厳密に言えば、山寺ではありません・・・と言うか、山寺だったかどうか判りませんが、山寺カテゴリにぶっ込んでます。
松江市山代町の茶臼山です。中世以降、お抹茶が知られるようになって以後は茶臼山と呼ばれていますが、『出雲国風土記』には「神名樋野(かんなびぬ)」と記されています。
お松:って事は、もしもお抹茶が日本で流行らなかったらティーポット山って呼ばれたって事ですか?
やや:知らんがな!それに、そこに突っ込むか?
お松さんはほっといて、
ものすごい急な坂道を登ること15分(早っ!)。標高わずか171mなので、すぐに山頂にたどり着きます。でも、低いとは言え独立峰。山頂からは360度の大パノラマ!
お松:お寺はもちろん、鳥居すら無いようですが、山寺カテゴリにぶっ込んだのは、なにかあるのでしょうか?
やや:六国史の一つである『日本三代実録』貞観九(867)年に四天王像を安置したと言う記事があるのですが・・・
おおざっぱに言うと、当時、朝鮮半島にあった新羅と緊張状態にあって、新羅が攻めてくるかも知れないとびびった朝廷は四天王の図像を作成し、伯耆・出雲・隠岐・石見・長門の5国に下した。この時の命令は、この5国は「西極」にあって新羅に近いので、それぞれの国で、新羅が見える高いところに施設を整備し、四天王を祀りなさい、と言うものでした。つまり、四天王の力で攻めてくるかも知れない新羅を調伏しようとしたようです。
お松:それが茶臼山なんですか?
やや:わかりません。
茶臼山の南麓に「師王寺(しわじ)」と言う地名(字)が残っており、四天王像を安置した「四王寺」に通じることから、その隣接地にある古代寺院の遺跡が、そうではないかと言われていました。ただ、現地の標高はわずか20m。新羅はもちろん、宍道湖すら見えません。
お松:新羅が見える高いところではなさそうですね。
やや:なので、その古代寺院は、背後の茶臼山を含んだ山寺で、その登山口に整備された部分だけが現在知られる遺跡なこつかばい、思っちょります(←お松:どこの人ですか?)。
茶臼山の山頂から見ると、この真ん中やや下の芝生がその遺跡です。古代の区画を反映しているかも知れない道が、まっすぐ茶臼山に向かって伸びている点も示唆的です。
お松:でぇ、茶臼山の山頂からは、新羅は見えたのでしょうか?
やや:西の方はこんな感じですね。
お松:右下に宍道湖、その上は・・・出雲大社近くの山々?日本海は見えませんね。
やや:ふ・ふ・ふ・・・。右から降りてくる山並みが下がりきって、平らになる所が簸川平野です。その先は、霞んで空と区別がつきませんが、あそこが・・・
お松:お?に・日本海?
やや:そう。見えるんですよぉ・・・。
- 2017/11/25(土) 16:45:40|
- 山寺で修行中
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やや:今朝、まだ暗い時間、我が家の屋根裏をドタドタドタッ!ダ~ッ!って音で目が覚めて、・・・どうやらアライグマかハクビシンか?ナゾの野生生物が侵入した模様です。
で、さっそく生物化学兵器を屋根裏に投入!
お松:な・ナニを投入したんですか?
やや:カプサイシンの動物避け、つまりトウガラシの束みたいな物です。
お松:びっくりしたなぁ。
やや:ま、それはさておき、今日の話題は秋鹿郡の神名火山のお話です。
奈良時代に記された地誌、後に風土記と呼ばれた文書は、全国の国毎に記されたはずですが、1200年もの時を経て、現存するのはわずかに5風土記。中でも『出雲国風土記』だけは、その内容がほぼ完本として伝えられている、とされています。
と、されてはいるのですが・・・実際には、「島根郡条」ではっきりと脱落が確認されており、その脱落をそのままにした「脱落本系」の写本と、何らかの方法でその脱落を補った「補訂本系」の、大きく2系統の写本群が知られています。
『出雲国風土記』の内容の多くを占めるのは地名説話ですが、有名な加賀郷の地名説話・・・佐太大神がお生まれになった所で、支佐加比売(キサカヒメ)命が金の弓矢で窟を射貫いて光り
かがやいたので加賀と言う・・・は、脱落本系の写本には見えません。
また、島根郡の西隣、「秋鹿郡条」には、佐太大神を祀ったと思われる佐太御子(サダノミコ)社(現在の佐太神社?)が記されており、神名火(かんなび)山の記載には「佐太大神の社は、その山の麓にある」と記されているのですが、この神名火山がどの山を指すのか・・・実は、確定していません。
秋鹿郡の神名火山は、一般的には朝日山(標高341m)だと言われていますが、佐太神社との間には、いくつか谷が入り込み、佐太神社社の場所が「その山の麓」とは言いがたい距離感です。
