松江市では、先頃、松江城天守閣が国宝になると言う答申があり、盛り上がっているようですが、以前から島根県には2つの国宝建造物がありました。一つはもちろん出雲大社本殿。そしてもう一つが松江市にある神魂(かもす)神社本殿です。松江城界隈の賑わいに比べれば、遙かに静かな境内です。
この御本殿は、大社造りの本殿としては最古のもので、天正十一(1583)年に再興されたものであることが、神主である秋上家文書や鰐淵寺文書に記されています。棟を支える前後の柱が少し外側に飛び出す、出雲大社本殿などよりも古い様式を残す建物です。
神魂神社は、『出雲国風土記』や『延喜式』など、古代の記録には見えない神社で、おそらく古代後半にってから造られた、出雲国造家の私的な神社では?などと言われています。本来、この地にいた出雲国造(千家家・北島家)家は、杵築に移り出雲大社の両隣に国造館を構えていますが、明治初めまでは、この近くに国造館を残していたことも知られています。
その国宝の御本殿の隣には、重要文化財に指定されている貴布禰稲荷両神社(きふねいなりりょうじんじゃ)あります。
貴布禰社と稲荷社の二つの神社をくっつけた、不思議な建物です。室町時代の様式を現代に伝える、非常に貴重な建物です。
お松:要するに、ややさんとしては、松江城国宝化でうかれているけど、もっとすごいのがあるぞ!って言いたいんですね。
やや:松江城にけちを付ける気はまったくありませんが、他にもいろいろおもしろい物がある事を紹介したいだけで・・・。
お松:そうは言っても、このブログで松江城を紹介したことはまったく無く、国宝化みたいな話題性十分の今も、あえて外しているような・・・。
やや:う・・・。
お松:まぁ、いいか?この他にも、島根県に国宝ってあるんですか?
やや:出雲大社本殿、神魂神社本殿の他、秋の鹿蒔絵手箱(あきのしかまきえてばこ)、白糸威鎧(しろいとおどしよろい)があります。また、荒神谷遺跡出土青銅器と加茂岩倉遺跡出土銅鐸も国宝ですが、この2件は国保有なので島根県の国宝には数えないルールになっているようです。で、松江城天守閣が国宝になるので、島根県の国宝は5件になります。
お松:ほ~。
やや:末永く大事にしていただきたいものです。
おまけ
貴布禰稲荷両神社のキツネさんです。神魂神社本体には狛ワンコがいませんが。お稲荷さんにはキツネさんです。
お松:なんか、がんばっている感がすごいですね。
やや:なにせ、守っているものが、重要文化財ですので。
- 2015/05/30(土) 19:09:10|
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このブログで頻繁に紹介している『出雲国風土記』は、奈良時代に全国で作られたはずの風土記の内、唯一、完本に近い内容が残されている事になっています。
お松:また、「近い」とか「となっています」とか、はぐらかすような?
やや:めんどくさい説明をすると、奈良時代に記された風土記の現物は、全国でも全く残っていません。いくつかの風土記の写本・・・つまり、見て書き写したものが、現代に伝えられている訳です。なので、内容が欠けていたり、ページまるまる無かったりもするわけです。
お松:なるほど、コピーもデジカメもありませんものね。
やや:で、比較的まとまって残っているのが「常陸」「播磨」「豊後」「肥前」そして「出雲」の5風土記です。中でも、ほぼ完本に近いとされているのが『出雲国風土記』です。これは、出雲が特別だった訳では無く、偶然に残ったわけですが・・・。
お松:5風土記以外の風土記もあるのですか?
やや:ふすまの下張りとか、違う文献に引用されていたり、断片的に内容が残されている風土記はあります。そう言うのを、風土記逸文と言います。
で、『出雲国風土記』も複数の写本があって、現在、約70(た、単位がわからん←お松:点でよいのでは?)ぐらいが知られていますが、それがみんな写本の写本の写本だったりします。古代史の研究者は、その誤記や誤字の関係を調べて、元に近い写本を探す研究をしています。そうした中で「島根郡」の神社の記載が脱落している事が知られています。
お松:島根郡の神社の話は、度々しているようですけど、それは?
