ネタ切れなので・・・。
出雲平野を見下ろす北山の中腹にある来坂神社の前にある、「スサノオの腰掛け岩」です。
高天原を追放され、新羅経由で出雲に降り立ったスサノオが、腰掛けて見下ろしたと伝えられています。高さは2m近く?並の人では腰掛けるのも困難な高さですが、見下ろす風景は、出雲平野を一望できます。
お松:神在月を迎えましたが、それについても、何やら一言ありそうな、へそ曲がりのややさんです。
やや:お松さんが話せって、言ったんでしょ?
お松:一般には、「旧暦の10月である神無月は、出雲地方では神在月。全国の神様が出雲に集まって、縁結びの相談をする。」って、言われているんですが、どの辺が怪しいんですか?って、「縁結び」ですよね。『出雲国風土記』に縁結びとか書いてないって、言い出すんですよね。
やや:書いてません。(←お松:そうそう!)それ以前に、いったい出雲地方の誰が神無月を神在月って言っているんだか?
お松:え~?神在月から怪しいとでも?
やや:そもそも神無月の語源からして・・・諸説ありますが・・・神様が居ないから神無月ではなく、カンナ月に「神無」の字を当てたと言われています。なので、神様が居るかどうかは無関係の言葉です。「神無月」と言う言葉は、平安時代頃には使われていたことがわかっていますが、「神在月」はそれより後の言葉です。だから、古代後半から中世にかけても、いったいどれほどの出雲人が神在月と呼んでいたのか・・・。
お松:じゃぁ、誰が神在月って言い出したんでしょうか?
やや:「御師(おし)」ですね。伊勢神宮では「おんし」と呼ぶのが一般的ですが。特に江戸時代には、お伊勢参りが盛んになりますが、各地の神社を参詣する人たちの、いわばツアーコンダクターの役割を果たした人たちが御師です。御師はツアコンだけでなく、営業活動も一生懸命やってますので、いろいろ営業トークを繰り出しています。で、出雲大社の御師の間で、営業トークとして考えだされたのが「神在月」ではないかと言われています。つまり、出雲の伝承としては、比較的新しい部類と言う事になります。
お松:え~、でも、神在月がまったくのフィクションだったら、どうしてこんなに広まったんですか?
やや:そこはやはり神話の国出雲ですね。『古事記』『日本書紀』や『出雲国風土記』によって作られた神話の国のイメージ。また、オオクニヌシとあちこちの姫君との恋愛ストーリーの神話などのベースがあったので、神々が縁結びの相談のために出雲に集まると言う話がつくられていったんでしょうね。
お松:う~ん。あんまり聞きたい話ではなかったですね。
やや:では、心温まる良い話を。
昨年のことですが、新幹線の岡山駅から出雲市を結ぶJR伯備線の特急「やくも」。伯備線は単線のため、時々、上下線の列車がすれ違うための停車があるのですが、以前は「列車
行き違いのため、しばらく停車いたします。」と言う車内アナウンスがありました。これについて、「出雲大社にステキなご縁を求めて向かう乙女に
行き違いは切なすぎる」と言う苦情があり、JRでは直ちに「列車
待ち合わせのため」に改めたと・・・。
お松:あ~!その話、聞きました。ですよねぇ。良い話ですよねぇ。誰かさんのへ理屈をかき回し尽くした話なんかより、100倍良い話ですよねぇ。
やや:だからぁ・・・お松さんが話せって、言ったんでしょ?
- 2014/11/30(日) 08:31:49|
- お松との会話
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実は一昨日、2014年11月21日は旧暦の10月1日。つまり、一昨日から出雲では神在月です。
出雲大社さんの神迎祭は旧暦の10月10日、今年は12月1日に行われます。冬間近なはずですが、この三連休は穏やかな暖かい日が続いている出雲地方です。
年に一度、全国から集まる神様の宿所となる十九社もまだ静かなまま・・・のはずもなく、出雲大社周辺は大変な数の参拝客で、ごった返しております!
