相変わらず、困った状態の続くウチの職場ですが、特に今週は小さなミスとトラブルが続き、これはヤバい感じ。で、その対応策として思いついたのが、なんと画期的な方法!
休みの日は休んでみる!お松:う・・・。
やや:ところが、このところまともに休み慣れていないこともあって、休みの日って、ナニして過ごしてたっけ?みたいな・・・
お松:はぁ・・・?
やや:そうだ、山に行こう!
お松:あぁ・・・。
やや:いきなり思いついて行けそうな・・・茶臼山にテッ・テッ・テェ~っと登ってみました。
画像は、茶臼山の北の麓、史跡山代郷北新造院跡の公園から見た茶臼山です。北新造院跡は、厳密には松江市矢田町ですが、この辺りから茶臼山を含む一帯が松江市山代町です。
『出雲国風土記』意宇郡条に見える山代郷の地名の由来は、「所造天下(アメノシタツクラシシ)大神、大穴持(オオナムヂ)命の御子、山代日子(ヤマシロヒコ)命坐す、故、山代と伝う」とあって、アメノシタツクラシシ大神と呼ばれるオオクニヌシ命の御子であるヤマシロヒコ命が鎮座しているから山代なのだと記しています。このヤマシロヒコと言う神様は、他にはほとんど出てこない神様です。ヤマシロなのは、古墳時代後期の様々な動きの中で山背国の人と関わりができた地域なのか・・・。
一方、『出雲国風土記』には「山代社」も記されていますが、現在の山代神社は山代町ではなく、お隣の古志原町に鎮座しています。
古志原町にある山代神社は、江戸時代に勧請されたようですが、その時の社名は高守神社。江戸時代の地誌、『雲陽誌』によれば、山代山(茶臼山)の中腹の森に鎮座した神社だったと言います。
つまり、山代の由来となった山代社は、後に高守神社と呼ばれるようになり、その後、山代から古志原に遷宮した後、山代神社に社名を戻したということでしょうか。
その山代神社から茶臼山は・・・
よく見えない・・・。
おまけ
「呼んだ?」シッポ振りフリ!
お松:ま、なんにせよ、休み慣れてない感は、しっかり伝わってきました。
やや:・・・と、とりあえず、サッカー見るか!アイスランド頑張れ!
- 2018/06/16(土) 17:07:02|
- 神話の足跡探し
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承久三(1221)年5月、後鳥羽上皇は、京都守護の伊賀光季を打ち、鎌倉幕府の執権北条義時追討の院宣を発します。・・・が、北条義時は幕府軍を率いて京都に向かい、上皇方の将を惨殺。鎌倉幕府を転覆させ、朝廷に政治の実権を取り戻そうとした承久の乱は、わりとあっさりと終結してしまいました。
乱の関係者の処分が決まる中、首謀者である後鳥羽上皇は隠岐に島流しとされ、美保関から隠岐へと向かわれたのだとか。やがて、隠岐諸島に近づいてくると、次第に波風が強くなり、とうとう時化となってきたのだとか・・・。そこで上皇は、
我こそは新島守よ隠岐の海
荒き波風心して吹け
と、詠まれたのだと。
承久の乱には失敗したものの、日本の一員として、隠岐を守ると宣言されたと言うことでしょうか。ま、とにかく時化のため、上皇の一行を乗せた船は、予定していた隠岐諸島中ノ島の苅田には近づけず、やむを得ず中ノ島の最南端、崎の港にたどり着いたのだそうです。
南東に開口した入り江は、西風による時化から逃れるには最適の港だったのでしょう。
現在の崎の港周辺は静かなところです。どこかで、漁師さんたちの話し声が風に乗って聞こえてきます。しばし、時間が止まったような錯覚に・・・
で、上陸した上皇が、その夜の宿が決まるまで腰掛けていたとされる石・・・。
お松:これ、いつのお話でしたっけ?
やや:13世紀・・・今から700年も前に、上皇が、ほんのしばらく腰掛けていた石。
お松:これは事実なのでしょうか?
やや:ノーコメントです。
おまけ
やや:好評だったので、アップです。
お松:ハエだらけです。
- 2018/06/09(土) 12:28:43|
- ネタ切れにつき在庫処分
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