やや:写本には脱落した部分をそのまま放置しているグループと、別の文献を参考に補訂したものがあります。なので、島根郡の神社記載は、オリジナルどおりだったかどうかはわからない訳です。
この生馬神社も、『出雲国風土記』に記載のある古社と、説明されますが、厳密に言えば判らないと・・・。
お松:え?記載されていなかったかもしれないんですか?
やや:いや。たぶん記載されていたと思いますよ。ただ、いろいろわからないこともあると、そういうことです。
おまけ
生馬神社には、明治20年の灯籠が残されており、その台座には2羽のウサギがノリノリで波乗りしています。
お松:お~!久しぶりの波乗りウサギ!しかも2羽!
やや:この灯籠は竿の銘によれば、明治20年製。波乗りウサギは、昭和11年製が圧倒的に多いように思ってましたが、これは古い!
お松:そう言う話はどうだってよいですが、右のウサギはサーフィンから落ちて溺れかけてませんか?大丈夫でしょうか?
やや:それこそ、どうでもよいし・・・。
- 2015/05/23(土) 19:08:06|
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島根半島が東につきだした先端の少し内側は、海運が主流だった頃の出雲の東の玄関口、美保関です。ここにある美保神社は、『出雲国風土記』にも記される古社で、その巨大な御本殿は、大社造りを横に二つ繋げた特殊な建築です。が・・・今日は古代とか屋根とかの話ではなく、明治20年代のこの港町について・・・。
小泉八雲=ラフカディオハーン・・・松江ではハーンではなくヘルンさんと呼ぶ事になっている方・・・は、明治24・25・29年と3度にわたり夏の美保関を訪れています。ヘルンさんが松江に赴任していたのは明治23年から明治24年の秋までなので、松江を離れた後も2度ほど訪れています。よっぽど気に入ったんですね。美保関に訪れた際には、港の東側にあった旅館「島屋」の2階海側(オーシャンビュー)に滞在する事が多かったようです。現在、その島屋はありませんが、島屋の跡地からは、港を挟んだ対岸に美保神社の鳥居を見ることができます。
美保関の港付近は、現在では、地蔵崎の灯台方面に向かう道が海沿いに続いていますが、ヘルンさんが訪れた明治20年代には、この道は無く、港の東にある島屋へ向かうには、集落の中を通る狭い道だけだったようです。その道は、最近では「青石畳み通り」と呼ばれちゃって、小ぎれいに整備されてます。
ヘルンさんが日本で見聞きし体験したあれこれを西洋に紹介した『知られぬ日本の面影』には、この美保関の小さな通りについて
「こっちの浜側の家の2階から、向こうの山側の家の2階へ、ひょいっと飛び越せそうなくらい・・・」
と記されています。
現在でも狭い通りですが、当時は更に狭かったのかもしれません。ヘルンさんが見た風景そのままのはずはありませんが、そこかしこになんだかやたらと懐かしそうな雰囲気を残す町です。
お松:今回は、特にオチも、おまけもなく終わるのでした。
- 2015/05/17(日) 18:20:10|
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現在、隠岐諸島と本土を結ぶ隠岐汽船は、七類港と鳥取県の境港から出ていますが、奈良時代には、(公式には)千酌から出ていました。733年の年記を帯びる『出雲国風土記』には、「隠岐渡(おきのわたり)の千酌駅家(ちくみのうまや)」と記され、出雲国府からこの千酌を経て隠岐へ渡るルートが官道として記されており、隠岐国へ向かう国司や使者は、この浦から船に乗り、漕ぎ出していったはずです。
現在では、静かな海辺の町ですが、交通の要衝なので、当時はさぞ賑わったことでしょう。その千酌には『出雲国風土記』に「爾佐社(ニサノヤシロ)」と記される爾佐(ニサ)神社があります。この爾佐神社のご祭神は、都久豆美命(ツクヅミノミコト)とされているのですが・・・。
『出雲国風土記』の「千酌駅(うまや)」の説明には、
「イザナキノミコトの御子の都久豆美命がここに鎮座している。よって都久豆美(ツクヅミ)と言うべきだが、今(奈良時代)の人は、ただ千酌(チクミ)と呼んでいる。」
お松:ツクヅミがチクミ・・・。略したの?それとも間違えたの?
