忙しくも報われない仕事がようやく一段落し、来週からはごく普通に忙しい仕事に戻れそうです(←お松:それはいったいどれほど違うんでしょうか?)。
さて、
今日の話題は『古事記』『日本書紀』などに登場する、スクナヒコナのお話です。スクナヒコナは、オオクニヌシの国造りを助けるために、ガガイモのサヤの船に乗ってやってきた、小さな小さな、まるで一寸法師のような神様です。突然やってくるところもおもしろいのですが、その話は今日は省略して・・・。唐突にやってきたスクナヒコナは、国造りの途中で粟の茎にはじかれて、やっぱり唐突に常世国に行ってしまいます。
『日本書紀』の一書(あるふみ)によれば、その場所は淡島、また別の一書によれば粟島と記されています。で、鳥取県米子市彦名(←やや:だいたい地名からしてヒコナだし!)には、粟島神社のある粟島があり、少彦名(スクナヒコナ)命が祀られています。
粟島は、現在は陸続きになっていますが、江戸期以前は中海に浮かぶ島。もちろん奈良時代も島。伯耆国ですが、『出雲国風土記』にも島として記されています。島根・鳥取県境の中海は、『出雲国風土記』には「入り海」、その東側の弓ヶ浜半島は「夜見島」と記され、国引きしてきた土地をつなぎ止めた綱とされています。粟島は、その付け根近くにある小さな島で、ほとんど平らな砂州である弓ヶ浜半島にあって、そこだけ小高くなっています。だから、参道の石段は、運動不足解消にはもってこい・・・つ~か、ちょっとつらいっつ~か。
大社造りの本殿は、オオクニヌシと共に国造りに携わったスクナヒコナにふさわしい立派な社殿ですね。
『風土記』は、一般には常陸、播磨、肥前、豊後、そして出雲の5風土記が知られていますが、それ以外にも断片的な記事が引用などの形で残されていることもあり、それらを「逸文」と呼びます。で、『伯耆国風土記』の逸文にこの粟島の記載があり、それによれば「少名日古(スクナヒコ)命が粟を播き、たわわに実った粟にぶらさがってはじかれて常世の国へ渡った」と記されています。
お松:い、一寸法師みたいな小さな神様が、たわわに実った粟の穂によじ登って、で、ビヨョョョ~ンってはじかれて飛んで行っちゃったんですか?
やや:ビヨョョョ~ンって、飛んで行っちゃったようです。
お松:そ、それって・・・昔のアニメみたいですね。
やや:ビヨョョョ~ン!
お松:・・・。
やや:とにかく、スクナヒコナなので、米子市彦名。粟を播いて実ったので粟島なんです。その話が、オオクニヌシに関係する出雲系神話として『古事記』『日本書紀』に記されています。出雲の真ん中にはスクナヒコナに関わる神話はあまり知られていませんが、石見にはスクナヒコナの伝承があります。
お松:あ、そう言えば石見の・・・そう、大田のどこかにスクナヒコナの話がありましたね。
やや:オオクニヌシとスクナヒコナが国造りの相談をしたとされる「静の窟」のことですね。その件も、この粟島神社でいろいろややこしいので、また次回にしましょう。では、ビヨョョョ~ン!
お松:・・・気に入ったんですね。
おまけ
粟島神社には灯籠が多く設置されていて・・・もしやと思って探したら居ました!
お松:波乗りウサギ!
