16世紀後半に大量の銀を積み出したとされる石見銀山の港、沖泊は、現在では大田市温泉津町にある小さな、小さな漁村です。
その漁村の入り口ある恵比寿神社は、島根県指定文化財の古いお社。長年の風雨で傷んでいたのですが、このほど修理が行われ、公開されましたので、ちょっくら見に行ってきました。
しかし、これが・・・。
修理をすると言う事は、こういうことだろうとは思いますが、なんと言うか、た・たましい抜かれちゃったような気が・・・。
お松:だはは・・・。ややさんは、ピカピカのツヤツヤのハデハデがイヤなんですよね。
やや:文化財の修理は、原則として使える古材は再利用し、どうにもならないものを新材に替えます。また、ターゲット年代があって、より古かったり、意味の大きい年代の形状が判った場合には、その形状に復元したりします。つまり、こんなにピカピカ、ツヤツヤになったと言う事は、ずいぶん傷んでいたという事なんですが・・・。
お松:では、修理以前の様子はどんなだったんですが?
やや:こんな感じだすぅ。2013年秋の様子だす。
お松:な、なんと言うか。つっかえ棒だらけですね。
やや:拝殿が傾いてますね。ケラバと言うのですが、壁から伸びる屋根の部分が長いんです。なので、どうしても屋根が下がっちゃう。それに、屋根の反りを形作る垂木も、現代なら湾曲した形状に削って作るのですが、この神社の拝殿の屋根は、加熱して曲げた垂木を使っていたのだそうです。ムリヤリ曲げた所に重い瓦を載せたので、反りが戻って屋根が下がり始めたと・・・。
お松:そ、そもそも問題のある建築だったと言う事ですか?
やや:わ・は・は。そうかもね。とにかく、航海の安全を祈る港の神社で、沖泊集落の人々によって維持されてきたステキな神社です。
お松:いつ頃に建てられた神社なんですか?
やや:よ!よくぞ聴いてくださいました!これがまた!島根県指定になったときには、大永六(1526)年と言う伝承があり、戦国期に遡るかも?とされていたんです。大永六年というのは、なんと石見銀山の発見された年なんです。
お松:それは、すごいことじゃないですか?
やや:今回の修理に伴う調査で、慶安四(1651)年に建てられらしいことが判りつつあります。ま、軽く100年以上新しくなっちゃいました。
お松:あぁ?
やや:ま、事実が判ると言うのは、学問が進歩したと言うことですので、喜ばしいことではありますがね。
お松:・・・。と、とにかく、石見銀山の大切な文化財の一つを後世に伝える準備が一つ整ったと言うことで。
やや:でも、これに、たましいが戻ってくるには・・・。
お松:だいじょうぶです!もう戻ってきます!
やや:な、なんか、睨まれているんですけど。
- 2016/06/25(土) 20:07:16|
- 石見銀山で散歩
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梅雨の中休みの山陰地方ですが、明日からは雨予報。なので・・・
お松:また、山に登ったんですか?
やや:ちょっとした空き時間で登るので、大変な所には行きにくいし・・・。と、言う訳で、嵩山です。
お松:嵩山と言えば、小学校の遠足かなにかで登った記憶が・・・。以前は、市街地のどこからでも見える山でしたが、近年はマンションが増えて見えにくくなりました。
やや:でも、その特徴的なシルエットは隣の和久羅山とセットで、心ある人は涅槃仏とか言っているそうですが、松江の中学生は、「髪の長いお姉さんが寝ている」と言ってましたっけ。
お松:た、確かに・・・。長い髪に高いお鼻が和久羅山。その左隣の、
やや:その左隣のおっぱいが嵩山です。
お松:お・・・。
やや:近年では登山道も駐車場も整備され、お手軽に登ることができるようになりました。なので、散歩の延長のお気軽ハイキングの人から、ほぼジョギングの人までいます。汗をかきかき登ること20分ほどで尾根筋に・・・。やがて、大きな鳥居が見えてきました。
嵩山は、『出雲国風土記』記載の「布自枳美高山(ふじきみたかやま)」で、奈良時代には烽(とぶひ:古代ののろし台)が置かれていたことが判っています。そして、山頂には『出雲国風土記』に布自伎弥社と記される布自伎美神社(ふじきみじんじゃ)があります。
お松:ここは、山寺ではなく神社なんですね。
やや:『出雲国風土記』に記される山の多くは、神宿る山、つまり神社に関係する山なのだろうと思われます。そうした山の一部が後に山林修行のお寺に使われるのだろうと思うのですが、この山には、アレがないんで・・・。
お松:あれ?
