体力維持ではなく、向上を目指していたのだから笑っちゃうではないか。
少し前まではバレエとヒップホップダンス、ヨガにピラティスに筋トレ、それに太極拳を代わる代わる、週6日は時間を見つけてジムに道場にレッスン場に通っていた。
それが3週間前にちょっとしたことで肋骨を痛め、たいしたことはないと高を括って運動を続けていたら悪化して、少し動いただけで激痛が走るようになってしまった。
こうなったら諦めるしかない。しばらく運動はお休みだ・・・と覚悟を決めた矢先に職場のHDDが壊れたので、その対処に追われ、実際ジム通いなどできる状況でなくなった。
ある意味このトラブルがあったから、じっと大人しくしていられたのだと思う。そのおかげで肋骨の怪我は良くなり、今はほとんど痛みがなくなったのだから。HDDが壊れたのは、自分を省みろという天のお達しかもしれない。
そもそも肋骨を痛めたのだって、若い頃なら考えられない理由からだ。
すぐ治ると思ったものの、そう簡単には治らなかった。
一か月前にかきむしった首の傷痕も、腕の青アザもいまだに治らない。
ストレッチしても以前より腰や股関節に柔軟性がなくなったと感じる。老化でコラーゲンや軟骨が減っている証拠だろう。
細い道で対向車とすれ違うときに、サイドミラーを電柱にコツンとぶつけた。以前と同じように運転しているつもりだったが、空間感覚と運動能力が鈍ってきていると感じた。
こういうことが続くと、もう歳なのだということを嫌でも思い知らされる。
老いに抗うようなことは止めて、無理せず慎重に生きよう。
これから運動は週4~5回にして、最低2日は休みを取ることにしよう。
なんて程度には。
ところが、私にしてはあまりに長くからだを動かすことから遠ざかっていたので、稽古ごとに対してすっかりモチベーションが下がってしまった。
べつに運動しなくてもいいじゃないか、そんな疲れることをなんでわざわざやっていたんだろう、なんて考えはじめ、身体はもう良いのに、一昨日も今日もレッスンをさぼった。
すべてにやる気がなくなり、予約していた友達の劇団公演もキャンセルして行かなかった。
本もあんまり読みたくないし、TVも映画もニュースも見たくない。
それでもいい、もういいやと思う反面、向上心も希望もなく、いろんなことに興味を失っていくのは寂しいという気持ちも残っている。
このままモチベーションが上がらなかったら、どうしたらいいのかわからない。
たとえアマチュアであれ、周りには長年に渡り何かをやり続けている人たちがたくさんいる。 その人たちの発表会や展覧会や公演などは、観に来てねと誘われたら私はほぼ断らない。
なぜなら何かを夢中でやっていたら、その発表の場を誰かに観て貰うのは嬉しいことを知っているからだ。 年に一度、あるいは数年に一度の晴れ舞台なのだから、都合がつく限り行ってあげたいと思う。
何年にも渡って知人の発表の場を見続けていると、最初は興味の対象になかったものも面白く感じるようになるなど、自分の興味の幅が広がっていったのは間違いない。
すると、知人本人はもとよりその周りの人々の上達度というか成長のレベルもよく見えるようになって、驚いたり感動したりして楽しめる。
相手は私のことなんて存在すら知らないだろうけど、私は毎年あなたの成長をしっかり見ていますよ、と心の中で思い、「蔭ながら応援」ってこういうことなのねと実感したりもする。
私自身がいま人に発表するようなことをやっていないから、もっぱら他人の上達と成長を見るのが楽しみなのである。
実はこういう感覚って若い頃にはなかったなと最近気づいた。
以前は、知人の発表の場に行くのはあくまでも自身の刺激のためだった。
そこから何かを掴みたいとか、学びたいとか、批判したいとか、特に意識していたわけじゃないけど、賞賛したいという気持ちですら全て自分のためだった気がする。ライバルとしての偵察であったりもした。
なにより今と違うのは、興味がないと思ったものには最後まで興味を持つことが出来ず、義理で行かなければならない時はイヤでイヤで仕方がなかったということだ。
今は義理でもあんまりイヤじゃない。
「誘えば来てくれる人」というだけの立ち位置でもぜんぜん構わない。
これは老境というものなのだろうか。
私はすぐ人目を気にする。
人の目が怖い。
目立つことは嫌い。注目されるのも苦手。透明人間になりたいと思うほど小心者だ。
***
外で一輪車に乗りたい。
以前に遊んでいる子どもの集団の一人から貸してもらって試したら全く乗ることが出来なかった時の残念な気持ちが30年経っても抜けなかったので、思い切って通販で買って家の中で密かに練習していた。
でも狭いマンションの中では乗れるところは限られている。
だからエントランスか、外の駐車場の少し広いところで走ってみたい。
だけど私は小心者。
人の目が怖くて実行できない。
近所から「一輪車おばさん」と渾名されて耐えていける自信がない。
面白がられてSNSに投稿されたりしたらヤだなと思う。
夜中にこっそりとも考えたが、もしたまたま見た人の目にはさぞ不気味に映ることだろうと想像するとやっぱりできない。
ほんとはポッピングもキックスクーターもフラフープもやってみたい。
スポーツ用品店や玩具売り場でそれらを見かけるとつい立ち止まってしまう。
キッズコーナーのトランポリンで遊ぶこどもが羨ましくて仕方がない。
大好きだった竹馬にもまた乗って遊びたい。
でも私は小心者。
人の目が気になり、とてもじゃないが人前でそれらの玩具で一人遊ぶことなんか出来ない。
***
みっともないと思わない?
