本日の島根県は、ニャンニャンニャンで「竹島の日」でございます。県庁周辺は朝から大勢の警察官が出動し、物々しい雰囲気。そして市街地を廻る街宣車。上空はヘリコプター。なんだか賑やかです。
さて、高林神社のハゲ山が気になってしょうがないのですが・・・。
「ハゲ山の一夜」と言えばムソルグスキーの代表作。このハゲ山は、キエフ郊外に実在する丘なんだとか。音楽は、夜になって、このハゲ山に魔物達が集まって大騒ぎをする。やがて夜明けと共に去って行く、と言う様子を奏でたものなのだそうですが・・・。オペラとか、そう言う高尚なものに触れようとすると眠りに落ちてしまう呪いをかけられているので、この辺で・・・。
高林神社のある松江市玉湯町林村別所は、林地区の一番奥(南)。林村別所から北へ延び、宍道湖に接するまでの長い谷が「林」と呼ばれる地域ですが、733年の『出雲国風土記』には、西側の来待地区を含む、もっと広い範囲を拝志郷(ハヤシノサト)と記しています。
『出雲国風土記』には「布宇社」の記載があり、現在も林本郷に布宇(ふう)神社が鎮座しています。
『出雲国風土記』によれば、「拝志(はやし)」と名付けた理由は、
所造天下大神(アメノシタツクラシシオオカミ:大国主命のこと?)が越の八口(北陸のどっか?)を平定しようと出かけようとしたとき、ここの林が盛んに茂っているのを見て「私の心をはやしたてる(原文:吾心波夜志:あが心はやし)」と、おっしゃったので「拝志(はやし)」なのだとか。
風土記の時代であっても神話は神話ですし、「林」も広い範囲の地名ですので、高林神社の社叢が、大国主命の心をはやし立てた林であるはずはありませんが・・・。
布宇神社の方は、しっかりと社叢に護られております。江戸時代の地誌『雲陽誌』には「風宮」とあり、「ふうのみや」と読むより「かぜのみや」と呼んだ方が雰囲気ですね。
ムソルグスキーは、アルコール依存症で不遇の晩年を送ったようですが、もちろん、音楽は今でも色あせることはありません。しかし、魔物達が大騒ぎした一夜が明けると、ハゲ山だけが残される感じが・・・。
お松:せっかく布宇神社の画像を撮ってきたのに、布宇神社の話は・・・。
やや:『雲陽誌』にも素戔嗚(スサノオ)尊を祀るとしかなく・・・。すみません、縁起不詳です。
おまけ
布宇神社の参道の狛わんこ
左前足で、しっかり宝珠を押さえています。
お松:ボールを離せたら、もう一回「取ってこい!」をしてもらえるのに、せっかく捕まえたボール、どーしても離したくない子。いるよねぇ!
- 2019/02/22(金) 12:25:35|
- お庭でひとりごと
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朝の内は軽く雪でしたが、今は雨。来週からは暖かいって?このまま、さして雪の積もることもないまま冬が終わってしまうかも知れない山陰地方です。
さて、
天平五(733)年の年記を帯びる『出雲国風土記』には、10ヵ所で「新造院一所・・・」で始まる文章があります。この続きは「塔あり」とか「僧あり」などと書かれていることから、当時のお寺のことが記されているようです。それらの新造院の場所は、ほぼ特定されていますが、知られている遺跡の中には、その新造院の推定地ではない場所でも、古代寺院らしき遺跡があります。つまり、『出雲国風土記』の書かれた733年にはまだ建っていなかったけれど、734年から794年(平安遷都)頃ぐらいまでの間には建てられていた古代寺院があったかも!ってな話です。
その一つが、松江市玉湯町の松之前廃寺と呼ばれる遺跡で、(勝手に)目印の高林神社を目指します。
・・・が?ハゲ山ぁ!