- 2015/01/31(土) 18:45:14|
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昨日の荒天は何だったのか?と言うぐらい穏やかな出雲地方です。先週は風と波の音しかしなかった経島周辺は、ニャアニャアニャアニャアニャアニャア・・・あ~うるさい。
この経島あたりから日御碕灯台を挟んだ反対側には、宇龍という小さな漁港があります。北に向けて開く湾ですが、湾口には通称権現島(山崎島)と呼ばれる島が季節風から港を守っています。『出雲国風土記』には宇礼保浦(うれほのうら)「船が20隻ほど泊まれる」と記され、奈良時代から重要な港だった事がわかります。
権現島には日御碕神社の境外末社である熊野神社が祀られており、和布刈(めかり)神事が行われます。和布刈神事とは、旧暦の1月5日に日御碕神社の神前に供えるワカメを刈る神事です。その昔、ウミネコがワカメを咥えて飛び来て、日御碕神社の欄干に掛けたのをお供えした事にちなむのだとか・・・ウミネコもニャアニャアうるさいだけかと思ったら(←お松:こらこら、なんちゅ~罰当たりな!)。
この宇龍。現在は小さな漁港ですが、中世から近世には島根半島西部を代表する港湾。石見銀山を発見したとされる博多の豪商神谷寿禎も、おそらくこの港を目指していたのでしょう。石見銀山の外港、温泉津沖泊には岩を削り出して作られた船の係留施設である「鼻ぐり岩」がありますが、この宇龍にも同様の係留施設が作られています。もちろんこれが中世までさかのぼるかどうかはわかりませんが・・・。
おまけ
港のすぐ近くには荒魂神社が祀られており、その御神木には藁蛇?出雲地方は龍蛇信仰が盛んなのですが、道路の近くで、これは立派だ!
- 2015/01/18(日) 15:50:55|
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暖かい日が続いていましたが、今日は寒く荒れ模様の出雲地方です。ネタも無いので・・・。画像は、最近頻繁に登場する日御碕界隈です。日御碕神社のある御碕地区の狭い路地から西側を見ると、日本海が荒れ狂っております。
このお宮通りのすぐ横、天照大神と素戔嗚(スサノオ)尊を祀る日御碕神社には、山側から向かう正面とは別に、海側にも鳥居が建てられています。
その先には小さな港の他に、日御碕神社成立以前から天照大神を祀った経島(ふみしま)があるのですが・・・ここは、島根半島の西の端。好天の日には夕日の沈む美しい場所ですが、冬期間には北西からの季節風がもろに吹きつけるところ。荒れ狂う日本海と吹きつける強風・・・さぶい・・・。
天気の良い日にはニャアニャアとうるさいウミネコたちも波のあたらない港内で静かに浮かんでいます。
お松:いつも思うんですが、ウミネコって、船酔いとかは平気なんですかねぇ。
やや:・・・。
- 2015/01/17(土) 18:37:45|
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昨日までは穏やかでしたが、今日は、帽子もぶっ飛ぶ冷たい強風が吹き荒れる出雲地方です。
当然ですが、ごった返す出雲大社は素通りして(←お松:と、当然なんですか?)、稲佐の浜にやってきました。北西からの季節風をもろに受け、舞い上がる砂で目も開けられないほど・・・よって、観光客もまばらです。あ~カメラが傷む・・・。
稲佐の浜は、『古事記』の「国譲り」の舞台とされています。突如「豊葦原の水穂国(地上世界のこと?)は、天津神が治めるべき!」と宣言した天照大神。第1、第2の使者は、いろいろ上手くいきませんでしたが、第3の使者として送り込まれた建御雷(タケミカヅチ)之男神は、伊那佐の小浜(稲佐の浜?)に降り立ち、オオクニヌシに国譲りを迫ります。その場所とされているのがこの屏風岩です。
お松:お~!ここでタケミカヅチがオオクニヌシに国譲りを迫ったんですね。
やや:もちろんそんなはずはありませんし、『古事記』にも屏風岩とかは出てきません。変わった形の岩に、後の人々が神話を結びつけたのでしょうが・・・。
お松:・・・この人の説明はつまらん。
やや:とにかく。その近くには因佐神社が鎮座し建御雷(タケミカヅチ)神を祀っています。
お松:説明板には「交渉に当たられた神」と、ごくごく穏やかな書き方がされていますね。確か、国譲りに抵抗したタケミナカタをやっつけて、諏訪まで追いかけて行っちゃうような神様ですよね。」
やや:天皇家の神話である『古事記』にはそう記されていますね。圧倒的な力を持つ威圧的な神に、出雲の神々が恐れたかのようです。でも、地元側から記された『出雲国風土記』には、オオクニヌシの方から「出雲以外の国を天孫に譲る」と宣言されたことになっており、自主的かつ平和的に国譲りが行われたことになっているんです。
お松:ホントのところ、どっちに近いんでしょう?