若い子に訊いたら
と言われ、ああそっちか・・・確かに!と思う私であった。
何年か前に、みうらじゅんの夢を見たことがあるという話を書いた。
http://blogs.yahoo.co.jp/kiyory/55984448.html
先日それにコメントを貰い、またしても彼のことを思い出した。
(過去の日記にコメントを貰うのは嬉しいことですね。)
みうらじゅん
夢に見るくらいだから、何か引っ掛かるところがある人だったんだろうけど、やはりそうだった。
今回軽く調べていたら、彼の造語ですごいキーワードを見つけたのだ。
それは・・・
『 自分なくし 』 (笑)
これ、『自分探し』 の対義語ね、というか、おちょくり語?
今は露骨に 『自分探し』 なんて言う人は少なくなったけど、ひと昔前は、「本当の自分」を探しに旅に出たり、自己啓発セミナーに通ったりと、やたらめったら自分の可能性を模索することに熱心な人が多かった。
『 自分なくし 』 はそれに反発しての、2004年のみうらじゅんの造語だそうで、私は知らなかったけど、
なんか、今頃になって ビビビッ ときてしまった。
というのは、近年の私が心の中でこっそりテーマにしているのが、この 『自分なくし』 だからだ。
この歳になると、自分が大した人間じゃないってことが、嫌でも分かってくる。
オリジナりティーからは程遠く、能力も個性も平凡であるということが。
そう思うのは、はっきり言って自分を探し過ぎた結果かもしれない。(爆)
それなのに、まだ、「自分は、自分は・・・」 と言っているのが恥ずかしくなっていたのだ。
どうでもいいじゃん、そんなこと。 他人は興味ないんだよ。
と、自己顕示(?)するたびに、お尻のあたりがムズムズするような、居心地の悪い思いをしている。
じゃあ、なんでブログなんかやっているの?と、問われれば、それはたぶん
「それでも自分を失くせない」 からだ。
でもね、歳取るに従って自分が強固になり、自分はこうだからと狭い枠に固めて、他人を許せなくなるような年寄りにはなりたくないなと思っている。
もっと自分の中のこだわりを捨てて、大らかでいたいのね。
若い頃は 「他人と違う自分」 だけに興味があった。 でも今は他人と同じであることが嬉しくなっている。
それに、世の中の真理や醍醐味は、「自分」という概念を超えたところにあるわけだからね。
はやく自分から解放されたいと思うわけです。
そういう意味での 『 自分なくし 』
みうらじゅんの 「自分なくしの旅」 の本、やぱ、手に入れて読んでみようかな。
なんだか、いろんなものが見えなくなっている。
他人のこと。
周りのこと。
この国のこと。
世界のこと。
全てが、ただ自分の周りをぐるぐる回っている。
そして何より、自分自身がよく見えない。
ここにいること。
今やりたいこと。
これから先のこと。
何をどう考えていいのかもわからない。
どうしちゃったんだろうな、私。
今の私は、薄汚れているような気がする。
以前は汚れてなかったと言うわけじゃないけど、一生懸命な分だけ少しは純粋だった。
なるべくきれいな気持ちで人や世界と接しようとしてきた。
今は自分が感じることすら信じられない。
だから何を基準に考えていいのかわからない。
いつのまにか、いろんなものがひっついて、自分のからだを重くしている。
目の前には常に曇りガラスがあり、からだの中は人工的な不純物でいっぱいだ。
気のせいか、周囲の空気も淀んでしまった気がする。
あー、きれいになりたいな。
きれいな身体になって、ほんとうのことが聴こえる耳と、まともなものが見える目を持ちたい。
愛に溢れた心も欲しい。
***
2か月くらい前から、薄暗くなると細かな字が見えにくくなり、すぐに眼が疲れるようになりました。
それ老眼でしょうと人に言われ、とりあえず一番度が低い既製品の眼鏡を買ってみました。
おおっ、よく見える♪
それかよ! 〓■●_バタッ
一週間も経ってしまったけれど、浅井健一のライブに行った感想・・・
いや~、カッコよかった。
ライブを見る前は、彼に対してちょびっとだけ小汚いイメージがあったのだが、出て来た瞬間私が感じたのは
「美しい」だった。
彼のオーラは透明だった。