以前はこの一角だけ鬱蒼としていたのですが・・・。かつて貴重な照葉樹林の森として大切にされていたはずの高林神社の社叢が見事にハゲ山です。合併前の玉湯町が発行した『玉湯なんでも大事典』では「自然の姿を残す貴重な鎮守の森」と紹介され、「特に昔からの姿をとどめた鎮守の森を私たちは大切にしていかなければなりません。」と高らかに述べられた鎮守の森が見事にハゲ山。・・・何があったんでしょう。
ま、とにかく・・・
高林神社は、『出雲国風土記』には見えません。江戸時代の地誌『雲陽誌』には「妙見社」があるので、この神社のことかも知れませんが、その由緒は判りません。この境内から(以前は社叢で見えなかったけど)見ろした辺りが遺跡、松之前廃寺です。
標柱の先にハゲ山が見えていますね。
この付近では、昭和35年頃に巨大な石が掘り出され、お寺の建物の礎石と推定されています。その後、当時の玉湯町教育委員会が発掘調査を行い、建物は確認できなかったようですが、多くの瓦などを発見し、古代寺院だったと結論付けています。ちなみに、昭和35年の巨石は、玉造温泉の旅館「ホテル玉泉」の庭石になっているのだとか。
現在の松之前廃寺付近には、小さな石像を祀る観音堂が置かれています。堂内には、付近から出土したと思われる古代の丸瓦片も奉納されていました。
おまけ
ハゲ山となった境内では、
狛ワンコさんたちがひなたぼっこ中。
- 2019/02/16(土) 16:10:30|
- 神話の足跡探し
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現在の美保神社は、美穂津姫(みほつひめ)命と事代主(ことしろぬし)神・・・いわゆるエビス様が祀られています。2柱の神様を祀っているので、社殿も大社造りの本殿を横に2棟連結した特殊な建築になっています。
美保関が大好きで、結局3度も訪れた小泉八雲ことLafcadio Hearnは、『知られぬ日本の面影』に「At Mihonoseki」のタイトルで美保関の事を記していますが、その冒頭は、「美保関の神様は鶏がお嫌い」と言う話から始まります。
夜明けには美保関に帰らなければならないエビス様。夜明けを告げるはずの鶏が時間を間違えて鳴いてしまい、慌てて船を漕ぎだすと、櫂を落としてしまった。エビス様はしかたなく足で(小泉八雲は「手で」と書いている)船を漕いでいると、よこしまな魚に傷つけられてしまったから。なのだそうで、そのため、美保関には鶏の卵も肉もヒヨコすらも持ち込めないのだとか。
何度も美保関を訪れていた小泉八雲は、そうした話を知っていながら、旅館で給仕をする娘さんに「卵はありませんか?」と聞いています。このことを小泉八雲は、「後ろめたさを感じながら、してはいけない質問をした」と書いていますが・・・、この娘さんは「あひるの卵ならございます」と笑顔で答えたのだとか。
お松:い、いぢわる?
やや:小泉八雲は、民俗学者的な所もあるので、純粋に興味関心で聞いたのだと思います。でも『知られぬ日本の面影』は文学なので、おもしろい書き方をしているのでしょうね。
「At Mihonoseki」は、この後、先日紹介した美保関のひょいっと跳べそうな狭い町並みの話、そして船乗り達の話に続きます。
美保関は中世から続く港湾。エビス様の鶏嫌いも、鶏を持ち込むと海が荒れると言う話ですが、美保神社には航海の無事を願う人々や、遭難の危機を乗りきった人たちが様々な品を奉納しています。
拝殿の前には、
お松:不思議な色ですが、これは焼物?
やや:備前焼の狛犬さんですね。瀬戸内の船乗りさんから奉納されたのでしょう。なんと文政十三(1830)年製!
お松:これがまた、かわいい!
- 2019/02/06(水) 08:08:32|
- 小泉さんの散歩道
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お松:こにゃにゃちは~!
例年になく雪の積もらない冬を迎えている山陰地方です。
やや:積もらないどころか、ほとんど降ってませんね。降っても雨だし。郊外に向かう幹線道路沿いには、ピッカピカの除雪車両が並んでいます。ブレードもチェーンもピッカピカです。このまま、ピッカピカのままで倉庫に帰っていくのでしょうか?
お松:なんか、文句でもあるみたいな・・・。
やや:いや、別に・・・。
お松:とにかく天気の良い週末。
やや:とは言っても、今日だけみたいだす。明日からは雨。山沿いでは雪。
お松:積もりますかねぇ?
やや:山沿いはね。
と言う訳で、ウチでゴロゴロしているのももったいないので、ちょっとドライブ。
大山を横目に見ながら向かったのは、美保関です。
美保神社の参道と仏谷寺を結ぶ道は、通称「青石畳み通り」
お松:石畳のきれいな道ですが、なぜに青石畳み?
やや:白っぽく見えますが、雨に濡れると青と言うか・・碧。緑色に近い色になります。岩としては凝灰岩のようですが、海中の石を使用したと伝えられていますね。
お松:狭い通りも良い雰囲気です。
やや:『知られぬ日本の面影』で美保関を訪れたことを書いた小泉八雲は、「海寄りの家の二階から向かいにある山よりの家の二階へぴょんと飛び渡られるくらい」って書いてます。ま、飛んじゃいないでしょうが。
この舗装が行われたのは幕末近い文化文政~弘化(1804頃~1847頃)年間と言われています。小泉八雲が美保関を訪れたのが、1891年、1892年、1896年ですので、八雲も歩いたことでしょう。
お松:小泉八雲が美保関を訪れたのは3回?(←やや:そう、3回。)どんなに好きなんだ?
(↑やや:関係ないけど、ひなたぼっこ中のにゃんこ。・・・あまり歓迎されてない?)
やや:すんごい好きだったみたいですね。泳ぐのが好きで、宿の前から港を横断して泳いで美保神社にお参りしたって書いてます。
お松:ま、まじっすか?
やや:ぶっちゃけ、アホですね。
お松:またそう言うことを・・・。
おまけ
白烏賊の一夜干し。
あんまりおいしそうで、買っちゃいました。
お松:こう言うおまけは大歓迎です。
- 2019/02/02(土) 16:50:29|
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