暖かいをとおりこし、暑くなり始めた山陰地方です。
と言う訳で、ちょっこと行ってきたのは鳥取県東伯郡湯梨浜町。湯梨浜町と言えばハワイ!羽合温泉のある東郷湖は、橋津川を通じて日本海へつながっており、近代以前は重要な港湾だったはずです。
その橋津の港は日本海海運の拠点として多くの舟が出入りし、江戸期代後半には鳥取池田藩の年貢米を運び出す重要な施設が置かれ、近隣には廻船問屋、米問屋、旅籠などが軒を並べにぎわったと伝えられています。そうした鳥取池田藩の藩蔵が現在も残されています。

当時は多くの蔵が軒を連ねていたはずですが、現存するのが古御蔵、三十間北蔵、片山蔵の3棟。いずれも鳥取県指定文化財に指定されています。
屋根フェチ的には、瓦の一部に島根県西部が震源地の石州系瓦が使用されていたりもしますが屋根の一番高いところ、棟に置かれた棟居石が気になります。
これは、松江(宍道町来待)産の来待石製棟石で、北前船のバラストとして主に出雲よりも東に点々と見られる屋根です。
お松:なんだか横に長く立派な蔵です。
やや:江戸時代の税金は主に年貢。つまりお米です。これを現金化しないとどうにもならないので、どこの藩でも大阪や尾道に送って換金していました。よって、藩の財政は、米相場に左右されたのだそうです。
お松:藩の施設と言うことは、藩のシンボルとがあったりするんですか?
やや:蔵の一つの鬼板瓦に池田藩の家紋が見えます。
お松:池田藩の家紋は蝶なんですね。
やや:岡山も鳥取も池田家の家紋は蝶です。優美ですよねぇ。どっかの三つ葉葵と違って。
お松:また、そう言うことを・・・。
- 2018/04/22(日) 21:15:17|
- 屋根フェチの小部屋
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熊本地震から2年・・・。先週の大田の地震も治まったようですが、大田市街では屋根にブルーシートを貼った家もありますが・・・それでも町は平静さを取り戻しつつあります。
さて、
広島県三次市と島根県江津市を結ぶJR三江線が、この3月31日をもって廃線となりました。江の川沿いの谷間をのんびり走っていた短い列車。それが、廃線が決まってからは連日多くの観光客で賑わい、最終日には、満員による積み残しにバス代替輸送まで発生(なぜ、バスに乗る?いったいバスに乗る何の意味があるのだ?)する大混雑でしたが、時すでに遅し・・・。

かく言う私は・・・年末から3月末までの異常な忙しさで、ラストランには間に合わず、テレビのニュースでお見送り・・・。

その三江線が走っていた近く、江津市桜江町の甘南備寺(かんなみじ)です。
現在の甘南備寺は、江の川に面した谷間に位置していますが、元々は、背後にそびえる甘南備寺山(519m)の中腹にあった山寺でした。明治17年頃に現在地に移転してきたようですが、そのきっかけは明治5年の浜田地震。当時の正確な記録はありませんが、最大震度7と推定されている研究もあり、先日の大田の地震よりも大きい、熊本地震並みの揺れだったのかもしれません。その地震によって、山中の伽藍では生活水が確保できなくなり、現地へ降りたのだとか・・・。
元の甘南備寺は、戦国時代には、近隣の武将が戦勝祈願のため、多くの宝物を奉納。石見銀山争奪戦でも活躍した小笠原氏も戦勝祈願寺とすると伝わるなど、石見を代表する大寺院だったようです。数多くの寺宝を伝えていますが、重要文化財に指定されている黄櫨匂威大鎧残闕(はじにおいおどしおおよろいざんけつ)はその代表。おそらく平安時代に始まる山寺だったのでしょうが、戦国時代頃には、大変な大寺院だったようです。

と、言う訳で、いざ現地へ!
甘南備寺背後の甘南備寺山は標高519m。その中腹、220m付近に甘南備寺の旧境内があります。
山中には、長い年月に寸断された所はありますが、それでも一応、当時の参道が残っており、熊鈴の音も高らかにしばし登っていきます。最後は参道が消滅していますが、それでも登り切ると、

・・・広い!東西100mほどの広~い平坦面に建物跡の礎石が点々と残り、足下には瓦や茶碗のかけらが落ちています。

さらに先には墓所。年号が残る墓石は幕末。古そうな宝筺印塔(ほうきょういんとう)は、戦国期まで遡るでしょうか?長~い寺の歴史を静かに伝えています。
おまけ
今の甘南備寺の本堂横に置かれている羅漢さんたち。
お松:この皆さんも、明治に山寺から降りていらっしゃったんでしょうか?
やや:聞けるものなら聞きたいですね。
- 2018/04/16(月) 18:30:37|
- 山寺で修行中
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くそ忙しかった3月もようやく終わり、新年度の始まりです。みなさまいかがお過ごしでしょうか?
さて、昨年の後半から気になって気になってしょうがなかった新羅は見えたか?シリーズです。
貞観九(867)年ですから、平安時代の初め頃のことですが、当時の朝鮮半島にあった新羅が不穏だとして、四天王像を用意し、伯耆・出雲・隠岐・石見・長門の五国に祀らせた記録があります。この時の命令は、新羅を見通せる高く清浄な場所に四天王像を祀るようにとされています。
後に四王寺と呼ばれる四天王像を安置した寺の出雲での候補が、「師王寺」の字が残る松江市山代町なのですが、そこからは新羅が見えそうな気がしないので、背後の茶臼山に祀られてたんじゃないかって、時々登っては日本海が見えるかどうか探っていたのですが・・・。で、伯耆国ではどうなってんのかな?って事で、行ってみました倉吉市。
お松:満開の見事な桜ですが・・・?
やや:桜はどうでも良くって、その背後が伯耆の四王寺山です。この場所は、法華寺畑遺跡の公園ですが、お隣が伯耆国分寺跡ですので、国分寺僧が行き来するには都合のよい山です。
お松:あのぉ?桜は?
やや:桜はどうでも良くって、この反対側、北面集落から登山を開始。そこそこ険しい道ですが、登り始めて15分ほどで目的地が見えてきました。

山頂には四王寺のお堂が建っています。で、件の貞観九年の命令などが記された説明板があるのですが、驚いたことに、昭和五(1930)年の火災で焼失するまで、木像の四天王像があったのだそうで、その写真が飾られていました。
お松:平安時代の四天王像があったんですが?
やや:違うと思います。
お松:へ?
やや:貞観九年の命令は、「八幅四天王像」と書かれていますので、図像です。木像ではないんです。なので、図像が痛んで修復できなくなって後に造られたものだと思います。
お松:ふぅ~ん。で?松江の茶臼山からほぼ日本海は見えなかったけど、こちらからは?
やや:茶臼山からもちょっとは見えたの。で、伯耆の四王寺山からはこんな感じ。
お松:こ、これは?
やや:春霞ですな。
お松:・・・。
やや:眼前に日本海。左端に大山。ものすごく空気の澄んだ日には隠岐諸島まで見えるんだそうな。
お松:・・・。
やや:また、次回。見えそうな日に登ってみます。
お松:・・・。
- 2018/04/02(月) 17:20:32|
- 山寺で修行中
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