少しだけ足を伸ばして、境外摂社の命主(イノチヌシ)社まで来ると、やっと静かな時間を過ごせます。
命主社のご祭神は神皇産霊神(カミムスビノカミ≒神産巣日之命)。『古事記』によれば、因幡の素兎(シロウサギ)を助け、八上比売(ヤガミヒメ)と結ばれたオオナムヂ(後の大国主命)は、その事で八十神(ヤソガミ)に狙われ、2度ほど命を失います(←お松:そんな軽い話ですか?)が、その度に救ったのが母神である神産巣日之命です。
お松:出雲では神在月ですが、全国は神無月・・・ってことは、出雲以外には神様がいないんですよね?
やや:いますよ(←お松:な、なんですと~?)。やっぱ、一月間とは言っても神様がいないのは、何かと不安じゃないですか。だから、ちゃんと留守神(ルスガミ)と言う存在が考えられていて、あちこちにいらっしゃることになってます。
お松:な、なるほど!
やや:それに神在祭にも、先乗りの神様に遅れてくる神様、さっさとお帰りになる神様に、いつまでもいらっしゃる神様・・・。神社によって様々に言い伝えられているんです。だから、うまくシフトされていて、それなりに神様がいらっしゃる事になっています。
お松:そ、そうなんですか?
やや:大人の都合ですね。
お松:神様の都合ですよね。
やや:まぁ、そういうことにしておきましょう。
お松:・・・。
- 2014/11/23(日) 07:43:29|
- お松との会話
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佐為(さい)神社は松江市宍道(しんじ)町白石(はくいし)の才(さい)にあります。現在の御祭神は猿田彦尊(サルタヒコノミコト)とされていますが、そもそもは賽の神を祀ったのでしょうか。
宍道という地名は、『出雲国風土記』に、所造天下大神(アメノシタツクラシシオオカミ≒大国主命)が狩りをして猪を追った所・・・つまり宍の通った道なので宍道だとされているのですが、その猪だの猪を追った犬だのが岩になって残っていると記されています。その猪の候補の一つがこの女夫岩遺跡。佐為神社の裏手に位置しています。
この種の神話を研究されているあの方によれば、神様が狩り行う場所と言うのは、ある勢力の境界領域を表しているのだそうで、古代に行われた狩りは軍事演習の意味合いもありますから、ある勢力圏の境界近くで行う事があったようです。
ところで、村の境には賽(さい)の神が祀られ、外から村へ入ってくる悪いものを遮り、守っていただいているのですが、賽の神・・・才の神・・・?
この辺り、松江市宍道町は奈良時代には出雲の中枢である意宇郡と出雲郡の境・・・その地に狩りの伝承があり、才の地名が残されているのは大変興味深いことです。
佐為神社の参道を見下ろす光景ですが、なんだか無性に懐かしい気がしませんか?
お松:う~ん、気のせいかな・・・。
おまけ:今日のワンコ
しっぽふりふり。
- 2014/11/22(土) 07:12:10|
- 神話の足跡探し
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今週前半まではぽかぽか陽気の秋の日でしたが、週末が近づき、すっかり真冬の山陰地方です。今日は,少しはましですが・・・。
ネタもないので、11日の石見八幡宮の参道の様子です。大田市仁摩町大国にある石見八幡宮は、その神社名も地名も怪しいことだらけですが、まず神社名から・・。
社伝によれば、八束水臣津神(八束水臣津野命?:ヤツカミズオミズヌノミコト)が国見の際に、駒を繋いで見上げた先に、この山の立派な石があったので「石見」なのだとか・・・。ちなみに八束水臣津野命は『出雲国風土記』の冒頭で「国引き」をした神様です。さらに「大国」と言う地名も大国主命が立ち寄ったからなのだそうで、近くには、その由来となった八千矛山大国主神社もあります。石見なのに出雲の神話との関係が異常に深い場所ですね。この辺りの事情は、よくわかりません・・・。
今日は,ネタもないのでこの辺で・・・。
おまけ
親子で睨んでみました。
- 2014/11/15(土) 07:40:54|
- お庭でひとりごと
