心の隙間 2006年03月
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心の隙間

日々感じること・思うこと

今日は、昨日の記事にタイムリーにも合致する出来事があったので、日記に書いておく。

すいません、私はまだまだ自分のことがわかっていなかった。
数段甘く考えていて、幻想だけで生きていた。


実は・・・私は他人からみると、信じられないくらいぼぉーっとした、特記に値するほどの
とんでもないやつだったらしい。
「だった」 らしいと過去形にするのは、確かに自分でもそういうところがあると認めるけれど、
今の今まで、まさかそこまでヒドイとは思っていなかったからだ。


というのは、本日、以前に務めていた会社の後輩に会う機会があって、
そこでびっくりすることを聞いてしまったのだ。

それは『○○する』(○○は私の名前)という言葉が、その社内で流普しているという事実だった。
ここで言うと『kiyoryする』になる。


『kiyoryする』とは何か。

例えば、
・水道の蛇口を閉め忘れ、水を出しっ放しにすること。
・ゴミ箱に蹴つまづいて、中のゴミをぶちまけること。
・ご飯を食べていて、ボロボロこぼすこと。
・スリッパを履いたまま外に出て、帰って来るまで気がつかないこと。
・お客様にお茶をお出しする際、お客様の目の前でお茶碗をひっくりかえすこと。
・社長の顔にコーヒーを噴出してかけること。
・社長とドンパチやること。
・粗品と書いてあったお客様の手土産に「つまらないものをありがとうございます。」と言ってしまうこと。
・計算していて、ゼロをひとつ付け忘れる。または多く付けること。

等々、ありとあらゆるちょっとしたドジや、普通では考えられない失態や行動を総称して言うらしい。


実用例
「鈴木さん、ほら、kiyoryしてるよ!」
「あーあ、今日はkiyoryしちまったぜ。」

だって・・・・・(_ _ メ)


私、そこの会社を辞めて、もう2年以上になるのよ。
未だにそんなこと言われているなんて・・・。



これから何年経っても、その会社ではその形容動名詞が生きていくのだろうか。

昔この会社にこんな人がいてね・・・と、新人に語り継がれていくのだろうか。

もしその人に会うことがあったら
「ああ、アナタがあの『kiyory』さんですか(笑)」なんて言われるのだろうか。

( ̄□ ̄||)ひえ~~~!




いくら自分の不始末とはいえ、不名誉な事この上ないとはこのことだ。

私は、自己に対して客観性のない、思い込みが激しい人が嫌いだ。
心の中で、「何なんだこの人は!」と思う。

ところが最近、私もかなりのアホな思い込み人間だったとわかってしまった。


と言うのは、たとえば人に言われた、こんなことから。

★いつも元気いっぱいだね。
・・・自分では、情感たっぷりに優雅に踊りきったと思った瞬間に言われた言葉。ショック!
私は「元気いっぱい」とは対極にいるはずなのに・・・。


★kiyoryって大ボケ! 言動がお笑い系だよね。 「そうそうw」←周り人
・・・私はお上品すぎて(汗)すごく堅物なので、さぞかし人は近寄りがたく感じているだろうなと思っていた。
だから、多少はキャラを作ってたとこはある。
だけど、ここまで言われるほどとは・・・。
そういえばある人に、「これ品がないわね。」と言った時、「アーッハハハw、アナタの口から”品”という言葉を聞くとは思わなかったよ!」とバンバン背中を叩かれたっけ。がーーん!


★いっつも変わったの着てるよね。目立つ。「うんうん。」←周り人
・・・えっ~~! 私は常々、無難なものしか着れない自分を 根が地味だからしょうがないよなあ、
と思っていた。ごくごく普通なのに。 なんで~~?