とても40過ぎの男には見えない。
「永遠の少年」という言葉は、彼のためにあるような気がしたくらいだ。
そこで・・・
以前から感じていて、どうしてなんだろうと未だにわからないことを皆さんに振ることにする。
世間一般、そして私自身もそう感じてしまう理由のことだ。
それは・・・
「永遠の少年」 は非常にカッコいいのに、「永遠の少女」というのは、何故“気持ち悪い”のか
というテーマである。
これは、永遠の少女である私(すみません・笑)が是非知りたいことなのだ。
***
えっと・・・気持ち悪く思いませんか? 永遠の少女って・・・
思わない人は結構です。
思う人、その理由を述べてください。
そもそも、「永遠の少女」という概念が成立するのかどうかも疑問なんです。
もし、そういう女性が実際にいて、それをカッコイイと感じ、その中に“気持ち悪い”という要素がまるでない具体的な人がいたら挙げてみてください。
どんなに歳をとっても、男は「永遠の少年」の部分を残していられるし、それを世間も自分も咎めないのに対して、何故女は「永遠の少女」でいることが憚れるのか。
お願いします。参考にしたいので誰か私に教えてください。
過日、以前に一年ほどウチに下宿していたBちゃんが、久しぶりに遊びに来ていた。
あの頃、ウチで24才の誕生日をお祝いした記憶があるが、今は26才になったというから、月日の経つのは早いものだ。
本人はもう26だよ~!と、まるで自分がすごい歳寄りになってしまったような嘆きようなのだから笑ってしまう。
私にしてみれば24も26も大した違いに感じないが^^;
Bちゃんは今、パニック障害などの症状は時々出るものの、以前にウチにいた時期より気持ちが安定しているようだ。
週4日アルバイトをして、公募展に出品する絵も描いているという。
いろいろあったけど、悩みながらも積極的に生きようとする彼女を見るのは嬉しい。
そして、また私に会いに来てくれたことも。
やっぱり人って変わり、成長するのよね。
しかし、そんなBちゃんが言うには、私という人間はすごく大人気ないのだそうだ。
私が何か言ったりやったりする度に、「大人気な~い!」 と、からかってくる。
ものの感じ方や考えた方、興味の対象、熱中度やノリ、ふざけ加減、動揺の仕方など、
どれを取っても、こんなに呆れるぐらい大人気ない大人の女性は見たことないと言う。
失礼しちゃうわね、と思う反面、そうだよなぁと思い当たることもあって苦笑いする自分・・・
たぶん子どもを育てていないせいだろう。
実際私はBちゃんのお母さんだと言ってもおかしくない歳だけど、お母さんになったことがないから
彼女に対して母親の気持ちになんてなれない。
だからつい26歳のBちゃんと対等に付き合ってしまう。
すると自然に、気持ちも彼女と同じ年頃になってしまい、「大人気なく」なるからだ。
同窓会に行くと、自分たちがその頃の気持ちに戻ってしまうのと同じようなものである。
それによく考えると、私は気持ちとしてはそのぐらいから止まったままになっているのではないかと思う。
子供のままという意味ではない。26歳はもう立派な大人だからね。
ただ、なんていうか、30歳、40歳と生きていく過程でのその年頃なりの経験を積むということをしていないので、
いつまで経っても心の持ち方は20代の頃と同じなのだ。
本来なら分別ある大人であるはずの部分が、あまり培われていない。
年上や同じ年頃の多くの女性とは話が合わず、特に子育て立派にやってきましたみたいな、誰からも後ろ指を指されることのないような生き方をしてきた女性は、怖くて苦手だ。
友人と呼べるのは、かなり年下か、自分と同じようなタイプで、未だに「いい歳して・・・」みたいな人たちばかりである。たぶん安心して自分を解放できるからだろう。
それでいいと思えばいい。
Bちゃんが私に懐いてくるのも、そんな大人気ない私が好きだからに違いないのだから。
ただし、年々外見と内面のギャップが激しくなっている現在、これから先、どうなっちゃうんだろうと思い悩む部分もある。
何かいい歳のとり方はないものだろうか。
前の記事で、学生時代にカレー屋でアルバイトをしていた時の話を書いた。