また、最大の問題は、神名火山の高さです。「秋鹿郡条」には、神名火山は「高さ四十丈(約120m)」とある一方、その次に記載のある「足日山」の高さは「一百七十丈(約520m)」とあり、はるかに大きな山が隣にあるかのような書き方がされています。
で、実際に少し離れて背後の山を見てみました。
画面中央より少し右に見えるきれいな三角形をした山は朝日山ではありません。佐太神社は、画面の右端辺りですので、この三角形の山の麓にあるにはあるのですが・・・。
で、
更に離れてみました。
画面左、遙かに遠く高い山頂が朝日山です。佐太神社は、画面右端に入りきれていない辺りですので・・・。
お松:確かに朝日山の麓ではなさそうですね。と言う訳で、秋鹿郡の神名火山は、この小さな三角形のお山ですね。形も神名火山って感じですしね。
やや:どうでしょう?実は出雲の神名火山は、大和の大三輪山のような三角形の山ではありません。むしろ、ピークが複数あるようなどっしりとした山が神名火山に選ばれています。『出雲国風土記』の他の神名火山から考えても、目立たない小さな山ではないだろうとは思うのですが・・・。
お松:では、ややさんは、やっぱり朝日山が神名火山だと思っているわけですね。
やや:判りません。脱落部分が発見されない限りは解決しないと思います。どこかの神社の屋根裏とかに『出雲国風土記』の脱落部分とかが、そっと残ってませんかねぇ・・・。
お松:屋根裏と言えば、アライグマ?ハクビシン?
やや:それは我が家です・・・。
- 2017/11/12(日) 18:15:56|
- 神話の足跡探し
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お松:カテゴリは、石見のお庭に入れられちゃいましたが、石見をぶっ飛ばして長門国。山口県萩市須佐のお庭だそうです。
このところ、仕事でちょくちょく益田市へ出かけると思ったら、とうとう益田市を飛び越えて、山口県まで?
やや:益田市と萩市須佐はお隣ですので、その間は、そんなに遠くはないのですが、そもそも益田市までが遠い。長~い島根県の端から端まで走った、走った!
で、萩市須佐の益田館です。益田氏のお庭です。益田氏は、石見地方を代表する戦国武将です。
お松:石見を代表する戦国武将?し・知りませんでした。それに萩市は石見じゃなくって長門では・・・。
やや:です。益田氏、石見地方以外の人はほとんど知らないと思いますので・・・。
え~。石見には、毛利や尼子、大内と言った抜きんでた戦国武将がいませんでした。
で、益田氏は、平安時代に石見国司として赴任した御神本(みかもと)氏が祖とされ、12世紀末頃から益田氏を名乗ったようです。その御親戚は、それぞれ本拠地の地名を名乗るなどして三隅氏、周布(すふ)氏、福屋氏などに別れ、石見一円に住んでいました。
ぅんで、戦国時代。最初に言ったように、石見には抜きんでた存在がいないので、そうした御親戚筋の皆さんが、時に助け合い、時に足を引っ張り合い・・・。大内氏や尼子氏とも仲良くしたり敵対したりを繰り返して、動乱の戦国を生き残っていきます。
戦国末期の混乱を毛利氏に従って生き延びた益田氏は、天下分け目の関ヶ原に参陣!ところが、わずか1日で西軍が敗北。戦後処理で防長二カ国に押し込まれた毛利氏に従い、石見を離れ、長門国須佐へ移ります。その後、益田氏は毛利家の家老として幕末まで毛利家に仕え、多くの文書・典籍などを現代に残しました。
でぇ、その益田氏が須佐に建てた益田館です(←お松:やっと本題に近づいた!)。益田氏自身は萩藩の家老ですので、通常は萩に住んでいますので、ここはメインの館ではありません。また、明治期以後、いくらか改造があり、縮小されてもいるようです。完全にオリジナルではないにしろ、書院から見るお庭はいい感じです。
南向きのお庭の左手・・・つまり東側にはソテツ。当初からあったかどうかは判りませんが、戦国武将には大人気の庭木で、信長や秀吉にまつわるソテツの話が伝わっている他、山口の大内館の庭にもソテツが植わっていたことが知られています。ニュルンとした立手水も庭の雰囲気にあっていい感じですね。
須佐は雪が多いという話を聞きませんが、床が高く、靴脱ぎ石が2段になっています。川が近いので洪水対策でしょうか?
建物の中のしつらえも出雲地方に比べると開放的で明るい雰囲気がします。月とコウモリの欄間は、なんだかおしゃれな益田館でした。
おまけ
庭先に必ずある、ある、夏みかん!(←お松:萩なので!)
- 2017/11/06(月) 17:17:29|
- 石見のお庭
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