やや:水がないんです。
お松:え?嵩山と言えば、熊井の瀧や目無し水など有名な湧水池が・・・。
やや:いずれも麓です。山中では水の確保が難しそうですね。小さな独立峰なので、当然ですが・・・。
お松:なるほど。でも、そんな山にも立派な社殿があるのですね。
やや:社殿の材料はもちろん、鳥居や狛犬なんかも、持って上がるのは大変だと思うんです。
お松:そうですよねぇ。でも、狛ワンコ、たくさん居ますね。
やや:それは、あれですよ(←お松:なに?)。持って上がるのも大変ですが、持って降りるのも大変なんです。なので、壊れた先代も先々代も、寄せられるだけです。元気そうなのは、現役狛ワンコの隣でがんばってたりします。
お松:わ・は・は!でも、みんな元気そうです。
やや:みんなで楽しそうですよね。
- 2016/06/18(土) 18:25:35|
- お松との会話
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梅雨に入り、スキッと晴れる日が少なくなりました。天気予報をにらみ、雨の降り始めを予想して、雨が降るまでに降りられる山、降り出したとしても、安全に降りられる山は・・・(←お松:なぜ?そうまでして山に登る?)。
安来市伯太町の比婆山は鳥取県境(伯耆国)にも近い標高331mの山です。
このブログではおなじみの『古事記』によれば、多くの島や神々を生んだイザナミは、ヒノカグツチノカミ・・・燃えさかる火の神・・・を生んだために焼け死に、黄泉の国へ旅立ってしまいます。残されたイザナギはその亡骸を出雲と伯耆の国の境である「比婆山」へ葬ります(ちなみに、『日本書紀』では紀伊の熊野村となっています)。で、その後、やっぱり会いたくなったイザナギは、黄泉の国まで出かけて行って、「見るな!」っつ~のに、お約束でふり返って見てしまって、黄泉醜女(ヨモツシコメ)とかに追いかけ回され、必死で逃げ帰ると言う、痛快ラブコメアドベンチャーへと繋がる訳ですが・・・。
ところで、イザナミの亡骸を葬った比婆山とされる場所は、この他にも奥出雲町と広島県庄原市の境に比婆山がある他、松江市八雲町岩坂にも「イザナミ御陵」が宮内庁指定の陵墓参考地となっています。こうした中、江戸時代の国学者本居宣長は『古事記伝』の中で、イザナミは安来の比婆山に眠るとしています。
その安来の比婆山は、安来市伯太町横屋の比婆山久米神社境内からの登山道が整備されていて、けっこう楽に登ることができます(←お松:ややさんの言う「楽に」とかは、信じてはいけません←やや:ホント~だってばぁ)。
20分ほど登ると、鳥居が見えてきます。この最初のピークには、本殿跡とか拝殿跡の表示があり、かつてこの場所に神社があった事が判ります。
更にしばらく行くと比婆山久米神社奥宮が見えてきます。
そして、奥宮の社殿の背後には・・・。
一片10mほどの塚が玉垣に囲まれており、この塚がイザナミの神陵とされています。ちなみに、比婆山久米神社奥宮の別名は熊野神社・・・。『日本書紀』の方のイザナミの陵は紀伊の「熊野」・・・。
お松:イザナミの御陵はいくつか候補地がある中で、やはりこの安来の比婆山が有力と言うことですか?
やや:どれも違~う。そもそも神話なのだ。だから『出雲国風土記』の方には、記載が無いんです。
お松:地元にない神話が『古事記』に書かれているんですか?
やや:『古事記』は天皇家の神話・伝承です。あの世である黄泉の国は大和から見て日の沈む方角・・・出雲の方にあるんです。だから黄泉の国の入り口は出雲に入ってすぐ、つまり、伯耆と出雲の境の比婆山なんです。一方、出雲の地誌である『出雲国風土記』では、黄泉の国は日の沈む出雲国の西の海上でなくてはならないんです。だから、黄泉の入り口とされる場所は出雲の西側、日御碕の近くでなければならないんです。
お松:な、なるほど。そう言えば、そんな話を前にも聞きましたね。で、イザナミはいったいどこに葬られたんでしょう?