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i以前にもちらっと紹介しましたが、リアス海岸として知られる島根半島にはたくさんの海食洞穴があります。この内、『出雲国風土記』にも記載のある加賀の潜戸(くけど)は遊覧船で見学することができます。新潜戸と呼ばれるこの海食洞穴は3カ所で開口しており、西の入り口から東の入り口へ、遊覧船が通り抜けるので、人気の観光スポットになっているのですが・・・。
『出雲国風土記』によれば、加賀の潜戸は佐太の大神のお生まれになったところとされており、その一連の記載の最後に「この窟の辺りを通るときには、必ず大声をとどろかせて行く。もし密かに行こうとすると、神が現れて突風が起こり、行く船は必ず転覆する。」とされています。これは今から1,200年も前の奈良時代に「この海食洞窟を通り抜けるときは必ず大声を出す事」と言う約束事があった事を記しています。
さて、
その約1,100年後、明治24(1891)年に『怪談』などで知られるラフカディオ=ハーン・・・小泉八雲は、妻セツと共に念願の潜戸観光を果たし、その時の様子を『知られぬ日本の面影』に記しています。それによると、手こぎの漁船で海食洞窟を通り抜け、その美しさを絶賛しているのは、まぁ当然ですが・・・「洞窟に近づくと、船首に乗っていた漁師の老妻が、舟に置いてあった石で舟端をたたき出した」のだそうで!?・・・大声ではなかったようですが、密かに入ってはいけないという奈良時代の約束事がしっかりと守り伝えられていたようです。
この日は、残念ながら波が高く、内部を通り抜けることができませんでしたが・・・。
お松:ややさんだと、絶対に密かに、静かに行こうとしますものね。
やや:そうしたいのはやまやまですが(←お松:やまやまなんですね?)、ガイドさんがスピーカーでそういった解説をしながら入るのでムリです。密かに入るためには船を用意せねば!
- 2014/11/08(土) 19:08:23|
- 小泉さんの散歩道
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お松:い、いきなり、何ですか?このタイトルは?
やや:まんまです。カラス天狗に会ってきました。前から行きたかったんですが、近いといつでも行ける気がして、なかなか行きませんでしたが、午後から天気も良くなったことだしって、ちょっくら会ってきました。
松江市玉湯町の玉作湯神社は、願い石叶い石のブームで若い女性が押しかけていますが、それを尻目に山の中へ・・・。以外にも整備された山道を登ること5分ほど・・・。
玉造要害山城跡のある山の一つのピークへたどり着きます。参道の両側には平坦面が続き、かつては多くの塔頭があった事がうかがわれますが・・・。頂部には広い平坦面があり、不動明王様と壊れかけた狛犬さんがお出迎えです。参道正面には石造りの金毘羅宮が祀られています。
お松:金毘羅さんって、船の守り神って言うイメージですが、山の上ですか?
やや:木々の隙間からは宍道湖を見下ろしており、金毘羅宮にふさわしいロケーションなのですが・・・。
お松:か、カラス天狗ですね。
やや:間違いなくカラス天狗ですね。
ここには、かなり痛んでいますが、山陰最古、天明二(1782)年の紀年銘のある来待石製狛犬があり、他の多くの石像物も幕末にさかのぼるものばかりです。
お松:カラス天狗ってあまり見ないような気がしますが?金毘羅さんって、カラス天狗?
やや:カラス天狗は、出雲ではあまり見ませんよね。修験道に関わるものなので金毘羅さんとも関係は薄そうですね。おそらくは、元々、山岳修験のお寺があったのだろうと思います。現在の金毘羅宮が、広い敷地の北側に寄せて作られているのも、南側にはお堂があったからでしょう。だから参道を守るのが不動明王様なんでしょうね。
それが、明治の廃仏毀釈の際に取り壊され、現在の姿になったと・・・。
お松:それで、幕末の製造物ばかりで、明治以降のものが無いんですね?
やや:たぶん、そんなところだとは思いますが、実際の所は判りません。
カラス天狗様も教えてくれません。
不動明王様だっても・・。
11月4日 一部訂正
- 2014/11/03(月) 18:37:00|
- お松との会話
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前回の話のとおり、日御碕神社の二つの社、日沈宮と神ノ宮は、それぞれ経島と隠ヶ丘と言う別の場所にあったお社が起源だったと言われています。この内、隠ヶ丘は・・・。
お松:隠ヶ丘って、名前からして怪しすぎるじゃないですか?