それ関連のことで、もうひとつ思い出したことがあったので、書いてみることにする。
そのカレー屋はオフィス街の地下通りにあったので、客のほとんどがサラリーマンであり、
たいがい一人で入って来て、食べ終わるとすぐに出て行くので回転がよく、いつも混んでいた。
女性ひとりでも入り易く、手頃な値段で、まあまあ美味しいカレーを気楽に食べられるという
カウンター方式が当たったのだろう。
リピーターも多かった。
興味深かったのは、リピーターの中でも頻度の高い人ほど、同じものを注文する確率が高いことだ。
カレーの種類は十数種類とあるのに、毎日来る人は、必ず毎日同じカレーを食べる。
つまり、一切浮気はしないのだ。
※浮気心というと男心の代名詞のように言われるが、こと食べ物に関しては、
男はそれほど浮気っぽくない。女性のほうがよっぽど浮気者だ。
よく毎日カレーで飽きないなぁ。それに、どうせなら色んな種類のものを食べてみればいいのに・・・
と、その時の私は思った。
しかしそれは、「余計なお世話」 というものだったのだろう。
というのは、今はそういう人が意外と多いことを知ったからだ。
人には、毎日が同じということに耐えられない人がいる一方で、規律や法則が大好きで、毎日の繰り返しの決まりごとを自ら作っているような人もいる。
前者はいつもと違うことに価値を見出すが、後者はいつもと同じことに価値を置く。
たぶんこういう人は、自閉的な偏執気質の度合いが高いのだろうと思う。
第一、同じ店ばかりに通いつめるということからしてそうだ。
いつもの場所、いつもの時間、いつもの食事・・・そういったものに安定を感じ、固執する傾向にあるように思う。
それはけっして悪いことではないのだろう。
変化に価値を求める人は、毎日が平凡で退屈だからかもしれないし
同じことに価値を見出せる人のほうが幸せなのかもしれないのだから。
そしてまた、自分のことを考えてみると、違う側面も見えてくる。
以前の自分は変化が大好きだったが、最近はそれほど好きではなくなった。
最近は、同じ店では同じものしか注文しないことが増えてきた。
毎日同じ店に通い詰めるとか、毎日同じものを食べ続けるということは今のところないにしろ
以前は未知の料理や味に対しての冒険に貪欲だったことを思うと、つい、「馴染みの味」や「確実」なもの
を求めてしまうのは一種の保守化であり、老化現象でもあるのだろうか、なんてことを考えてしまうのだ。
みなさんはどうだろうか。
自分はどちらの気質だと思いますか。
そして、自分が(味覚に対して等)保守的だ、あるいは保守的になったと感じたことありますか。
昨日は友人のお父様のお葬式に行ってきた。
クリスチャンだったらしく、教会での厳粛な葬儀だった。
最近友人関係の親が亡くなったり、倒れて入院したりということが続いている。
女性の場合、親や義親の介護で生活が変わってしまった人もいる。
親が元気なうちは自分も元気で、そういうことは他人事のように思っていたけれど
最近では皆一様に、しみじみと 「私達もそういう年頃になったんだよね。」 という感想を漏らす。
そのうち自分の健康や身体のことで悩むことになったりするのだろう。
ぼちぼちと何かしらの病気が発覚している人も多く、そういった意味ではガタが来る年頃でもある。
人は誰でも老い、そして死ぬ。
そのことを改めて意識し始めるのは、親や友人・知人が亡くなる経験を経て
自分自身も「老い」の翳りを実感として感じ始めてからかもしれない。
***
昔のアルバムをめくる。
世の中は自分の為に回っているかの如く、幸せそうに笑っている母
自信たっぷりに不敵な態度で写っている父
明るくおどける弟
そして、まだ何も知らない純な幼顔で微笑んでいる若い私
切り取られた時間がそこで止まったまま輝いている。
この頃、弟があんな死に方をするなんて、誰が想像しただろう。
当然だが、父や母の死に様なんて考えも及ばなかった。
その切り取られた時間が、今の私の中にまだ生きているから胸に迫るものがある。
幸せであったことなどその時にはわかりはしないが、失った今はわかる、
楽しかった過去が哀しみを含むものに変わる、
けれど、過去の思い出の中に生きるにはまだ早く、バリバリに前に進んでいる、
そういうお年頃・・・