覚えるこの感覚は一体何?といつも思っていた。
武士は食わねど高楊枝の見栄っ張り江戸人と、商人の街大阪人の発想の違いだろうか。
確かに私だって欲しかったものが安く手に入った場合など嬉しくてたまらないし、それは明らかに「自分にとって得」なことに違いないのだが、その自覚が薄いのだ。
得して嬉しいのは誰もが持っている当たり前の感覚だろう。
日常の何気ない「得」を見つけるというのは、小さな幸せを見つけることでもある。
これは完全なる自己肯定を前提としたポジティブ思考だと思う。
なのに自分が感じるこの違和感はいったい何だろうと訳がわからない。
それで考えたのだが、もしかしたら私は『得をしたことそのもの』にそれほど価値を置いていないのではなかろうかという仮設に行きつく。
もっと言ってしまえば、心のどこかで『得をする』ということが悪いこと、後ろめたいことのように思っている気がしないでもない。
自分が得すれば、誰かが損するといったような発想? なんか変に道徳的だな・・・
いや実際には、商売でわざわざ損をするようことはしないはずなのだから、そんなことを心配しているわけではないはずだ。
すると、より多くの利潤が自分のところに回ってくるか否かの違いが「損得」という概念になり、より得をすることが「嬉しい」または「価値が高い」と思えるかどうかの違いということになる。
私はその部分に別段価値を置いていないだけかもしれない。
商売の経験がなく、金銭感覚に甘く、だから貧乏なのかとも思う。
だけど、金銭感覚だけじゃなくて、ライフスタイルや生き方そのものにも「損得」という感覚を持ち込むことを良しとしたくないと思う自分がいることは確かで、何かにつけて損だ、得だと連発する人間とは、正直付き合いきれないなあなんて思う。
「得した」と喜ぶのは自分も同じで許せるが、「損した」と聞くのが好きではないのだ。
もしかしたら、ネガティブな発想が嫌いなだけかもしれないが。。。
なんだかそこには「あさましさ」を感じてしまい、実際は自分だってそうに違いないのに、あさましいのはみっともない、人間の性(サガ)を見せ付けられるのは真っ平だという気持ちがある。
しかし私だって、映画館でくだらないと思う映画を観てしまった時は「金返せ~!」
乗せられて不覚にも変なものを買ってしまった時や、ここで買えばもっと安く買えたのに、すでにそれより高い値段で買ってしまった商品を見つけた時など、「損した~!」と思っているのにね。
あ、損したと言うより、失敗したと思うのかも。
単なる言葉の違い?
変だなあ、上手く言えない。
みなさんの感覚としてはどうですか?
☆
今日の私はとても評判がよかった。
まずオヤジAがオフィスに入って来た時、開口一番こう言ったのだ。
「おはよう。あれ?今日はやけにキレイだね。」
はぁ?
最初は何のことかさっぱりわからなかったので、オヤジ特有の社交辞令と思い、
今日「も」でしょう? いつもキレイですよw なんて、ツッコミを返していたのだが、
その後次々にオヤジが来る度に、 「なんか垢抜けたんじゃない?」 「いいねえ、明るくて。」
「女っぽくてドキドキするよ。」 「どうしたの、何かあった?」
「今日はデートかな?」 なんていう古典セクハラ的発言も出てきたので、やっと気がついた。
今日の私の服装にみんな反応したのだった。
正直びっくりだった。
だって、上の写真のアッパッパ(古!)みたいなスモッグですよ。下は黒パンツだし。
普段は家の中でしか着ない、フリマで300円で買った「普段着」ですよ。
昨日家で着ていて、今日の朝寝坊して服を選ぶのがめんどうだから、そのまま着てきちゃったものですよ。
オヤジの感性って不思議だ。
こういうのが女らしく、「垢抜けて」見えるのだろうか。
シャーリングが入ったパジャマっぽいのが受けたのだろうか。
それとも花柄っぽいのがいいのかな。
写真ではわからないけど、ショッキングブルーと黒の柄で、ベルベット風素材。
もしかしたら光沢があるように見える素材がいいのかな。
光るものはキレイに見えると言うし、華やかに感じたのだろうか。
自分では何の思い入れもない、楽だけどつまらないという位置づけの服なんだけど。
意外な評判の良さに、やっぱりオヤジの感性ってわからないなあと思った私であった。
聴覚障害を持つ人達とのボーリング大会でのこと。
主催者側で、そこを仕切っていたおじさん(75歳・・・おじさんというよりおじいさんだな)、
手話を交えた開会式が終わり、いよいよトーナメント試合開始となった時、
何を思ったか、大会開始の合図に、突然自分の持ってきたホイッスルをピ~~!と吹き鳴らしました。
主催者側は、みんな一瞬固まりました。
まったく何考えてるんだか・・・・
私、実は可笑しくて可笑しくて、笑っちゃいけないと思いつつ、ひとりで泣き笑いしていました^^;