やや:日御碕神社の社伝によれば、八岐大蛇を退治し、櫛稲田姫と結ばれた素戔嗚尊(スサノオノミコト)は国造りを終え、国を大黒主命に譲り・・・
お松:え?国造りに励んだのは大国主命と少名毘古那(スクナヒコナ)神じゃなかったんですっけ?
やや:確かに、『古事記』『日本書紀』ではそうですね。でも、『出雲国風土記』の飯石郡条など、出雲地方の一部・・・須佐郷(須佐神社周辺)とかでは素戔嗚尊が国造りに励んだという伝承が残っているんです。出雲山間部である須佐郷と海に面した日御碕ではずいぶん距離がありますが、神話の成立過程をうかがわせる話ですね。で、とにかく、素戔嗚尊は国を譲って、「我が神魂はこの柏葉の止まるところに住まむ」とおっしゃって柏の葉を投げたと・・・。
お松:そう言えば、学生時代に、某教授は学生のレポートを紙飛行機にして投げ、飛んだ順に点数を付けていたとか・・・。
やや:え~い、やかましい。スサノオの話をしてるの!
とにかく、飛んでいった柏の葉っぱが落ちた場所が、日御碕神社の背後の山で、その地に素戔嗚尊がお隠れになった。だから隠ヶ丘なんだとか・・・。そのため、日御碕神社の御神文は柏の葉なんです。
お松:なるほど・・・。昨日、苦手なんだと言いつつ日沈宮の話をしたのは、この話をするための伏線だったんですね。
やや:ギク?・・・で、現在の隠ヶ丘です。日御碕の灯台近くの駐車場からはすぐの所なんですが・・・。
お松:ずいぶん寂しい所ですね。
やや:まぁお隠れになるには、静かで良いんじゃないですか?
お松:それもそうか?
やや:ところで、さっきのレポートの話ですが、飛ばない方が良い成績だったそうですよ?
お松:はぁ?
やや:より多くインクが載って、重くて飛ばない方が成績が良かったそうです。
お松:な、何をもっともらしい事を?
やや:ちなみに私は、解答用紙の裏に、びっしり「おいしいカレーの作り方」を書いたことがありましたが、あまり良い点をもらえなくって・・・。
お松:はぁ?
やや:で、教授に聞きに行ったら、「それほど美味しそうではない」って言われたことがありました。
お松:・・・。
やや:実話です(きっぱり!)。
お松:・・・大学で何をしてたんですか?
やや:もちろん、勉学!
お松:・・・よい子はまねをしないように。
- 2014/11/02(日) 15:06:10|
- 神話の足跡探し
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島根半島の西の端、日御碕の先端近く、出雲市大社町御崎にある日御碕神社は、天照大神を祀る日沈宮と素戔嗚尊を祀る神ノ宮の二つの社殿が中心的になっています。
日沈宮です。
朱塗りも鮮やかな立派な社殿が建っていますが、日御碕神社そのものの記載は『出雲国風土記』や『延喜式』にはありません。で、社伝に依れば、日沈宮は文島(現在の経島)に、神ノ宮は現在の社殿の背後にある隠ヶ丘にあったとされています。と言う訳で、日沈宮は『出雲国風土記』の百枝槐(ももえのえにす)社、神ノ宮は美佐伎(みさき=御崎?)社だったようです。
で、こっちが神ノ宮。
大和から見て、日の昇るお伊勢さんの真反対の位置に、やっぱり天照大神を祀る日沈宮が置かれていることは、実に興味深いことですね。日御碕は島根半島の西の端。その更に西の海上に浮かぶ経島は、まさに日沈宮にふさわしい場所だと思われます。
これが経島です。中程にお社が見えますね。
お松:ま、まさか、これで終わりでは?
やや:実は、日沈宮の事はよく知らないもので・・・。次回は隠ヶ丘の話を、も少しがんばる予定です。
お松:そんな予告して、大丈夫ですか?
ところで、経島はウミネコの島として有名?・・・でも、いませんねぇ、ウミネコ?
やや:もうしばらく・・・、12月頃から多くのウミネコでニャーニャー賑やかになりますよ。
お松:でも、寒そうですね。
- 2014/11/01(土) 13:54:43|
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