ホント驚くことばかり。
自分が今まで思い込んでいた”私”っていったい何?と思ってしまう。
私につく形容詞は、『静かで落ち着いた、まじめで、気が弱く、地味でひかえめな、アンニュイさ漂う、(ごめん!先に謝っとく・・心が、ですっ! ) 文学少女』なんだけどなあ。
みんな人を見る目がないっていうか、感性がヘンだとしか思えないんだけど・・・。



先日、前の会社の同僚たちに会う機会があった。
だんだん自信がなくなっていたところだったので、「私はこうこうこういう人間だよね。」 と上の形容詞を並べたら、全員から殴られそうになって非常に怖かった。
このことから、自分が思い込んでいることと、人が感じていることのギャップが大きすぎると危ない ということが分かった。

ただし、
「じゃあみんな、自分がどういう人間だと思うか言ってみてよ。」 という私の問いのそれぞれの答えに対して、
やっぱり私も殴りたくなったので、思い込みは私だけじゃないということも分ったのだった。


   * * * * * * * * * 


これは私が1年前に書いた日記である。


今はどうかというと・・・思い込みは随分消えたんじゃないかな・・・あはは^^;

「善行」には常にキナ臭さがつきまとう。


人のことを考えて・・・
人の幸せのために・・・
人を助けるために・・・
世のため、人のために・・・・

○○救済活動の募金やボランティアなど、一見利他的に思われる「善行」も、実は自己満足を得るための利己的な行為ではないのかという問いは、何かしようとした時に必ず付いてまわる。

これは何も人から指摘されるまでもなく、自分で感じる心地悪い意識だ。


「偽善」かもしれないと思う。
そういう自分は「偽善者」かもしれないと思う。


どうしてこんなジレンマが起きるのか。
たぶんそれだけ「善行為」というものが難しいことだという認識があるからだろう。

まず、絶対的な「正しさ」などありえないという観点から。
自分が「善」と思うことは、違う視点から見れば、まったく間違っているということはあり得る。
そもそも人のためと思うこと自体、傲慢なのではないか。
これをやるなら、あれもやらなければおかしい。
自分のできる範囲で・・・なんて言うのは甘すぎる。
などなど。

逆にいえば、これらはやらないことへの理由にもなる。
その行為が根本的な解決にはならないと分かっている時は尚更だ。

そして私は何もやらないのだ・・・・


* * * * * * * *


「しない善よりする偽善」という言葉がある。

これもまた難しい言葉だ。
何もしないよりは、やったほうがいいという言葉とも取れるし、
何もしない者に対しての皮肉とも取れる。

「しない善」とは何なのか。
「偽善」をすることが善いことなのか。
でも、誰も好き好んで、最初から「偽善」をやろうとしている訳ではないだろう。
「これは偽善です。」「私は偽善者です。」と言うのも抵抗があるはずだ。

私としては、偽善と思われてもいい、それでも私は行動する。という意味なのだろう解釈している。



それにしても、と私は思う。

「善い」「悪い」を判断するのはいったい誰なのだろう。
するものか、されるものか、はたまた第三者か。


* * * * * * * *


私は今の仕事についてから、一部のボランティア活動をする人たちと多く接している。
そして自分もその活動の一端を担う役目を仰せつかっている。


私は自分の考えや、行動を「正しい」と思うことはできるだけ避けたいほうだ。
だから、ボランティアをする人の「正しさ」の押し付けにうんざりしたり、その一途さを心の中で軽蔑しながら恐れたりする。

最初の頃の私は、何か「善い事」をする度に、その団体名を誇示し、ここに所属していることがステイタスとすることを「目的」としているとしか思えない人達ばかりが目に付いて仕方がなかった。
善意を売り物にした自己顕示欲のお化けではないかと思った。
そして「やってあげる」とか、「助ける」とか「救う」という言葉を聞くたびに、
その「正しさ」に思い上がった人間の利己的な醜さを見るようで、居たたまれない気持ちになった。
何故なら、自分の行為を「善」と認識することは「善」という行為に不似合いだと思っていたからだ。