やや:おそらく、地名が先にあり、後で神話を乗っけたのだと思いますが、それにしても、そんなぁ?って言う説明ですよね。
その爾佐神社の随神門から正面を見ると、海と・・・。
お松:海と、おむすび山!
やや:現在は麓にありますが、かつては山頂に伊奈阿気神社が在ったとされる麻仁曽山です。『出雲国風土記』の「島根郡条」には何にも出てきませんが、もし、『隠岐国風土記』が現存していたら、記されていたかもしれません。
お松:なんで、現存しない隠岐の風土記が?本土側にある島根郡の山を、隠岐の風土記に?
やや:こんなおもしろい山、ぜったいランドマークです。海から見たら、どこに浦があるかなんて、さっぱりわかりませんの。だから、海から来る船は、特徴ある山などを目標にやってきます。おそらく当時は、隠岐を出てしばらくは大山を目標に、近づくとより具体的な目標を・・・「あの三角の山の右が千酌だ!」ってな感じで目指したのではないでしょうか?
お松:なるほどね、反対側からの視点って、考えたことがなかったです。
やや:なので、拝殿が随神門と一直線に麻仁曽山を結んでいるのも、意識して建てられたのだと思いますよ。
おまけ
恒例の来待石製狛ワンコ画像です。後ろにピッカピカの狛ワンコがいますが、やっぱり古い来待石の狛ワンコの方が・・・。
お松:新旧なかよく神社を守っていただきたいものです。
やや:と、とりあえずまとめたな。
- 2015/05/09(土) 18:38:10|
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明治23年8月、旧制松江中学の英語教師として、小泉八雲(当時はまだ、パトリック・ラフカディオ・ハーン)は、松江に招かれます。米子から蒸気船に乗り松江大橋下に降り立ち、島根県が用意した皆美館へ向かうはずでしたが、突然、なんのインスピレーションを感じたのか、人力車から見えた旅館に泊まりたいと言いだし、結局2ヶ月間もこの旅館に逗留することになります。
ハーンが日本で感じ、体験したあれこれは『知られぬ日本の面影』に記されていますが、その中の「神々の国の首都」には、この旅館で見た(聞いた、感じた)松江の早朝の様子を細かく記しています。
それによれば、
まず、朝一番に聞こえてくるのが米を突く規則正しい音。それは、聞こえると言うより感じられる・・・、それは心臓の鼓動のようだ。それから洞光寺の鐘の音、材木町の地蔵堂の太鼓の音、続いて行商人の声・・・。
そして、2階の障子を開け放つと大橋川から宍道湖の風景、船に乗る人々の様子・・・。
なんと言うこともない、ただの日常の朝を、とんでもなく美しい文章で綴っています。
ハーンが逗留した富田旅館は、現在の大橋館の場所にありました。大橋の右手の大きな建物です。
当時は、川沿いの道は無く、旅館の建物は川にせり出すように建てられていたそうです。なので、ハーンが逗留した2階の部屋の障子を開け放つと、大橋川から宍道湖の美しい風景が一望だったはずです。
そして現代の松江です。もちろん、米を突く音が聞こえるはずは無く、洞光寺の鐘の音は・・・鳴ったかもしれませんが、聞き取れず・・・。物売りの声もなく・・・。もしかしたら明治の頃よりも静かな朝なのかもしれません。でも、時折・・・配達を終えた新聞屋さんのバイクの音、朝の散歩やジョギングの人のスニーカーの音・・・。
ハーンが「神々の国の首都」と呼んだ面影はすっかり消え失せ、しっかり現代の地方都市に過ぎなくなってしまいましたが、それでもまだ、川へ降りる石段なんかが残っていたりもするので・・・この町は侮れません。
おまけ
この橋の名前は・・・。
お松:ん?しんおうはし・・・お
おはし?お
うはし・・・?
やや:しんおうはしですが、それが何か?
- 2015/05/03(日) 10:41:31|
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