やや:そもそも神話だし。歴史じゃないし。それがどんな歴史を反映しているかを考えるには、材料が少なすぎるし。
お松:・・・この人の説明はつまらん。
- 2015/01/11(日) 18:06:17|
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大晦日から元日の大荒れの天気で、例年よりは(ほんの少し)静かな正月を迎えた出雲地方です。そうは言っても、出雲大社周辺はごった返しているはずなので、けっして近づきませんが・・・。
(画像は昨年のものです)
さて、新年最初の話題はと言うと・・・出雲大社のご祭神はオオクニヌシですが・・・?
お松:大黒様って言いますよね!
やや:だ~!また話がややこしくなった。今、その話をするつもりはなかったんだけどぉ(←お松:はい?何のことですか?)。
・・・まぁいいか。では、そこから。
出雲大社の現在のご祭神は大国主(オオクニヌシ)命とされています。その大国(オオクニ)が音読みでダイコクにも読めることから大黒様とも言われています。そもそも大黒様は大黒天ですので、仏教の天部・・・つまり毘沙門天とか持国天とかと同列で、仏教世界を守護する役割の方です。つまり、出雲大社のご祭神は、大黒様ではなくオオクニヌシです(←お松:オオクニヌシですよね!)
ところが、中世から近世初頭にかけて、「オオクニヌシではなく、スサノオだった時期がありました。」と言うのが、今日の話です。・・・やっとスタート地点に戻った。
お松:え~!大黒様がスサノオだったの?
やや:ダイコクじゃない!わざとややこしくしていないか?
出雲大社の拝殿前の銅鳥居は、寛文六(1666)年に毛利輝元の孫の綱広が寄進したものですが、そこには「素戔嗚尊は雲陽の大社の神なり」と記されています。
『出雲国造神賀詞(イズモノクニノミヤツコノカンヨゴト)』では、「大穴持命(オオナムチノミコト≒オオクニヌシ)」と記されていますので、平安時代はオオクニヌシですが、なぜか、その後、スサノオに代わってしまうようです。
お松:そ、そもそもご祭神とか、変わっても良いんですか?
やや:良いはずはないと思いますが、もちろん、ダメなことをしているはずはないので・・・。奈良時代の『出雲国風土記』では「所造天下大神(アメノシタツクラシシオオカミ)」と記されていますので、それが、例えば「大和で語られている神様の誰にあたるか?」と言う解釈が、時々で変わるのだろうと想像されます。
で、中世の出雲大社は神仏習合で、近隣にある天台宗の大寺院「鰐淵寺」と密接な関係がありました。神仏習合の考え方には本地垂迹説というのがあり、「神道のあの神様は、仏教で言うとあの仏様」だと言う整理がされているのですが、その中で、スサノオは牛頭天王であるとされ、鰐淵寺では牛頭天王像をいくつか持ち、祀っていたんです。
お松:なんで、鰐淵寺では牛頭天王を祀っていたんですが?
やや:鰐淵寺ではスサノオが国引きをしたという伝承があるんです。
お松:え?国引きって、ヤツカなんだかって長い名前の神様が・・・。
やや:八束水臣津野(ヤツカミズオミヅヌ)命!・・・なんですが、鰐淵寺ではスサノオです。いわゆる中世国引き神話ですね。で、スサノオ=牛頭天王を祀る鰐淵寺との関係もあり、出雲大社(当時は杵築大社)でもご祭神を素戔嗚(スサノオ)尊とされていたようです。
そう言えば、『出雲国風土記』「飯石郡」条の須佐郷の記事によれば、須佐郷周辺では、国造りの神はオオクニヌシではなく、スサノオだと思われていたようにも読めます。神様の実像は、なかなか掴みがたいものがありますよね。
- 2015/01/04(日) 18:13:15|
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新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
画像は、日御碕の経島(ふみしま)です。
島根半島の西端にある日御碕神社では、日沈宮に天照大神を、神ノ宮に素盞嗚尊を祀っていますが、『出雲国風土記』には、「百枝槐(ももえのえにす)社」、「美佐伎(みさき)社」と記され、現在地とは違う場所だったようです。この内、百枝槐社と考えられるのが、後の『延喜式』の「文島」、つまり、現在の経島です。島根半島の西の端、まさに日の沈む方に位置しています。
- 2015/01/01(木) 10:35:51|
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