「偽善者」という言葉を思い浮かべ、
そう思いながら、日々その手伝いの仕事をしている自分も、また偽善者?と思っていた。

ただ、昨年の夏、親のいない施設の子供たちを海水浴に連れて行くという企画で、
山国に生まれたことで一度も海を見たことがなかった子供が、歓喜の叫び声を上げながら見せた笑顔、
そのキラキラと輝く瞳を見た時、例えどんな動機であろうが、
やらないよりはやったほうがいいこともあると思ったことも事実だった。


それ以降、少しだけ考え方が変わった。
今の私はこんなふうに思う。

利他的行為は利己的動機の裏返しかもしれない。
けれど、それを批判する自分が「正しい」わけではない。
度を越えた利己主義でない限り、利己が悪いとは言えない。
むしろ利己でいいのだ。
利己的行為が結果的に利他的行為になることだってあるのだから。

やりたいからやる。困った人を目の前にした時、やらずにはいられないからやる。
またはやりたくないからやらない。気持ちにひっかかるものがあるからやらない。
それでいいではないかと。


* * * * * * * *


私には、はっきりした主義主張というものがないのだと思う。
だから迷う。
啓蒙もできない。
無批判に、無自覚に「善意」を行動に移せない。
自分の「良心」に対しても疑いの目を向ける。

けれども、自分に向かって助けてくれと言っている人を助けないことはしないだろう。
これは絶対に同意できないとすることに、手を貸すこともしないだろう。


結局、行動するにしろ、しないにしろ、ジレンマはつきものなのだと思う。
こころが動けば何かしようとするはずだ。
そんな時は、ジレンマを抱えたままジレンマと闘うしかないのだ。
出会いの中で自分を変えるしかないのだ。



ジレンマだからまったくまとまらない。
こんなものをアップすることもジレンマだ。

遅ればせながら、映画「NANA」を観た。少女漫画が原作の女同士の友情物語。
評判どおり、なかなかいい感じの映画だった。


私は昔から、映画でも小説でも、女の友情物語が好きだ。

ヒューマニズムに溢れた男の友情物語は数多いのに、女の友情を扱ったものは少ない。
そして、やっと巡り合ったそこには、何故か哀しみがつきまとう。
それでも、そんなところに共鳴し、やっぱりなあと思う。


たとえば今思いつくのは・・・・・

● 映画 「ジュリア」1977年・米
     ( 戯曲作家リリアン・ギルマンの自伝。ジェーン・フォンダがリリアン役。
       ジュリア役のバネッサ・レッドグレーブがカッコいい )

● 映画 「愛と喝采の日々」 1977年・米
     (シャーリー・マクレーンとアン・バンクロフトの喧嘩のシーンが大好き)

● 映画 「17歳のカルテ」 1999年・米
     (ウィノナ・ライダー主演、でも助演のアンジェリーナ・ジョリーが喰ってる)

● 映画 「テルマ&ルイーズ」1991年・米
     (だんだん破滅的になっていくけど、悲壮感は不思議と似合わない)

● 映画「ミナ」1993年・仏
     (デリケートなハイティーンの行動描写に胸きゅん。最後はやっぱり仏映画・・・)

● 漫画 「櫻の園」 吉田秋生原作 (映画にもなった)

● 小説 「下妻物語」 嶽本野ばら原作 (映画は観てない)



女の友情物語は、最初「ライバル」で、何かの事件をきっかけに大喧嘩したあと、
急激に分かり合って友情を結ぶ、というパターンが多い。
そして、「正反対な二人」というのも、よく女同士の友情のポイントに置かれている。

実際には、そこまでストレートなのは少ないように思う。



私のイメージとしては、女の友情には飛び越えなければならない暗黒の時代のようなものがある。
少女期の友情から大人の友情に移る間の溝だ。

それは、男の子が仲間と共に大人への階段を登っていくのに対して、
女の子は、ある時期、親友とも誰とも分かち合えない孤独の島の住人になり、
ひとりで大人になる気がするからだ。

急速に仲良くなった女の子同士は、ある時心が分かれ、それぞれの静かな体験との葛藤ののち別れがあるが、
ふたたび心が通じ合うこともあるといった感じなのだが、どうだろうか。