やや:・・・今の説明は、なんだったんだ・・・。
おまけ
奥宮の拝殿の前には立派な来待石製狛ワンコががんばっていますが、拝殿の軒下には・・・。
お松:か、かわいい子がいますね。
- 2016/06/12(日) 18:12:26|
- 神話の足跡探し
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鳥取県境に近い安来市伯太町安田には、天台宗長台寺があります。仁王門の先の長い石段を登ると本堂が、その更に背後には登山道が延びており、戦国時代の山城である安田要害山城(鳥取県側では新山要害山城と呼ぶ)に続いています。
長台寺は、出雲観音霊場の第20番札所となっており、寺伝では、行基による開山(?!・・・地方では時々ある)とされています。元々は、現地より500mほど奥の坊床にあった寺が、白鳳9年に水害で被災し、現在地に移ったとされています。ところが、白鳳という年号は、実際には存在しません。そうは言っても、地方には時々ある年号で、白雉(650)~654年)の事とする説もあるのですが、それでも白雉は5年までしか無いので・・・白鳳9年って・・・。
ま、それはさておき、背後の山にあった山寺が前身だったに違いありません。後に山城となってずいぶん破壊されたんだとは思いますが、高いところに山寺があって、その塔頭が山麓に点在したのだろうと思われます。白鳳9年(?)に被災した場所も「坊床」ですので、そうした僧坊・・・塔頭の一つだったと言うことも容易に想像されます。
背後の山は、前述のとおり戦国時代の山城となっていますが、山頂からは鳥取県の大山を間近に見ることができ、大山を仰ぎ見る山林修行の山だったのだろうと思われます。
更に注目されるのは、長台寺の本坊のお庭には、塔芯礎・・・舎利孔の空いた礎石が庭石として置かれているんです。
山陰地方で現存する塔は、清水寺三重塔しかありません。しかも近世になってから造られた塔です。長台寺の塔芯礎は、古代に遡るかもしれない塔の痕跡なんです。
お松:山陰地方は、昨日、梅雨入りが発表されましたが、ちょっとした晴れ間をついて、しつこく山寺詣でを続けている?
やや:だ・は・は。梅雨と言っても、毎日雨が続く訳でもなく、降らない日だってあるんですから。まだまだ行くぞ~。
お松:この夏も?
やや:まだまだ行くっ~!
- 2016/06/05(日) 20:35:32|
- 山寺で修行中
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梅雨入り目前を迎えた鳥取県の大山(ダイセン)です。
以前に紹介しましたが、この大山には、大山寺・大神山神社奥宮があり、中世には、修験の道場として、また僧兵を抱える大寺院として、近世には、大智明権現(ダイチミョウゴンゲン)を祀る山寺として栄えたのですが・・・。
そもそも修験の山は神仏習合の世界ですので、大山寺も大智明権現を祀っており、天台宗のお寺であり、神祇祭祀の要素も含み・・・混沌とした信仰だったようです。
慶応4(1868)年、明治政府は神仏混沌を禁じ、仏教寺院と神社を厳密に分けるよう、神仏判然令を公布しました。この政令は、地方では仏教寺院を廃す廃仏毀釈に発展してしまう訳ですが、大山寺でも、仏教寺院を残すか、神道の神社となるか、選択を迫られ、大神山神社奥宮となり、神社として残ることを選択します。
後に廃仏毀釈は沈静化し、大山寺も復活して現在に至る訳ですが・・・。
大山の麓、米子市尾高町には、大神山神社奥宮の本宮(←お松:え~い、ややこしい!)である大神山神社があります。
非常に立派な社殿。大山を仰ぎ見る立地に、その名前からしても大山に関わる神社であることは間違いありませんが、何度か移転して現在地に鎮座しており、そもそも明治以前の大神山神社奥宮や大山寺との関係はよくわかりませんが・・・。
おまけ
大神山神社の随身門には、先々代と思われる狛ワンコがいらっしゃったのですが、これがまた、強烈な・・・。
何というか、このお顔・・・。出雲地方で見慣れた来待石の狛ワンコとはまったく異なる質感と造形・・・。
これ、どうよ?
「知らんがな!」
- 2016/06/04(土) 17:54:10|
- 山寺で修行中
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