多分それも人それぞれ。



ひと昔前には、女同士に友情は成立するのか、なんていう議論が大真面目で行なわれていたという。
早い時期の結婚を期に、家庭という枠に入ったまま、なかなか外に出られなかったせいもあっただろうが、
夫や子供への気持ちの比重の高さが、友情を必要としなかったとも考えられる。



ふと、今、女性たちは友情を必要としているのではないかと考える。
懐かしい少女時代の延長のような友情ではない、もっと違う形の友情を。

家庭という枠におさまりきれない女性が増えたと思うからだ。
このことがいいのか悪いのかはわからない。

でも、女の友情のパターンが昔より増えたことは確かだろうと思う今日この頃だ。

私は言葉を知っている。
言葉を使って人と話す。
言葉を使って文章を書く。

そして一番重要なのは、私は言葉を使って考えるということだ。
感覚や概念を言葉にして、初めからある言葉を借りて思考する。

考えると変なものだ。
人間が言葉や文法を作っていった過程を考えると不思議な気持ちになる。


言葉にできるのは、自分が感じること、思うことを言葉に置き換えられるときだ。

それはたったひとつの言葉で表すことができることもある。
でも、どんなに長い文章で表現しようとしてもできないこともある。
感情、感覚・・・言葉にならないと思う。

でも本当だろうか。

表現できないのは文章力の問題ではなく、自分がそれについて本当の意味で感じきっていない、
考えきっていないからかもしれない。
感じられないこと、考えていないことは言葉にできなのだから。



そしてまた、考えようとしても言葉にならないものもある。

それは言葉にしてはならないと自分で思い込んでいることだ。
感じることすらおぞましい、考えることすら醜いと、自分でタブー化したもの。


言葉の壁は、自分の中でこそ厚い。
他者に向けて発信する言葉よりも。


その言葉は、できかけの途中で自分の中に閉じ込められ、葬りさられる。
葬られた言葉の数は、日の目をみた言葉の数の何倍もあっただろう。

そしていつの日か、私はそのことを忘れてしまうかもしれない。
すでに忘れてしまった言葉もあるだろう。


そう思うと、
私は時々、思考の外に追いやられてしまった言葉を取り戻したい欲望に駆られる。

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子供の頃から動物が好きだった。
自分の生まれる前から家には犬がいたし、動物のいる生活が普通だった。
家では犬や猫の他に、亀や鶏やハムスター、リス、小鳥、金魚や熱帯魚などを飼っていた。

死に別れたものも、事情で手放してしまったものもあるが、私は動物と接することで自分が助けられ、
お世話になったという思いがある。

だから、犬と猫ではどっちが好き?などという質問をされると大変困る。
どちらもそれぞれに好きだし、個体としての思い出が、性質としての好き嫌いの判断を鈍らせる。

あえて言うなら、犬は愛してる。猫には恋してる。という感じだろうか。

このコーナーは、そんな私の動物たちへの哀悼として書こうと思う。

☆ ☆ ☆

以前うちで飼っていたメス猫Eは、大の男嫌いだった。

女の人には大丈夫なのに、どんなに慣れた人であっても猫好きでも、
ひとたびそれが男性であれば、決して心を許していないのが気配でわかる。
撫でられていても、じっと体を固めて全身で抵抗していたからだ。
ましてや初めて会う男の人ならもう大変。
ものすごい勢いで走り去って姿も見せない。

でも何故か、極極たま~に最初から平気な男性もいるみたいだった。
その反対に見た目はとっても女らしい女性に、男性に対する時と同じ反応を見せることもある。

私は密かに猫の様子を観察して、その人の”男性度”を計って面白がっていた。

けれども、嫌いなのは人間の男性だけだったようで、
Eはその後一度だけ、3匹の子猫を生んでお母さんになった。
お母さんでいる間は、誰にも心を許さなかった。
男性の姿が見えると、すぐに子供を隠した。


彼女は野良猫の子供で、生まれてからしばらくは人間と接したことがなかった。
警戒心が強く、感受性が強く、気高い猫の性質をずっと保持していた。
狩りも上手で、よく鼠やモグラを捕り、時には自分の体よりも大きな鳥を捕まえては、
生殺しのまま家に運んできりした。
その度にギャーギャー言われて、追い出されて、さぞかし憤慨しただろう。


新しい猫が来たとき、Eはしぶしぶそれを受け入れた様子だったが、しばらくしてからいなくなり、
その後二度と帰って来ることはなかった。
とっくに死んでしまった歳だと思うが、まだどこかで狩りをしながら生きている気がしてならない。


ペットとして飼ったことのある猫の中で、最も野性味のある素敵な猫だった。

「これやっといて。」

「あれどうなってる?」

「コーヒー入れてくれる?」

「例の件、みんなに説明して。」

「来週の○○会議、安いとこ調べて予約入れて。出席者も確認しといてな。」

「これ全員分コピーね、あと○○と△△にFAX流して。」

「□□委員会の予算案、去年と同じでいいから作っといてよ、頼むわ。」

「挨拶文の下書き頼む、明日いるから。」

「砂糖ないの?砂糖!」

「先月の資料調べてくれる?」

「この件通知出しといて。郵送でね。」

「はいこれ、領収書ちょうだい。」

「電話だよー。」

「さっきのまだ~?」

「お茶!」




ああああ・・・もうっ! イライライライラ・・・・


はい、確かに私は小間使いです。
雑用を請け負い、みなさんのお役に立つのが仕事です。


でも、みんないっぺんに言わないで~!




ちゃぶ台ひっくり返したくなるような心境・・・(古っ!)

友人 「久しぶりだけど元気? 今週の週末くらいに、そっちへ遊びに行きたいけどいい?」
私  「うんまあまあ元気。いいけど、多分私は夜しかいないと思うよ。」
友人 「いいよ泊めてもらえれば。」
私  「OK、わかった。」
友人 「ありがとう。それじゃあ、また連絡する。」

一週間前、長年腐れ縁で付き合いのある東京在住の友人と、そんなやり取りがあった。

何故遊びに来るのか、まったく不明。
自称フリーライターだから、取材かなにかの関係かもしれないが、その辺のことは詳しく知らない。
年に1、2度、忘れた頃に突然やって来て、また突然帰って行くのはいつものことなのだ。。

今回は1週間前に連絡してきただけエライ!なんて思っていたが、
また連絡するなんて言っておきながら、その後何の音沙汰もない。
土曜日になっても何も言ってこなかったので、
ああ、またあいつの気まぐれかと思って、こちらからもあえて連絡を取らなかった。

そして日曜日。そんなことはすっかり忘れて家でくつろぎ始めた夜8時。
友人からメールが入った。
《今、近くの○○という店にいます。飲んでいるので、よかったら来ませんか。》

ええ~! 来てたのぉ~?
まったくもう! いつもこれだ。

あわてて出かけていくと、もう何時間も前に着いて時間を潰していたらしい。
「だって夜しか暇じゃないって言ってたからさ。」なんて言う。
そりゃそうだけどさ・・・
「連絡するって言っといて何もなかったから来ないと思った。」と言うと、
「だからさっき連絡入れたじゃん。」ときたもんだ。


結局夜中までお酒飲んで、話しているうちに議論になって、
言いたいこと言っているうちに最後は喧嘩して、
今日の朝早く東京に帰って行ったけど・・・



何なんだ~~~!!!

お陰で私は、二日酔いと寝不足です。



いい子なんだけどね。憎めなくて好きなんだけどね。

「こんにちは!」という声とともに現れた宅配便のおにいさん。

どんよりと曇った空から降り続く雨で、気分も滅入り気味の今日、
職場から宅配会社に、かなりわずらわしい集荷を依頼したにもかかわらず、
にこやかに、それでいて てきぱきと動いている彼の姿を見て心が洗われた。

身体を使って働いている人って素敵だな。

爽やかさに惚れぼれ。





明日もまた来てほしくなったので、何か宅配するものはないかと物色中・・・(笑)